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幻の「関東電気鉄道」 [いろいろ]

 関東鉄道というと、茨城県南部に路線を持つ私鉄ですが、それとはまったく別の、関東電気鉄道というのをご存じでしょうか?
 こんな名前の鉄道会社が存在したことはありません。しかし、ある時期設立が本気で考えられていたものであり、実際に成立寸前まで行ったのですが、世の中の情勢のために流産してしまったという、なんともめぐり合わせの悪い会社だったのでした。
 とはいえ、線路の敷設自体が流れてしまったわけでもありません。線路はちゃんと敷かれており、その大部分はいまも残っています。残っているどころか、通勤に観光に、毎日大活躍しています。
 実は関東電気鉄道とは、それまでにすでに存在していた、いくつかの私鉄が合併して作るはずだった会社の名前です。合併することになったのも世の流れであり、それが結局流れてしまったのも世の流れで、どちらにも国策がからんでいます。そして、その会社の持ち物になるはずだった路線は、現在はJR東日本のものとなっています。

 そろそろ種明かしをしましょう。関東電気鉄道というのは、現在の路線名で言うと、JR鶴見線・南武線・青梅線・五日市線の各線が属するはずでした。これらはいずれも戦前、私鉄によって敷かれた路線です。鶴見線は鶴見臨港鉄道、南武線は南武鉄道、青梅線は青梅鉄道奥多摩鉄道、五日市線は五日市鉄道という私鉄でした。
 路線図を見ると、これらの路線はいちおうつながってはいるので、ネットワークにはなりますが、いまひとつ性格がバラバラであるようにも思えます。鶴見線といえば工業地帯の中をのんびり走っている「都会の中のローカル線」ですし、南武線は通勤路線でかつ東京西方をカバーする環状路線でもあります。青梅線と五日市線は平日は通勤路線、休日は観光路線と違った顔を見せる路線です。こんな路線群がひとつにまとまって、いったいどうするつもりだったのだろうという気もしないではありません。
 これらの路線には、ひとつ共通点があります。それは、いずれも浅野財閥系の鉄道会社だったということでした。路線が敷かれたのは沿線住民のためということもありましたが、それ以上に、奥多摩地域の石灰岩や、多摩川砂利などを、鶴見の臨海工業地帯に運ぶという役割を期待されていたと思われます。そうであってみれば、ひとつの企業体にしてしまったほうが何かと便利であったに違いありません。
 また、群小の私鉄同士の過当競争を排除して、ブロックごとにまとまった企業体を作るというのは、当時の国家的要請でもありました。昭和13年に公布された陸上交通事業調整法、通称陸調法がその根拠です。
 東急五島慶太などは、この陸調法を錦の御旗に、貪欲に周辺の私鉄との吸収合併を繰り返しました。現在の小田急・京王・京急・相鉄がすべて東急に吸収され、いわゆる大東急が成立したのは、五島の辣腕のせいでもありましたが、東京南西部ブロックをすべてひとつの企業体におさめるということが陸調法の精神に即していたからでもあります。
 ちなみにこの陸調法により、東京北西部ブロックでは現在の西武鉄道につながる合併劇が繰り広げられましたし、京阪神地域でも相当に強引な合併がありました。もっとローカルなところでは、富山地方鉄道北陸鉄道が、それぞれ富山県・石川県のほとんどを制覇したのも陸調法の後押しのおかげです。
 陸調法は昭和13年という時期から、戦時立法であるかのように思われがちですが、そうではありません。あくまで平時法です。ただ、競争を排して地域独占を推奨するというのは、明らかにファシズムの影響であったでしょう。当時ファシズムというものが、非常に先進的ですぐれた経済思想であるように考えられていたことを無視するべきではありません。ちなみにファッショというのはイタリア語で「束」という意味です。自由競争よりも、合併・統制(束ねられる)によるメリットのほうが大きいとする思想であって、本来は戦争などとは関係のないものです。
 さて、際限なく合併吸収を繰り返した五島慶太でしたが、浅野財閥系の私鉄だけは、同じブロックにあるにもかかわらず、手をつけることができませんでした。浅野の政治力が五島を上回っていたと考えることもできますが、やはり浅野系の路線が、いずれも産業上重要な立場であったことが大きかったのではないでしょうか。
 そして浅野系の5私鉄は、陸調法を受け、独自の合併により企業体を作ることにします。これが関東電気鉄道だったのでした。

 ところが、同じ系列の会社とはいえ、そうそう利害が一致するわけではないので、関東電気鉄道の設立にはだいぶ手間取りました。
 そのうち戦雲逼迫し、産業上の重要路線である鶴見臨港鉄道や南武鉄道を私企業に任せておくわけにはゆかないという議論が高まりました。というか、もともと国の官僚はそのつもりだったのかもしれないのですが、陸調法よりもさらに強力なカードが切られました。昭和16年に公布された改正陸運統制令にもとづく戦時買収です。
 戦時買収により、全国の多くの私鉄路線が国鉄(当時)に併合されました。形としては買収ですが、代金は戦時公債で支払われたため換金できず、事実上タダで巻き上げられたみたいなものだったようです。関東電気鉄道になるはずであった5私鉄はもちろん、相模線阪和線飯田線飯山線千歳線仙石線など、国鉄→JRとなった路線が多数含まれています。
 関東電気鉄道は、こうして幻のまま姿を消しました。
 戦時買収された路線は、戦後に返還されるという話もあり、実際いくつか払い下げの請願も出されたようですが、結局すべて流れてしまい、国鉄の路線として残りました。財閥解体をもくろんだGHQの方針のためでもあったでしょう。特に浅野などという巨大で有力な財閥が取り仕切る関東電気鉄道の復活など、GHQは決して認めなかったに違いありません。やむを得ないことでした。

 もし、関東電気鉄道がもう少し早く発足し、戦時買収にも財閥解体にもめげずに存続していたら……と考えることがあります。
 一向に近代化されない感じの鶴見線、スピードアップが求められながらさっぱりらちのあかない南武線、れっきとした観光路線でもあるのに中央線と同じ通勤電車が行ったり来たりするばかりの青梅線といった様相を見るにつけ、これらがもし私鉄であればどうだったろうかと思わずにはいられません。
 戦中戦後といろいろ厳しいことはあったかもしれませんが、復興期になれば、石灰岩や砂利の産地と臨海工業地帯を直結している関東電気鉄道は有卦に入ったのではないかという気がします。昭和30年代頃には笑いが止まらないような状況だったかもしれません。国鉄ならとてもできなかったような設備投資や多角経営化もできたのではないでしょうか。
 その後、鉄道貨物の衰退や、鉱物資源の枯渇で、それまでほどの勢いは無くなるでしょうが、30年代までにいろいろと設備投資しておけば、その後も有効活用することが可能です。例えば、貨物列車のための広大なヤードがいくつもの駅に確保されていれば、駅の拡張や、大規模商業施設の展開なども容易だったでしょう。私は主に南武線を頭に置いていますが、南武線の問題点は線形の悪さと共に、追い越し設備のある大きな駅がきわめて少ないところにあると思います。このため、快速電車を走らせても、快速らしさが発揮できません。先行する各駅停車を追い抜くこともできないし、運転を増やすことも難しくなっています。
 使われなくなった貨物ヤードを利用して、数駅ごとに待避線を儲けることができていれば、スムーズな快速運転が可能だったはずです。お客のニーズに合わせて、もっと多様な種別の列車を走らせることもできたでしょう。
 川崎登戸立川拝島青梅あたりには直営のデパートやショッピングモールができていたかもしれません。
 立川では南武線と青梅線の直通のため、いずれは国鉄=JRと立体交差するようになっていたと思います。そうすると中央線から青梅線への直通という、現在の形の運行はできなくなりますが、都心へのアクセスとしてはむしろ西武新宿線拝島線が大きな役割を果たすようになっていたかもしれません。つまり、拝島で青梅方面と西武線とが直通運転をおこなうことになります。計画されていてバブルの崩壊で流れてしまった、西武新宿線の複々線化も、わりに早い時点で実現していたかもしれません。

 南武線の起点は川崎ですが、もうひとつ、浜川崎というのがあります。川崎の隣の尻手から分岐している枝線の先にある駅で、鶴見線との接続駅でもあります。
 この浜川崎駅、かつての私鉄時代のなごりで、南武線と鶴見線の駅舎が別になっています。かつては国鉄=JRにもこの種の駅がけっこうありました。仙石線石巻線石巻駅、香椎線勝田線宇美駅などが有名でしたが、石巻駅は現在では統合され、宇美は勝田線の廃止で接続駅ではなくなりました。大網駅のようにプラットフォームが離れた位置にある駅はまだありますが、一旦改札を出ないと乗り換えができないのはこの浜川崎と、あと折尾駅くらいでしょうか。
 浜川崎はもっぱら貨物が主役と言って良い駅で、旅客はおまけみたいなものです。南武線の枝線は運転本数も少なく、ほとんどローカル線みたいなものですし、鶴見線のほうも昼間はあまり乗降客が居ません。駅前もひっそりとして、都会の中という気がしないほどです。
 しかし、関東電気鉄道の駅になっていれば、こんな状態で放置はされていないでしょう。駅舎は統合され、もしかしたらその駅を中心として新たな繁華街が形成されていた可能性もあります。関東電気鉄道=浅野財閥が不動産開発もおこなっていれば、おそらくそうなったのではないでしょうか。川崎駅以上に力が入れられ、大きなターミナルになっていたかもしれません。関西にはJR駅と離れた私鉄独自のターミナルがいくつもありますから、川崎でできないとも限りません。ことによると浜川崎周辺が、川崎市の副都心のような様相をおびてくることも考えられます。
 すると、南武線の「本線」は浜川崎~立川となり、尻手で川崎まで1区間だけのシャトル列車に接続する、という形になるでしょうか。「本線」上にある京急との接続駅・八丁畷も、現実にはごくごく小さな駅で京急のほうも各停しか停まりませんが、この想定ならそこそこのジャンクション駅として発展し、特急くらい停まるようになっているかもしれません。
 鶴見線のほうももう少し使いやすい路線になっているでしょう。実際よりもベイエリア観光といった要素が重視された開発がされているかもしれません。
 南武線上の他線との交差駅も、いまより乗り換えやすい形になっていたような気がします。まあ東急とはあまり仲が良くなかったかもしれませんが。

 青梅線に観光用列車を走らせるということも、早い時期からやっていたかもしれません。さらに、奥多摩駅から小河内ダムまでの工事用路盤が残っていて、それを観光鉄道に転用するという計画があり、実史では西武が権利を持っていましたが、結局何もしないまま放棄されてしまいました。関東電気鉄道が実現・存続していれば、当然この会社が権利を持つはずで、小河内ダム(奥多摩湖)への延伸がおこなわれていた可能性もあります。
 他の鉄道への影響もいろいろあったでしょう。西武については上に書きましたが、京王も分倍河原稲田堤の接続にもう少し力を入れたでしょう。また、国鉄=JRは、武蔵野南線の旅客化を早々とおこなっていたと思われます。
 JR武蔵野線は鶴見から西船橋までの路線(西船橋~南船橋・市川塩浜京葉線の枝線)ですが、現状では府中本町から先だけが旅客化され、鶴見~府中本町のいわゆる武蔵野南線は貨物専用線となっています。ときどきホリデー快速などが通るくらいです。この区間の旅客化を求める運動もおこなわれているのですが、JR東日本はいまひとつ気乗り薄です。これはもちろん、武蔵野南線が南武線とほぼ並行しているからで、ここを旅客化してしまうと南武線が寂れかねません。
 しかし南武線が別会社なら、これはもう何もはばかるものはありません。武蔵野線の強みは、駅間距離が長いためにスピードが出せるという点にあります。高速電車で関東電気鉄道のお客を奪おうとすることでしょう。
 これに対抗して、関東電気鉄道側も、他線との接続駅だけ停車する急行電車などを走らせることになるに違いありません。沿線は現状とは較べものにならないほど便利になっていると思います。

 もちろんこんなバラ色の構図ばかりではないでしょうが、現状よりはいろいろな点で良くなっているような気がしてなりません。
 これも私の古い趣味である架空鉄道に類することだったかもしれませんが、あれこれ夢を描いてみるのも、時には気持ちが爽快になるようです。


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