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追悼・外山浩爾先生 [ひとびと]

 外山浩爾先生の葬儀に参列してきました。
 会場は代々幡斎場ということで、義理の叔父(叔母の連れ合い)の葬儀で行ったことがあります。だから迷うことも無かろうと思ったのですが、幡ヶ谷駅に少し早く着いたので地下街のマクドナルド朝マックをして、階段を上がった場所がよろしくなく、間違った方角に歩き出しそうになってしまいました。
 というか、その方角からでも行けると思ったのですが、ダメだったのでした。代々幡斎場は幡ヶ谷駅から見ると、少し西に行って南側に曲がりあとはまっすぐ、という位置になります。実は西改札を出て商店街をちょっと歩くと、斎場への矢印が記された看板が出ています。私が地上に出たところは駅の西口よりもう少し西側の甲州街道に面するあたりでした。そのままさらに西に行けば、南側に曲がる道があると思ったのですが、それがなかなか無かったのです。スマホの地図を見ると、斎場の北側をとっくに通り過ぎてしまっていたので、明らかに道を間違えていると判明したのでした。あとで確認したら、このあたり、地下にもぐっていた京王新線が地上に出てくるあたりで、その線路と交差する道は当分無いという位置だったのでした。
 あわてて戻る途中、片野秀俊先生と出くわしました。片野先生も外山先生の葬儀に出るところだったのですが、どうやら先生も間違ったほうに歩き出していたようです。私が駅の出口のほうへ戻ろうとすると、
 「あれ、こっちじゃないの?」
 と私が行きかけたほうを指しました。
 駅前の商店街をそのまま行けば良かったのですが、線路沿いの小径に入ってしまって、少々遠回りしてしまいました。片野先生はいささか私の方向感覚に不信の念を抱いたようで、
 「ちょっとそこらの人に訊いてみようよ」
 と言いましたが、道がわからなくなったというわけではありません。Googleマップを見るとありそうだった抜け道が無かっただけのことです。
 斎場への案内看板を見て、片野先生はようやく納得なさった様子でした。
 かなり早く出てきていたので、多少遠回りしても充分間に合いました。

 斎場には葬儀をおこなう部屋がいくつも並んでいます。どの部屋も同じサイズのようでした。外山先生ほどの人の葬儀には、だいぶ狭かったように思われます。部屋の収容人数はせいぜい30人くらいで、あとからあとからやってくる参列者を入れるスペースはまるでありませんでした。私が着いたときはまだ若干の空席はあったようですが、私程度の関わりの者が図々しく坐ってしまうのもなんだか申し訳なく、外で待つことにしました。
 ただ、開式前にお別れをすることはできました。外山先生は少し前に一旦高熱を発し、そのときは無事治ったらしいのですが、それから少し経って、夕食を済ませて奥様におやすみを言い、自室にひっこんだところ、翌朝には亡くなっていたとのことでした。たぶん眠っているあいだに息絶えたのだろうということで、とても穏やかなお顔だった、と、訃報を伝えてくれた人が言っていました。棺の中を見て、なるほどそうだったのだろうな、と思われました。まったく苦しまず、文字どおり大往生だったらしいので、先生のために何よりであったと思いました。
 部屋に収容できなかった人たちはロビーへ追いやられました。別にモニターがあるわけでもないただのロビーで、焼香になったら係員が呼びに来る、と言われただけでした。坊さんの読経の様子などもまったくわかりません。
 Chorus STの仲間も何人か来ていました。Chorus STとしては外山先生とは別に関係が無いのですが、メンバーの一部が属していた共立女子大の合唱団の指導を、一時期なさっていたようです。共立女子大合唱団有志からの花輪も届いていました。
 外山先生のあとを継いで世田谷区合唱連盟の会長となった遠藤正之先生は当然来られていました。遠藤先生は私の中学・高校時代の音楽の先生です。ぽつぽつと話を交わしました。
 あとはコーロ・ステラメンネルコールけやきのメンバーで、世田谷区合唱連盟の運営に関わっている人たちが何人か。私の知り合いはそのくらいでした。もっとたくさん居そうなものですが、都合がつかなかったのでしょう。私とて、11時からの葬儀ということなので参列しましたが、もう少し遅い時間だったら無理だったところです。
 焼香に呼ばれ、お香をつまむのは1回だけにしてください、ときつく言われました。人が多いので、とにかく手早く、という至上命令です。なんだか想いにひたる余裕も無い感じです。焼香が終わると、またロビーに追い払われました。
 その後、供花をするというのでまた呼ばれました。花を2,3輪渡され、棺の中に散らします。それと共に最後のお別れをしました。
 その後出棺までお見送りすべきかとも思いましたが、このあとピアノ教室の仕事があるし、香典返しもこの時点で貰ってしまったので、遠藤先生にひとこと挨拶して、斎場を出ました。こんどは代々木上原駅まで歩いてメトロ千代田線に乗りました。幡ヶ谷駅へは登り坂、代々木上原駅へは下り坂なので楽かと思ったら、案外距離がありました。

 外山浩爾先生には、直接教えを受けたことはごくわずかです。大学の4年生で、教育実習に行く前にその準備のための講義が何回かあったのですが、そのときの担当が外山先生で、たぶんそれだけではなかったかと思います。
 ただし私はそれ以前から知己を得ていました。板橋第九を歌う会というのがあって、私は大学2年のころからそこに練習ピアニストとして赴いていたのですが、外山先生はそこの正指導者であったのです。川口第九を歌う会高橋誠也先生の位置にあたります。
 本来の練習ピアニストは山田武彦くんで、私は彼が都合が悪いときにピンチヒッターとして起用されたのですが、そのうちレギュラーとなりました。外山先生は大学よりも、附属高校、つまり藝高の先生が本務と言って良く、藝高出身の山田くんは教え子だったわけで、その関係で練習ピアニストとして任命していたのでしょう。
 ちなみに私が練習ピアニストをしていた頃の「ヴォイストレーナー」が、いま思えばなかなか豪華でした。小島聖史さんや大志万明子さんなど、その後有名になった人々が何人も含まれています。清水雅彦さんもそのひとりでした。
 そして、板橋第九の練習ピアニストをしているということが「板橋区内在勤」と見なされて、神野明先生から板橋区演奏家協会への入会を薦められたわけですので、私の人生において板橋第九を歌う会は、そう長期間関わったわけではないにせよ、かなり大きな意義を持っていたと言えます。外山先生と昵懇となったのも大きな成果でした。
 とはいえ、本来なら板橋第九のピアニストを辞めた時点で、外山先生との接点も無くなるはずでした。それがそののちも持続したのは、世田谷区合唱連盟の関係です。
 以前は駒場会コーラスの伴奏者、その後はコーロ・ステラの指揮者として、世田谷区の合唱祭にはちょくちょく出演していました。合唱祭の会場である世田谷文化会館(現在は改築中で、別の場所で開催しています)は古いホールで、楽屋も狭く、そのおかげと言うべきか、待機時間に楽屋で連盟会長の外山先生と話すことも多くなったのです。
 そのうち、私が合唱祭の講評を務めたりすることも何度もありました。私はあちこちで講評はしていますが、いずれも一回限りで、レギュラーで呼ばれるということはあまりありません。世田谷区の合唱祭に何度も呼ばれたのは、やはり先生のご指名があったのではないかと思います。
 そんなお付き合いをしていただいたので、私の結婚式では外山先生に乾杯の発声をお願いしました。
 ちなみにスピーチをお願いしたのが私のほうでは神野先生、マダムのほうでは福井博之先生でした。神野先生は13年前に早く亡くなり、福井先生も去年亡くなりました。私たちの晴れの日にお言葉を賜った3人の先生が、これでとうとう皆さん鬼籍に入られたことになります。

 外山先生は言わずと知れた世界的指揮者・作曲家の外山雄三の弟さんです。今日知ったのですが、年子であったようです。顔もよく似ていました。それで先生は人前で話すとき、よく
 「私と顔がよく似た男がですね……」
 と兄貴のことを引き合いに出して、笑いを取っていました。
 同じ音楽の道を歩み続けたわけですが、雄三氏がオーケストラを舞台に活躍したのに対し、浩爾先生はもっぱら、教育と合唱指導に携わっておられました。一般合唱団の指導もしていましたが、どちらかというと学生など若い人の指導をするのがお好きだったように思われます。共立女子大のことは上に書きましたが、ほうぼうの大学合唱団で、外山先生の薫陶を受けたところは数多くあるのでした。温和でユーモアもあり、学生たちには大いに慕われていました。
 私の学生時代の友人たちのうち、藝高出身者がみんな外山先生のことを「パウゼ」と呼んでいるので不思議に思いました。先生は私が知己を得たとき、すでにおつむりの具合がだいぶ薄くなりつつありましたが、その下の頭の形が見事に丸く、てっきりパウゼ記号(イタリア語で言えばフェルマータ記号。U)の形に似ていたからそう呼ばれているのだとばかり思っていたのですが、そうではなく、授業やレッスンで途中で休憩を入れるときに
 「じゃ、ちょっとパウゼ」
 と言う口癖があったからだとあとで知りました。パウゼはPauseで、英語のポーズ(休止・停止)にあたるドイツ語です。

 最後にお会いしたのは、たぶん4年前のことだったと思います。世田谷合唱祭にコーロ・ステラが出て、私の『大地の歌 星の歌』から2曲ばかり歌ったのですが、そのときは松永知子さんが指揮をして私がピアノを弾くとく役回りでした。ところが、その少し前に私は自転車で事故って、左手の人差し指を折ってしまっていました。練習のときにはマダムに左手パートを担当して貰ったほどでしたが、合唱祭当日にはなんとか自分で弾けるようになっていました。ただ譜めくりなどが心配だったので、マダムにも同行して貰いました。
 開会式のときであったか、講評の前であったか、もうだいぶ脚が衰えていて、誰かが支えないと歩けないようであった外山先生が、舞台に出てきて、
 「これだけは言わせてください」
 と、合唱に対する想いを語られたのでした。脚は悪くとも、声はまだしっかりしていて、ホールの隅々まで通っていたのを憶えています。
 あの声が、もう聴けなくなったと思うと、寂しさを感じずにはいられません。
 ご冥福をお祈り申し上げます。

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コメント 3

phaos

フェルマータってそういう形だったかしらと一寸戸惑ってしまいました。
𝄐
𝄐
ここ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%BF
から取ってきました。
出るかな。
出ないかも。
by phaos (2022-12-11 13:54) 

phaos

出ないようですね。
ごめんなさい。
by phaos (2022-12-11 13:55) 

コンビニ作曲家MIC

#phaos先生
フォントがKousakuという特殊なものなので、表示されないデバイスが多いかもしれません。
特にスマホなどではただ「U」となってしまうかも……
画像を貼りこんだほうが良いかもしれませんね。
by コンビニ作曲家MIC (2022-12-11 18:52) 

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