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柴又七福神めぐり [日録]

 1月2日(木)沖縄から帰ってきた私たちは、翌3日(金)のマダムの実家に年始の挨拶に行き、そのまま一泊して、4日(土)には恒例の七福神めぐりをしました。
 恒例と言っても、よく行っているのは川口七福神で、川口市全域に散らばっているので自転車で半日以上かかります。何年か前に義父の運転で、クルマでまわったことがありますが、そのときでさえ昼からはじめて夕方までかかりました。
 松戸にも七福神があります。これも市域全体に散っていて、やはり義父の運転するクルマでまわったことがあります。
 もっとコンパクトな地域にまとまっている七福神もあります。谷中のなどは有名でしょう。私らはこのほか、港七福神というのをめぐったこともあります。港区にある七福神ですが、ここは住宅型の神社などがあって面白く感じました。またここのは実は八福神で、福の神様たちが乗っている宝船が8番目の神様となっています。確かにアメノトリフネという、神格を持つ船もありますので、宝船が神様に数えられてもおかしくはありません。
 去年はいろいろ忙しくて、七福神めぐりができませんでした。そのせいでもないでしょうが、去年一年間はなんだか験の良くないことが多かったような気がします。2月にはマダムが救急搬送されましたし、全体的にどうにも金回りが悪くて生まれてはじめて税金の督促状というものを受け取りました。福の神の加護が無かったからとは言いませんが、毎年やっていることをやらなかったので、心理的な平衡感覚がおかしかったのかもしれません。
 今年はもう少し良いことがあるように、七福神めぐりを再開したいと思います。
 そして、今回めぐるのは、柴又七福神寅さんの故郷ですね。

 実は柴又七福神には、去年詣でるつもりでした。正月に七福神めぐりができなかったので、2月に入ってからやることにして、その目的地が柴又だったのです。ところが、予定していた日の直前にマダムの救急搬送がありました。鼻血が大量に出て止まらなかったので搬送して貰い、動脈系の毛細血管が切れたのだと診断され、切れたところをレーザーで灼いて貰い、いちおうそれでおさまったわけですが、さすがに数日は大事をとったほうが良いだろうというわけで柴又七福神めぐりは諦めたのでした。あるいはだましだましでも行ってきたほうが良かったかもしれませんが、そのときとしてはいつまた血管が破れないとも限らない気がして、安静第一に考えたのでした。
 それで結局去年はそのままになってしまい、心残りがあったもので、今年の正月は柴又に行こうと、マダムのほうから言ってきたのでした。むろん、私にも否やはありません。
 柏の実家に寄った帰りに行こうと言っていると、マダムの両親が、自分たちも同行したいと言い出しました。マダムの母はたいてい松の内から忙しいことが多いのですが、4日は空けられたそうです。それならばということで、4人でまわることにしました。

 4日の10時半ころに実家を出て、常磐線の各停電車で金町へ。綾瀬・亀有・金町の3駅は、上野側からだとどうにも行きづらいのですが、反対側からならわけはありません。
 金町駅には、以前に合唱団の合宿を「水元青年の家」でおこなったことがあり、その最寄り駅ということで下りたことがありますが、ずいぶん久しぶりになります。JRのプラットフォームの階段のところには、京成線乗り換えの案内はありませんが、改札を出るとすぐに京成の金町駅が見えます。
 金町から柴又というのが、京成の原型となった区間です。最初はこの区間に、柴又帝釈天への参詣客をあてこんで「帝釈人車鉄道」が敷かれました。馬車鉄道がレールの上を走る馬車であるのに対し、人車鉄道はレールの上を走る人力車です。おそらく日本にしか存在しなかった交通機関でしょう。
 明治の一時期、人車鉄道はほうぼうに敷かれました。中には小田原熱海という、距離も長いしアップダウンも激しい区間で、車夫の苦しそうな様子が見ていられないとお客からクレームが入るような区間もありましたが、金町から柴又くらいであれば、人力車の走行距離としてはたいへん手頃です。帝釈人車鉄道は大いに繁盛し、その後高砂まで延長されました。そのうち人力車でなく普通の列車となり、さらに拡大して現在の京成電鉄となったわけです。
 京成金町線は、ほとんどの電車が線内を往復しているだけのミニ路線で、「都会のローカル線」的な印象もあるのですが、走っている電車は4輌編成とけっこう長く、しかも乗車率はかなりのもので、人力車が往来していたころを髣髴とするわけにもゆかないようです。
 金町駅を発車すると、2分ほどで柴又に着き、半数くらいの客が下ります。しかし私たちはそこでは下りず、高砂まで行きます。
 むかし金町線に乗ってみたころは、金町線は高砂駅の1番線か何かから発着していたはずですが、いつの間にか2階に片面プラットフォームができ、電車はそこに着きました。スカイアクセス線の開通で、高砂から北総線側に進む電車が増え、1番線をそれに宛てる必要があって、金町線は邪魔になってしまったのでしょう。金町線の乗り場には独自の改札がついており、一旦そこを出ないと本線や北総線には乗り継げないようになっていました。ずいぶん変わってしまったなと思います。
 高砂で下りたのは、寿老人を祀る観蔵寺が高砂駅のすぐ近くにあるからです。このお寺だけ、ほかの6つとは離れてぽつんと孤立しているのでした。住所もここだけ柴又ではなく高砂になっています。柴又町内には6つしかお寺が無かったのでしょうか。
 ほかの6つのうち、ふたつは北総線の新柴又駅の近くにあり、残りの4つが柴又駅の近くにあります。しかし、新柴又と柴又は、町名も同じで、そんなに離れてはいません。この高砂の観蔵寺だけが離れていて、柴又にしろ新柴又にしろ、ひと駅分歩かなければ次のお寺に進めないのでした。
 義母が最近腰を傷めてしまって、歩くときも杖を突くことが多くなっているので、この歩きは少々心配だったのですが、大丈夫だと言うので新柴又駅に向かって歩きはじめました。
 さくらみちと称する道路を歩きました。桜の季節はきれいなのかもしれませんが、沿道には桜道中学校というのもあるので、単なる地名かもしれません。
 新柴又の駅の近くにある、恵比寿さまの医王寺大黒天宝生院に続けて詣でました。医王寺はなかなか立派な山門があり、宝生院は妙ににぎわっている印象でした。
 このあたりで昼食をとりたいと思ったのですが、新柴又駅附近にはしかるべき飲食店が見当たりません。チェーンのファミリーレストランなら見かけましたけれども、七福神めぐりの途上で寄るような気分にもなりにくいのでした。北総線は開通してもうずいぶん経つので、駅前の街並みなどもそれなりにできているかと思ったのに、まだそこまでは拓けていないようです。まあそれは、埼京線の駅前などにも言えることで、「駅」が「街」になるのはなかなか大変なことなのだろうかと思わざるを得ませんでした。
 結局、そのまま歩いて、福禄寿万福寺に詣でました。
 ここまで4つ参詣して、柴又の七福神は、それぞれのお寺の本尊がそれぞれの神様になっているのに気がつきました。川口七福神では、毘沙門天を祀る吉祥院だけはそれが本尊になっていましたが、他のお寺は本殿の脇のほうに七福神のほこらがあって、いわば間借りしている形でした。柴又のはここまでのところ、毎回本殿に参っています。
 七福神の来歴を考えてみると、大黒天・毘沙門天・弁財天・布袋尊はまあ仏教との関係もあるようですが、寿老人と福禄寿は道教由来ですし、恵比寿さまは神道由来で、お寺の本尊にはいかがなものかという気もします。まあそのあたりの混交ぶりが日本のお寺らしいと言えば言えますが。
 参詣するほうも混交していて、私はここまでずっと、拝礼のとき「二礼二拍手一礼」でやっていました。しかし考えてみればこれは神社での拝礼であって、お寺の場合は手を合わせてお辞儀すればそれで良かったことに気づきました。はたして七福神というのは仏教の範疇に属すると言って良いのか、だんだんわからなくなります。

 順番からすると、次は毘沙門天を祀る題経寺です。その前に食事をしようと思い、義母が行ったことがあるという山本亭に行ってみました。ところが、ここは食事をするところではなく、庭園を楽しむところで、喫茶室もありましたが文字どおりの茶菓を供するだけのようでした。山本亭をむなしく通り抜け、題経寺に向かいます。
 と、題経寺の山門は、どう見てもかの帝釈天、柴又の主とも言えるあの帝釈天のものであるようです。

 ──ワタクシ生まれも育ちも葛飾柴又、帝釈天で産湯を使い、姓は車、名は寅次郎、人呼んでフーテンの寅と発します……

 と、「男はつらいよ」の決めゼリフが浮かんできました。
 案内図をよく見ると、毘沙門天・題経寺のところに、ごくごく小さな文字で、「(帝釈天)」と書いてあります。帝釈天と毘沙門天は同じところに祀られているのでした。
 帝釈天は初詣客でごった返しています。柴又の駅前からここまで参道が続いていますが、その参道もすごい混雑でした。
 参道の途中のそば屋に入って昼食をとりました。店の中は、混んではいましたが思ったほどではなく、ほどなく席に着くことができました。
 参道および山門内の混雑は、私たちがそばを食べているあいだにさらにひどくなったようで、先に参拝してくれば良かったと思いました。ようよう山門に入ったのち、掲示してある矢印が意味不明で、さらに時間を食ってしまいました。「七福神」と書いてある矢印のほうに進んだら、山門を出てしまうことになりそうで、しばらく迷ったのでした。どうもその矢印は、御朱印を貰う場所を示していたらしく、そこへ行ってマダムが訊いてみると、毘沙門天自体は帝釈天と一緒に祀られているらしいことがわかりました。本来、毘沙門天というのは帝釈天麾下の四天王のひとりで、東の持国天、南の増長天、西の広目天と並んで北を守護する多聞天の別名です。四天王のひとりとして祀られるときは多聞天、独尊として祀られるときは毘沙門天と呼ばれる習慣であるようです。いずれにしろ帝釈天の眷属であるので、一緒に居るのも当然なのでした。
 そんなわけで、七福神の中ではいちばんの混雑の中、ようよう参拝を済ませました。
 マダムは境内にあった「獅子舞おみくじ」というのを引いていました。お金を入れると、ガラスケースの中の小さな獅子が踊り出して、おみくじを一枚くわえてきて取り出し口に落とすという、なかなか愉快な仕掛けでした。開いてみると大吉です。マダムは案外と大吉を引き当てることが多く、凶の札が多いと言われる浅草寺でさえ大吉を引いています。この翌日バーガーキングで食べた「おみくじバーガー」でも大吉になっていました。さすがに感心します。

 混雑した参道から外れ、一本外側の道を行くと、ほどなく弁財天を祀る真勝院があります。これまで何度も書きましたが、弁財天つまり弁天さまは本来サラスヴァーティという女神さまで、芸事を司ります。画像や立像でも必ず琵琶を携えた姿に造形されます。従って私ら音楽をやる者にとっては管轄神と言うべき存在で、マダムも私も弁天さまを守護神として尊び、お賽銭も他の神様より多めに奉ることにしています。嫉妬深い女神さまなので、カップルで詣ると破局するというような話もありますが、夫婦になっていれば問題は無いでしょう。
 柴又街道に出て、少し北上すると京成金町線の線路に沿います。その先の踏切を渡ったところに、最後の神様、布袋尊を祀る良観寺があります。柴又では布袋さまのことを宝袋と表記するそうです。土地によって、いろいろこだわりがありますね。
 柴又には寅さん記念館山田洋次ミュージアムもありますが、義母の(そして年末に傷めたマダムの)腰も心配ですので、そろそろ帰ることにします。帝釈天参道の団子屋で休憩し、それから沿道の店などを覗きながら、柴又駅へ向かいました。
 柴又駅には、ミニ路線の途中駅にしてはいやに立派な駅名板がかかっていました。駅前の広場には寅さんの、かなり若い頃を思わせる銅像が建っています。私は「男はつらいよ」シリーズは4、5本しか見たことがありませんが、いずれもかなり齢が行ってからだったような気がしますので、若い寅さんにはいくぶん違和感を覚えてしまうのでした。それにしても、よくぞこの小さな町を舞台に選んだものだと思います。

 柏に帰る両親と別れ、私たちは再び高砂に向かいました。高砂から京成本線に乗って日暮里に出ようと考えたのでしたが、最初に来た電車が鈍行で、全部の駅に停まっていたところ、町屋に至って、都電に乗ってみようと衝動的に考えて電車を下りてしまいました。マダムも賛成でした。
 変わった経路ではありますが、都電荒川線(最近は東京さくらトラムと案内している)というのはいつ乗っても混んでいて、このときも坐ることはできませんでした。途中の荒川車庫でなんとか席が空いたので、その先の3駅だけ坐って王子に着きました。おとなしく日暮里まで行ったほうが、時間はかからなかったと思います。しかしときどきこうやって「ちょっとだけ外れてみる」のは気分が良いですね。
 4日の晩になって、ようやく自宅に落ち着き、日誌を書いたりしはじめました。

 そして松の内最後の日である今日(7日)、七草がゆを食べてから、コーロ・ステラの新年会にでかけ、そのあと熱心なことに練習もあって、しかも私の指導回で、今年の初仕事を終えて帰ってきました。そろそろお正月気分も終わりです。皆様、今年もどうかよろしくお願い申し上げます。

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