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年末年始沖縄行(2) [旅日記]

 12月31日から沖縄に出かけ、カウントダウンクルーズに乗ったりして、元日は那覇波上宮(なみのうえぐう)で初詣をおこなったのちに、本部半島にある美ら海(ちゅらうみ)水族館に行きました。
 ここには、かなりの期間世界最大とされていた大水槽が設置され、そこに収容された魚の種類も非常に多様です。呼び物は、これまた世界最大の魚類であるジンベエザメを2頭も飼育していることで、15時からそのジンベエザメにエサをやるショーがあるとのことでした。
 同時刻に、水族館の外のプール「オキちゃん劇場」ではイルカのショーもおこなわれるそうで、どちらを観るか迷うところではありましたが、イルカショーというのはあちこちでやっていて、しばらく前に油壺マリンパークで観たことでもありますし、やはりジンベエザメのほうをとることにしました。
 元日から、すごい人出です。県内からの客もさることながら、私らと同様、「沖縄でお正月を!」という売り文句に誘われて全国から集まったパックツアー客が大変な数になっていたものと思われます。
 そのため、大水槽はまだ見えるのですが、個別の小さな水槽になると、人が密集していてやや見づらいところがありました。しかし、なんとか15時15分前くらいにジンベエザメが居るところに辿り着きました。
 エサやりショーを愉しむには、かなり水槽の近くまで寄る必要があります。はるか上の水面が見上げられるところまで寄らないと、ジンベエザメが口を開けてエサを吸い込むところが見えないのでした。当然ながら水槽近くは大混雑でしたが、それでもなんとか水面が見えるあたりまで寄りました。
 2頭のジンベエザメが、悠然と泳いでいます。他にもマンタイトマキエイ)をはじめ多くのサメ類、エイ類、カツオその他の魚がたくさん泳いでいるのですが、やはりジンベエザメの圧倒的存在感の前には霞んでしまう趣きがありました。他の水族館ならその大きさに驚くはずのマンタが、中型のエイにしか見えないのですから、なんだか遠近感やら距離感やらが微妙に狂わされるような気がします。
 ジンベエザメの名前は、グレーの地に白い斑点が規則的に並ぶ様子が衣服の甚兵衛に似ていることによる命名であることは、見ればすぐにわかるのですが、最初に命名した人は、他の特徴、例えばその巨大さなどに着目しなかったのかと不思議に思います。
 片方のジンベエザメのおなかには、コバンザメがくっついていました。寄生して体液を吸うとかいうわけではなく、単純に吸盤でくっついて、移動を楽にし、敵から襲われにくくしているだけなのですが、見ているといい気なものだと思ってしまいます。宿主のほうはくすぐったかったりしないのでしょうか。
 やがて15時になり、エサやりタイムがはじまります。飼育員が水面を棒で叩いて泡を立てると、2頭のジンベエザメはエサの時間だとちゃんとわかるようで、水面に向かって上昇しました。片方などはほとんど直立状態になっています。ジンベエザメがそういう体勢になるのを観測されることは滅多に無いそうです。
 ジンベエザメのエサは、オキアミとかサバの切り身とかだそうで、あの巨体には似合わず、案外と小さいものを食べます。まあ、ジンベエザメよりさらに倍以上大きいシロナガスクジラでも主食はオキアミだと言いますから、他の魚などを食べるよりはエネルギー効率が良いのかもしれません。シロナガスクジラは口を覆っているヒゲでオキアミを漉しとって食べますが、ジンベエザメは海水ごとエサを飲み込んで、要らない海水はエラから吐き出しているのだと思われます。ともあれ、サメという名にしては非常に温厚でおとなしい性格であるようで、シロナガスクジラと同様、王者の風格というものかもしれません。
 不思議に思ったのが、投げ込まれるエサに対して、他の魚たちがまるで無反応であることです。エサの内容はどの魚もそんなに変わらないと思うのですが、いち早くジンベエザメのおこぼれにあずかろうと群がってゆくようなことはしいていません。あとで自分の分も充分に来ることを知っているようです。魚類というのは案外と学習能力があるのではないかと思えてきました。

 私は水族館がけっこう好きで、いくらでも時間をつぶせるのですが、残念ながら出発時刻が迫ってきました。もっとじっくり展示を観たい気持ちに後ろ髪を牽かれつつ、バスに戻りました。
 バスは本部半島の海岸沿いにさらに走り、北側にある古宇利島(こうりじま)に立ち寄りました。島なのですが、本島とは橋でつながっています。それもダイレクトにではなく、まず手前の屋我地島(やがちじま)に橋で渡り、屋我地島の中を走って、さらに古宇利大橋というのを渡って古宇利島に着きます。わずかな海峡をはさむだけなのですが、橋ができるまでは海が荒れるたびに孤立してしまって大変だったようです。
 ここは晴れていれば海の色が非常に美しく、ビーチとして人気があるのと、渡ってきた古宇利大橋がとても美しい橋であるというのが売りなのですが、曇っているのでさほどのこともありません。滞在時間もたいしたことはありませんでしたが、なぜかマダムがいたく気に入ったようです。橋が開通して陸続きになったとはいえ、離れ小島のひなびた雰囲気が彼女の琴線に触れたらしいのでした。
 ここで沖縄特産の海ぶどうを買いました。正式名をクビレズタ(前は「クビレヅタ」だったがなぜか「ズ」の表記に改められたらしい)という海藻の一種ですが、近年は陸上で栽培することも多いそうです。球状の小枝がびっしりとついている様子がブドウと似ているので海ぶどうと呼ばれます。プチプチとした食感が面白く、マダムも私も好物なのですが、持ち帰ることを考えると、どのくらい保つのかが気になります。売り子のおばちゃんに訊いてみると、
 「あ~、これは今朝とったばかりのだから、8日までは大丈夫。冷蔵庫に入れたらプチプチがしぼんじゃうから気をつけて」
 とのことで、びっくりしました。生鮮食品なのに常温で一週間も保つとは、信じられないようなタフさです。あとで添乗員のYさんからも、海ぶどうを買った人は飛行機に乗るときに預け荷物に入れないように注意がありました。飛行機の荷物室は冷蔵庫みたいなものなので、海ぶどうがダメになるというのでした。
 大きいパックと小さいパックがありましたが、どちらも500円です。小さいほうは茎を切ってあるのに対し、大きいほうは茎ごと詰めたのだそうで、
 「茎もおんなじように食べれるから、大きいほうがお得だよ」
 と言われました。なるほどと思い、大きいほうを買いました。帰ってから食べてみると、食感の差は若干あるものの、確かに味や歯ごたえは一緒です。丸いプチプチは実とかではなく、単に丸まった枝に過ぎないので、それも当然なのでした。
 古宇利島をあとにし、屋我地島からはさっきと別の橋を渡って本島に戻りました。また沖縄自動車道に乗り、北中城村(きたなかぐすくそん)にあるリゾートホテルで一泊となります。沖縄のホテルには、大浴場がついているところがあまり多くないそうですが、ここは「ホテル&スパ」とわざわざ名乗っているところで、大浴場が売りでした。別館になっていて、スパだけの客も入れます。もちろん入浴しましたが、風呂としては内地の普通の温泉ホテル並みかなと思いました。スーパー銭湯というほどの設備も無いようです。私らがちょくちょく行っている竜王リブマックスリゾートのほうが、構えはずっと小さいけれど風呂ははるかに充実しています。
 沖縄は基本的にシャワー文化で、浴槽にゆったり漬かるという習慣があまり無いのだとガイドのKさんに聞きました。それだから、このくらいの風呂でも「ホテル&スパ」と高らかに謳い上げ、けっこうな入湯料をとる(宿泊客には1回限りの入湯券が配られますが)ことも問題なくできるのでしょう。ともあれ、ゆっくりと入浴しました。

 3日目である1月2日は、世界遺産めぐりという趣きでした。もっとも県内に世界遺産がいくつもあるというわけではなく、沖縄県内の古蹟をひとまとめにした「琉球王国のグスクおよび関連遺産群」というひとつの世界遺産として扱われています。グスクというのは城のことで、沖縄の地名で城という漢字が宛てられている場合はたいていグスクと読みます。だから南城(なんじょう)なんかにはかえって違和感を覚え、「はえぐすく」などと読みたくなります。
 まずは問題の首里城公園です。2ヶ月前の2019年10月31日未明、いきなり出火して正殿など3棟が焼け落ちたのでした。民間のイベントに場所を貸したら、そのイベントで使うロウソクの火がもとになって火災になったとか、屋内に張られていた配電線が劣化していて漏電したのだとか、いろんな説があって、原因はいまだにはっきりしません。放火説もあるようです。これだけきれいさっぱり焼け落ちるほどに火災が大きくなったのも、警備員のコミュニケーション不足のせいだとか、スプリンクラーが規定通りに設置されていなかったせいだとか、これまたいろんな説が叫ばれています。
 ともあれ管理責任が国から県に委譲されて間もなくの事件ではあり、沖縄県の管理者意識が低かったのではないかという点は大きく指摘されています。国の管理だった頃には、そもそも火を使うイベントなどに場所を貸すことは無かったと言われ、おそらくそのとおりでしょう。
 いずれにしろ一刻も早い原因究明と再発防止策の施行が求められます。ところが、最高管理責任者である県知事玉城デニー氏は、そういう決意表明をするより先に、再建のための国費投入や寄付募集などを言い出して、大いにヒンシュクを買ったのでした。もともと米軍基地の辺野古移設を阻止するという、ほとんどワンイシューで当選してしまった知事であり、県政をあまりかえりみずに海外旅行ばかりしていると批判の多い人ではあります。責任者としての自覚がいまひとつ欠けているように見えるのも無理はないかもしれません。
 さて、正殿附近は焼けてしまってまだ立ち入り禁止ですが、首里城公園そのものはほぼ80%くらいまで見学可能になり、今回のツアーでも規模を縮小して立ち寄ったのでした。
 入口にあたる首里杜館(すいむいかん)から、広福門あたりまでは入れます。その先に正殿の正門というべき奉神門がありますが、そのあたりからは工事用の衝立が立てられていました。燃えた建物を外から覗くことはできますが、なるほど見事に焼け崩れています。こんなになるまでどうして消火できなかったのかと思います。
 奉神門から王様と王妃様がお出ましになるというイベントがありました。通り道には観光客がぎっしりと詰めかけており、ほとんどの人がスマホをかざしているのがかえって面白かったりしました。
 琉球古楽研究会の人々による奏楽の中、赤と金の衣装をつけた王様と王妃様がしずしずと登場し、広場まで歩いてゆきます。もっとも、お付きの人などが居ないので、それほどリアリティはありません。王様と王妃様が、誰も連れずにふたりだけで散策するなどということは絶対に無いでしょう。それに、門から出るところの階段がけっこう高さがあり、王様のほうはともかく、王妃様は下りるのにだいぶ苦労なさっていました。たぶん、本当は王妃様がご自分でその階段を上り下りするようなことはなく、常に駕籠などを用いられていたのだと思われます。
 王様の衣裳は本物が残されていて、それを着用しているそうですが、王妃様のお召し物は残っていないばかりか資料すら無く、他の貴人の女性の衣裳を参考にして、なかば想像で仕立てたそうです。焼失した正殿自体がそんな感じで、このあたりが沖縄の「なんくるないさー」精神であろうかと思わず笑いが出ました。
 なお王様と王妃様は、毎年オーディションで選出され、一年間さまざまなイベントに出演するのだそうです。
 BGMたる琉球古楽ですが、前項でも書いた琉球音階(ドミファソシ)はまったく使われておらず、律音階(ドレファソラ、もしくはレミソラシ)が主であるようでした。琉球音階はあくまで庶民の歌う民謡などに使われる旋法であり、王宮では中華風の律音階がメインだったのでしょう。そして、全楽器がまったく同じ旋律を重ねて演奏しています。専門用語で言えばモノフォニーというヤツです。和音という感覚は無かったのでしょうか。
 ところで首里城公園の基地である首里杜館ですが、「すい」というのは首里のこととして、「杜館」がなぜ「むいかん」となるのか考えてみました。「杜」の字の音読みはトですので、「むい」となるのは音読み由来ではなさそうです。あれこれ考えていて、不意に「もり」が「むい」になるのだろうと気がつきました。琉球語には母音が少なく、アイウの3種類しかありません。助詞の「の」が「ぬ」になってしまうように、オ段はウ段に変わります。エ段もイ段に変わりがちですが、エの発音はわずかながらあるようです。このため、「どぅ」とか「てぃ」とかの、標準語には無い発音が現れてきます。また、ラ行の子音はしばしば欠落します。「もり」の「も」が「む」と母音転換され、「り」の子音が落ちれば「むい」となります。
 琉球語(沖縄弁)というのは内地人にはほとんど聞き取れず、ほとんど外国語のように聞こえます。系統(語族)は同じでも日本語とは別の言語と見なすべきではないかという意見も唱えられたことがあります。しかし、注意深く音韻を調べてみれば、やはり日本語の一方言と考えるのが妥当だということに、最近では落ち着いたようです。ただ、かなり古い時期に内地の言葉と分かれたため、奈良時代・平安時代の発音から独自変化した言葉が多く、それで通じづらいのだろうということです。現代の日本人がタイムマシンに乗って過去へ行ったとして、通訳無しで話が通じるのはせいぜい室町時代ころまでだろうと言われています。
 そういえば「大」という字を琉球語では「うふ」と読むことが多いようです。「大きい」はいまでは「おおきい」と読みますが、旧仮名遣いでは「おほきい」であり、平安時代くらいまではofokii、もしくはopokiiなどと発音していたと思われます。この発音が沖縄に残り、内地では「ほ」をオ音便化するほうに変化しましたが、沖縄ではその変化が起こらず、ただオ段がウ段になる変化だけがあったために「うふ」という発音になったわけです。
 こういう比定作業はなかなか愉しいのですが、深入りすると長くなるので別の機会にします。ともあれ、琉球語は日本語の方言であることが証明されたわけですが、それにしてもフランス語とルーマニア語くらいには違うのではないかという気がします。どちらもラテン語系ですが、いまではまるで違う言葉になっています。
 ただ、このことから、琉球王国というのも日本と別の国だったのではなく内地の「藩」と同じようなものだったのだ、と主張する向きが最近ありますが、それはちょっと違うように思います。同じ言葉を使っているのだから同じ国であるはずだ、というのは、国籍と民族と言語がほぼ一致している日本人特有の思いこみであって、別の国でも同じ言語を用いるということは、ドイツオーストリアなどの例を挙げるまでもなく、いくらでもあります。
 近年、中国共産党などの意を受け、沖縄独立論といった分断工作がおこなわれるようになって(玉城知事もたぶんそれに乗っかっています)、危機感を覚えた人たちが「沖縄はずっと昔から日本の一部だ」と言いたいために言語を論拠にしているのだと思います。確かに分断工作はけしからんことだと思いますが、琉球王国が金沢藩とか仙台藩とかと同格の単なる「藩国」に過ぎなかったように言うのは、やはり歴史に対して無礼な主張であるように思えます。琉球王国はもともと誇りある一個の独立国であって(長いこと薩摩の属領みたいに扱われていたことは別としても)、明治になってお互い納得の上で日本に併合されたということで良いではありませんか。もと琉球国王には侯爵の位が与えられ、上位華族として鄭重に遇されました。さすがに沖縄に置いておくと不穏が予想されたので、東京に招かれてそこで生涯を送りましたが、歿後はちゃんと王家の墓である玉陵(たまうどぅん)に埋葬されています。

 その玉陵が次の見学地で、首里城公園から徒歩で移動できます。「うどぅん」は「お殿」だろうなと、こんどは容易に推察できました。殿というといまでは「主君」の意味に感じられますが、本来は「宮殿」「宝物殿」というように建物を指します。立派な建物である「殿」に住める立場の人だから「殿様」と呼ばれるだけの話なのでした。沖縄では墓所のことも「殿」と呼び、王家の墓なので敬称の「お」をつけて「お殿」、それが母音変化で「うどぅん」になり、さらに中国で皇帝の顔を「玉顔」と言ったり皇帝の肉体を「玉体」と言ったりするのに倣って「玉」をかぶせ、訓読みして「たまうどぅん」となったわけです。「うどぅん」に陵の字を宛てたのは意訳というところでしょう。
 ツアーの中で、うちのマダム他何人かが
 「多摩饂飩?」
 と不敬な勘違いをしていました。
 石造りの立派な墓陵であるわけですが、歴代の王様から王妃、王族までが全員一箇所に入っているのは、なかなか良心的な王朝であったと思います。同時期の中国では、明の十三陵と言うように、皇帝ひとりにつきばかでかい墓陵をひとつずつこしらえるという浪費をやっていました。まあ、狭い沖縄島で、王様が崩御するごとに玉陵並みのお墓を造っていたら、そのうち人の住む場所が無くなってしまいそうですが。基本的には、破風墓の巨大なものと考えれば良さそうです。

 玉陵を出て、識名園(しきなえん)までバスで移動します。ここはいわば離宮で、王様たちがちょくちょく来てくつろいでいたほか、重要な客を案内したりもしたようです。わざわざ海が見えないように樹木を鬱蒼と植えたり、遊歩道をやたらと曲がりくねらせたりしています。ガイドのKさんによると、沖縄ではだいたいどこに居ても少し高いところへ登ると海が見えてしまうのだけれども、海が見えないところがあるくらいの広さはあるのだということを来客にアピールしたかったとのこと。また、歩道が曲がりくねっているのも、園地の面積を実際よりも大きく見せたいがための工夫なんだそうです。外国人から侮られまいと、涙ぐましい努力をしていたようです。
 御殿(うどぅん)という建物がつまり離宮なわけですが、これも御多分に漏れず何度も焼失して、復元されたものです。部屋には畳が敷かれていましたが、使われていた時代に本当に畳敷きであったかどうかはわかりません。少なくとも、最近はやりの「琉球敷き」ではなく普通の敷きかたをしていました。
 少し南下して、南城市役所の近くにあるユインチホテルというところで昼食となり、そのあと最後の見どころである斎場御嶽(せいふぁーうたき)に行きました。「せいふぁー」とは日本語とは思えないような響きですが、斎場がなぜせいふぁーになるかは、そんなに難しい音韻転換というわけでもないようです。本当は「せい」ではなく「すぃー」だったんではないかという気もしますが、固執はしません。
 沖縄では巫女が重んじられ、ユタが有名ですが、特に選ばれて王宮に迎えられた巫女をノロと言います。そのノロの中でも最高位だったのが聞得大君(きこえおおきみ)で、場合によっては王様よりも権力があったと言われます。その聞得大君の即位式がおこなわれる聖地がこの斎場御嶽なのでした。
 乱暴に比較しますが、聞得大君というのは大和朝廷における斎宮(いつきのみや)のような存在で、それよりももっと神に近いイメージだったように思われます。いずれも、神と結婚したという名目で、未婚の皇女・王女が就任しました。斎宮もアマテラス大御神の言葉を伝える巫女ですので、その言葉はある意味現職の天皇よりも重かったことでしょう。
 そう考えれば、つまり斎場御嶽とは、伊勢神宮なのです。
 神宮のような人工的な建造物が置かれず、自然の巨石や鍾乳石などを神の座として用いているあたり、原始的な神道と共通する気分を感じます。沖縄には内地と違うさまざまな文化が息づいていますが、根っこのところではやはり通じるものがあるように思われました。
 なお聞得大君に選出された女性は、この中にある大庫里(うふぐーい)という場所でひと晩寝なければならなかったそうです。それによって、神と交わったということになったのでしょう。まさかたったひとりでということはないでしょうが、それにしても鬱蒼とした亜熱帯雨林に覆われた岩場で、あんまりひと晩を過ごしたいと思うような場所ではありませんでした。蚊なども多かったのではないでしょうか。

 最後に立ち寄ったのは「道の駅豊崎」で、ここで買い忘れた土産物などを補充して貰おうというもくろみだったのでしょう。ところが、最後の最後でアクシデント。なんと道の駅は、営業していなかったのです。今年から正月の三が日は休業することになったそうで、添乗員のYさんも唖然としていました。ツアー会社にはまったくその情報は入っていなかったようです。去年までは休業ということはなかったとか。
 それにしては駐車場にたくさんクルマが駐められていましたが、これはどうやら、国道の反対側にある「沖縄アウトレットモールあしびなー」の客であろうと思われました。アウトレットモールの駐車場に収まりきらないくらいお客が押しかけていたのでしょうか、あるいは道の駅の駐車場だと料金がかからないからかもしれません。
 結局トイレに行くくらいで切り上げ、早めに空港へ向かいました。道の駅豊崎から那覇空港までは目と鼻の先です。
 帰りの飛行機もほぼ満席で、行きも帰りも客が多いせいか遅れが累積したのでしょう、25分ほど出発が遅れました。しかしおかげで、空港の待合室から、鮮やかな落日を眺めることができました。初日と2日めは曇りでしたが、最終日は雲が多いとはいえ晴れていて、ようやく海も美しいマリンブルーを見せてくれました。その締めくくりにこの落日を眺められたのは至福であったと思います。
 帰ってくると、やはり断然寒くて並行しました。同じ国内に行ってきたとは思えないほどの温度差です。私の持論ではありますが、日本は広いのだなと、あらためて思いました。

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