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新年のご挨拶 [お知らせ]

 皆様、あけましておめでとうございます。
 昨年末、もういちどくらい日誌を書けるかなと思っていたのですが、なかなか暇がとれないまま、年が暮れてしまいました。
 ここ数年には珍しく、年賀状の宛名書きも比較的余裕を持って終え、年末として気にかかることは少なかったはずなのですが、finaleで入力しなければならないデータが残っていてそちらにけっこう時間をとられてしまったのと、久しぶりの片付けや掃除に手間取ったのが敗因かもしれません。
 何しろ、一昨年の暮れは体調が悪く、ほとんど掃除らしいことをしませんでした。その後の日常の中で大がかりな整頓や清掃をすることも無く、従って2年分のゴミや埃がたまっていたことになります。私の部屋からだけで、大きなゴミ袋が3つも出ました。ゴミの内容を見ると、2年分どころではなく、5、6年前の反故などもありましたから、いかに日頃片付けということをしていないかということです。
 さらにおそろしいことに、私の部屋だけが家の中で特別に散らかっているわけではないのでした。マダムも整理整頓が苦手で、しかも基本的に物を捨てられない女で(ちなみに私は、捨てるとなればかなり思いきって捨ててしまうほうです)、片付けをはじめてもゴミ袋がなかなか埋まりません。夫婦ふたりして掃除を好まないため、家の中は荒れ放題になっているのでした。
 年末くらいは重い腰を上げて片付けにかかりますが、普通の家庭の「大掃除」のイメージではなかろうと思われます。窓ガラスも磨かないしフスマも換えていません。それでも私らにとって「大仕事」には違いないのでした。

 さて、去年の総括と今年の展望を書いておきたいと思います。
 2017年は社会的には、北朝鮮関連の危機が高まった激動の年でした。その危機は今年にも持ち越されています。果たして戦争がはじまるかどうかはなんとも言えませんが、いずれにせよ日本も否応なく巻き込まれることになるでしょう。金正恩は繰り返し、日本列島を海の底に沈めてやると恫喝しています。
 戦後、日本人はふたつの「幻想」の中に生きてきました。何度か書いたことがありますが、

 第一の幻想 日本人は武器を持つと必ずそれを使ってどこかへ戦争を仕掛けたがる、好戦的で残虐な民族である。

 第二の幻想 日本人が仕掛けさえしなければ、東アジアで戦争や紛争は決して起こらない。

 もとはGHQWGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)によって植えつけられた幻想でしょうが、学校で、あるいは報道で、この幻想は拡大再生産され続けてきました。
 第一の幻想は、もしかするとまだ信じている人が多いかもしれません。憲法第9条を改正するとたちまち徴兵制が布かれて戦争に駆り出されるなどとヒステリックに騒ぐ人々が後を絶たないのがその証拠です。しかし、日本人が本当に彼らの思うような、固有に好戦的な民族なのであれば、その憲法第9条ごときを70年以上も放置するはずはないのであって、昭和40年頃にはとっくに現行憲法など破棄して再軍備し、どこかに攻め入っていたことでしょう。
 第一次大戦後、巨額の賠償金を科せられて徹底的に骨抜きにされたドイツは、あらゆる国策を雪辱の一点に集中し、事実20年ばかりで完全復活しています。
 第一次大戦後のドイツ人にできたことが、第二次大戦後の日本人にできないわけはありません。現に日本は10年ほどで「もはや戦後ではない」などと言うようになりました。
 にもかかわらず、GHQにより戦争を禁じられた憲法を変えもせずに、後生大事に抱え込んでいること自体、日本人が元来戦争などあまり好まない、至極平和的な民族である何よりの証明になっていると私は思っています。
 それで日本人はこの70年以上、どの国とも戦争は愚か、武力紛争すら起こしていないわけですが、それで東アジアはずっと平和だったかと言えば、もちろんそんなことはありません。朝鮮戦争があり、ヴェトナム戦争があり、中越戦争があり、印パ戦争もあり、そして近年は南シナ海のごたごたが絶え間なく起こっています。中国カンボジアでは自国民を大量虐殺する事件も起きました。いずれも、日本が原因ではありません。この歴史的事実によって、第二の幻想も否定されます。あたりまえの話ですが、日本人が仕掛けなくとも、戦争や紛争はいくらでも発生するのです。
 そしていまや、こちらが何も手出ししていないのに、日本列島を沈めてやるなどと恫喝してくる国が現れました。こうなっては、もはやふたつの幻想は完全に終焉を迎え、厳しい現実に対応せざるを得ない状況と言わなくてはならないでしょう。
 しかしこの期に及んで、北朝鮮の恫喝は安倍首相のかたくなな態度のせいであるとか、圧力をかける前にもっと話し合えとか、的外れな主張を繰り返す手合いが絶えません。これは、まだ第二の幻想を捨てられない連中なのでしょう。この第二の幻想は、能動的に動くのは日本だけで、他の国の行動はすべて日本がその起因になっていると考えているも同然です。つまり、他国の事情というものをまったく配慮しない点で、彼ら自身が批難している「侵略主義者」の考えかたとまったく同じなのです。

 しかし、こういう手合いが数多く巣くっているマスメディアに関しては、去年一年でその凋落ぶりが明らかになりました。
 あれほど執拗に「モリカケ騒動」で騒ぎまくり、ほとんどなりふり構わず安倍政権を斃そうとあがき、実際確かにいちどは政権支持率を危険水域にまで落としておきながら、秋におこなわれた総選挙ではまったく与党にダメージを与えられなかったことが判明して、株を下げたのは野党ではなくマスコミでした。あげくに
 「ウチの世論調査と違う。選挙結果はおかしい」
 「この国の民主主義は死んだ」

 などとほざき出す、本末転倒なみっともない新聞社まで現れ、さらに株を下げました。もうマスコミには、かつてのような社会的影響力は無いと見て差し支えないでしょう。日本もそうですが、USAなどでもこの傾向が顕著で、2017年はあるいはマスコミの「終わりのはじまり」の年として記憶されることになるかもしれません。
 あとは同じように幻想家が多く棲みついている、教育界をなんとかしなければなりません。こちらを幻想から醒めさせるのは、マスメディア以上に困難かもしれませんが、是非とも進めるべきです。なぜなら、マスメディアは同時代に影響を及ぼすだけですが、教育は次世代に影響を及ぼす営為であるからです。
 ともあれ安倍首相が第一次政権のときから唱え続けていた大方針、「戦後レジームの清算」が、ようやく眼に見える動きになってきたわけで、この動きを減速させてはいけないと思います。

 私個人のことについて言えば、2017年は合唱曲をふたつ仕上げました。
 ひとつはその前年から書き継いでいた『大地の歌 星の歌』です。ネイティヴ・アメリカンの詩を日本語訳したものをテキストとした、女声合唱とピアノのための組曲となっています。私のいままでの女声合唱曲とは、少々毛色の変わった感じに仕上がったと思います。題材に助けられたかもしれません。
 コーロ・ステラの20周年記念ということで作曲したのですが、コーロ・ステラのいままでの雰囲気とも少し違っているかもしれません。合唱団にも作曲者にも、いささか新機軸をと考えました。それが成功しているかどうかは、今年夏に予定されている演奏会での初演のときに判明するでしょう。
 もうひとつは『花と木のことば』で、こちらは「無伴奏混声三部合唱」という可能性にチャレンジした曲集です。手許にあったまど・みちお氏の詩集から、花や木に関する詩を選んでぼつぼつと作曲したもので、組曲として書いたわけではありません。そのため総題もなかなか決まりませんでした。
 ピアノ伴奏付き混声三部合唱というのは、中学生向きの合唱曲としてたくさん作られています。また無伴奏混声四部合唱というのもごく普通の形態で、特にピアノ伴奏がついていることのほうが少ない海外の合唱曲では標準編成とも言えます。しかし、無伴奏混声三部合唱という編成は、簡単な輪唱などを除くとほとんど見たことがありません。よく歌われているのはウィリアム・バードの『三声のミサ』くらいでしょう。
 混声合唱団での「男声不足」ということは以前から問題になっていて、ことに近年は小編成の合唱団がやたら増えてきたため、もはや混声四部合唱という形態を維持できないところも多くなりました。ひとつでも「ひとりしか居ない」パートがあれば、それは厳密には合唱とは呼べません。
 そういう時節柄、無伴奏混声三部合唱という形は需要があると思います。混声三部にしたほうが良いくらいのパートバランスでしかないけれども、そこそこハーモニーを作る実力はあって、でも中学生向きの曲を歌うのは少々気羞しい……という、けっこう数としてはありそうな合唱団にとっては、うってつけと言って良いでしょう。
 『花と木のことば』は6曲でいちおう完結しましたけれど、今年はこの方向をもう少し進めてみようかと思っています。無伴奏混声三部合唱という形態を世に問うにしても、ある程度のストックがある状態にしたほうがセールスしやすそうです。
 その他には、そろそろまた音楽劇のようなものも作りたいものですが、これは企画が持ち込まれないことには動きがとれません。面白い仕事に出会えればと念ずるばかりです。
 ともあれ、今年もよろしくお願いいたします


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