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日野市散歩と路線バスの旅 [日録]

 鉄道謎解きではないのですが、またちょっと謎解きをしてきました。
 おなじみタカラッシュ!社と、日野市がタイアップして、「土方歳三の宝」というイベントをやっていたのです。しばらく前から京王の駅などでパンフレットを配布していました。
 新撰組副長・土方歳三らの故郷である石田村は、現在の行政区画で言えば日野市の中になります。それで日野市では、新撰組や土方の顕彰をさかんにおこなっており、このイベントもその一環というわけでした。
 日野市内のいくつかのポイントを廻ってキーワードを集め、最終的に土方の隠したというお宝を見つけようというのが目的です。
 パンフレットを貰ってきてみると、4箇所のポイントを割り出すパズルが載っていました。これは現地に行かないと解けない問題ではなく、家で解けます。パズルとしてはさほど難しくなく、ほどなくして解いてしまいました。
 別にそのままでも良かったのですが、やはりちょっと現地に行きたくなってきました。パンフレットに載っている略図と、手持ちの地図帳で調べてみたら、その4箇所をめぐるのは徒歩でなんとかなりそうです。鉄道謎解きではなくて、街歩き謎解きというわけですが、そういうのも嫌いではありません。
 たまたま、取り立てて用事の無い日であったので、散歩のつもりで出かけてきました。

 朝のうちは強い雨が降っていたのですが、8時前には止んでしまいました。しばらくは凄い空の色で、いつまた降りはじめるかわからないような雲の様子だったものの、やがてすっかり晴れて、汗ばむほどの陽気となりました。天候的にも、街歩き謎解きにちょうど良い感じです。
 9時過ぎに、ちょっと買い物があったので出てきてから、10時過ぎに出発しました。
 宇都宮線で倒木があったとかで、湘南新宿ライン上野東京ラインのダイヤが大幅に乱れており、その波及があって京浜東北線埼京線まで遅れていたようですが、予定より10分ばかり遅く新宿に着きました。11時ちょうどの京王線特急で、まずは京王線における日野市を代表する駅である高幡不動に向かいました。
 そこから4箇所のポイントを歩いて廻ったわけですが、その詳細は残念ながらイベントが終了するまで書くわけにゆきません。ただ、スマホについている歩数計によれば、9キロ弱ほど歩いたことになるようです。最初に地図を見て粗々に測ったときは、5キロくらいかな、などと思ったものでしたが、案外とまっすぐな道が無かったり、入り組んだあたりが思ったより距離があったりして、長く歩いてしまったらしいのでした。
 所要時間は2時間15分ほどで、自分の歩行が時速4キロ程度になってしまったかと少しがっかりしましたが、考えてみると各ポイントで若干時間をとっているし、特に最後に訪れた場所では、スマホで報告やらアンケートやらやっていて、15分くらいとどまっていましたから、時速5キロには達しないまでもそう遅くはなかったように思われます。
 それに途中に、百段階段と呼ばれている、急な上に長い石段を登ったりもしました。数えてみると実際には112段ありました。登りながらうしろを振り返ったら、転げ落ちそうな気がしてぞっとしたものです。登り切ったところでしばらく息を調えなければなりませんでした。見ていると、近在の人々は普通に日常的にこの階段を昇り降りしているようで、私の前後にも何人か登ってきていました。なんだか感心してしまいます。

 石田という地名は、市内を流れる浅川の北岸のあたりに、字名として残っています。そのあたりのお寺に附属した墓地を塀の外から覗き見ましたが、墓碑銘がどれもこれも「土方」であったのでびっくりしました。
 そういえば司馬遼太郎さんのエッセイで読んだことを思い出します。司馬さんの初期作品には「燃えよ剣」「新選組血風録」その他、新撰組ネタの小説がいくつもあります。新聞記者上がりだけに、現地取材を怠りませんでした。それで旧石田村へ行って、歳三の生家を訪ねようとしたのです。もう60年以上前のことでしょう。
 当時はまだ畑がたくさんあったようで、司馬氏はそのあたりでお百姓さんに「土方さんのお宅はどこでしょうか」と訊ねたそうです。すると相手は、
 「どこと言っても、この辺はみんな土方ですよ」
 と答えたと言うのでした。昔は、ひとつの村落が残らずおんなじ苗字、なんてこともよくあったものです。
 「歳三さんの家なんですが」
 と司馬氏が言うと、
 「ああ、お大尽のところですな」
 相手はうなづいたそうです。
 さすがに現在ではこんな会話は成立しそうにありませんが、ともあれ昭和30年代くらいまでは、土方歳三の家は地元では「お大尽」と呼ばれていたらしいのでした。相当な富農であったと思われます。このあたりは薬草を育ててそれを膏薬や散薬に加工して売ったりしており、本来の農業以外にずいぶん大きな収入があったようです。
 加工の際には、多くの小作人を集めて作業しており、そういう作業の指揮をとったりしていたのが、新撰組副長としての統率力に反映していたのではないか、というのが司馬氏の想像でした。
 あたりの家の表札には、それほど土方姓は見当たらないようでしたが、道を歩いていると「土方クリニック」「土方自動車」などの屋号が目につきました。「土方建材」となると、知らないと「どかた」と読んでしまいそうですね。いずれにしても、このあたりがかつてみんな土方さんであった名残はいまでも感じられます。

 歩いた距離は思ったより長かったのですが、謎解きはごく簡単に終わり、最終的に中央線日野駅に辿り着いたのは13時半をまわった頃でした。
 そこから多摩モノレール甲州街道駅に歩こうかと思ったのですが、さすがにちょっとくたびれたので、中央線の電車に乗りました。
 まだ真昼間で、このまま中央線で帰るのも少々味気ない気がしていたので、立川で下り、そこでモノレールに乗り換えました。多摩モノレールに乗るのは久しぶりです。本当はもっと南側の甲州街道から乗ろうと思っていたわけです。
 終点の上北台まで乗って、地上に下り立ちました。
 この上北台という駅は、他の鉄道線には接続していないのですが、1キロほど歩くと芋窪というところに着き、そこまで行くと梅70系統という都営バス路線のバス停があります。これに乗り継ごうと考えたのでした。
 梅70系統というのは、都バスの中でもっとも長い路線として知られています。「梅」の文字のとおり、青梅営業所に属する路線なのですが、蜿蜒と脚を伸ばして、花小金井駅までひたすら青梅街道を走り続けます。以前は西武柳沢まで行っていて、マダムと一緒に逆行の青梅行きにフルで乗ったことがあります。さらに昔は阿佐ヶ谷まで行っていました。私が小学生のみぎり、田無に住んでいた頃、ときどきこのバスを見かけました。阿佐ヶ谷まで行けば都バスの都心路線とも接するわけで、この路線でつながっていたためか、青梅周辺の都バス路線は、当時は全部「杉並営業所」の管轄になっていました。
 その路線の一部分を区切って、花小金井まで行き、さらに路線バスを乗り継いで行けるところまで行って帰ろうと思ったのです。
 とはいえ梅70系統は、1時間に1、2本という閑散路線ですので、いちおう芋窪の発車時刻を調べてきてありました。
 ところが、謎解きが思ったより簡単に終わったため、調べた最初の時刻よりも、45分ばかり早くなったようです。
 1本前というのが、どのくらい前なのかわかりません。スマホがあるので調べられるとは思うのですが、検索しても出てくるのは西武バスの時刻ばかりで、このあたりの都バスの時刻を調べるのはやや面倒なようでした。
 微妙なので、芋窪に向かうのはやめ、新青梅街道を東に向かって歩きました。こちらも1キロほど歩くと、「新」のつかない青梅街道と交差するところがあり、芋窪を出たバスがそこを通るのです。東大和市役所に近いほうです。
 着いてみると、庚申塚というバス停があって、14時24分という便があるようでした。時計を見ると14時25分になっています。乗り損ねたかと思いましたが、新青梅街道を歩いているとき、交差点をバスが横切るのを見た気はしません。青梅から走ってくるので、どうせ時間どおりには来ないに決まっています。
 実際、14時30分くらいになってようやくバスが来ましたが、困ったことにこの便は花小金井まで行かず、途中の小平止まりでした。
 小平駅が本当に途中ならまだ良いのですが、青梅街道から支線のように分かれて小平駅に入ってゆくので、どうも悩ましいところです。
 結局、東大和市駅に着いたときに、衝動的に下りてしまいました。そこから西武電車で花小金井まで移動することにしたのでした。路線バスの旅のつもりが、早くも破れが出てきてしまいました。まあ、自分の愉しみでやっているだけなので、誰に面目ないわけでもないのですが。
 それにしてもこんなことなら、モノレールを玉川上水で下りて西武に乗り換えれば良かったとも思いましたが、後知恵というものでしょう。

 花小金井から、こんどは東久留米に向かうバスに乗りました。この路線は武蔵小金井駅から小金井街道を走ってくるため、花小金井の駅前までは入りません。商店街の中を少し歩いて、西友の前にバス停があります。
 わりと直行する便と、迂回する便があり、迂回するほうが面白そうだったのでそちらに乗りました。しかしこれは失敗でした。迂回する路線は錦城高校を通るのですが、その近辺のバス停から、終業した高校生たちがわんさか乗ってきたのでした。なぜか錦城高校前だけでなく、そのふたつくらい前のバス停から、同じ制服の高校生が次から次へと乗ってきて、ラッシュ状態になってしまいました。なんで乗るバス停をバラバラにしているのかよくわかりません。
 彼らは途中の停留所では全然下りず、ほぼ全員が東久留米駅まで乗ってゆきました。途中で下りる年配のお客などは、だいぶ難儀していたようでした。
 途中、滝山団地を通りました。なんの変哲もない、よくある郊外型の団地ですが、原武史氏の「滝山コミューン一九七四」という、背筋がうすら寒くなるような本の印象があるので、これがその舞台かと思うと、なんだか薄気味悪さを感じてしまいました。別に怪談というわけではなく、一種の「団地論」と言うべき学術的な著作なのですが、共産党などが深く入り込んだらしき、なんとも息が詰まるような行き過ぎた平等主義・集団主義の自治体コミュニティの様相を、著者本人の子供時代の追憶を交えて綴っている本です。同じような状況は、滝山団地だけではなくあちこちの団地で見られたはずですが、ごく普通の箱型のアパートの連なりを見ながら、私は何やら、異界を覗き込んでいるような気分になっていました。
 16時過ぎに、東久留米駅西口に着きました。急行通過駅にしては、駅前のロータリーなどは立派なものなので少し驚きました。
 駅のコンコースを渡って東口に出ました。ここから、朝霞台駅行きのバスが出ています。16時35分発とのことで、少し時間があります。私はここまで食事を全然していなかったので、何かおなかに入れたかったのですが、ファミリーレストランに入るにはやや微妙です。結局ドトールでミラノサンドとアイスカフェオレを頼みました。

 バスはだいぶ乗客が多かったものの、8つめの東久留米団地のあたりでガラ空きになりました。この先で県境を越えて埼玉県に入ります。やはり、県境を越える輸送需要はそう多くないということです。
 埼玉県に入ったからか、急にあたりの景色が田舎っぽくなりました。武蔵野だなあ、という雰囲気です。しかしほどなく陽が落ち、新座市の中心部に近づくまで、なんだか闇を衝いて走っているような感じになりました。夜行バスにでも乗っている気分です。
 45分ほどで、朝霞台駅に着きました。路線バスもこのくらい乗り続けると、なかなか張り合いがあります。
 朝霞台もしくは北朝霞から、浦和あたりに抜ける路線が無いかと期待したのですが、残念ながらありませんでした。東久留米やひばりヶ丘へ行く路線以外は、短距離のものや周回路線のものばかりでした。まあ、志木駅まで乗り継げば、そこから浦和駅行きが出ているのは知っているのですが、もうすっかり陽が暮れてみれば、そんな回り道をするのもあほらしくなって、そのあとは素直にJRの電車に乗って帰りました。
 上北台からの徒歩とか、各駅での乗り継ぎとかでもけっこう歩いたのか、帰ってきてからまた歩数計をチェックすると、今日は14キロ近く歩いたことになるようです。歩数も2万歩近くなっていました。道理で、しばらく電車に揺られてから家への道を歩き出すと、脚がかなり痛みました。もう少し日頃から歩くようにしないといけませんね。

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