SSブログ

言葉と音楽 [いろいろ]

 最近の流行歌や軽音楽では、先にメロディラインができていて、あとから歌詞をつけるという形が多くなっているようです。作曲家が作詞家にデモ音源を渡し、作詞家はそれを聴きながら言葉を乗せてゆくという作業順序が普通になっていると聞きます。
 ラジオ番組の中で歌を作っているところを聴いていたことがありますが、確かに作曲者がギターをかき鳴らしながらハミングでメロディを歌っているのを、作詞者が聴きながら歌詞を作っていましたし、その作りかたが決して特殊なものではない雰囲気でしたから、実際にそれが主流と言って良いのでしょう。
 私などは、まず詩があってそれを音楽化してゆくという形に馴れているので、どうも違和感を覚えます。テキストがなんにも無いところからメロディを作るというのが、まず心許なさを感じます。もちろん器楽曲であればテキストなんかありませんし、メロディを作るのにテキストが不可欠ということでもないのですが、しかし少なくとも、歌われることになるメロディを言葉無しで作るのは、なんだか闇夜で手探りしているような気分になりそうです。世の作曲家諸氏は、よく平気でそんなことができるなと感心します。

 まあ、詞をあとにつけるという作りかたは、実のところそれほど最近の風潮というわけではありません。有名なところでは六八コンビ永六輔中村八大のコンビは常にそういう方法を採っていたと聞きます。中村八大ナンバーを聴いていると、時に不思議なテキストのつきかたになっている箇所がありますが、永六輔氏があんまり音節にこだわらない歌詞づくりをしていたためだそうです。
 「♪うえをむーいて」はまだ良いとして、次の「♪あーるこおおお」のところなどは、よく考えるとかなり不自然です。先に同じ「ドドレミドラソ」というモティーフの繰り返しのメロディがあり、そこに無理矢理「上を向いて 歩こう」という言葉を乗せたのでそういうことになったわけです。
 もちろんいまとなっては、その不自然なところがこの歌の魅力にも感じられて、例えば7音節ということにこだわって「♪あるいてゆこう」なんて言葉になっていたらブチコワシだろう、と思えるまでになっています。名曲というのはどこかに不自然なところがあって、そこが魅力となって人々を惹きつけるのだという節がありますが、「上を向いて歩こう」のケースを考えると納得できるような気がします。もっとも、不自然に作ったから名曲になる、とは全然限ったことではないのですが。
 作曲家にもいろんなタイプがあって、先にテキストが用意されていると自由な発想が妨げられる、と感じてしまう人も居るでしょう。そういう人はむしろこの、あとで詞をつける方法のほうが性に合っているのかもしれません。
 だけど……と私はこっそり考えてしまいます。
 最近のJポップなどが、なんとなくどれもこれも似たような造りになっているのは、曲が先にできているからなのではないでしょうか。AメロBメロCメロと取りそろえ、それらが適当に繰り返されながらつながり(例えばABABCAとか)、最後のほうで一旦リズムパターンを薄くしてからサビを反復しつつフェードアウト……というような構造が、作曲家の名前にかかわらずほぼ一般的になっています。いささか鼻につくほどです。
 テキストが先にあれば、そこまで画一的な曲構造にはならないように思います。作詞者も、「ここはAメロ」「ここはBメロ」と意識してある程度定型的な書きかたをするかもしれませんが、言葉の流れというのは音楽とはまた違った論理に寄り添うものですから、むしろそうした定型を外してしまうことのほうが多くなりそうに思われます。

 ともあれ、私は声楽曲を作る場合には、まず言葉ありきで発想します。発想の原点が言葉ということになります。まず最初に言葉と向き合うことで音楽全体のイメージを構成し、言葉のイントネーションを展開することでメロディを組み立てます。
 だからよく「詩に曲をつける」という言いかたをしますけれども、それはどうも正確ではないようです。詩が曲を産み出す、あるいは、詩を媒介として曲を組み立てる、というのが実際ではないかと思います。詩はただの素材ではなくて、私にとっては発想の出発点であり、作曲という作業の触媒としての役割を果たしています。
 それだから当然、詩に対する要求も高くなっているかもしれません。前に、詩を探すことの困難について書いたエントリーがありますが、同業の作曲家でも、人によってはそんなにうるさいことを言わない場合もあるでしょう。
 もちろん、だからと言って詩が音楽の上にあるということではありません。時には音楽的要求が詩とそぐわなくなることもあります。字句が合わなくなることもありますし、構成的にぴったりしなくなることもあるのです。市販楽譜の歌詞ページに、

 ──作曲では「○○○」となっている。

 とか、

 ──この一行は作曲されていない。

 とか註記していることがよくありますが(私の本でもあります)、これはどうしても詩のその部分が作曲者の音楽的要求と一致しなかったケースです。曲を「つける」だけであればこういうことは起こりません。
 曲としては大がかりに盛り上げてゆきたいのに、詩のボリュームが案外小さくて、同じ詩句を繰り返し使うにも限界がある、なんてこともあります。こういう場合、複数の詩をひとつの曲にまとめてしまう、というような手段をとることもあります。詩人によってはこういう使われかたを嫌がる人も居て、私もいちど抗議を受けたことがあります。

 ──それぞれの詩には別々の想いが込められているのに、それを一緒くたに曲にしてしまうのは、詩人のそれぞれの詩に寄せた想いを無視するようなものではないか。

 というわけでしたが、作曲家としてはその複数の想いが別の所から奏でられ、やがて渾然一体となるというあたりに妙味を感じていたので、抗議には屈せず押し通してしまいました。それがけしからんことであったのかどうか、いまだによくわかりません。

 詩というか台本という形では、自分でテキストを作ったことが何度かありますが、自分で作ることの佳いところは、言葉が音楽的要求に合わない時に、簡単に変えられるという点があります。追加も変更も削除も想いのままで、いちいちテキスト作者の顔色を窺わなくて良いのというのは、ストレスがたまらなくてたいへん楽ですね。
 もちろん私は「台本」は書けますが、詩を書くということには自信がありません。それこそいいところ「詞」くらいでしょうか。
 「詞」を作ったことも何度かあります。「詞」というよりも「アテ歌」に近いでしょうか。ルロイ・アンダーソン「そりすべり」、それからフランクヴァイオリンソナタの第四楽章を合唱曲に仕立て上げたことがあって、その時に拙いながら自分で詞をつけました。市販されているわけでもなく、一般の眼に止まることも無さそうなので、厚顔を顧みずここで披露しておきます。

『そりすべり』
  さあさ みんなで出かけましょう
  ラララ たのしいそりすべり
  白い雪降る野を越えて
  ラララ あの街めざしてね

   吹雪の吹く日もあるけど
   ぼくたちの心はいつも熱い
   たまには晴れ間もあるのだから
   きみたちも明日を信じて
   さあ 外に出よう

  さあさ みんなで出かけましょう
  ラララ たのしいそりすべり
  白い雪降る野を越えて
  ラララ あの街めざしてね

   鞭の音(ね) 青空に映え
   ララ ジングル・ベル鳴らして行ったよ
   うしろを見れば 家はもう見えない
   ただ涯(はて)ない雪野原 ハ! ハ!

   ひづめの音も 軽やかに
   ララ ジングル・ベル鳴らして行ったよ
   あの丘の向こうには街がある
   希望と夢と愛に満ちた すばらしい街が

『永遠のメリー・ゴー・ラウンド』(フランクのソナタ)
  廻る廻る 愛のメリー・ゴー・ラウンド
  わたしはこちら あなたはそちら
  いつまで経っても 追いつけはしない
  廻る廻る いつまでも廻る
  廻り続けて 追いかけ続けても ラララ
  いつまでも 愛のメリー・ゴー・ラウンド
  わたしはこちら あなたはそちら
  離れ離れのまま うしろ姿だけを追ってゆくの
  いつまでも

   いつでもすれ違い
   あとから気づいても
   あなたは もう居ないのよ
   いつも いつも

  こんなこと いつまで続けていたって
  ふたりは 出逢えはしない
  いつかは 酬われる時が来るなんて
  誰も 言っちゃくれない

   廻る廻る いつも廻る ぐるぐる廻る
   うしろ姿だけを 追ってゆく
   離れ離れのまま 涯なく

  廻る廻る 愛のメリー・ゴー・ラウンド
  わたしはこちら あなたはそちら
  いつかは追いつける時が来るのか
  廻る廻る いつまでも廻る
  今日も明日も 影だけを追いかけ ラララ
  いつまでも 愛のメリー・ゴー・ラウンド
  わたしはこちら あなたはそちら
  離れ離れのまま 力尽きる日まで追ってゆくの
  あなただけ

  こんなこと いつまで続けていたって
  ふたりは 出逢えはしない
  いつの日か あなたを抱きしめることが
  できるのでしょうか
  この胸に いつの日か ああ

 そりすべりのほうはひたすらポジティブですが、フランクのほうはなんとも救いのないストーリーで、これは原曲の持つ内容の差でもあるかもしれません。ご存じかと思いますがフランクのソナタの終楽章はかなり厳密なカノンを用いて作られており、先行パートを後行パートが追いかけながらも決して追いつくことのないカノンという形からこの詞の発想を得ました。
 それにしてもどちらの曲も、ほぼ全曲を声楽化しています。
 クラシックの器楽曲に詞をつけて歌うというのは、これも洋の東西を問わず、よくおこなわれていることです。日本では先ごろ亡くなった齋藤晴彦さんなどを思い浮かべる人が多いかもしれませんが、こういうことはエノケンの昔から珍しくありません。最近では平原綾香さんなどがよくやっています。実は今日のエントリーは、「Jupiter」の耳コピ編曲の仕事をしていたことからネタを思いついたのでした。ホルスト「木星」のサビの部分は、確か英語の歌詞もついていましたし、平原さんの前にも岩谷時子さんが詞をつけて本田美奈子さんが歌ったりしていました。
 ラフマニノフピアノ協奏曲第2番の第三楽章の第二主題、なんかも複数の種類のアテ歌を聴いたことがあります。適度に息が長く、イントネーションのくっきりしたメロディには、つい歌をつけたくなるのでしょう。
 とはいえ、たいていは部分的に切り取って使うというのが普通で、原曲の全部を使ってアテ歌をするというのは、よほど短い曲でない限りは滅多にありません。上のふたつはいずれも学生時代に作った詞ですが、われながら根気よくやったものだと思います。

 なお「詩」と「詞」は中国にもあって、形式的にまったく別ものとなっています。陳舜臣氏は「詞」のほうがずっと自由だ、と言い、高島俊男氏は「詞」のほうがはるかに規則が厳格で作りにくい、と言いました。ご両人ともいわば中国文学のプロなので、一体どっちなんだと言いたくなりますが、たぶん「詞」はやはり、基本的にメロディが先行して作られるもので、メロディに規定される分だけ難しくなるということなのでしょう。ちなみに毛沢東は「詞」を作るのがたいへんうまかったとのことです。
 中国で言う「詩」はつまり漢詩であって、五言絶句とか七言律詩とか、ほぼ形が決まっています。これも古代にはメロディに乗せて歌われていたようですが、だいたい三国時代の曹操の頃から、メロディと関係なく「読む」ものになっていったようです。

 音が先か、言葉が先か。音楽が詩から生まれ、詞が音楽に寄り添う。言葉と音楽の関係というのは、浮世の人間関係にも似て一筋縄ではゆかず、さまざまな形があるものと見えます。どの方法が絶対とか決められるものではありません。最近の軽音楽が原則的に音先行であるというのも、何か理由があってそういうことになったのであろうと思いますが、たまには言葉先行のポップスが作られても良いでしょう。私も時には、メロディを先行させて作ってみたら、何か新しい発想が得られるのかもしれません。いささか億劫ですが。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0