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出版社と私 [お仕事]

 先日、以前書いたオペレッタを出版したいという話があって、打ち合わせに行ってきました。
 まだちゃんと形になるのはもう少しあとのことなので、詳細は省きますが、最近楽譜出版を始めた小さな会社からの話でした。すでに合唱のピースなどを何冊か出していて、いちおう実績はあるようです。ただしまだ店頭には出していないそうで、もっぱらネットでの販売をしている様子でした。そろそろ店頭にも出したいということで、前に私の本も出して貰ったことのある会社に販路を委託する交渉をしているところだと聞きました。
 まだ活動をはじめて間もないわけですが、大手の楽譜出版社と較べるとネット系に強みがあるようで、youtubeなどを利用して音源サンプルを提示しつつ注文を受けるという方法を主流にしている感じです。まあ、問題のオペレッタに関しては、また別のビジネスモデルを考えているらしいのですが、さてどうなることやら。
 未出版の合唱曲がずいぶんありますよ、と私が言うと、それも見せて欲しいとのことでした。パナムジカのようにもともと楽譜販売を通じて合唱団や作曲家とのコネが強いところなら、出版業をはじめてもネタは豊富にあることになりそうですが、そうでない業者の場合は、むしろ作品提供してくれる作曲家をのどから手が出るほどに求めているかもしれません。私のほうは作品を出してくれる出版社を求めているわけですので、うまく咬み合えばお互いに展望が開けるということもありそうです。カワイ出版が楽譜出版社として現在の大を為したのは(とは言っても最近は全音の傘下に入ってしまいましたが)、初期に中田喜直先生が全面的に協力して楽曲提供などをおこなってくれたおかげだそうで、そういう良い関係が築ければ幸いです。

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「鉄道探偵と1/3の奇妙な手紙」解決篇 [趣味]

 ずいぶん長いことご無沙汰してしまいました。3月4日以来ですので、2週間半ぶりです。
 先月末から、『セーラ』のオーケストレーションにとりかかっており、何しろ分量が半端ないので、ある程度先行きの見通しが利いてくるまで、気が気でないという事情がありました。2週間ほどかかっても第一幕第一場が終わっていなかったりしたので、これは本当にヤバいのではないかと震え上がったり。
 しかしまあ、作曲と一緒で、最初の一場がいちばん大変ということは言えます。それを過ぎてしまうと、まあまあ書きかたのパターンのようなものが生まれてくるので、多少はサクサク進むようになるのでした。また、このオペラは序曲に相当する3つの合唱曲の部分の比重が大きく、そこは言ってみれば独立した楽曲のようなもので、オーケストレーションもそれなりによく考えなければなりません。古典オペラであればレチタティーヴォにあたる、会話で物語が進んでゆくところなどは、わりに薄い音で良いのでどんどん進められます。
 3、4月はこの作業に集中したかったのですが、そういうときに限って他の仕事が入ったりします。お金は稼がなければならないので、仕事を断るわけにもゆきません。やはりオーケストレーションの仕事が来て、短いものですが7曲ばかり仕上げなければならなくなりました。本腰を入れられるのは5月に入ってからとは伝えてあるのですけれども、3月中に2曲くらいは欲しいとのこと。『セーラ』の合い間を盗んでそちらに振り向けられるかどうか、なかなか綱渡りのような今日この頃です。
 こういう立て込んだ時期には、世の中のあれこれについて、あるいはそれなりのテーマについて考察したりする時間はとれません。また、余計な外出もしなくなるので、日録のたぐいも書きにくくなります。そんなわけですっかりご無沙汰してしまったわけですが、ふと気づくと今日は3月21日。前にやった「鉄道探偵と1/3の奇妙な手紙」のキャンペーン最終日です。つまり本日夜半をもってネタバレが解禁されますので、その解決篇(ネタバレ禁止で書けなかったネタの放出)を記しておこうと思います。あんまり頭を使うこともなさそうですし。

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弦楽四重奏を考える [日録]

 板橋区演奏家協会の通年行事というと、年初のファミリー演奏会と、年3回(うち1回はオペラ公演)のライブリーコンサートがメインですが、その他にロビーコンサートというのがあります。これは以前は、年2、3回ほど、板橋区役所のフリースペースでやっていたのですが、いまはそちらは滅多に頼まれなくなり、レギュラーなものとしては3月に東京都健康長寿医療センターで演奏するものだけになっています。
 東京都健康長寿医療センターというのは、板橋の文化会館のすぐ近くにあります。昔は養育院と呼んでいた施設で、いまでも古くからの住民にはその名前のほうが知られていたりします。本来は高齢者だけでなく、一般の病人、孤児、ホームレスなどの救済のために設置されました。最初は本郷にあり、それから私の母校である東京藝術大学が建つ前の上野の山に移り、さらに神田本所大塚と転々とし、関東大震災のあとに現在の板橋に移って定着しました。
 その後、孤児院機能とホームレス収容機能は分離され、主に高齢病者を扱う施設となりました。老人医療センターという名称だったこともあります。私自身はこの名称のイメージが強く、10年前に現在の健康長寿医療センターと改称されても、なかなか憶えられなかったものです。
 ここのロビーコンサートには私も出演したことがありますが、古い病院特有の雑然とした雰囲気の施設だったと記憶しています。しかしその後、最新設備を備えたピカピカの施設に建て替えられました。
 今日、そのロビーコンサートがあり、たまたま聴きに行くことになって、医療センターの変貌ぶりに眼を見張ったのでした。

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