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緊急停止ボタン [世の中]

 渋谷駅で線路に財布を落とした男が、列車の緊急停止ボタンを押して電車を停めたというので騒ぎになっています。
 駅や踏切、あるいは列車内にある緊急停止ボタン、いちど押してみたいという誘惑にかられたかたは少なからず居られるのではないかと思います。人間だれしも、ぷくんと突き出しているものを見ると指で押したくなるものであるようです。その本能を抑制するためか、いまではたいていむき出しにはなっておらず、透明なアクリル板のようなもので蓋がされ、それを突き破らないと押せないようになっています。
 列車を停めるというのは大変なことで、多くの人に迷惑がかかります。だから飛び込み自殺をはじめ、列車ダイヤを乱す行為については多額の賠償金が科せられることになっています。まあ飛び込み自殺をするような人は経済的に困窮していることが多いわけで、当然ながらその家族には賠償金の支払い能力など無いのが普通でしょうから、実際には執行されないケースが多いのかもしれませんが。
 緊急停止ボタンのいたずらについても、もちろん罰金がかかることは言うまでもありません。
 この緊急停止装置、けっこう昔からついていたらしく、100年近く前の1927年昭和2年)に発表されたアガサ・クリスティ『ビッグ・フォー』の中に、こんな会話が出てきます。エルキュール・ポワロヘイスティングズ大尉が、敵の眼をあざむくために、パリを発車した走行中の急行列車から脱出しようと試みるシーンです。

 「でもこの列車はカレー(フランス北部の港町)まで停車しませんよ?」
 「お金を払えば停車しますとも」
 「冗談はやめてくださいよ、ポワロさん……金を払って列車を停めるなんて、できっこないじゃないですか……拒否されるに決まってますよ」
 「きみはあの小さなハンドル……緊急停止用のハンドルを見たことが無いんですか……確か、いたずらしたら罰金100フランでしたかね?」
 「え? あれを引くつもりなんですか?」
 「友達のピエール・コンボーにやってもらうつもりですよ。そうなれば、彼が車掌と派手に押し問答して、車内の人間が気を取られてるあいだに、きみとわたしはそっと抜け出すことができるってもんです」

 当時の100フランがどの程度の価値なのかよくわかりませんが、何万円、程度では済まなかったのではないかと思います。

 さて、渋谷駅の緊急停止ボタンは、厳密にはいたずらで押されたわけではありません。線路に財布を落としたわけです。それを拾うために緊急停止をしたのでした。
 駅の緊急停止ボタンは、人がプラットフォームから落ちたとか、あるいはレール上にかぶさる形で傘などを落としてしまって、そのまま列車が進入してくると危険と考えられる場合に押すべきものです。財布がどういう状態で落ちたのだかわかりませんが、レールのあいだとか、プラットフォームの陰などに落ちた場合は、駅員がマジックハンドなどで取ってくれるのが普通です。
 今回の場合、男が途中から動画を撮影して、それをSNSにアップしたことで騒ぎが大きくなりました。その動画では、何やら最初から駅員が激昂した様子で男に詰め寄っています。
 「なんだその態度は!」
 「山手線を停めてんだぞ!」
 などと怒鳴っていたようです。
 これに対し、男は
 「なんで取ってくれないんですか」
 「お願いしてるじゃないですか」
 と、一見丁寧そうに言っているのでした。
 これだけ切り取ると、下手にお願いしている客に向かって駅員が横暴な態度で暴言を吐いているように見えます。たぶんそういう印象を与えることを狙って動画を撮ったのでしょう。実際、最初の頃は駅員の態度を批難するコメントが相次ぎました。
 ところが、だんだんと形勢が変わってゆきました。
 SNSに投稿しているのは、この男だけではなかったのです。一部始終を見ていたほかの人々からも、様子を記した投稿が寄せられはじめたのでした。
 それが100%信じられるわけではないにせよ、男が動画を撮影しはじめる前の流れが、おおむね判明しました。
 つまり男は財布を落として、まず駅員に伝えたようです。
 夜20時ころの山手線ですから、電車は数分おきにどんどん入ってきます。安全を考えると、すぐには取ることができないと駅員が答えたようです。もしかしたら終電後になるかもしれないと伝えたのかもしれません。
 男はその返答にムカついたようで、自分で線路に下りようとします。もちろん駅員は制止します。しかし男は何度かその行為を繰り返したらしいのです。
 何度も制止され、男はついに緊急停止ボタンを押してしまったのでした。
 列車の進行に支障が出るような落ちかたをしていたのがわかれば、駅員もすぐに緊急停止信号を発したはずなので、たぶん男の財布は、しばらく放っておいてもさしつかえないような場所に落ちていたものと思われます。列車密度が高い時間帯なので、おそらく駅員も最初は
 「あとで拾っておきますので」
 とかなんとか答えたのでしょう。男はそれに納得せず、何度も線路に下りようとし、あげくに緊急停止ボタンを押したというわけでした。
 これでは、駅員が怒るのも無理はないと思う人が増えてくるのは当然でしょう。
 しかも、確認はできませんが、男は
 「なにやってんだよノロマ!」
 「早く取れよ!」
 「そんなだから給料安いんだろ!」
 等々と、駅員に対してさんざん暴言を放っていたという証言も寄せられました。動画撮影をはじめる前です。
 つまり、あらかじめあおりにあおっておいて、相手が激昂したところから撮影開始し、そのあとは自分が丁寧な調子で相対しているかのように演じていたという可能性があるのでした。そうだとすると、かなり悪質です。財布をすぐに拾ってもらえなくてムカついたからとはいえ、賛同・擁護できる行動とは思えません。
 男が動画を投稿したのは、自分に同情してJRを批難してくれる人が多いだろうと思ってのことでしょうが、まったく逆の結果になってしまったのでした。

 線路に下りるという行為は、むろんのこと非常に危険です。私も子供のころ、1時間に3本くらいしか列車の来ない駅で線路に下りて、駅員にむちゃくちゃ怒られたことがあります。列車はまだ15分くらいは来なさそうだったのですが、もちろんそういう問題ではなく、われながら無茶したなあと思うばかりです。
 山手線のような過密路線で、よく線路に下りようとなどしたな、と思いますが、きっと自分が下りれば駅員が列車を停めてくれるだろうと考えたのでしょう。それを何度も制止されたので、イライラしてみずからボタンを押したというところでしょう。いずれにしても、自分のことしか考えていないのは確かです。
 動画を投稿したために騒ぎになって、テレビのワイドショーなどでも扱われてしまいました。コメンテーターとして鉄道ジャーナリストの梅原淳さんが出演していて、この人は私とほぼ同世代の「鉄」なのでわりに親近感を覚えているのですが、だいたい私が上に書いたような、落とし物がレールの上に乗っていたりして列車が危険な場合だけ押すべきだ、というまっとうな意見を言っていました。
 そして弁護士なども発言しはじめていて、この男に賠償責任が科せられる可能性がある、と指摘しています。駅員の行為は「不法な有形力行使」には該当しない、というのでした。強い口調で怒鳴るように言っているけれども、それは業務上の行為という範囲を逸脱していないという判断です。つまり、JRが訴えれば賠償金を取れることになるわけです。
 賠償金がいくらになるかわかりませんが、男が財布に入れていたという4万円よりはずっと多いでしょう。これだけ大ごとになると、JRとしてもなあなあでは済ませづらくなっているかもしれません。動画投稿などしなければこんな騒ぎにはならなかったと思われます。誰でも世の中に向けて発信できるSNSというものが、考えようによってはかなり危険なおもちゃであることをあらためて実感させられる事件でした。

 とはいえ、駅員の最初の対応がどんなものであったのかは気になります。
 「あとで拾っておきますので」
 とでも言っただろう、と上に書きましたが、その言いかたが、いかにも面倒くさそうだったとか、

 ──また面倒を持ち込みやがって、この野郎……

 とでも言いたげな態度だったとか、そんな様子であれば、カチンと来る人も居るだろうとは思います。
 昔の国鉄の駅員などはおおむねそんな感じだったものですが、民間企業のJRになって駅員の態度もずいぶんと改善されました。とはいえJR東日本はJRの中でももっとも所帯が大きく、そのためいちばん旧国鉄に似ているとも言われます。30年以上を経て、まただんだん横柄な態度の駅員が増えてきたという意見もちらほらと聞こえてきます。本当かどうかはなんとも言えません。
 渋谷駅の駅員といえば、先日、怪我をした母が長岡の病院を退院して帰京する際、車椅子を手配してくれたりして、悪い印象はありません。車椅子は普通、列車を下りたところから改札口まで使わせてくれるというのが決まりなのですが、渋谷駅では改札口を出て、さらにタクシー乗り場まで押してくれました。付き添っていた私も妹も、非常に感謝したものでした。
 駅員にもいろんな人が居ますし、夜20時などという時間帯では忙しくてカリカリしているかもしれません。そこへモンスタークレイマーみたいな客がからんできて、何度制止しても線路に下りようとしたり、人の眼を盗んで緊急停止ボタンを押したりしていては、怒鳴り出すのも無理は無いでしょう。とは言うものの、簡単に動画を投稿されてしまうような世の中ですから、言動には注意すべきというのも、また大事な点でしょうね。

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