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「現代のベートーヴェン」の転落・またもや [ひとびと]

 佐村河内守氏が記者会見をおこないましたね。暴露がおこなわれてから一応2本もエントリーを立てたので、フォローしなければとは思いましたが、なんだかだんだんと興味が失われてきました。
 記者会見の模様はリアルタイムでは見られず、あとから動画に上げられているのを見ただけですが、私が知りたかったことはほとんど解明されていないようです。通り一遍の謝罪があったのちに、ゴーストライターを務めていた新垣隆氏が嘘を言っているという批難に移り、名誉毀損で訴えるなどと言い出しました。こういうところであまり常套句を用いたくはないものの、盗っ人猛々しいというのはまさにこれでしょう。
 どうひいき目に見ても、この人物には私が予想したような深刻な屈折や苦悩があったようには思えないのです。あったとすれば名声への渇望とか、そんなものだけでしょう。
 表現そのものについて、夢想と能力とのギャップに苦しんだ揚げ句、芳しからぬ手段を採ってしまった……ということであれば、前にも書いたように、私にも理解はできるのです。もちろん擁護はできませんが……。
 しかし、どうやらそんな表現者特有の煩悶があったとは、会見の様子を見る限りにおいては、まったく感じることができませんでした。

 そうなると、この男は単なる出たがり屋に過ぎなかったことになります。とにかく自分がちやほやされればそれで良いという、薄っぺらい人間でしかなかったのでしょうか。
 私自身がインタビューでもすることができれば、もう少し違った人物像が見えてくるのかもしれませんが、記者の質問も上っ面をひっかいている程度に思えました。もう少し、表現とか芸術とかいうことに本気で取り組んでいる記者に質問させるわけにはゆかなかったのでしょうか。私が知りたいのは、世間を騙している意識があったか無かったかだとか、被災地の女の子を騙したことをどう思うかなどということではありません。ゴーストライターを立ててまで交響曲を発表したいと思うに至る、心の道筋です。そこが見えてこないことには、佐村河内守という人物に対する自分の中の位置づけを確定することができません。
 ともあれ、最初に思ったほど深みのある人物ではなさそうだという気がしてきて、興味もなくなってきたわけです。

 暴露があってから1ヶ月ほど、いくつか擁護論みたいなものも眼にしました。学問の世界でも、助手が書いた論文を教授の名で発表するようなことがざらにあるのだから、そんなに批難されるべきことでもないのではないか、という風な議論がわりに多かったように思います。

 ──ゴーストライターなんか、どうせみんな使っているに決まっているのだし。

 と、どういう根拠からか決めつけている人も居ました。
 ゴーストライターというものが、どの程度使われているのかはわかりません。わかったらゴーストとは言えないでしょう。いわゆるタレント本なんかは、自分では書いていないことが多いのではないかと思いますが、それだって決めつけはできません。
 小説、特に娯楽小説のたぐいはゴーストライターがわりに多かったとも聞きます。江戸川乱歩などは起筆がいつも遅いので、業を煮やした編集部が、第一章だけ別人に書かせることがしょっちゅうだったという話が伝わっています。また戦後の「十字路」という作品がありますが、これはほぼ全篇が別人の筆に成るものであったようです。道理で、はじめて読んだ時に、乱歩作品にしてはなんとなく毛色が変わっているような気がしたものです。
 時代小説などでもそんなケースはあるかもしれません。ただ、こうしたゴーストライトの場合は、名前の出ている、乱歩なら乱歩なりの人物が、まったくノータッチということはあり得ません。すでに確立された彼の文体なり筋運びなり、あるいは明智小五郎という主人公なりがあって、そのフォーマットのもとでゴーストライターが書くということはあっても、例えばシリーズ主人公の造形までも人任せにするなどということはさすがに無いでしょう。しかし佐村河内氏が新垣氏にやらせていたのは、そのレベルのことではないかと私は思います。

 曾野綾子氏のコラムでは、作家とか作曲家とかいう人種に高潔な人格を期待するのは間違っているという論が展開されていました。確か都知事を辞めた猪瀬直樹氏について触れていた時にも似たようなことを書かれていたので、まあ曾野氏の持論なのでしょう。これについては私も同意見です。作者自身が性格最低だろうと、カネや女にだらしなかろうと、良い作品を産み出してくれるなら別に構いません。作家のことは詳しくありませんが、作曲家なら、モーツァルトは下品で無神経、ベートーヴェンは傲慢で独善的、ヴァーグナーはすぐ根に持って陰湿な報復を企てるような人物で、決して友人に持ちたいような連中ではありません。
 だから佐村河内氏についてもそれほど目くじら立てることもない、ということだったようですが、ここはちょっと同意しかねます。性格が悪くても良いし、がめつくても下半身がだらしなくても差し支えはありませんが、表現者にはただひとつだけ、どうしても譲れない点があるはずです。それは「自分の作品にだけは嘘をつかない」ということです。ここを破ってしまったら、もう彼を表現者とは呼べないと思うのです。
 佐村河内氏がけしからんのは、別に、彼の人格が陋劣(ろうれつ)であるからではありません。「作品」なるものに嘘をついていたからです。その嘘の上に築かれた名声を享受するばかりであったからです。
 曾野氏が当該コラムを書いたのは、まだ新垣氏の記者会見がある前だったと記憶していますので、事件の全貌がまだ見えて居ない頃でした。いまとなっては曾野氏も、佐村河内氏を擁護しようとは思わないのではないでしょうか。

 本人は、もう音楽からは足を洗うと言っているようですし、私もこれ以上佐村河内守の消息をフォローしても大して得るところが無いように思えます。私の知りたいところ──繰り返しになりますが、そもそもの動機──が明らかになり、その事情になんらかの興味を覚えることがあれば、もういちどくらいエントリーを立てることもあるかもしれませんが、当分はそんなことも無さそうです。
 それにしても、髪を切ってサングラスを外すと、教祖めいた風貌がまるで失われ、普通のおっさんになりましたね。おすぎに似ているとか「我が家の杉山」に似ているとか、ネットではいろいろ話題になっていますが、まあどうでも良いことです。
 私がゴーストライターなどを使うようになることは、たぶん無いでしょう。創作力の枯渇を覚えれば筆を断つか、あるいはもう少しライトなものばかり書くようになるかもしれません。作家で言えば、小説を書くのはやめてエッセイばかりにするとか、そんな状態になる可能性が無いとは言えませんが、他人に書いて貰ったものを自分の作品として世に出すようなことは、私にはできないと思います。とにかく、世間に嘘はついても、自分の作品には嘘をつくまいとあらためて考えさせられる出来事ではありました。


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