SSブログ

「舞曲」を考える(2) [いろいろ]

 前回は、バロック時代以前に書かれて、いまでも聴く機会のある「舞曲」について考えてみました。今回は、それに引き続いて、18~19世紀くらいにお目見えした舞曲を考えてみたいと思います。
 ここで「お目見えした」というのは、「芸術音楽史上に登場した」という意味で、ほとんどの舞曲はそれまでも各地で長く踊られてきていたはずです。だから前回扱った曲種に較べて、歴史が浅いというわけではありません。ショパンポーランドから、リストハンガリーから、チャイコフスキーロシアから持ち込んで西洋音楽の世界に紹介し、その後愛好されるようになったのがこれらの舞曲と言えます。
 当然ながら、20世紀に入ってからも、各地の舞曲が紹介されるということはあったわけですが、作曲家たちがそれらを好んで新作を書き下ろすということが、徐々に少なくなったことは争えません。「舞曲を書く」こと自体があんまりはやらなくもなりました。バレエ音楽はいまも変わらず書かれていますが、はっきりと何かの舞曲を元にしているというケースは少ないと思います。踊るための曲は、ジャンルとしてはむしろ、ジャズやロックの担い手に託されました。
 その意味で、20世紀の「舞曲」まで扱いはじめるときりがないと思われるので、基本的には19世紀まで、せいぜい第一次大戦前くらいまでを扱いたいと考えます。

 18世紀中盤以降の古典派時代は、あまり舞曲というものは重んじられない風潮でした。ソナタや交響曲の中の楽章にメヌエットが定席を占めたという不思議な現象はありましたが、この位置になったメヌエットは、次第に「踊るための曲」という意味合いを失い、純音楽化が進みました。モーツァルト「トルコ行進曲付き」ソナタの第二楽章のメヌエットに「合わせて踊る」というのは、かなり困難なのではないかと思います。ベートーヴェンはこのメヌエットを、舞曲ではないスケルツォに差し替えたのでしたが、実際その時期までには、ソナタや交響曲中のメヌエットは、差し替えても問題ないくらいの変容を遂げてしまっていたと言って良いでしょう。
 ソナタなどに採り入れられた舞曲が無かったわけではありません。ポロネーズポラッカ)、タランテラレントラーなどは、そう明記しているいないに関わらず、楽章のひとつとして取り上げられています。

 ポロネーズはバロック時代にも知られていたポーランドの舞曲ですが、古典派時代にもある程度好まれました。バロックのポロネーズは、どちらかというと素朴な味わいのある舞曲でしたが、比較的ゆったりしたテンポであったこともあり、細かい装飾がいろいろとつけられるようになったようです。古典派時代には、むしろ堂々としたイメージの、きらびやかな舞曲として衣裳替えしました。
 クレメンティのピアノソナタの中に、いくつかポロネーズ風な楽章が含まれています。またもう少し身近なところでは、『ソナチネ・アルバム』の中のクーラウのソナチネの2曲ほど、「アラ・ポラッカ(ポロネーズ風に)」と附記された終楽章を持っています。
 ベートーヴェンは独立したポロネーズを書いていますが、例の迷走時代の作品でもあり、あまり演奏されることは多くありません。
 ベートーヴェンより一世代近く下ですが、ほぼ同じ時期に亡くなったヴェーバーはポロネーズが好きだったようで、「大ポロネーズ」「華麗なるポラッカ」などのピアノ曲を書いています。
 これらの古典派風ポロネーズは、宮廷などでも踊られ、かなりお上品なものになっていました。そこへショパンが「本場の」ポロネーズを持ち込んだのです。
 古典派風ポロネーズに較べるとはるかに土臭く、その分力強く、東欧らしい活力のようなものを感じさせたのがショパンのポロネーズでした。3拍子の3拍めで終止するいわゆる「女性終止」を持つことは古典派以前と同様ですが、全体的にリズミカルで、ことに伴奏形に見られる独特の駆動リズム型が強烈な印象をもたらします。
 シューマンも『パピヨン』や『ノヴェレッテ集』などの中で、ショパンに倣ったかのようなポロネーズを導入していますし、リストも書いています。同世代の作曲家たちにとって、ショパンの持ち込んだ「本場の」ポロネーズは新鮮であり衝撃的でもあったのでしょう。
 ただし、そのあとはあまり発展がありません。チャイコフスキーなどポロネーズを書いた作曲家は居ますが、なんとなくどれも、ショパンへのオマージュみたいな雰囲気になっていることが多いようです。ショパンのポロネーズが鮮烈すぎて、後輩作曲家たちにとってはどう書いてもショパンのパクリみたいに感じられるものにしかならなかったのかもしれません。

 タランテラはイタリア南部の舞曲で、ジーグと同様、馬の駆け足のようなリズムを特徴とします。きわめて急速な6/8か12/8拍子が多いようです。毒蜘蛛タランチュラに咬まれたときに、この踊りを踊ってひと汗かけば助かるという言い伝えがあります。その程度ですからタランチュラの毒性は大したことが無さそうですが、血清療法などが開発されるまでは、やはり咬害が少なくなかったのでしょう。
 ベートーヴェンのピアノソナタ第18番の終楽章がタランテラのテンポとリズムを持っています。ロッシーニも書いたようで、のちにショパンがタランテラを書いたとき、
 「6/8だったか12/8だったか忘れてしまったのですが、ロッシーニのタランテラと同じ拍子にしてください」
 と出版社に書き送っています。
 テンポからしてもリズムからしても、非常に情熱的で躍動感のある曲想であることが多くなっています。リストも『巡礼の年報・第2年補遺──ヴェネツィアとナポリ』の中にタランテラを導入しました。初級者には、ブルグミュラーのタランテラが有名ですね。
 その後、タランテラという名称の曲はそんなに書かれていませんが、シンプルなリズムだけに、タランテラと称さずにタランテラのリズムを活用しているという曲は少なからず見受けられます。

 レントラーはドイツの舞曲です。この舞曲は、ワルツの原型になったとされていますが、ワルツに較べるとずっとテンポがゆるやかで、曲想も穏やかなものが多いようです。本当にワルツの原型なのかと疑いたくなりますが、ベートーヴェンやシューベルトのワルツと題された曲を見てみると、確かにレントラーの雰囲気が残っていますので、初期のワルツというのはそんな感じであったのかと納得するしかありません。
 しかし、彼らと同時代人であったヴェーバーの「舞踏会へのいざない」は、すでにランナーヨハン・シュトラウス(父)のスタイルに近いワルツとなっており、1810年代後半くらいからこのタイプのワルツが流行しはじめたことが窺えます。ヴェーバーはこの作品によって、「ウインナ・ワルツの祖」と言われることもあります。
 ほかのタイプのワルツもあったと思われ、特にショパンの初期作品のワルツなどはウインナ・ワルツとは少し違う雰囲気を持っていたりしますが、上に挙げたランナーやシュトラウス父が次から次へとワルツを世に出し、「ワルツ合戦」とさえ言われる状況になって、ウインナ・ワルツは当時の西欧世界を圧倒することになりました。特にらちのあかないウイーン会議の最中、毎晩のようにワルツによる舞踏会が開かれたりして、ウインナ・ワルツは各国の使節などのあいだにも急激に弘まったわけです。
 ほとんど1小節が1拍と数えられるほどの急速なテンポ、シンプルかつ特徴的ないわゆる「ブンチャッチャ」のリズム、ことにその中でも第2拍を強調するテンポの「揺れ」など、ワルツの特色はいろいろとあります。そこには前時代の宮廷舞曲には見られない「色気」や「ちょっとした放埓さ」のようなものが込められ、19世紀の主役となった新興市民階級(ブルジョワジー)のあいだで爆発的に流行しました。これを踊るための音楽も、つねに新しいものが求められました。それに答えたのが、子のほうのヨハン・シュトラウス、いわゆるワルツ王です。
 ヨハン・シュトラウス二世は、ワルツだけでも数百曲、それにポルカカドリーユなども多数作曲し、さらに大がかりなオペレッタもいくつも書いています。非常に多作な人で、ウイーンの人々の要望に応え続けました。
 彼の完成させたウインナ・ワルツの形態は、前奏のあとに4、5曲の異なったワルツが連なり、それらのワルツの要素を用いたかなり大きなコーダがつくというものです。言い換えるなら、彼の作ったワルツの数は、作品数の4、5倍に及ぶわけです。そういう連作ワルツを、社交シーズンごとに十数曲ずつ書いては提供したのですから、まさにからだがいくつあっても足りないような忙しさだったことでしょう。
 彼の弟たちもそれぞれ多数のワルツを書きましたし、もちろんシュトラウス一家以外にもワルツの書き手はたくさん居ました。19世紀はほとんど「ワルツの世紀」と言っても良いくらいです。
 ショパンも2曲ほど、ウインナ・ワルツのスタイルのワルツ(「華麗なる大ワルツ」作品18、作品31-1)を書きましたが、あまり性に合わなかったようで、その後はもっと内向的なワルツを書くようになりました。
 ブラームスもワルツが好きだったようで、自分をヨイショしてくれている評論家ハンスリックにワルツ集を贈りました。ハンスリックはそもそもウインナ・ワルツの流行などは唾棄すべきものだという立場でしたので、自分の「推し」であったブラームスからワルツ集を贈られて、大いに戸惑ったようです。
 ハンスリックに贈ったピアノのためのワルツのほか、四重唱を伴った『愛の歌』などもワルツ集と呼べる作品です。いつも怖い顔をしているようなブラームスですが、華やかな社交界に憧れることもよくあったのでしょう。
 リストの『メフィスト・ワルツ』になると、もう舞曲の要素はあんまり無い気もします。
 チャイコフスキーの「悲愴」交響曲の第2楽章は、珍しい「5拍子のワルツ」です。彼もワルツを愛した作曲家で、三大バレエにはいずれも有名なワルツが含まれています。
 ラヴェルもワルツを好んだようで、『優雅で感傷的なワルツ』それに『ラ・ヴァルス』という名作があります。ワルツは国によっていろんな呼びかたがあり、フランス語ではヴァルスとなります。ちなみにどちらも、「合わせて踊る」ことができるかというと、無理そうに思われます。
 20世紀に入ってからのワルツは、舞曲というよりは一種のキャラクター・ピースのような使われかたが多くなっている気がします。私も『華やかな三つのワルツ』など書いていますが、実際の踊りをイメージしたわけでもありません。『豚飼い王子』の中にもワルツが入っており、これはダンサーが踊ったのでしたが。

 ワルツと共にヨハン・シュトラウス二世が得意としたのがポルカです。ポルカも19世紀の社交界を席巻した舞曲でした。彼のオペレッタなどは、大半がワルツとポルカでできていると言って良いほどです。
 3拍子のワルツに対し、ポルカは2/4拍子で、タタタン、タタタンといったような細かいリズム型を持っています。テンポは、えらく急速なものから、中庸と言って良いものまで、さまざまであるようです。ワルツはたいてい連作型で書いたヨハン・シュトラウス二世も、ポルカは単純な三部形式のことが多く、ワルツに較べると小規模になっています。舞踏会で、ワルツの合い間に気分直しのような形で踊られたのかもしれません。
 ヨハン・シュトラウス(父)のほうは、ポルカも書きましたがギャロップをたくさん書いています。これもポルカの一種とも呼べるのですが、馬の速足からとられた名称だけに、非常に急速なテンポを持つことが多くなっています。現在ではカバレフスキー「道化師のギャロップ」が、よく運動会のBGMなどで使われていて有名かもしれません。

 ショパンは本場のポロネーズと共に、マズルカを西洋音楽界に紹介しました。ポロネーズよりさらに土着の民族音楽という印象の強い舞曲で、「踊ったことが無いと弾けない」とさえ言われます。ショパンの作曲したものの中で、マズルカは群を抜いて数が多く(少なくとも54曲)、しかも子供のころから晩年までほとんど途切れなく書き続けています。彼の絶筆もマズルカでした。長短さまざまで、かなり実験的な作品も多く、マズルカという曲種がショパンにとっていわば「本質的なもの」であったことが窺えます。興が向くたびに、一気呵成のような形で書き上げていたのではないかと思います。
 彼はマズルカを大いに普及させようとしたようで、ピアノ協奏曲などの大きな作品にもマズルカを導入しています。「マズルカ風ロンド」という作品もあります。しかし、そういう構成的な大作にマズルカを応用することには、あまり成功していません。ショパンにとってのマズルカは、やはり気持ちが高まったときに一気に書くという存在であったのだと思われます。
 3拍子で、1拍めに附点リズムが来るとか、3拍めに重みが置かれることが多いとか、マズルカの特徴はいくつかありますが、ショパンの全マズルカを通してみると、必ずしもそういう特徴が明確でない場合もあります。そもそも、テンポの違う3種類くらいの舞曲の総称であるという説もあります。むしろテンポの揺れが大きいこと、短いフレーズが繰り返されてテンションを上げてゆくケースが多いことなどの特色のほうが、共通しているように思えます。
 ポロネーズで追随したシューマンやリストも、マズルカには挑戦しなかったようで、実作は残っていません。スクリャビンドビュッシーが、少数ながらマズルカを書いています。

 ショパンは紹介しませんでしたが、ポーランドの舞曲としてはクラコヴィアクというのがあり、同じくポーランドの作曲家であるパデレフスキがいくつも書いています。こちらは速めの2拍子で、シンコペーションを多用しているのが特徴です。前にショパンの歌曲をピアノ連弾用に編曲したことがありますが、その中にはクラコヴィアクと思われるテンポとリズムを持った曲も含まれていました。名前からすると、ポーランドでも特にクラクフ(クラコウ)あたりで踊られていた曲種だろうと思われます。

 ショパンが書いた舞曲は、マズルカ、ワルツ、ポロネーズが主なものでしたが、ほかにも単発で書いたものがいくつかあります。上記のタランテラなどもそのひとつです。彼はあと、ボレロを書いています。スペインの舞曲です。
 ボレロというとラヴェルの作品があまりに有名ですが、もちろん古来の舞曲であって、ほかの人も書いています。ショパンのボレロは、いくぶんスペイン風な音を狙ったようではありますが、実のところポロネーズと大差ない感じになっており、あまり弾く人も多くないようです。3拍子、比較的ゆったりしたテンポで、リズムはラヴェル作品でおなじみの、拍の後半を細かく連打するようなあの形です。ポロネーズとは違って女性終止は用いられません。

 リストが紹介したチャルダシュは、「ハンガリー狂詩曲」や、ブラームスの「ハンガリー舞曲」で知られますが、20世紀に入ってからバルトークコダーイが検証したところ、ハンガリーの土着の音楽ではなく、ロマ(ジブシー)の音楽であることが判明しました。ジプシー・ヴァイオリンという超絶技巧的な弦楽器の扱いが特色で、その雰囲気はサラサーテ「ツィゴイネルワイゼン」などで味わうことができます。
 ゆっくりとしたラッスと、非常に急速なフリッスがあり、リストはこの2種を並べて1曲にすることを好みました。
 ジプシー音階という独特の音階を使ったりもしています。いくつかパターンがありますが、ハ調であれば、レの音とラの音を長音階から半音下げた音階が代表的です。
 チャルダシュはそれなりに流行したらしく、ヨハン・シュトラウスの「こうもり」の中でも、登場人物がチャルダシュを歌うところがあります。その時々の流行りものを採り入れるのに敏感であったヨハン・シュトラウスがオペレッタのナンバーに入れたというのは、やはり当時のウイーンでもけっこう受けていたということになりそうです。
 これが契機になったか、ドヴォルジャーク『スラブ舞曲集』を、グリーク『ノルウェー舞曲集』を発表したりしましたが、舞曲の種類名をいちいち記していないせいか、追随する人はあまり居ないようです。

 そんな中、ロシアのトレパックはわりに知られています。チャイコフスキーの「くるみ割り人形」の中の「ロシアの踊り」で有名になりました。バレエとしてはチョコレートの精が踊るのではなかったかと思います。チャイコフスキーはこの曲のほかにも、いくつかトレパックを用いた作品を書いています。急速な2拍子で、激しいクレシェンドを伴うのが特徴です。
 実は私も1回書きました。『Mes Petites Amies』という曲集の「ロシア人形──マリーシカ」という曲です。DTM上でオーケストレーションして、しばらくMIDI置き場でお聴きになれたのですが、残念ながらいまはwebからは削除してしまいました。

 19世紀も終わりに近づいたころから、新大陸の音楽が伝わってきました。とりわけジャズが西欧世界に与えた影響は大きく、ジャズ系のダンス・ミュージックとして、ラグタイムケークウォークブギウギなどがヨーロッパでも流行しました。ドビュッシーやその後輩たちが大いに影響されています。
 また、スペイン並びにラテンアメリカからの音楽の流入も本格的にはじまりました。それまでも、サラバンドやボレロなどスペイン由来の舞曲が知られていましたが、なんといってもそれはけっこう古い音楽であり、必ずしもラテン風味が強かったわけではありません。
 ビゼー「カルメン」ハバネラセギディリャといった「新しい」スペイン舞曲が採り入れられたあたりから、作曲家たちの眼がそちらを向きはじめた感じでしょうか。ハバネラはドビュッシーも愛したようで、『版画』「グラナダの夕暮れ」『前奏曲第二集』「酒の門」などで応用しています。
 また、アルベニスグラナドスファリャといったスペイン地生えの作曲家たちも活躍しはじめました。彼らは意識的にスペイン各地の舞曲の紹介に励みました。
 今回扱える舞曲は、まあこのあたりまででしょうか。まだまだ見落としも多いでしょうし、触れるべき舞曲もあったかもしれませんが、20世紀に入るといささか個別的になり過ぎてしまって、種類別に傾向をまとめるということが困難になるのでした。
 舞曲というのは、そのほとんどが土地に根差した民俗音楽がその発祥になっています。その中から、有力な紹介者が居り、その紹介者または協力者が実作をたくさん書き、それが世の中に受け容れられ追随者を呼ぶ、という過程を経たものが、古典として定着するのだろうと思います。その意味では、20世紀に出てきた舞曲類は、まだその定着化が為されていないと言うべきなのかもしれません。とはいえ、現在ディスコなどで流れているダンス・ミュージックが、今後古典化してゆくだろうかと考えると、やや首を傾げたくならざるを得ないのですが。

nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。