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リトライ演奏会 [日録]

 1日遅れてしまいましたが、昨日(5月1日)、Chorus STの演奏会が開催されました。
 Chorus STという合唱団は1990年に設立され、92年に第1回演奏会を開いてのち、20世紀中はけっこう勤勉にナンバーコンサートをおこなっていました。だいたい1年3ヶ月から1年半おきくらいにやっていたので、学生の合唱団ほどではないにせよなかなかのペースだったと思います。
 2000年に第7回演奏会を開き、その後グアテマラに行ったりして少しあいだが空き、第8回は03年の開催でした。その1年半後に第9回があり、そのあたりから間隔が拡がりはじめます。
 第9回から第10回までは2年3ヶ月の空きがありました。このあいだにはグアテマラで知り合った現地の合唱団コロ・ビクトリアの来日演奏会への協力などもありましたので、舞台で歌う機会が無かったわけではありません。自前のナンバーコンサートをやっていなかったというだけの話です。
 しかし、次の第11回は、第10回の3年3か月後となりました。まあこの期間には、指揮者の清水雅彦さんが勤め先の大学の海外研修ということで、やはりグアテマラに行って、1年ほど不在だったためでもあります。
 そのあたりまでは、いちおう理由もつけられるのですけれども、第11回から第12回までとなると、実に8年半の間隔が空いてしまっています。
 第11回演奏会は2010年1月、第12回演奏会は2018年9月のことでした。
 この間、別に活動を休止していたわけでもありません。舞台にもちょくちょく上がってはいました。毎年の東京都合唱祭北区合唱祭のほか、大國和子さんの追悼コンサート、鈴木行一さんの追悼コンサート、ハンドベルアンサンブルYDとのジョイントコンサート、「ガリシア物語」など、各種企画に参加しています。しかし、自分らの企画によるナンバーコンサートを再開するという機運には、なかなかならなかったのでした。人数が減ってしまったためもあります。
 それで2018年に第12回をおこない、1年半後の2020年5月に、第13回演奏会が企画されました。この間隔は初期の活溌な頃を髣髴とします。2020年が合唱団の設立30周年にあたるので、ぜひ演奏会を実行しようということで意欲が高まったのでした。

 で、30周年なので、いままで関わりのあった人たちなどに声をかけて、賛助合唱団を募ろうということになりました。また、30周年なので、作品委嘱をしようという話にもなりました。過去の演奏会に比較しても、だいぶ大ごとになってきました。場所も、東京文化会館小ホールという、簡単には取れない、はえある会場を押さえました。
 私は設立1年半後くらいからChorus STに参加し、ずっと一団員として歌い続けています。30年近くに及ぶ団員歴の中で、作品を初演して貰ったことも何度もありますし、団のために編曲をしたことも数えきれないほどです。そういうのはいちおう、世間的には委嘱初演ということになるようなので、作品委嘱がはじめてというわけではありません。しかし今回は、外部の作曲家に委嘱しようかという話であり、それはChorus STとしてははじめてのことです。
 ところが、話はさらに変転しました。清水さんの持っている他の合唱団の関係で、詩人のフルリーナさん(日本人です)と面識ができたので、まず詩を委嘱し、それを過去Chorus STと関わりのあった作曲家数人に作曲させようということになったのです。関わりのあった作曲家というと、上に書いた鈴木行一さんなんかもそれに相当しますが、残念ながらすでにこの世の人ではありません。関わりと言えばいちばん深い私も参加させてもらえることになり、他には一時期Chorus STに参加し、また清水さんの海外研修中に合唱指導もしてくれていた相澤直人さんと、しばらく前にあるデイケアセンターでボランティアコンサートをするときにピアノ伴奏をしてくれた山下祐加さんに頼むことが決まりました。相澤さんは合唱曲作曲家・合唱指揮者として今をときめいている人です。山下さんは必ずしも合唱曲の比重が大きいわけではないようですが、それでもいくつかの作品が世に出ています。ピアノ伴奏をしてくれた頃はまだ学生で、卒業制作にオラトリオを書いていると言っていたのを思い出します。
 ふたりとも私よりはだいぶ年下で、私も中堅作曲家というよりすでに長老の域にさしかかっているのだろうかなどと感慨を覚えます。
 ひとりの詩人に焦点を当て、その詩に複数の作曲家が曲をつけて初演するというステージは、いままでほとんど例の無いことではないかと思います。谷川俊太郎とか川崎洋とかの詩にいろいろな作曲家が曲をつけたのを集めた演奏会というようなのはあったと思いますが、詩がすべて書き下ろしで、全曲委嘱初演などということは無かったでしょう。思えばすごい企画です。まあ、委嘱料が「お友達価格」で済みそうな相手ばかりだったというのも重要な点ではあったでしょうが……
 それと共に、『続・TOKYO物語』の混声版を初演することも決まりました。2019年9月磯辺女声コーラスで女声版を初演し、同時に楽譜の発売もおこなわれていましたが、引き続き混声版を作り、Chorus STによる初演と同時にこれも楽譜が発売されるということになり、カワイ出版の編集ともスケジュールを打ち合わせて仕事を進めていました。
 そして、集めた30周年記念合唱団には、ふたつの初演ステージを一緒に歌って貰うことにし、そのほかにChorus ST単独のステージを持つということに決まりました。当初は、イーヴォ・アントニーニというスイス出身の作曲家の宗教作品集と、これまで歌ってきたグアテマラの合唱曲からピックアップしたものの2ステージが予定されました。ただグアテマラステージは、よく考えると第11回演奏会でやっており、曲目もほとんど同じでした。それで差別化というわけではありませんが、パーカッションを加えようという話も持ち上がり、私が板橋区演奏家協会の仲間にオファーするところまで進めました。
 とにかく、関わる人数がこれまでの演奏会とは段違いで、連絡ひとつとろうとしてもなかなか大変な規模になるまでに構想がふくれ上がっていました。
 着々と準備が進められました。私は『続・TOKYO物語』混声版を仕上げ、さらに委嘱初演ステージのための自分の担当する曲「紫」を書き、それからチラシやチケットの制作にかかりました。このたぐいの仕事はわりと好きで、前にも何度も引き受けています。
 子供の頃マンガは描いていたものの、小じゃれたイラストなどは私には描けません。しかし、今回のチラシは30周年ということで、過去の舞台写真などをコラージュしたデザインに決めたので、私にも作れました。印刷屋に注文し、8000枚のチラシを刷りました。さらにチケット用紙という規格のプリンター用紙を買い求めて、自宅のプリンターでチケットを刷りました。チケットのデザインくらいなら、フリー素材を使えば間に合うので、自分でもできます。
 作ったチラシやチケットを、出演者などに配ります。もちろん、歌の練習はずっと続いています。記念合唱団のための特別練習も開始されました。
 さあ、頑張ってお客を集めよう……そんなときに、第一次緊急事態宣言が発令されたのです。

 第一次のときは、上は政府から下は庶民まで、様子がまったくわからないため、とにかく最大限の警戒をしようということになりました。そのため、その後は開き直って平然と演奏会を開いている板橋区演奏家協会ですら、いくつかの予定されていた演奏会を中止にせざるを得ませんでした。オペラ公演まで中止にしたのはまったく残念でしたが、これは稽古の会場さえ使用できなくなったからです。プロである協会員はまだしも、オペラ公演は「区民講座」という側面もあって、板橋区民から募集した有志のアマチュアを合唱として出演させることになっており、その稽古ができなくなったのは致命的だったのでした。
 当然ながら、Chorus STの演奏会も中止となりました。東京文化会館がキャンセル料を辞退し、全額返金してくれたのがせめてもの慰めでしたが、私の制作したチラシもチケットも、すべて無駄になったわけです。楽譜の刊行も、初演前に出すわけにはゆかないというので延期になりました。
 コロナ禍の見通しがついてから復活公演をおこなうにしても、せっかく集めた記念合唱団のメンバ―をもういちど集められるかどうかは、いかにも心許ないところです。また、練習のことを考えると、いつ開催できるかわかったものではありません。
 当初予定されていた5月5日には、Zoomを使ってヴァーチャルコンサートをおこないました。歌うはずだった曲の音源をZoomで共有し、各自は自分のマイク音量を切って音源に合わせて、それぞれ自宅で歌ったのでした。ままごとのようなものではありますが、みんなで歌う時間を共有したということで、喪失感が多少は救われた気がしました。
 その後も、Chorus STの練習日である毎週金曜夜には、Zoomで会合をおこないました。勉強会みたいなこともしました。いま思えば、この継続が良かったような気がします。練習を中断し、仲間との接触もまったく無くなってしまっていたら、復活公演どころか団の存続も怪しかったように思えるのです。
 6月末に緊急事態宣言が解除され、7月から練習が再開されました。コーロ・ステラなどは再開の勢いで、11月に復活公演を決行してしまいましたが、Chorus STのほうは企画が多岐にわたり過ぎていて、そう簡単にはゆきません。
 それでも、翌年、つまり2021年5月1日に、馴染みのある北とぴあさくらホールが空いていたとわかり、その日に復活公演をおこなおうということに決まったのでした。本来、さくらホールは大き過ぎて、Chorus STが使うようなホールではないのですが、ソーシャルディスタンスがやかましく言われるようになり、客席も半分しか使えず、また記念合唱団を含めると40人くらいになる出演者を、距離を保って舞台に載せるためには、そのくらいのサイズのホールを使わざるを得ないのでした。
 秋に、まさにそのさくらホールにて、北区合唱祭がおこなわれました。観客を入れず、合唱団同士で聴き合うだけで、細心の注意を払ってのイベントでした。Chorus STはそこに参加し、やはり歌を歌いたいという気持ちが高まりました。復活公演に向けて本格的に動きはじめたのはその頃からだったかもしれません。

 幸いなことに、記念合唱団で、復活公演に乗れないという人はわずかでした。そして何人か、新たに加わったメンバーも居ます。みんな、歌いたかったのでしょう。
 初演の2ステージはそのまま活かすことになり、前半のChorus ST単独ステージは大幅に差し替えられました。これは練習期間の問題もあり、全部外国語の歌なのでけっこう負担が大きかったわけなのですが、最大の理由は今年1月早々に発令された第二次緊急事態宣言です。これにより、また練習ができなくなり、2ステージも用意するのは無理だろうということになったのでした。
 アントニーニとグアテマラのステージは中止となり、その代わりとして清水さんが提案したのが、いままで歌ったことのある曲を中心として、あと2曲ほど加え、聴く人を力づけるような内容のステージにしたいということでした。具体的に挙げられた曲が、清水さん自身の作詩で千原英喜氏が作曲した「Greetings」Ken-Pこと佐藤賢太郎氏の作詞作曲による「前へ」福島原発事故で離散を余儀なくされた南相馬市の中学校の卒業生たちが集めた言葉をその学校の音楽教諭が構成して作曲したものを信長貴富氏が編曲した「群青」、それに松下耕氏の「To Live」「出発」の2曲でした。
 「Greetings」は前回の第12回演奏会で歌っていますし、去年の北区合唱祭でも歌いました。ほとんど練習無しでも歌える状態です。
 「前へ」は東日本大震災のときに書かれて、何度か歌いました。久しぶりですが、なんとか歌えるでしょう。無伴奏ヴァージョンではなかなか難しかった記憶がありますが、今回は伴奏つきを考えているようです。
 「群青」も前回の演奏会で歌ったほか、合唱祭でも歌っています。
 松下作品の2曲が新曲です。どちらかを選ぼうみたいな話でしたが、結局両方ともやってしまうことにしました。なんとかなるのではないかという判断です。休会中に音だけでもとってしまえるよう、私は打ち込み音源を作りました。前によく作っていたMIDIファイルが、最近は開けないという人が増え、急遽MP3に作り直したっけ。その音源に合わせて、Zoomでの練習も何度かおこないました。みんな真剣に音をとったようで、宣言が解除されて再び集まった3月、いきなりはじめた合わせの練習にもついてきていました。
 なお、「To Live」は谷川俊太郎の「生きる」という有名な詩を、矢口以文ギャリー・タイヤ―の両氏が英訳したものをテキストにした歌で、まさにコロナ禍で内向きになっている人を元気づけるべく作曲されました。「出発」はユーゴスラヴィアの崩壊に至る動乱を体験した日本人女性の詩に作曲した女声合唱組曲の終曲で、大掛かりな合唱イベントの際に作曲者自身によって混声に編曲されたものです。とにかくパワーが要ります。
 練習時間も練習期間も短くなっていましたが、メンバーの集中力が上がっているのを感じました。私自身も、4月前半には全曲暗譜できていたので自分でも驚いたほどです。最近齢のせいか、暗譜力が著しく落ちているのを感じていたのですが。
 練習と並行して、またチラシやチケットの制作もおこないました。幸い、チラシのデザインは前のがそのまま使えます。レイヤーが分かれたファイル形式のまま保存してあって助かりました。去年作ったときに、JPEGやPDFでしか残していなかったら、また最初からやり直さなければならないところでした。レイヤーが有効だったので、文字稿だけ変えればOKだったのでした。演奏会タイトルは、「第13回演奏会retry」としました。最初は「出直し」とつけていたのですが、「出戻り」のイメージがあったのか評判が悪く、変更したのでした。そう書いてみると、確かにリトライ(再試行)だな、と納得したものです。
 チケットは、衛生上モギリをしないことになったので、ミシン目の入らないカード式のものを作り直しました。裏面にコロナ対策のための連絡先記入欄を作りました。そして、それが済むと今度はプログラム制作です。
 これもなかなか大仕事なのですが、制作を他の人に任せても、どうせ曲目解説などは私が書くことになるので、労力はさして変わりません。他のコーナーも、第12回の時に作ったものをテンプレートとして使えたので、作業としてはわりに楽でした。
 そんなときに、『続・TOKYO物語』のナレーションを頼んでいた吉田浩二さんが、コロナ肺炎に倒れたという報を受けました。代役をカワイ出版の若い編集者である阿出川彬さんにすぐ頼めたのは良かったのですが、チラシはもう刷り上がって配布しており、名前の修正はできませんでした。
 プログラムのほうはナレーターの名前を差し替えられました。フルリーナさんや他の作曲家などからの原稿も集まり、実行委員内でデータを見て貰って微修正もおこない、ほぼ完成しました。あとは、何部刷るかを決めれば発注できます。
 4月23日の練習のときにその話をしましたが、400部か500部くらい、配券状況を確認してから決定ということになりました。その時点で、いちばん安上がりな「7日後発送」は無理と決まりました。少し高くなりますが「4日後発送」で頼まなければならないでしょう。
 東京都における第三次緊急事態宣言の発令が決まり、北とぴあがいち早く発令中の休館を発表したのは、その晩のことでした。

 あとから聞いた話ですが、北とぴあの休館宣言はどこよりも早かったようです。他の自治体では、実際に発令される25日まで様子見というところが多かったらしいのですが、北とぴあは発令が決まった報道を受けて即座に休館と、発令中の全催しの中止を決めてしまったとのことです。
 その後のことは、前回のエントリーで詳述しましたので、あまり繰り返しませんが、とにかくChorus STは再度延期ということにはせず、5月1日に使えるホールを探しまくり、結局千葉市若葉文化ホールというところに場所を移して開催することに決定したのでした。
 ホールの係員はとても協力的だったそうですが、ソーシャルディスタンスについてだけはきわめて厳格で、舞台上に乗れる人数も融通は利かせられず、客席も25%定員ということで決して譲りませんでした。そのため、記念合唱団との合同ステージでは、花道に配置される団員、客席に下りて貰う団員などの発生を余儀なくされました。指揮者も客席で振ることになります。そして、演奏者で客席が潰れたため、客入りは70人程度が限界という厳しいことになったのでした。
 千葉からモノレールに乗り換えて30分近くという、東京の西方や埼玉・神奈川あたりから見ると非常に不便な場所になったため、行くのは見送るという人が多くなることは予想されました。また、緊急事態宣言発令中で、出かけるのを控えたい人も少なくないでしょう。だからお客が減ることは当然でしたが、それにしても1300人定員のさくらホールの、50%にしても650席くらいを頑張って埋めようと意気込んでいた数日前と較べると、とてつもないスケールダウンです。指揮者や団長の意識では、もう演奏会というより公開録画会というイメージになっていたようです。お客は基本的に呼ばないつもりで、せいぜい家族程度を「関係者」として入れる、程度の考えかたになっていたのでした。演奏の様子を録画して、後日ネットで配信するというプランは、去年、演奏会がいちど流れた時点で提案されていました。それを実行することになったわけです。
 プログラムも、もう必要ないかな、とも思ったのですが、せっかく何人もの先生がたから原稿を貰っていることもあるし、私もかなりの量の文章を書いたし、少数とはいえお客(というより見学者)もそういう冊子が欲しいだろうし、やはり印刷しようと考えました。表紙に書いてあった開催場所を差し替え、何人かのスタッフ名を削除しました。例えば場内アナウンスなどはしないことにしたのです。
 「3日後発送」で入稿しました。それでギリギリだったのでした。
 その後、録画スタッフの都合でもあったか、開始時刻が30分早まるという変更が伝えられましたが、そこまでは対応できませんでした。

 そして当日。マダムと私は5時半に起きて、6時半に家を出ました。日暮里から京成線の特急に乗って津田沼で乗り換え、千葉からモノレールに乗って終点の千城台へ。会場は駅からすぐですが、着いたら8時半を過ぎていました。やはり遠路はるばるという気分です。
 出演者の中の希望者に、『続・TOKYO物語』の初版本を割引価格で頒布することにしていたので、マダムと共にその事務作業に追われます。希望者全員に、私のサインを入れておきました。それからプログラムに歌詞カードを挟む作業もありましたが、これは途中から仲間が手伝ってくれました。
 9時半から最終リハーサルです。客席まで使った変則的な並びで歌うことには、戸惑いを見せる人も居ましたが、みんな馴れようと頑張っていました。ちなみに、記念合唱団のメンバーは、北とぴあから場所を移動しても、ひとりも欠けずに集まってくれました。私たちよりさらに遠いメンバーも何人も居たはずです。
 開演は13時30分。客席は寂しい限りですが、これは仕方がありません。第1ステージは、記念合唱団の人々も客席で聴くことになっており、少しは多く見えます。
 第1ステージの5曲は、みんなわりとテンポが似ており、変化にはやや乏しかったのですが、それでも「想い」は充分に伝わっていたのではないでしょうか。あとで聞くと、このステージの途中で涙が出てしまったというメンバーが多かったようです。曲の内容というより、次々に襲い来るさまざまな障碍を乗り越えて、よくぞここまで漕ぎつけたということで感無量になっていたのだと思われます。
 私はなんとか泣かずに済ませ、いつも歌いながら涙ぐみそうになる「群青」も無事に歌いきりましたが、第1ステージが終わって礼をする段になって、膝が小刻みに笑っていることに気がつきました。思ってもみないほどにエネルギーを使っていたのだな、と思いました。
 その後、トークコーナーとなりました。幸いなことに、フルリーナさん、山下さん、相澤さんはみんな来場しており、清水さんのMCでトークをおこなったわけです。
 さらに、清水さんと私だけの対談みたいなトークもおこないました。こちらは『続・TOKYO物語』に関する話で、あとで録画したものを編集して、それぞれのステージの前に挿入することになります。なお私はこのトークのとき、歌うときの衣裳である黒スーツを着ていたのですが、『続・TOKYO物語』ではピアノを弾く関係上、白いジャケットに着替えました。従って、編集された動画では、私は黒服で話していたと思ったら、次の瞬間白服に着替えてピアノを弾いていることになります。いかなる早替わりをしたのかと驚かれるかもしれません。
 リアルな進行としては、このトークのあとに休憩が入りました。楽屋は「密」を避けるため荷物を置くだけになっており、そこでくつろいだりはできません。出演者も客席やロビーでうろうろしていました。

 第2ステージが「詩人フルリーナと三人の作曲家」と題された委嘱初演ステージです。山下さん作曲の「風よ」、相澤さんの「ばあちゃんが笑った」そして私の「紫」と続きます。作風はまさに三者三様でしたが、意外と並べても違和感がなかったのは、やはり詩人が同じだったからでしょうか。「紫」がいちばん屈折した苦悩みたいなものを感じさせた気がしますが、これは年の功かもしれません。若い山下さんの作品は非常にみずみずしく流麗でした。相澤作品は、ピアノを先に発想したと自分で言っていましたが、鈴木真理子さんのピアノあっての作品と言えるのかもしれません。
 私は、学生時代にはよく他人の作品の初演に参加することがありましたが、最近はめっきりそういう機会が減っています。たぶん鈴木行一さんの遺作を歌ったのが最後でしょう。その意味で、この第2ステージで歌ったのは新鮮な楽しさが感じられました。
 第3ステージは前述のとおり『続・TOKYO物語』初演です。実のところまだピアノを「正篇」のように自由自在に弾ける境地には至っておらず、自分で書いたものなのにかなり一生懸命になっていて、歌や語りと一緒に演奏を愉しむというところまで行かなかったのが、残念な反省点でした。とはいえ、聴いていた人たちにはとても楽しんでもらえたようです。40人の合唱ということで、余裕のある響きにもなっていました。
 北とぴあには物販の許可をとっていたのですが、若葉文化ホールでは物販をすると使用料が跳ね上がるとかで、カワイの人に来てもらっての初演即売は断念せざるを得ませんでした。これは磯辺女声コーラスの女声版初演のときも同様でした。女声版初演は千葉市文化センターだったのですが、千葉市のホールはみんな物販を嫌がるのでしょうか。初演即売は昔から夢だったのですが、残念ながら実現せずに終わりました。これからまた機会があるだろうと慰めてくれる人も居ますが、今回の初演即売は、ベストセラーである『TOKYO物語』の続篇ということによる特殊事情であって、普通の作品ではできることではないのでした。
 高橋晴美さんの「ありがとう」をアンコールに歌って終演となりました。トークコーナーや、録画のセッティングの都合などでけっこう時間を食い、開演から約2時間が経っていました。最初の予定、つまりアントニーニステージとグアテマラステージを含めた「演奏会」も、だいたい2時間くらいのつもりでしたから、少し減らしたとはいえ内容的にはむしろ濃かったと言えそうです。

 打ち上げをするわけにもゆかないので、お客を帰してから、出演者のための「お帰り会」を客席でおこない、解散となりました。
 マダムの恩師が亡くなり、通夜に出なければならないというので、私たちは後片付けを人任せにして会場をあとにしました。斎場は松戸で、千葉県内での移動だから出る気になったのかもしれませんが。
 ただ千葉県内というのは移動が面倒です。モノレールで総武本線の都賀まで行き、そこで快速電車に乗り換えて船橋へ、さらに各停に乗り換えて西船橋へ、武蔵野線に乗り換えて東松戸へ、そして北総線で最寄りの松飛台へ……という乗り換えの多さ。都賀でたまたま快速に乗れたから良かったものの、そうでなければ千葉駅でもういちど乗り換えなければならないところでした。私は東松戸までマダムと一緒に行き、そのまま武蔵野線に南浦和まで乗って帰宅しました。
 終演の頃、天気が急に崩れて雷雨となりました。しかしそのときの雨は短時間で止み、モノレールの車窓からは大きな虹が見えました。なんとなく、お疲れ様、と言われているような気がしました。

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