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「原作」と「興行」 [いろいろ]

 話題としては少々出遅れた観が無きにしもあらずですが、テレビの連続ドラマをめぐって、原作マンガの作者が亡くなるという騒ぎがあり、ネットでもだいぶ騒がれました。まだ自殺であるという結論は出ていないようですが、遺書のようなものも残されていたというし、状況から見てまず自殺に間違いないでしょう。
 この人の作品は全然読んだことが無いし、ドラマも見ていないので、詳しい話はよくわかりませんが、つまりはドラマ化するにあたって、原作者の意図をまったく曲げたような脚本や演出がされていたというのが主要因なのでしょう。それで制作側にクレームを入れ、終盤数回のシナリオを自分で書くということをしたようです。原作マンガのほうはまだ連載が続いているので、ドラマとしての終わらせかたを原作者サイドとして別に考えるという取り決めをしていたとも言われます。その取り決めがまったく無視されたのかもしれません。
 ここまではまあ、原作付きのドラマや映画などにはよくある話とも言えそうです。ただ、最近は誰も彼もが鬱憤をためこまずに公開できる時代とあって、自分の書いたものを没にされた脚本家が、SNSで原作者の差し出口に不満があるようなことを愚痴ったことからややこしいことになりました。
 これも、詳しい経緯は私にはよくわかっていないのですが、脚本家の愚痴を真に受けて原作者を批難するような声が大きくなり、原作者はそれを苦にして死を選んだというところかと理解しています。
 ひとたび原作者の死が伝えられると、こんどは逆に脚本家、あるいはテレビ局の制作サイドを批難する声が巻き上がりました。

 ──そういえば、原作からの改変がひどいドラマが多いよなあ。

 と薄々感じていた層が、一斉に声を上げはじめたのでしょう。
 小説やマンガといった原作媒体と、テレビドラマという形では、もちろん「見せかた」が異なってくるのは当然です。だからテレビ的に改変するのは仕方のないことだ、という意識というか諦めがたいていの人にはあったに違いありません。しかし、そういう場合は当然、原作者の同意を得ているものだろう、ともみんな思っていたのではないでしょうか。
 私はあんまり連続ドラマを見るほうではありませんが、私が見た原作付きドラマでも、原作に無い恋愛要素などを盛り込んでくるくらいならまだしも、登場人物の性別さえ変えてしまっていたものがあって、これを本当に原作者がOKしているのだろうか、と疑わしく思ったものがあります。それでいて、ここは外せないだろうと思っていたシーンやセリフを、あっさりと割愛したようなところもよくありました。
 そういう、モヤモヤしていたところを、みんなが吐き出しはじめたのだと思われます。
 さらに、かつて作品をドラマ化されたときにいろいろ不満を感じていたらしき作家やマンガ家も、続々と声を上げはじめました。これに対しテレビ局側も言い訳のようなことをはじめましたが、それがことごとくピント外れで、火に油を注いでいる状態になっているようです。テレビ局側の常識と世間一般の常識が大きくずれていたということなのかもしれません。
 はたして、原作はどこまで尊重されるべきなのか、改変は制作の裁量権に含まれているのか、いろんな意見が飛び交って、なかなか収拾がつきそうにない状況です。
 いちおう、表現ということの問題なので、私もまったく無関係とは言えません。少し考えてみたいと思いました。

 小説その他の作品を、ほかの媒体で可視化しようとしたときに、いろいろと問題が発生するのは、今日このごろはじまった話ではありません。今回はテレビドラマが槍玉に挙がっていますが、その昔は映画化でもしょっちゅうその手の話がありましたし、さらに昔は演劇化で同様の問題が発生していました。
 テレビにしろ映画にしろ演劇にしろ、その興行にあたって、原作をそのまま移すというわけにはゆきません。「読まれる言葉」と「語られる言葉」は明らかに違いますし、文章なら一行で済ませるところを演劇や映像ではそれなりの時間を要する場合もあります。小説などを芝居にするためには、原作とは別に台本を書かなければならないのです。
 ところが、台本作家もまた表現者の一種だけあって、原作をそのまま(それなりの芝居用の補完はおこなうにしても)移すだけでは飽き足らず、どこかにオリジナリティを出したいという欲求を退けることができないのが常です。それで、いろいろ原作に無い設定をつけたりしますし、その設定に適わないセリフを省略してしまったりするわけです。
 かつてコナン・ドイルは、USAの著名な俳優から、シャーロック・ホームズを舞台化したいという要望を受けました。たぶん現在の視覚的ホームズ像を確立したウィリアム・ジレットではなく、ほかの人だったかと思うのですが、あろうことか
 「ホームズに恋愛をさせても良いですか?」
 とドイルに問い合わせてきたのでした。
 シャーロック・ホームズに恋愛をさせたいとは、こいつ全然わかってないな……と原作ファンなら憤慨するところです。しかし、彼の言い分としては、より広い観客に愉しんで貰うためには、女嫌いという原作の設定を曲げてでも、主人公が恋愛をしないとおさまらない、というところだったでしょう。自分は少数の原作ファンのために舞台を作るのではなく、より広範な演劇ファンを相手にしているのだ、と考えていたのだと思います。そしてこの感覚は、のちの映画の制作者たち、そしてテレビドラマの制作者たちも、いまに至るまでそっくりそのまま引き継いでいるのではないでしょうか。原作ファンたちは、そういう制作者たちの大義名分に、いつも憤ってきたのです。
 ともあれ100年以上前から、同じような問題が起きていたことがわかります。
 なお、問い合わされたドイルの答えは、
 「結婚させようが、殺そうが、お好み次第でどうぞ」
 というものでした。ドイルがシャーロック・ホームズという自作の人物に、さほど思い入れが無かったからそれで済んだようなものです。

 アガサ・クリスティの話も知られています。私も何度か紹介したことがありますが、
 「どうして映画のポワロは、揃いも揃ってあんな肥大漢ばかりなのかしら」
 と愚痴っていたのでした。私の見た限りでも、「オリエント急行殺人事件」アルバート・フィニーも、「ナイル殺人事件」ピーター・ユスティノフも、確かに堂々たる押し出しの巨漢で、「卵型の頭をした5フィート5インチの小男」と何度も強調されているエルキュール・ポワロのイメージとはまるで適いませんでした。原作ファンはみんなそう思っていたでしょうが、これも映画製作者の言い分としては、

 ──映画の主人公なんだから、押し出しの良い立派な風貌でないと、映えないじゃないか。

 というところだったと思われます。このときも、「われわれは少数の原作ファンなどではなく、多くの映画ファンを相手にしているのだ」というのが彼らの信念だったに違いありません。「映画ファンを納得させるためには、主人公が冴えない小男では話にならん」というわけでしょう。
 フィニーやユスティノフだけでなく、クリスティの嘆きからすると、それ以前の映画化でも、ポワロはみんな巨漢だったのでしょう。「小男」の設定は無視し、「小太り」という表現だけを拡大解釈して、肥った大男を起用し続けたのだと思われます。原作ファンなどよりも、自分らのほうが「大衆」の好みを知っているのだ、という傲慢さが無かったとは思えません。
 クリスティの死後10年以上経ってから、ロンドン・ウィークエンドテレビが、できるだけ原作の雰囲気を活かすという方針で連続ドラマ化をおこない、ポワロ役にデイヴィッド・スーシェを起用して、ようやく原作ファンも納得のキャスティングとなったのでした。スーシェのポワロをクリスティに見せてあげたかった、と残念に思っているクリスティファンは多いことでしょう。
 ポワロ物の後期作品に、アリアドネ・オリヴァー夫人という女性推理作家が、ポワロの助手役でちょくちょく登場します。この人は描写からして、明らかにクリスティの分身と見られます。オリヴァー夫人は、スヴェン・イェルセンという名のフィンランド人の名探偵の生みの親ということになっており、ベルギー人探偵ポワロとパラレルに見て良さそうです。
 どれだったか、このオリヴァー夫人が、イェルセン物を舞台化したいという若い劇作家とからむ話があります。その若者は、次から次へと「オリジナリティ」あふれる設定を繰り出して、オリヴァー夫人を閉口させるのでした。イェルセンに恋愛をさせるのはもちろん、派手なアクションなども採り入れたいと言います。
 「イェルセンはけっこうな齢だから、アクションは無理じゃないかしら」
 と夫人が言うと、劇作家はこともなげに、
 「もちろん、20代の若者ってことにするんですよ」
 などと言い返すのでした。
 あまりにも原作設定とかけ離れてゆくので、オリヴァー夫人はとうとう、
 「ねえ、あなたのこのお芝居だけど、別にイェルセンが主人公でなくともいいんじゃない? もっと若くて美男子の名探偵を登場させれば良いと思うんだけど」
 と、さじを投げたようなことを言います。すると若者は、
 「いやいや、イェルセンだからお客を呼べるんです。この主人公はイェルセンでなくてはならないんですよ」
 と言い張ります。
 このあたりは、現在の「原作付き」にもまったく同じことが言えそうです。テレビ局の企画会議では、ドラマを原作付きにすると、承認される確率がガクンとはね上がるのだそうです。オリジナル脚本で会議を通すのは至難の業だということを聞きました。
 それはともかく、このくだりはクリスティが、作品の舞台化や映画化に際して、実際に体験したことではないかと私は思っています。
 ドイルやクリスティといった有名作家でもこんな有様なのですから、もっと地味な作家やマンガ家の原作である場合、舞台・映画・ドラマ制作者たちがどれだけ好き勝手やろうとするか、想像がつくようでもあります。

 ──ドラマ化してやるだけでもありがたいと思え。

 とさえ考えていそうです。
 最近、テレビマンの傲岸さを実感する機会がちょくちょくあって、そのための偏見かもしれませんが、当たらずといえども遠からずというところではないでしょうか。
 実感する機会というのは、私の住んでいる川口市が「映像文化」を後援する方針であることに伴って、駅前広場などがドラマや映画の撮影に使われることがときどきあるのでした。そういうとき、あまり野次馬にたかられても困るので、通行人を排除する必要があるのですが、映画撮影に較べて、テレビの場合は明らかに感じが悪いのです。
 「はいはいそこ止まらないで、あっち行って」
 などと、別に足を止めてもいないのに追い払うように言われ、なんの番組か知らないが絶対見てなんかやるものか、と思ったことが一度や二度ではありません。

 上に挙げた例では、ポワロのキャスティングについてはともかく、制作者が原作者にいちおうしっかり相談しているようで、そこはまだ評価できます。最近のドラマなどでは、その報・連・相が充分でないのではないかと思われるケースが多いようです。
 原作者だけでなく、原作を刊行している出版社などもあいだに入ってくるので、余計にそういう事態になっているのかもしれません。前に「SHIROBAKO」という、アニメ制作を扱ったアニメがあり、その中で原作者ともめる展開になるくだりがありましたが、そのときはあいだに立っている出版社の編集者が、アニメ制作陣と原作者を絶対に会わせないように画策していたというオチになっていました。編集者は、原作者の先生に余計な手間暇をかけさせたくないと言うのでしたが、監督がいきなり原作者に凸したところ、あっさりと話がまとまったのでした。そういうことも実際にあるのだろうなと思います。
 ともあれ、原作者にも制作者にも、それぞれの言い分はあるわけで、本当はそれらをしっかりと擦り合わせる必要があるはずです。当然、すこぶる面倒くさい会合となることでしょう。しかしそれを怠ったのが、今回の悲劇となったように思えてなりません。
 ドラマ制作者としても、こうすればより良くなる、感動的になる、という信念のもと原作を改変するのでしょうが、このところテレビドラマはことごとく低視聴率で失敗しているので、批判の声も大きくなるわけです。

 私は、テレビや映画などに関わったことはほとんどありませんが、原作者の立場も、制作者の立場も、少しずつなら理解できます。
 音楽劇のたぐいをけっこう書いていて、その中には自作台本というのもいくつもあります。それらはたいてい広い意味での原作付きです。まったくのオリジナルは「猫の啼く夜は眠れない」くらいでしょう。「鬼子母の苑」「蜘蛛の告白」「孟姜女」「月の娘」などは説話や伝承を「原作」としています。まあこういう「原作」は多くの人が扱っており、それぞれに解釈が違っていたりして面白かったりします。
 「愛のかたち」は古典的な書簡文学を再構成したような台本ですが、「セーラ」になると正真正銘の原作付きです。顧みれば、確かに原作に無い小ネタをいろいろとつっこんでおり、脚本家・台本作家と呼ばれる人たちが、原作にいろいろ「オリジナリティ」をくっつけたくなる気持ちも、その意味ではわかるのでした。まあ、設定そのものを大きく変えてしまうような「原作レイプ」的な改変はしていないつもりですけれども。
 一方、頼まれて作曲をしたのに、委嘱者がリハーサルに全然呼んでくれずに
 「まあ、任せてください」
 みたいなことを言ったあげく、初演のときに
 「ここ、ちょっと難しかったんで、少し変えさせて貰いましたから」
 などとしれっと言われたことがあり、これなんかは原作者の立場に近いでしょう。変える前にどうしてひとこと相談してくれないのか、相談があれば私も少し考えたろうに……と地団駄踏む想いだったのを憶えています。

 どちらの立場もある程度理解できるだけに、一刀両断することはできませんが、まあいずれにしても、信頼関係が築けているかどうかにかかっている気がします。原作者が、
 「この制作者はこの作品をより良くしてくれようとしているんだな」
 と思ってさえいれば、かなりの改変も許すことができるでしょう。一方、
 「こいつは作品のことなどほとんど理解しないで、作品のネームバリューだけ欲しがっているんだろうな」
 などと思ってしまうと、些細な改変もいちいち気に障るということになると思います。
 こういうことこそ、相互理解ということがもっとも必要な分野であろうと思うのです。とりあえず、テレビマンは無用の傲慢さを捨てて欲しいものです。

 なお、今回の原作者がおそらく自殺したのは、テレビドラマが原作を改変したというそのこと自体ではなく、それにからんでSNSなどで攻撃されたからだと思われるので、これはまったく別の話とも言えます。そんなことで死ななくても良いのに、と思うのは簡単ですが、SNSで見知らぬ多数から攻撃されることの苦痛や恐怖は、他人には想像もできないことですから、それについては是非もありません。
 とにかく、今度の事件は、「原作付き」の興行というものがはじまって以来続いている、古くて新しい問題です。原作者の考えは最大限尊重すべきとは思いますが、原作付き興行というものを、パロディなどの「二次創作」と同じように見なすのも難しいような気がします。お互いの理解と尊重を願いたいものです。

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