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宦官列伝(その6) [いろいろ]

 王朝の創始者である洪武帝朱元璋は、歴史を勉強して、宦官を政治にコミットさせるとろくなことにならないと学び、宦官の政治関与を厳しく禁止しました。ところが、締め付けがきつすぎて、次の建文帝の代になると、叛旗を翻した燕王・朱棣に宦官たちがみんな味方してしまい、首都である南京城の門を開けてしまいました。かくて建文帝は行方不明となり、朱棣が3代皇帝・成祖永楽帝となります。
 永楽帝は、この簒奪劇の経過からしても、宦官には大いに感謝するところがあったと思われますし、まともな官僚(=知識人)たちからは自分が簒奪者として後ろ指をさされているのではないかという被害妄想もあったらしく、そのことからも宦官を重用するようになりました。親父の洪武帝の作った禁則を、軽々と破ってしまったわけです。
 宦官のことに限らず、永楽帝には、洪武帝─建文帝の路線を真っ向から否定するような振る舞いが目立ちます。鎖国的であった洪武帝の対外政策もあっさり覆して、お気に入りの宦官鄭和を司令官とする大艦隊を7回も海外へ送ったりしました。どうも、ひとたび叛旗を翻したところで何か吹っ切れてしまったようで、意識的に親父とは違う国家運営をするつもりになっていたようでもあります。
 これ以後の明王朝のありかたは、洪武帝の厳しさと永楽帝の放埒さのあいだを振り子のように振れるようになります。これは見かたによっては、官僚たちがこだわる「前例」がきわめて振り幅の大きなものとなり、明王朝の政策に柔軟さをもたらしたとも言えます。明が270年も存続し得たのは、あるいはそのおかげであったかもしれません。

 さて、永楽帝によって重用されはじめた宦官でしたが、すぐに跳梁跋扈をはじめたわけではありません。宦官が暗躍するのは、安定した王朝の中で、皇帝が幼君であったり暗君であったりした場合がほとんどであるということは、これまで何度も述べてきました。
 4代洪煕帝、5代宣徳帝共になかなかの名君であり、明はこの両帝の時代に最盛期を迎えたと見る人が多いようです。こういう時期は、宦官の出る幕はあまり無いわけです。
 ところが、佳い時というものはなかなか長続きしません。洪煕帝は即位後わずか1年で病没し、宣徳帝も10年しか在位しませんでした。永楽帝-洪煕帝-宣徳帝と、順調に父子相続が続いており、次の英宗も宣徳帝の子で早くから皇太子に立てられていましたから、帝位争いのようなことはこの時期まったく起こっていません。しかし、1年と10年という短い在位期間が続いたことで、問題が発生しました。つまり、英宗が即位したとき、彼はまだわずか8歳だったのです。幼帝という、宦官がはびこりやすい条件が現出してしまったのでした。

 そして、明代での最初の宦官悪として挙げられるのが、英宗に仕えた王振だったのです。まったく符節を合わせたかのような登場でした。
 王振はなかなか学識もすぐれた宦官であって、英宗の教育係にもなっていました。皇帝の教育係に宦官が就くということ自体、洪武帝のコンセプトからすると許されないことであるはずですが、永楽帝以降、その辺はなし崩しにいい加減になっています。
 宦官といえども、8歳の皇帝にとっては「先生」であり、王振の言葉に英宗が大いに影響されたのも無理はありません。英宗が王振の言うことになんでも従うのを良いことに、王振は収賄や批判者の弾圧にこれ努め、私腹を肥やし続けました。
 当然ながら、王振を恨む人々が増え、小規模ながら叛乱も起き始めました。鄧茂七の乱などが知られています。
 どうも状況が悪くなってきたと感じた王振は、外征によって国内の不満を逸らそうと考えました。北宋末の童貫と同じもくろみです。
 ちょうど、北元モンゴル)のエセンが、交易のトラブルから兵を挙げて攻め寄せてきました。王振は50万という大軍を催し、さらに英宗の親征を乞います。兵力は圧倒的に多いし、皇帝親征となれば軍の士気は騰がるし、まず負けの目は無いと判断したのでしょう。英宗は、何しろ「先生」の薦めですし、決して危険は無いと言われて、北元征伐に向かいます。
 ところが、王振はとことん自分勝手な宦官でした。行軍の途中に、自分の領地があるとわかって、軍を迂回させたのです。50万人の兵に田畑を踏み荒らされてはかなわないと思ったのでした。自分では、領民を慈しむ素晴らしい領主だと考えていたかもしれません。しかし、従う将兵たちからすれば、王振の私利私欲のために遠回りさせられて、ばかばかしくなったのも無理はないでしょう。
 士気が大いに落ちた明の大軍は、エセンの精鋭部隊に完膚無きまでに叩き潰されます(土木の変)。だいたい大軍というのは、敗色が見えてくるとかえって壊滅しやすいものです。
 この大敗戦で、うろうろしていた英宗はエセンの軍に捕獲されてしまいます。中華帝国史を通じ、野戦で捕虜になった皇帝というのは後にも先にも英宗しか居ません。
 いつも英宗の近くに侍っていたはずの王振はどうしたのでしょうか。戦死したとも言われますし、敗戦のどさくさのあいだに政敵に殺されたとも言われます。また北京に逃げ帰ってきてから処刑されたという説もあります。いずれにしろ英宗を置き去りにして逃げたことは間違いなさそうです。
 宦官の権力は、皇帝あってのものであって、皇帝を見捨てたその瞬間に、自身の権力も雲散するものなのです。学識すぐれた王振にしては、そういう歴史の教訓を汲み取れなかったのが千慮の一失というものだったでしょう。
 ちなみに英宗はエセンに厚遇され、その後北京に戻されますが、すでに弟(景泰帝)が即位しており、自身は上皇に祭り上げられ、軟禁状態に置かれます。しかし景泰帝が病気に倒れると、宦官の曹吉祥、武官の石亨らがクーデターを起こし、英宗を再び担ぎ上げます(奪門の変)。景泰帝が崩御すると英宗は重祚します。日本の天皇では皇極-斉明孝謙-称徳のふたりの女帝が重祚していますが、中国史上ではこれが唯一の例で、英宗というのは「中国史上唯一」に縁の深い皇帝でした。
 この曹吉祥も、奪門の変の功績を誇って、だいぶ好き勝手振る舞いましたが、何かと恩に着せられる英宗は面白くなく、賢臣李賢と謀って曹吉祥を誅殺しました。誅殺される前、曹吉祥は反撃の兵を挙げようとしていたようですが、やはり皇帝を敵にしては宦官は立ちゆかなかったものと見えます。

 英宗の子の憲宗成化帝は、19歳年上の萬貴妃に頭が上がらなかったことで知られています。幼い頃は母親代わりとして、成長しては「最初の女性」として、皇帝になってからは第一の側近として萬貴妃の影響を受け続け、萬貴妃が亡くなると自分も1年足らずで世を去るほどに頼りきっていました。成化帝の享年は41ですから、萬貴妃は亡くなった時すでに60歳近くなっていたはずで、その支配力の強さは驚くべきものがあります。
 後宮の女性が政治に影響を及ぼしていたのですから、この場合も宦官がいろいろ動いたことは想像に難くありません。実際、萬貴妃が成化帝を操っていることには批判もあり、その批判を弾圧するために、それまでの東廠に加えて西廠という秘密警察も設置されました。東廠も西廠も、宦官による組織です。
 しかし成化帝の代では、むしろ張敏という「見事な」宦官を挙げておきましょう。
 萬貴妃は母性愛の豊かな、献身的な女性であったようですが、それだけに嫉妬深さも半端でなく、自分の産んだ成化帝の長男が夭折したあとは、他の女に子を産ませてなるものかとばかり、後宮で妊娠した女が居ると片端から堕胎させていました。もちろん、そんなこととは成化帝は知りません。
 いつまで立っても子宝に恵まれないので、成化帝は深刻に悩み、かたわらの張敏に愚痴りました。張敏は

 ──これはいけない。

 と思ったようです。このまま世継ぎが生まれないと、明王朝は断絶してしまいかねません。
 おりしも後宮の紀淑妃が妊娠していることがわかりました。そのままにしておけば、妊娠を嗅ぎつけた萬貴妃にまた堕胎させられてしまいます。宦官たちは萬貴妃のしていることを当然知っていたのですが、後宮で権勢並びなき萬貴妃に逆らう勇気のある者はそれまで居なかったのでした。
 張敏は決意します。萬貴妃を欺いてでも、世継ぎを護ろうと。
 紀淑妃のおなかが目立ちはじめる前に、張敏は彼女を後宮から下がらせ、知り合いの家にかくまって密かに出産させ、生まれた子を育てました。
 15年ほど後、成化帝は再び張敏相手に、世継ぎに恵まれないことを愚痴りました。全然子供が生まれないので、成化帝は自分が種無しではないかと恐れもしたようです。萬貴妃がいちどは子を産んでいるのですから、種が無いわけでもなかったはずですが、あれで打ち止めだったかもしれない、という危惧はあったかもしれません。
 張敏は成化帝の耳元でささやきました。
 「陛下には、れっきとしたお世継ぎが居られます」
 狂喜した成化帝は、すぐに張敏の育てた子を引見し、萬貴妃が動く前に立太子の儀を済ませてしまいました。こうなっては萬貴妃も手も足も出ません。
 事の次第を知った萬貴妃は怒り狂い、手当たり次第に当たり散らしましたが、もうどうしようもなく、ついに諦めました。そして間もなく亡くなるのです。
 こうして帝位に就いたのが、明朝中興の祖とも呼ばれる名君、孝宗弘治帝です。定位の大殊勲者である張敏でしたが、本人は萬貴妃を長年欺いてきた責任をとって、自殺したと伝えられます。宦官の中にも、これほどに硬骨で志操にすぐれた人物が居たのでした。

 まじめに政務に励み、治績を挙げた弘治帝でしたが、在位18年、35歳で崩御します。明朝は、特に中期以降はヘンテコな皇帝が相次ぎ、しかもその在位がいやに長かったりして、いろいろと問題を惹き起こすのですが、弘治帝のような名君が若死にしたのは惜しまれることです。
 次の武宗正徳帝は父の弘治帝に似ず、遊び好きの不真面目な皇帝でした。ラマ教に凝ってあやしげな僧を近づけたり、急に親征を思い立って実行したり(しかしまじめに戦おうというわけではなく、「軍を率いている朕ってカッケー!」という遊び半分の気持ちに過ぎませんでした)、とにかく享楽的でいい加減な男です。朝廷には滅多に顔を出さず、政務は幼い頃の遊び仲間でもあった宦官の劉瑾に任せきりでした。
 劉瑾がまた絵に描いたようなワルで、ワイロはとりまくるわ反対者は弾圧するわ、およそ佞臣のやりそうなことは片端からやってのけました。彼はさらに大それたことに、正徳帝を弑してみずから帝位に就こうとしたのでした。
 さすがにこの暴挙は事前に発覚し、劉瑾は処刑されますが、正徳帝は報告を受けたとき、

 ──あやつが帝位を望むなら、こんなものはくれてやったのに。

 とうそぶいたと伝えられます。それにしても劉瑾もまた、宦官の権力が皇帝あってのものであるという道理を理解していなかったようです。

 正徳帝は世継ぎをもうけずに崩御し、傍系から帝位に就いたのが世宗嘉靖帝でした。この人は頭は良かったようなのですが、即位早々「大礼の議」を惹き起こし、自分に反対した大臣ら200人ばかりを一挙に罷免したり投獄したりした揚げ句に、引きこもってしまってほとんど朝廷に出てこなくなってしまいました。彼の治世は45年にも及びましたが、その大部分の期間は皇帝不在で国家が運営されていたと言えます。
 「大礼の議」は北宋期の「濮議」に酷似した騒動で、先帝を意味する「皇考」の称号を、実際の先帝であった正徳帝に与えるか、それとも嘉靖帝の実父である興王に与えるかということで、国論を二分する大激論になってしまったのでした。濮議のときに
 「帝位に就いていなかった現皇帝の実父」
 の呼称をきちんと決めておけば、大礼の議も起こらなかったでしょう。
 次の穆宗隆慶帝の治世は6年間に過ぎませんが、やはり朝廷にはあまり顔を見せていません。
 さらに次の神宗万暦帝もいたって不真面目な皇帝でした。幼少で即位したので最初の頃は仕方がないにしても、成人してからもほとんど朝廷には出てきませんでした。しかし在位年数だけは明朝最長の48年です。
 意外なことに、嘉靖帝から万暦帝に至る1世紀以上、さほど目立つ宦官は登場しません。暗君だったり幼君だったりしていたわけですが、ここまで政治に興味のない皇帝であると、宦官も腕の振るいようが無かったのかもしれません。

 万暦帝の時代、すでに豊臣秀吉の朝鮮侵攻や、満洲族ヌルハチ太祖)の擡頭が起こって、明朝は滅亡へ向けて一挙に転がりはじめていましたが、それを加速したのが、「最後の悪宦官」と言うべき魏忠賢でした。
 魏忠賢は万暦帝の孫の天啓帝に仕えた宦官ですが、革新官僚群である東林党への弾圧者として歴史に登場します。東林党は万暦期以来の政治腐敗を憂い、政治改革を訴えていましたが、彼らに反対する保守派も多く、当初は魏忠賢による弾圧も好意的に受け止められていたと言います。
 ところが、実際には魏忠賢には政治思想など無く、東林党以外でも、自分の邪魔になる連中を片端から逮捕・処刑しはじめます。もともと街のばくち打ちだったと言われ、教養も何もなく、ただ動物的な嗅覚だけで敵味方を判断し、敵と見なした相手へは容赦なく襲いかかるという人物であったようです。
 清の攻勢が激しくなりつつある時期に、こういう人物が朝廷を牛耳っていたのですから、明の滅亡は時間の問題でした。前線にある将軍たちも、一片の密告で首をはねられかねない状況だったのです。将軍たちの眼は当然ながら外敵よりも朝廷を向くことになります。無実の罪を免れるために、みんな多額のワイロを魏忠賢に贈り、彼はますます肥え太りました。
 彼の自意識は病的に肥大し、息のかかった廷臣たちに、

 ──魏忠賢どのの功績は甚大であり、孔子と並べて称えるべきです。

 と上書させたり、
 「堯天舜徳至聖至神」
 なる称号を名乗ったりしました。古代の聖王であるに匹敵し、聖人ひいては神に並ぶほどの徳の持ち主、ということです。さらに自分が外出するときには人々に
 「九千歳!」
 と叫ばせました。「万歳!」は皇帝にしか使えないが、それに準ずる存在というわけです。のちに「九千九百歳!」に格上げされました。
 ここまで痛快なほど驕り高ぶった悪行を重ねた宦官も珍しいかもしれません。まさに、最初を飾る趙高と双璧の大悪党です。
 しかし、彼もまた「宦官の権勢は皇帝次第」という原則を忘れていたとしか言いようがありません。魏忠賢をおそれていたと思われる天啓帝が亡くなり、弟の毅宗崇禎帝が即位すると、さしもやりたい放題を尽くした魏忠賢も、あっさりと粛正されてしまうのでした。

 明朝は確かに宦官が跋扈した時代ではありましたが、後漢などとは違い、どれほど傍若無人でやりたい放題の宦官が現れても、その権勢は一代限りでした。また、仕えた皇帝が亡くなり新帝が即位すると、権勢も消滅してたいていは処刑されています。同じことを繰り返してきたような中華帝国史にも、多少の「成熟」はあったようです。
 崇禎帝は明のラストエンペラーです。17歳で即位して、たちどころに魏忠賢一派を断罪処刑したのでわかるとおり、英明で果断な皇帝でした。しかしもはや傾ききった明朝は、崇禎帝個人がどれほど英明でも、またどれほど努力しても、回復不能なレベルまで落ちていたのでした。
 焦りのあまり猜疑心に駆られるようになった崇禎帝が、有能な将軍や大臣たちを処罰することで、さらに人心が離れます。李自成の叛乱軍が紫禁城に迫ったとき、百官を召集しようとした崇禎帝でしたが、召集の鐘を鳴らす役人すら逃げ散ってしまっていました。
 絶望した崇禎帝は、紫禁城の裏山で首をくくって死にます。付き従ったのは宦官の王承恩ただひとりだったと伝えられます。一説には、起死回生の手段が無いかどうか、街の占い師に訊ねるべく、王承恩がその場を外していたあいだに死んでいたとも言われます。王承恩も逃げ出したと思ったのでしょう。いずれにしろ王承恩は大声で泣き叫び、やがて崇禎帝のあとを追ったのでした。
 宦官を圧迫することからはじまった明帝国は、たったひとりの宦官によってその最期を見届けられたことになります。


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