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霧雨の墓参行(2)富岡製糸場と高崎市タワー美術館 [旅日記]

 15日(火)に、碓氷峠鉄道文化むらに立ち寄ったのち、前橋市にあるマダムの父方の祖父母のお墓参りを済ませた私たちは、定宿である前橋駅前のビジネスホテルに投宿しました。
 マダムの両親も、行程はまったく違うのですがこの宿に泊まっており、翌16日(水)の午前中、一緒に富岡製糸場の見学に行くことになりました。両親はクルマで来ているので、つまり私たちがクルマに同乗させて貰うということです。本来は前橋から高崎までJRで移動し、上信電鉄の電車に乗って行くつもりでした。ここを高速道路を走るクルマに乗せて貰えば、時間的にも費用的にも助かります。
 世界遺産となった富岡製糸場へは、実は一昨年の墓参行のときに立ち寄るつもりでした。ところが、一昨年のときも雨が降っており、しかもあちこちの道路や列車運行が寸断されるような豪雨でした。富岡製糸場は、上州富岡駅から1キロほど歩く位置にあり、天地をひっくり返したような豪雨の中を1キロも歩くのはイヤだったので、諦めて見学は見送り、終点の下仁田まで行って昼食を食べて帰ってきただけだったのでした。
 16日の朝も、雨脚はだいぶ激しくなっていました。15日のあいだも降ったり止んだりで、お墓参りのときは苦労しましたが、それでもそんなに大降りにはなっていませんでした。まあ東京都内では相当な大降りになり、場所によって出水したりしていたそうですが、私たちは幸いそこまでの降りにはぶつかりませんでした。  しかし翌朝の雨の勢いは、一昨年を髣髴させるほどで、もし予定どおり電車で行くことになっていたら、一昨年と同じく断念したことになったかもしれません。クルマに乗せて貰うのはその意味でもありがたかったのでした。

 関越自動車道から上信越自動車道に入り、富岡インターチェンジで下りました。上から見ると富岡の市街というのが思いのほか広かったので驚きました。ローカル私鉄沿線の街だからと言って舐めてはいけないようです。
 なにしろ世界遺産ですから、そこらじゅうに表示があり、迷う心配はありませんでした。ただ駐車できるところを探してかなりぐるぐると走り回るはめになりました。ずいぶん遠いところから、富岡製糸場見学者用駐車場、みたいな看板を上げた駐車場があちこちに出現したのです。そのうち定額300円という安いところを見つけたのですが(「無料市営駐車場」というのもあったのですが、無料なのは最初の20分だけでした)、もう少し近くに無いかと考えてさらに走らせたところ、いずこも満車でした。定額500円というのが正門近くの相場であるようで、最初に見つけた300円のところは裏側に当たっていたようです。結局そこに駐めることにしたのでしたが、もういちどそこに辿り着くまでに相当手間取ってしまいました。
 正門で入場料を払って中へはいると、ちょうどガイドツアーの客集めをしていました。それはまた別料金がかかるようでしたが、はじめて来たことでもあり、参加してみることにしました。料金を払うと、博物館や美術館の音声ガイドのような小型受信機を渡されました。ガイドが声を張り上げなくとも、イヤホン越しに声がよく聞こえます。富岡製糸場の見学コースは、屋外から建物外観を見るだけのところも多いので、ガイドの声が聞こえづらい場合もあるのだと思います。
 プロローグというか概説を聞いたあと、東置繭所のレンガ積みの説明を受け、さらに検査人館女工館を外から眺めての説明、繰糸所だけは中に入って説明、それから病院ブリュナ館などの説明を受けて、40分ほどでガイドが終わりました。


 富岡製糸場は世界遺産登録のとき、ユネスコの委員会で全会一致で選定されたそうです。これは保存状態の良好さが大きな決め手になったとのことです。1987年に操業を停止してから、最後の所有者であった片倉工業株式会社の手により、完全に操業当時の姿のままで維持管理されてきていました。非常に広大な敷地なので、維持だけでも年間1億数千万円かかったと言います。2005年に国指定史跡となり、片倉工業は土地と建物すべてを富岡市に寄贈しました。まるきりタダというわけではなかったようですが、捨て値のようなもので、維持管理にかかる費用が相当に負担だったのではないかと想像されます。
 当時の姿のままというのは素晴らしいことですけれども、内部を見学できる建物がごく限られているのは残念です。屋内まで見学路を設けるためには、相当な補修とか安全対策が必要になるので、大変とは思いますが、この工場での「生活」まで理解させようと思えばそれが必要ではないでしょうか。私はどうも、日本の世界遺産なるものは、海外のそれに較べて、「見せかた」があまりうまくない気がしてなりません。
 まあそれにしても、富岡製糸場の歴史的意義は動かしようもありません。ここは日本初の一大近代産業施設であるとともに、全国に近代産業を広めるための学校でもありました。実際、施設内に学校が敷設されていた時期もあるようです。
 まず国の肝煎りで近代文明の「見本」を形づくり、そこでとにかく「近代人」を速成し、その「近代人」たちを全国津々浦々に放って地方の端まで近代文明を行き渡らせよう……というのが明治政府の大方針で、その意味では富岡製糸場は帝国大学などとも共通する意味合いを持つ施設であったようです。
 この秋には「紅い襷(たすき)という、初期の富岡製糸場を舞台とした映画も封切られるそうで、東置繭所の一角ではその映画の特別展も開催されていました。横田英という、初期に工女をしていた女性が、晩年になって『富岡日記』という回想録を執筆しており、それが映画のネタ本であるようです。回想録の中の、彼女がはじめて製糸場を見て仰天する場面のページも展示されていました。富岡の町そのものは、英がそれまで住んでいた地方の城下町に較べてもひなびた感じがしたそうですが、そこに突如現れた、レンガ造りの城とも見まがう巨大建築物に、これは夢の中なのではないかと疑ったと言います。彼女がここで働いたのは1年半ほどで、「卒業」後は郷里へ戻って紡績の指導にあたりました。


 ちょっと気になったのが、製糸場で働いていた女性たちのことを、上にも書いたように「工女」と呼んでいることです。
 「工女」などという日本語はここに来るまで聞いたことが無く、どう考えても「女工」でしょう。
 現に、製糸場の建物群の中にも「女工館」というのがあります。まあこれは、われわれの考える「女工」ではなくて、初期に技術指導に来ていた4人のフランス人女性たちの宿舎であったのでそう呼ばれたらしいのですが、とにかく「工女」ではATOKでも反応しません。
 思うに、「女工」とするとすぐに「女工哀史」という言葉が連想され、劣悪な待遇下で長時間労働を強いられたり、すぐ肺病か何かになってろくな治療も受けさせられずに命を落としたりと、「あゝ野麦峠」ばりの悲惨でネガティブなイメージがつきすぎたことを慮って、聞き慣れない「工女」に呼びかたを変えたのではないでしょうか。
 私の記憶を辿っても、紡績女工というのはつねにネガティブなイメージで語られてきていた気がします。富岡製糸場にしても、稼働している頃は「女工哀史」の総本山みたいな印象がくっついていて、「現在では工程がすべて自動化されていて、決してかつてのような悲惨な女子労働者が働いているわけではない」というような、言い訳じみたアピールがされていたように思えます。「かつては悲惨」であったことは前提とされていたのです。
 最近、軍艦島端島)の炭坑で朝鮮人労働者が奴隷のような強制労働を強いられていたという韓国側からの言いがかりが激しく、韓国ではそれを前提とした映画まで作られて大いに人気になったようです。慰安婦の問題とは違い、昭和30年代まで稼働していた端島炭坑は、まだ当時を記憶している人がたくさん居て、日本人からは失笑を買っています。端島での労働は確かにきつかったものの、それに見合うだけの高給が支払われており、島内には映画館や娼館などレクリエーション施設も完備して、宿舎には常に最新の生活用品が揃い、同じ時期のたいていの日本国民よりもずっと良い生活をしていました。朝鮮人労働者だけその恩恵にあずかれないなんてこともあり得ない話で、実際3つあった娼館のうちひとつは朝鮮人専用だったという話もあるくらいです。
 われわれは端島に関する韓国側の認識違いや歴史歪曲を笑っているわけですが、はたしてそれを笑う資格があるのだろうか、とも思います。韓国が何かにつけ「日本がすべて悪かった」と難癖をつける姿は、少し前までのわれわれが「戦前はすべて悪かった」と片づけていた姿と、どこか二重映しになっているような気がします。
 産業革命を成し遂げた英国でカール・マルクスが眼にしたのは、まさに劣悪な環境で長時間労働をさせられ、強大な資本家に搾取されている労働者たちの姿でした。その中には子供や女性も多数含まれていました。マルクスはその自分の見聞をもとに『資本論』を書き、発展段階説を組み上げました。
 戦後半世紀近く、マルクス主義史観が世間を覆っていた時代、近代産業の黎明期には、必ず悪辣な資本家と苛酷に搾取される労働者が居なければならないということになっていました。日本でもその図式が機械的にあてはめられ、「炭鉱労働者は悲惨だった」「紡績女工は悲惨だった」等々のステレオタイプなイメージがつけられてしまったように思われます。
 富岡製糸場はもともと資本家が興したものではなく、政府によるパイロット事業だったのですから、従業員をそんなに酷使したわけはありません。しばらくは電気照明も無かったのですから夜遅くまで作業するなんてことができるわけもなく、就業時間は厳格に定められていました。肺病に罹って死んでしまった女工も確かに居たかもしれませんが、それは戦後抗生物質が普及するまで日本中どこでも見られたことです。製糸場では最初から病院も用意されており、一般の国民よりむしろそのあたりは厚遇されていました。体調が悪かったりした場合は寮の自室ではなく病院で休むように奨励されていたこともはっきりしています。病気の早期発見にも役立ったでしょう。
 当初(明治5年頃)の女工の給料は月2円だったそうです。ガイドのおじさんは「いまで言えば2万円くらいですかね」と言っていましたが、それで「大変な薄給」だなどと思っては勘違いをします。制服も食事も寮も、つまり衣食住すべてが無料で支給され、医療費もタダだったわけですから、2円というのはまるまるの儲けです。
 いまの2万円というのも、米価などの物価指標で言えばそうなるのかもしれませんが、明治初年の1円が現在の1万円程度の価値であったとはとうてい思えません。私は戦前の随筆などを読んで、昭和初期の1円が現在の5千円くらいに相当しそうだなと感じたことがあります。それより半世紀前のお金の価値がその倍くらいなものとは考えられず、少なくとも1円が現在の2万5千円、ないし3万円くらいの価値(というか「使いで」)はあったと思います。『坊っちゃん』の冒頭に、ばあやの清から貰った3円を便所に落としてしまう話が出てきますが、ここが3万円ではあまりインパクトが感じられず、やはり10万円近い大金であればこそ、清と主人公の関係とか、主人公の性格とかがくっきりと描かれることになります。
 そして当時の富岡などでは、さしてお金を使うようなところも無かったでしょうから、女工たちは貰った給料をほとんど使わずに貯めておいて、家に持って帰ったものと思われます。
 公平な調査によって「女工哀史」史観に歪められていない実態が明らかになるのは喜ばしい限りですが、だからと言って女工を工女と呼び替えるようなやりかたも、姑息だなあと思わざるを得ません。
 ただ、全国に設置された紡績工場の中には、本当に劣悪な待遇であったところも確かにあったのでしょう。これは、いまでもブラック企業というものが存在している以上、当時まったく無かったとはもちろん言いきれません。そういうところばかりのサンプルを集めてゆけば、「女工哀史」が出来上がるというのも充分にあり得ることです。
 だから「女工哀史」が嘘だったとは言いませんが、マルクス史観のバイアスがかかった眼でサンプルを集めたために、いささか偏ってしまったというのが妥当な解釈だろうと思います。


 短時間ですが、いろいろと有意義な見学でした。義父のクルマで上州富岡駅まで送って貰い、マダムの両親と別れました。両親はこのあと、お墓参りをして帰るとのことでした。
 私たちのほうはひとまず上信電鉄の帰りの切符を買ってから、昼食をとりました。駅前にはあんまり飲食店が無く、200メートルほど離れた国道まで出ます。四つ角の一角一角に飲食店が建っており、その中で「ソースかつ丼」の幟(のぼり)が立っている食堂に入りました。「急行食堂」という面白い屋号の店でした。
 卵をからめないカツ丼は、福井県あたりが有名ですが、群馬県でもポピュラーで、いままで下仁田でも桐生でも食べました。いずれもソースかつ丼を名乗っていますが、ソースの種類はいろいろで、下仁田のはけっこう濃厚なだし汁のようなソースであり、桐生のは普通のウスターソースみたいなあっさりした味でした。富岡で今回食べたのはその中間くらいな感じで、マダムの評によると、
 「このメニューにある、ポークソテーに使っているソースをそのまま使っているんじゃない?」
 ということでした。
 ソースかつ丼の他に、この店はオムライスも名物だそうなので、その2品を注文しました。オムライスのほうは家庭で作るような昔懐かしいケチャップ味で、製糸場が稼働していた頃は女工もよく食べに来ていたそうです。
 駅に戻り、13時58分の電車で高崎へ。
 高崎からは、マダムの祖父が東京へ出るときに使っていた八高線で帰途につこうと思っていましたが、どの便に乗るかは特に決めていません。当初はなぜか、富岡のあとでまた下仁田まで往復してくるというような予定を立てていたのですが、それをやめたので、少し時間が空きました。
 それならいっそのこと、前日マダムに諦めて貰った高崎市タワー美術館の展覧会を観に行けば良いのではないかと思いつきました。どんな美術館かは知りませんが、おおかた1時間半もあれば廻り終わるでしょう。それからちょっとお茶でも飲んで、17時07分発の八高線に乗れば、好い頃合いに帰宅できそうです。


 前のエントリーにも書きましたが、タワー美術館というのは高崎駅の東口に出ると真正面にあり、ペデストリアン・デッキで直接2階に入れます。いまやっているのは「アートになった猫たち」という企画展です。主に日本画で猫が描かれているものを展示していました。
 歌川国芳という浮世絵師のことはほとんど知らなかったのですが、ひたすらに猫を愛した絵師であったようで、作品のどこかに必ず猫が描かれていたそうです。ほとんどトレードマークのようになっていて、猫の意匠の浴衣などを「国芳柄」などと呼んだこともあったとか。また、絵の中で顔がわからない人物が居ても、「一緒に猫が居るのでこれは国芳本人だ」とわかるのだそうで。
 最近はやりの、猫耳をつけた人物の絵も、江戸時代から普通にあったらしいのが、笑えるというかあきれるというか。つい
 「日本人って……」
 と嘆息したくなります。まあ本来は、松平定信寛政の改革のときに、役者絵や美人画の制作や販売が一律に禁止され、それならばというので役者や美人を猫に見立てて描いて禁制の裏をかこうとした……というのが興りだそうですが、すぐに「猫人間」そのものが独立した画題となりました。猫耳少女といえば現代の「絵師」の好んで描く画題ですし、異世界ものライトノベルでも猫の獣人は鉄板設定です。どうも猫人間は、200年以上の伝統を誇るわが国特有のキャラクター造形であるようです。
 猫に堪能して、美術館を出ました。


 駅構内のコーヒーショップで一憩したのち、予定どおり17時07分の八高線に乗りました。お馴染みのキハ110系ディーゼルカーですが、白地に赤帯という、八高線ではあまり見かけない塗色になっていました。
 何度か書いたことがありますが、八高線や小海線のディーゼルカーは、あまり必然性がわからない3列座席(2+1)になっていて座席数が少なく、坐れないことがよくあります。往路に乗った「たんばらラベンダー号」「リゾートやまどり」)の3列座席のようにゆったりしたものではなく、4列であるべき座席をひとつ取り除いたという配置です。座席の数を減らすのは、立ち客の収納数を増やしてたくさん乗せられるようにするという理由が大きいはずですが、キハ110系が走っているような路線で、そんな都会のラッシュ並みの混雑があるとも思えません。なんのために座席数を減らしたのか謎なのです。
 今回も、高崎から乗ったときにはだいぶ客が多く、坐れませんでした。もっともいままでの経験から言うと、高崎線から分かれてすぐの北藤岡群馬藤岡でどっと下りるのが常だったのですが、この日はなぜか大きなスーツケースなどを抱えている人が多くて、短距離客とは思えませんでした。実際、群馬藤岡を過ぎてもなかなか車内は空きません。結局、マダムと向かい合わせで坐れたのは、いい加減終点も近い小川町でのことでした。
 終点の高麗川川越線電車に乗り換え、さらに川越・武蔵浦和・南浦和で乗り換えて、21時頃に帰宅できました。
 ところで、この日も青春18きっぷを使ったのですが、高崎から川口までなので、はっきりと採算ラインを割っています。八高線経由なので、経路どおりに運賃計算をすれば、2370円という採算ラインには届かないまでも、届かない額は僅少で済むのですが、前に書いたとおり高崎は近郊区間に含まれているので、運賃は最短経路、つまり高崎線経由で計算されます。それでずいぶん割り込んでしまいました。どこかで途中下車すれば元は取れたかもしれませんけれども、だいぶくたびれていて、あまりその気にはなれませんでした。
 これではどうももったいないので、最後の5枠目を使うときには、できうる限り長大なルートを巡ってくることにしたいと思っています。一日で巡って来るには驚くべき長大さ、というよりむしろ壮大ささえ感じられるルートを発見したので、遠からず決行する予定です。
 また、今回割愛した、私の祖父母の墓がある高尾にも、近いうち行ってこなければならないなと思います。


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