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"ニート”作曲家シューベルト [ひとびと]

 この前声楽家の友人と話していたとき、なんの拍子にか
 「シューベルトの5番のミサ曲
 という曲名が話題に出ました。どこぞで歌ったという話ではありましたが、私はふと疑問を覚えました。
 ミサ曲というのはいろんなタイプのものがありますが、基本的にはかなり大規模な楽曲です。独唱、合唱、オーケストラを駆使した大作になることが普通です。まあ、ルネサンス期には無伴奏合唱によるミサもたくさん書かれていますし、編成が小さいものが無いというわけではありません。しかし少なくとも、古典派からロマン派あたりにかけてミサ曲といえば、ベートーヴェン荘厳ミサ曲などで代表されるように、大がかりなものがほとんどでした。
 シューベルトのミサ曲も、当然その流れにあります。彼は6曲のミサ曲と、「ドイツ・レクイエム」そして「ドイツ・ミサ」(この2曲は、ラテン語による通常典礼文でなく、ドイツ語をテキストにしているのでこう呼ばれます)を書きましたが、ほとんどが3~6人の独唱者と混声四部合唱、それにオーケストラとオルガンを伴う大規模楽曲です。第2番と第4番は弦楽のみのオーケストラ、ドイツ・レクイエムはオルガンのみの伴奏、ドイツ・ミサは独唱が無く管楽器主体のアンサンブルとオルガン、ということになっていますが、演奏に大変な手間と費用のかかるものであることに変わりはありません。

 私が不思議に思ったのは、シューベルトはこんなに大規模楽曲を書いて、ちゃんと演奏に漕ぎ着けられたのだろうかということでした。
 もちろん、ミサ曲ばかりではありません。交響曲は完成したものだけでも8曲書いていますし、オラトリオや大規模なカンタータも書いていますし、あんまり知られていませんがオペラやジングシュピール(歌入り芝居)もけっこう書きました。いずれも演奏や上演を実現するには、広い会場を押さえ、演奏者を手配し、リハーサルを何度もおこない、入場券を売りさばかなければなりません。
 ピアノ曲や歌曲ならば、仲間うちのサロンコンサートなどで、ちょっと知り合いに頼んで発表することも簡単にできますが、交響曲とかミサ曲とかになると、そうはゆきません。
 前にウイーン楽友協会の資料室長であるオットー・ビーバ博士の講演で、当時(18世紀末~19世紀はじめ)の演奏会事情を聞きました。モーツァルトもベートーヴェンも、自分で演奏者を集め、自分でチケットを売らなければならなかった……と、いかにも「当時は大変だった」みたいなことを言っていましたが、考えてみると私らが作品を発表しようとする場合もまったくご同様で、つまるところ作曲家の苦労というのは今も昔も変わりがないということになりそうです。
 そこでシューベルトについて考えてみると、彼は何しろベートーヴェンの没年の1年後に死んでいます。およそ1世代の年齢差はあったものの、まあ同時代を生きた人です。つまり、演奏会事情はビーバ博士が語った状況とほぼ同様だったでしょう。
 ところが、シューベルトという人は一生をほとんど貧窮したままで過ごしています。オーケストラにせよ合唱団員にせよ、自力で集められたとはとても思えません。
 「シューベルトは、生きているうちにはたった1曲だけしか作品が売れなかった」
 とも言われます。さすがに「1曲だけ」というのは大げさで、上記の「ドイツ・レクイエム」、モテット「Tantum ergo」、それに若干の歌曲・合唱曲・ピアノ曲などは生前に刊行されています。それにしても、彼の厖大な作品のうちのごく一部に過ぎず、その売り上げが彼の生計の助けになったとは到底思えないのでした。要するに、シューベルトは生前には、周囲から「プロの作曲家」とは見なされていなかったような気がします。

 シューベルトはごく若い頃(17歳くらい)に小学校の先生になりますが、20歳頃にはやめてしまいます。彼に定収入というものがあったのはこの時期だけだったでしょう。やめたのは音楽に専念したかったからでしょうが、専念するに足るだけの経済的基盤は彼にはありませんでした。
 実家も特に裕福ではありません。父も兄もしがない教員でした。理解はあったようですが、一歩進んで経済的に息子ないし弟を支えてやるというほどのことはできなかったでしょう。
 シューベルトは、このあと31歳の若さで没するまでの10年余、友人たちの家を転々とするのでした。つまり居候です。彼の特技は、まわりがどんなに騒がしくても平気で作曲ができたことで、仲間が集まった場所でさらさらと1曲書き上げてその場で発表する、なんてこともしょっちゅうやっていたようです。
 パラサイトというかニートな生涯を送った人物ではありましたが、ただ近年のパラサイトやニートと違って、引きこもりではなく、友達には恵まれていました。
 シューベルトは11歳のとき、ウイーン少年合唱団の前身である宮廷合唱団の欠員募集に応じてオーディションを受け、見事3人の合格者のうちのひとりとなります。このおかげで、合唱団員として歌を歌うのみならず、帝立寄宿学校に入学して教育を受けることができるようになりました。いわゆるギムナジウムですね。それも帝立ですから最高レベルです。
 彼は5年間、寄宿学校で学びました。全寮制ですから、クラスメイトとは昼も夜も一緒です。その中から、何人もの貴重な友人を得ることができたのが、シューベルトの幸せであったでしょう。
 実はシューベルトの最初期の管弦楽作品などは、学校のオーケストラで試演されたようです。声楽のほうは合唱団の仲間に頼めばなんとかなったでしょう。つまり、演奏するためにお金をかける必要はなかったのでした。
 学校から離れても、しばらくは楽譜を持ってゆけば学校のオーケストラで試演して貰うことはできたと思われます。またシューベルトの合唱曲には男声合唱が非常に多いのですが、これも合唱団OBの友達を集めて演奏して貰ったのでしょう。
 彼の作品リストを見ると、1816年(19歳)くらいまでに作曲したものが異様に多いことに気づきます。実際、数としては全作品の半分以上がこの頃までに作られたとも言われています。この時期まで、書きさえすれば誰かが演奏してくれるという、作曲家としてはたいへん幸せな状況が続いていたのではないでしょうか。
 その後生計の道を失っても、ギムナジウム時代の友人たちの温かい友情によって、シューベルトは居候生活を続けることができたのでした。3杯目にはそっと出していたかどうか、それはわかりませんが。

 歌曲などの軽いものは、本当にその場で書いて誰かにあげてしまうといったようなことが多かったようで、ほとんど収入には結びついていませんでした。友人たちが見かねて出版の段取りをつけてやり、「魔王」「糸を紡ぐグレーチヘン」などを刊行してやったのでした。そんな事情で「魔王」は作品1、「グレーチヘン」は作品2ということになっていますが、別に最初の作品、2番目の作品であったわけではありません。
 ただし楽譜を出版しても作曲家にとって大した実入りにならないのは、当時もいまも同じことです。まして当時は著作権の観念がまだ不充分で、刊行楽譜がどこかで演奏されても著作権料が入ったわけではありませんでした。だから、シューベルトはいつでもお金が無くてピーピーしていたのです。
 ついに五線紙を買うお金も無くなり、困っていると、友人の版画家が版木を彫って、五線紙を刷ってくれたというエピソードも残っています。この版画家は「シューベルトの五線紙を刷ってやった」ことを生涯誇りにしていたそうです。
 シューベルトは肖像画を見ても、あまりぱっとしない、ド近眼で小肥りの小男であったようですが、良い友人に恵まれたことだけでも、どこかに魅力のある人物だったのでしょう。あるいは「手をさしのべてやらないとどうにも危なっかしい」と他人に思わせるようなところがあったのかもしれませんが、そうだとしてもなんらかの可愛げのようなものが無いと、人はなかなか本当に手をさしのべるところまではしないものです。

 友人には恵まれましたが、女性にはもてた形跡がありません。エステルハージ伯爵の娘たちに、ひと夏のあいだだけピアノを教えたことがあって、その姉娘と恋仲になったのではないかという噂がありますが、あまり根拠のある話ではないようです。また映画「未完成交響楽」では彼を慕うが振られてしまう娘が登場しますが、これはあくまで映画の上でのフィクションでしょう。作曲家を扱った映画では、たいていこの種の悲恋っぽいエピソードが挿入されます。瀧廉太郎を扱った映画を観たとき、私は、

 ──万一仮に将来、おれを扱った映画が作られたとしたら、やっぱりここで鷲尾いさ子が演じてるみたいな、こんな「恋人」が「創作」されるんだろうなあ。

 などと考えたものでした。
 やはり小柄小肥りの地味な容貌では、あまり女性を惹きつけるところがなかったでしょう。容貌ではなく、彼の作る曲に酔いしれたり、その才能を愛したりした女性が居なかったとは言えませんけれども、基本無収入で、友人宅を転々として居候生活を続けているような実態を知れば、どんな女性だって結婚に踏み切るのは躊躇するでしょう。たとえ本人はその気になっても、親兄弟が許すはずがないのでした。
 結局シューベルトは、何かの拍子に安い娼婦を買って、てきめんに梅毒を伝染されて死に至ります。
 実は最期の年(1828年)の春、友人たちの尽力によってシューベルトの作品のみによる演奏会が開かれます。最初で最後の「個展」でした。これはなんと大成功をおさめ、その収益で借金をすべて返すことができたほどだったそうですが、持ちつけない大金(それにしたってまあ知れたものだとは思いますが)を持って、気が大きくなって女を買ったというようなことだったのかもしれません。確証はありませんが、どうもそんなタイミングであるような気がします。
 それが命取りだったのですから、どうにも間の悪い人であったとしか言いようがありません。ようやく経済的に光が見えてきたところで、早々にこの世を去ってしまったのでした。
 翌年から、シューベルトの作品は続々と刊行されはじめます。ふたたび作品リストを眺めると、「1829年初版」という作品がえらく多いのです。「個展」の成功が呼び水になって、楽譜を求める人が増えたのでないかと思います。もう少し生きていれば……と残念に思わざるを得ません。
 試演すらできなかった曲も、ずいぶんあるのではないでしょうか。彼の死後数年経って、音楽評論家兼作曲家としてデビューしたシューマンが、シューベルトの兄と懇意になり、実家に残されていた未発表作品をずいぶんと発掘しました。その中にはハ長調交響曲「ザ・グレート」も含まれています。シューベルトはおそらくこの曲が音になったところを聴いていないでしょう。
 演奏の機会が無くとも、ただ書くこと自体に情熱を感じていたのでしょうか。考えてみれば私なども、大学に入るまではそんなところがありました。いまはなかなか、演奏の予定がない曲を書くことはしんどい気がしてしまいます。
 そういう意味合いでも、シューベルトという作曲家は生前は決して「プロ」ではなかったと言えるのかもしれません。


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