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"転向"作曲家メンデルスゾーン [ひとびと]

 作曲家という仕事は、ときに大当たりする場合があるとはいえ、総じてそんなに儲かる職業というわけではありません。
 そもそも儲けるために作曲をしているなんて人は滅多に居ないのであって、たいていの人は「書きたいから書いている」のです。もちろん書いたものが売れれば嬉しいし、ちっとも評価されなければ残念に思いますけれども、それじゃあ売れなければ書くのをやめるのかと問われれば、それでも書くだろうと答える人が多数なのではないでしょうか。
 言うまでもなく、様々な理由で筆を折る人は居ます。作曲ではちっとも食えないので、仕方なく別の仕事に就いてみたら、それがあまりに忙しくて、書いている時間なんぞまったく無くなったという場合もあるでしょう。ただしそういう理由で筆を折る人というのは、やはりもともと書くことにあんまり執着が無かったとも言えます。表現欲求というものは、どれほど忙しくとも、いやむしろ他のことで忙しければ忙しいほどふくれ上がってくるのが自然だからです。
 自己表現ということを突き詰めて考え抜いた揚げ句に、やはり自分には「書きたいことが無い」のだ、という結論に突き当たってやめてしまう人も居ます。音大の作曲科などを卒業してしまってから気づくこともあり、筆を折るまでに長い葛藤があるに違いないだけに、悲劇的と言えそうです。

 いずれにせよ、作曲という仕事で食ってゆくのは容易ではありません。見上げるような豪邸に住んでいる作曲家が居ないとは言いませんが、それは豪邸に住めるだけの資産のある家に生まれた人が作曲家をやっているというだけの話であるケースが多いような気がします。一代でそこまで稼げるのはほんのひとにぎり(ひとつまみ?)で、しかもその時代時代における「ポピュラー音楽」に相当するジャンルの人がほとんどでしょう。例えば19世紀において、ヨハン・シュトラウス父子などは稼ぎまくっていました。彼らのワルツは、いまで言えばディスコ音楽みたいなものです。またロッシーニドニゼッティなどオペラ作曲家たちも裕福でした。当時のオペラはいまのテレビドラマみたいなものです。どちらも現代に引き写せばポピュラー音楽に相当します。
 これに対し、ベートーヴェンがそこまで金持ちだった形跡はありません。各種の伝記を見ても、むしろ経済的に苦しい時期が多かったと思われます。彼の新しい交響曲の初演となれば、ずいぶんと遠くの町の新聞まで提灯持ちの記事を書いてくれて、いつも大入り満員だったにもかかわらずです。
 シューベルトが生涯無一文でピーピーしていたことは前に書きました
 同時代のヴェーバーは、名前にフォンがついている(カール・マリア・フォン・ヴェーバー)のでわかるとおり貴族の出身だったにもかかわらず、やっぱり貧乏に苦しみました。ひとつには金銭感覚がまったくなっていなかったらしいのですが、それにしても「魔弾の射手」で世の大喝采を浴びながら、金銭的な実入りはほとんどなかったというのですから気の毒なものです。彼はモーツァルトの妻の従弟にあたる人だったそうですが、そういえばモーツァルトもその妻も金銭感覚はゼロで、常時貧乏暮らしをしていましたね。
 彼らの時代には、著作権という観念がまだほとんど確立されていなかったので、作品がどれほど評判になろうが、金銭的利益とは結びつかないことも多かったのでした。この事情は現代では著作権に関してはとてつもなく面倒くさいUSAでも同様で、フォスターなど、人々が口ずさむ名曲をどれほど発表しても一セントにもならず、貧窮の中に亡くなりました。フォスターはアメリカのシューベルトなどと呼ばれることもありますが、生涯貧乏という点でもそのあだ名にふさわしい人物であったようです。

 その次の代くらいからは、まあまあそれなりに酬われるようにはなったような印象があります。ヨーロッパ勢で言えば、ショパンとかシューマンとかリストとかが、そんなに貧乏していた印象はありません。ただ彼らの生活が、作曲によって支えられていた部分と、演奏(ショパン、リスト)や文筆活動(シューマン)によって支えられていた部分のどちらが大きいかは微妙なところです。しかし、作曲家の経済的な実入りを、いちおう考えようという流れが音楽界に出てきたのは確かなところでしょう。
 そういう中で、メンデルスゾーンは裕福な家の出身であり、生涯を通じてお金の苦労はまったくしなかった幸運な人という印象が強いと思います。それゆえ彼の作品までもが、時として不当に低い評価をこうむることもあるようです。
 「いかにも苦労してない感じで、音楽に深みが足りない」
 などと言われることも珍しくありません。まあそんなことを言う人は、人生における苦労とはお金の苦労だけだと思っている、それこそ幸せな人と呼ぶべきでしょうが。
 ちょうどいま、川口第九を歌う会でメンデルスゾーンの『パウロ』を練習しています。来年の6月の演奏会で扱う予定です。以前には『エリヤ』もやりました。あと『キリスト』(未完)をやればメンデルスゾーンのオラトリオをコンプリートすることになりますが、どうなりますことやら。
 それでちょっとメンデルスゾーンについて考えているのですが、『エリヤ』と『パウロ』を並べてみたとき、彼が改宗者であったことに想いを馳せずには居られません。
 メンデルスゾーンがユダヤ人の家系の出身であることはよく知られています。家が裕福だったのも、ユダヤ人ならではの稼業と言っても良い銀行家であったためです。そのためドイツではナチス政権時代に、メンデルスゾーンはずいぶんと貶められたものでした。作品に深みが無いとか新しさが無いとか印象が薄いとかいう、現代でも残っているかに見える低評価も、実はナチスによって下された面が大きいのです。
 しかし、彼はキリスト教に改宗しています。改宗は10歳のときだったようですから、幼時洗礼ではありませんが、しかし自らの意思で改宗したとは思われません。両親の意向だったのでしょう。ユダヤ人というのは、本来は「ユダヤ教を信ずる者」であって、他の宗教に改宗するとユダヤ人ではなくなるというのが古来の規定でしたが、近世以降、ユダヤ人の規定も「宗教」から「血統」にシフトしてしまいました。ナチスもそういう規定を根拠にユダヤ人を迫害したわけです。メンデルスゾーンが改宗した頃は、血統主義となる少し前くらいであったでしょうか。
 ユダヤ教からキリスト教への改宗は、レコンキスタ後のスペインなどで多くおこなわれました。それまでイベリア半島には、キリスト教徒とユダヤ教徒とイスラム教徒が、わりと平穏に混淆して暮らしていたのですが、レコンキスタを進めたカスティリャ王国その他では、一転してイスラム教徒・ユダヤ教徒の迫害に及びました。これだけを見ても、国土回復運動などときれいごとっぽく訳されているレコンキスタが、実のところかなりえげつない侵略行為であったことがわかります。
 ともあれそうやっていきなり迫害を受けることになったユダヤ教徒が、生きるためにキリスト教に改宗するという例が多く、スペインでは彼らのことをコンヴェルソと呼んでいます。改宗者、という意味ですが、語感からすると「転向者」というニュアンスが強いのではないでしょうか。「ドン・キホーテ」の作者セルバンテスの父もコンヴェルソでした。コンヴェルソはいちおうもとからのキリスト教徒と同じ扱いを受けましたが、陰ではマラーノと悪口を言われていました。「豚野郎」ということです。
 19世紀のドイツあたりで、改宗者に対するイメージがどうであったのかはよくわかりませんが、少なくともユダヤ人があまりよく思われていなかったのは、隣国フランスで起こったドレフュス事件の経緯を見ても窺えます。メンデルスゾーンの両親は、子供たちがいやな目に遭わぬよう、またできれば上流社会に出入りすることができるよう、あえて改宗という道を選んだものと思われます。
 メンデルスゾーンの中には、ユダヤ人という出自意識と、キリスト教の後天的信仰意識とが、つねにせめぎ合っていたのではないかと思うのです。それは、宗教に関してすこぶるアバウトなわれわれ日本人が考えるほど気楽なものではなかったことでしょう。

 エリヤ旧約聖書の人物ですから当然ユダヤ教に関係しています。一方パウロイエスの死後キリスト教が世界宗教化する原型を作った人物です。このふたりをオラトリオの題材として選んだところに、メンデルスゾーンの苦悩と葛藤が見られるような気がしてなりません。
 ちなみに『パウロ』は27歳のときの、『エリヤ』は37歳のときの作品です。37歳というと、死の前年にあたります。早すぎる晩年ではありましたが、この時期の『エリヤ』の作曲は、自分のルーツをいまいちど見直してみようという意図があったのかもしれません。
 エリヤの活躍した時期、ユダヤ教はほとんど壊滅寸前の状態にありました。新バビロニア王国の支配下にあったユダヤ人たちは、続々とエホバを見棄て、バビロニアの神々──バアルイシュタルなど──に帰依していたのです。なんと王様まで改宗してしまいました。王妃イザベルがバビロニアの王族か神官の娘だったからでしょう。
 エリヤはさまざまな奇蹟を起こしてバアルの神官たちを打ち破り、ユダヤ人たちのエホバへの信仰をつなぎとめたことになっていますが、ありようは、危機感を覚えたユダヤ教の指導者たちが、この時期にユダヤ教の教理や神学を必死で創り上げたというところでしょう。おそらく、ユダヤ教がほぼ現在のような形になったのがこの時期だったのだと思われます。
 幸い、エホバ信仰が消滅する前に、バビロニアがペルシャ帝国に亡ぼされたので、ユダヤ教はかろうじて生き延びました。エホバはもう少しでバアルやイシュタルに敗北するところだったのです。そうなっていたら、当然その後のキリスト教も生まれようがありませんでした。
 少年期以降をキリスト教徒として過ごしてきたメンデルスゾーンが、晩年に至り、エホバを守りキリスト教の誕生を助けることになった存在に思い至って、出自たるユダヤの誇りを思い返して『エリヤ』を書いたのだと考えても、決して突飛ではないと思います。従来、メンデルスゾーンの宗教音楽作品にはクレド(信仰告白)としての意味合いは稀薄で、単にそういう曲を求められる状況だったから書いたに過ぎないと言われてきましたが、オラトリオという大規模な楽曲を、なんの宗教的シンパシーも無く書けるものだとは、私には思えません。

 交響曲や協奏曲のたぐいを見ると、メンデルスゾーンの作品は確かに古典的均衡美のようなものが先行していて、感情の生の噴出みたいな要素は薄いように思えます。20世紀にはそれが悪いこと、というか、少なくとも欠陥のひとつとして考えられていたフシがあります。
 しかしそれは作曲者がそういう美意識であったというだけの話で、作品の価値を損なうものではありません。現在の眼から見ると、対極上にあるようなシューマンの奔放さが、むしろ中二病的な稚気に見えてしまったりもするわけです。
 メンデルスゾーンの作品が、英国で特に好評だったというのもわかる気がします。穏当な構成美という点では、エルガーあたりに通じるものが確かにあるようです。メンデルスゾーンを、ブラームスレーガーなど、ドイツにおける保守的傾向とされる作曲家の系譜上に位置づけようという考えかたもあるのですが、私はむしろ、英国にこそ彼の影響が強く残っていたのではないかと考えます。
 それに、彼の作品が言われるほど保守的であるかどうかも疑問です。和声の使いかたなどにはむしろ斬新さが見受けられます。彼がバッハを再発見し、「マタイ受難曲」の再演などを通じてバロック的書法を身につけて、自分の作品の上でも対位法を大いに活用しているのは事実ですが、これもまたいままで言われてきたような保守性の顕れであるとは到底思えないのでした。そんなことを言えば、カノンの技法を徹底的に採り入れて十二音技法を創り上げたシェーンベルクらさえも保守的だということになってしまいます。メンデルスゾーンがバッハに学んだのは、いわばルネサンスというべき事柄でしょう。温故知新と言っても良いかもしれません。
 「新鮮ではあっても過激ではない」メンデルスゾーン作品が、20世紀的価値観からすると少々物足りなく感じられたのも、わからないではありません。しかし、そろそろわれわれはそういう価値観を脱しても好い頃です。まして、裕福だったからというだけで
 「いかにも苦労してない感じで、音楽に深みが足りない」
 などという、それこそ深みの無い見かた(ナチス由来?)からも卒業するべきでしょう。彼がユダヤ教とキリスト教という、ふたつの宗教──という以上にふたつの「生きかた」のはざまで、大いに苦悩していたことは間違いないように思います。宗教対立が世界的問題となりつつある21世紀において、彼の苦悩はむしろ今日的と言えるのではないでしょうか。


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