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第14回自主演奏会 [お仕事]

 昨日は疲労困憊で寝てしまい、日誌を書けませんでした。
 のっけから妙なことを書いて恐縮です。実は昨日は、川口第九を歌う会第14回自主演奏会があったのでした。
 何度も書いていますが、簡単に説明すると、年末にベートーヴェン第九交響曲を演奏するという趣旨で結成されたのが川口第九を歌う会で、当初はその名のとおり第九だけ歌っていたのですが、何年か経つうちに、他の歌も歌おうということになったのでした。第九のほうは川口総合文化センターリリアの年中行事として組み入れられているので、毎年予算が下りますが、他の歌を歌うとなると予算は出ません。それで、会費その他の収入を積み立てておいて、2年に1度、自主演奏会を開催するようになったのでした。
 いままで、モーツァルトフォーレヴェルディなどのレクイエムブラームスドイツレクイエムグノーなどのミサ曲ヘンデル『メサイア』メンデルスゾーンの合唱付き交響曲「讃歌」やオラトリオなどを演奏してきました。モツレクやドツレクなどは複数回やっています。
 それが今回で14回目となり、会も設立30年を迎えるとあって、なかなか気合いの入ったプログラムとなったのでした。
 メインはシューベルトミサ曲第6番です。これ自体は、まあ結構な長さがあるとはいえ、そんなに「大変」というような曲ではないかもしれません。
 ところが、問題は前座なのでした。
 いままで自主演奏会でやった曲は、『メサイア』などのオラトリオを除き、せいぜい長くても1時間強というくらいのサイズです。フォーレのレクイエムなどなら30分かそこらで終わってしまいます。
 それでは演奏会として少々物足りないというわけで、たいてい前座の曲が置かれます。この前にドイツレクイエムをやったときは、同じブラームスの悲劇的序曲を演奏しました。これは毎年の「第九」演奏会でも同様です。
 シューベルトの6番ミサも1時間ちょっとくらいの長さで、今回も前座が置かれました。
 ところが、この前座、普通ならオーケストラ曲が用いられるのですが、今回は30周年ということを意識してか、なんと合唱曲、しかも無伴奏合唱曲が置かれたのです。それもブルックナーのモテットを5曲も。
 ブルックナーは、交響曲にしても演奏者に多大なエネルギーを要求する難物ですが、合唱曲もかなりのパワーを要します。極大のフォルティシシモから静謐なピアニシモまで、おそろしく幅広いダイナミクスを必要とし、しかもそれが間断無しに移行したりします。少人数の合唱団では難しいでしょう。
 第九を歌う会は少ないときでも100人は居るし、演奏会のときには必ずエキストラとしてプロの歌い手が何人か呼ばれるので、まあそのダイナミクスの点では不足はありません。
 しかし、後期ロマン派特有の非常に複雑な転調が頻出します。こちらはかなり高度な訓練を受けた合唱団でないと難しいでしょう。しかも第九を歌う会は、常にオーケストラと共に歌っているため、アカペラで歌うことは苦手です。
 正指揮者である高橋誠也先生としては、30周年という機会にぜひともこれを扱ってみたかったのだと思われ、その気持ちはわからないでもありませんが、正直言ってかなり無謀な試みであったようです。
 こんな難曲に挑むのであれば、それなりの練習環境が不可欠だったはずですが、いつもシューベルトの練習を2時間ばかりやって、みんないい加減集中力が落ちてきた頃になってブルックナーの練習にかかるものだから、一向に上達しないのでした。
 最終的にはエキストラの力量に頼ろうとしていたようでしたが、エキストラだってブルックナーのアカペラ合唱曲をわずかな参加回数で歌いきるのは容易ではありません。それでもまあ、プロですから本番には間に合わせられたと思いますけれども、練習のときに自信の無い音程などを、やや抜き気味に歌ってしまうのはやむを得ないところです。しかし高橋先生はエキストラのそういう態度を許しませんでした。本番がかなり近くなった頃の練習で、しびれを切らしたらしく
 「エキストラの人たち、ちゃんと出してくれよ。きみたちプロなんだろ? きちんと仕事して貰わないと困るよ」
 と、かなりきつい叱責をおこなっていました。確かに一緒に歌っているアマチュア連中にしてみれば、プロであるエキストラが自信なげに歌っていると不安になってしまいますから、この叱責もわかるのですけれども、憮然とした人も少なからず居たでしょう。
 私は練習ピアニストとして、大丈夫かいなと思いながらブルックナーの練習につきあってきました。ときどきはテノールパートを一緒に歌ったりもしていました。
 第九にしろ、自主演奏会にしろ、本番が土曜日であるときは私は出演はしないのですが、日曜日であれば常任講師のひとりとして合唱に参加することにしています。出演料も貰えるので良いアルバイトにもなります。今回も本番は日曜(23日)だったので、乗ることにしていました。
 たいていは1、2度リハーサルに参加して様子を把握してから本番に臨むわけですが、今回は本番2週間前の練習にいちど参加してみたら、これはちょっと大変だと思い知り、その後のリハ時にはできる限り顔を出したものでした。一度は『セーラ』の公演日だったので無理でしたが……というか、『セーラ』の公演日にリハーサルが入っていたために、川口第九の人に全然『セーラ』の勧誘ができなかったのがはなはだ残念です。
 結果的に、3回のオーケストラ合わせの機会には全部参加したことになりました。私としてはかなり危機感を持ったほうです。ブルックナーもその都度歌いました。歌うほどに、これは容易ならぬ曲であると思うようになりました。

 川口第九を歌う会の開催した演奏会の中で、前座自体が合唱曲であったというケースはいちどしかありません。しばらく前の「第九」演奏会で、源田茂夫さんが振ったことがあるのですが、そのときの前座曲は同じベートーヴェンの「合唱幻想曲」でした。「合唱付きピアノ協奏曲」という体裁のけったいな曲で、「合唱付き交響曲」である第九よりも早く書かれています。その意味では第九の先駆を為す作品であると言えないこともありませんが、正直言って駄作です。作品80という、ベートーヴェンがいちばん迷走していた時期に書かれただけのことはあり、何を考えてこんなものを書いたのだろうかと首を傾げたくなるような作品なのでした。
 作品77に、ピアノのための「幻想曲」というのがありますが、雰囲気はそれに似ています。「幻想曲」も名作とはとても呼べない作品で、とりとめがない上に、終盤になるとまるで霊感を感じさせない平凡なフレーズがこれでもかと繰り返されます。もちろん繰り返すときには変奏などはされているのですが、その変奏の方法も、「自作主題による32の変奏曲」などで見せた名手ぶりとは似ても似つかないダサダサなシロモノで、弾いているうちに飽きてきます。
 「合唱幻想曲」はその「幻想曲」の迷走ぶりを、大編成そして数倍の規模でやらかしてしまったような曲です。終盤に平凡なフレーズが平凡な変奏を伴って繰り返されるのも同じで、この段階でようやく合唱が登場します。
 源田さんはこの曲が妙に気に入ったようで、
 「第九の前座は毎年これにしたらいかがですか」
 などと言っていましたが、同意する人は居なかったらしく、川口第九を歌う会ではいちども再演されていません。
 このときは確かに合唱が前座にも参加しましたが、歌う時間はごく短く、メインも第九ですから合唱の正味演奏時間は15分くらいなもので、まあ楽なものだったのでした。
 ブルックナーの無伴奏モテット5曲は、それとはわけが違います。相当な演奏能力と集中力が必要とされる難曲なのです。
 この曲の楽譜を渡された際、私はまさか自主演奏会の前座に使うつもりだとは思いませんでした。それと知って、
 「なんで?」
 と思わず呟いてしまったものでした。他の講師たちも顔を合わせると
 「なんで?」
 と首を傾げ合ったほどです。みんな、無理じゃないのかと思っていたのです。どうしてもブルックナーが良いのであれば、オーケストラ付きのモテットなどもあるので、そういうものを使えば良いのにと思いましたが、オーケストラの負担が大きくなるために難しかったのかもしれません。「第九」演奏会はその都度プロのオーケストラと指揮者を頼むのですが、自主演奏会のオーケストラは新日本交響楽団というところで、これは某プロ楽団と非常にまぎらわしい名称ですけれども、高橋先生が指導しているアマチュアオケです。毎回選ばれる大曲をよくやってくれているとは思いますが、無理はさせられないでしょう。合唱と違ってエキストラを入れるのは難しいし、入れたとしても演奏が劇的に良くなるというものでもありません。
 ともかく、関係者各位の大きな疑問符を伴ったまま、高橋先生のたっての希望で、ブルックナーの無伴奏モテットが前座に据えられることになったわけです。前座と言うにはあまりに重たい選曲でした。

 日曜の朝、11時からゲネプロだというのでリリアに行きました。
 しかし、おこなわれたのはまったくゲネプロではなく、いつもの止めながらの練習でした。音楽的にまだ出来上がっていないところがあったのでしょう。合唱もそうですが、オーケストラのほうにもいろいろ問題が残っていたようです。
 結果的にリハーサルが終わったのは、開場まであと30分しか残さない14時のことでした。本番直前に、3時間もかけて練習していたことになります。ここまでで、すでにだいぶ疲れていた人も多かったようです。
 私もかなりくたびれていました。数週間前からどうも腰が痛くて、起き抜けなどかなり深刻です。起きて活動しているうちにだんだん直ってくるのですが、長時間立ったりしているとやはりしんどいものがあります。ちょっとやばいなあ、と思いながら屈伸運動などをしました。
 出演者には弁当が配られますが、本番まで1時間足らずでは、たっぷり食べてしまうとおなかがふくれて声が出なくなりかねません。半分くらい残した人も多かったのではないでしょうか。私も全部はとても食べられませんでした。
 さて開演です。オーケストラのための椅子や譜面台は置かれていますが、オーケストラメンバーが誰も居ない舞台の後方に合唱団が並びます。指揮者である高橋先生との距離が遠いこと。この距離感での練習をあまりしていないな、と思いました。
 結果から言えば、危惧していたほどひどいブルックナーにはならなかったかな、といったところでしょうか。音程は若干下がりましたが、半音以上だだ下がりになったほどの曲はありませんでした。それに下がりつつも和音をキープしようと頑張ったので、1、2箇所を除いては「わけがわからない」響きにはならなかったと思います。エキストラたちも本番はさすがにプロの仕事をしてくれました。
 それにしても、モテットはいずれも無伴奏合唱曲としてはけっこう長く、5曲歌い終わった時点で、もう30分くらい経っていました。言い換えれば、ここまでで「第九」の倍くらい、合唱団は歌ったことになります。そして前述のとおり、「第九」同様に多大なエネルギーを要する曲でもあります。
 シューベルトがはじまるまで15分の休憩が置かれましたが、舞台裏ではみんな坐りこんでしまっていました。私も腰は痛いし、着ていたワイシャツなどもう絞れば水がしたたりそうなほどに汗をかいています。

 シューベルトのミサ曲第6番は、彼の早すぎる死の数ヶ月前に書かれた、この種の曲としては最後の作品です。
 大規模なオーケストラや合唱・独唱を含むようなミサ曲を6曲も書いて、シューベルトは音にする機会があったのだろうかという疑問を抱いたことがあります。生涯貧乏暮らしであったシューベルトは、自分でオーケストラを雇ったりすることはできなかったでしょう。合唱のほうはウイーン少年合唱団時代やギムナジウム時代の仲間のツテでなんとかなったかもしれませんが。
 実は、第5番までのミサは比較的初期に書かれていて、それこそ出身校のオーケストラや合唱団に頼むことができたようです。
 そして、第6番は、死の年の春に催された彼の最初で最後の個展のあとで、「依頼」されて書いたものだったのでした。友人たちの尽力により開催された個展は大成功を収め、作曲家シューベルトの名は一躍騰がり、それまでため込んでいた借金もすべて返すことができたほどでした。シューベルトは生涯ではじめて、ちょっとした小金持ちとなったのでした。それで調子に乗って安い娼婦でも買ったのが、彼の死因である梅毒の感染経路ではないかと疑われ、どこまでも間の悪い人であったとの実感を覚えるのですが、ともかくその個展で名を上げた結果としてミサ曲の作曲依頼が来たものとおぼしいのでした。

 それだけに、この第6番にはシューベルトがかなり「頑張った」観があります。
 そのひとつが、シューベルトには珍しいフーガ的な処理の多用です。グローリアとクレドの後半には、いずれもかなり長たらしいフーガが置かれていますし、アニュス・デイでは二重フーガにさえ挑戦しています。
 かつてピアノ曲「さすらい人幻想曲」で終楽章をフーガにしようと試み、無惨に失敗してなんの変哲もない分散和音処理に逃げてしまったシューベルトとしては、いかにも頑張ったなあと思います。たとえ途中が中だるみ気味であろうと、グローリアとクレドのフーガがきわめて似たり寄ったりのものであろうと、主題も対位もどこかで聴いたような非個性的なメロディであろうと、彼は最後まで頑張ったのでした。仕事として頼まれたのだからと思い、覚悟を決めて取り組んだのでしょう。
 実はシューベルトは、この曲を仕上げたのち、生涯でただ一度、対位法のレッスンを受けに行きます。この分野がとことん苦手であることに、ミサ曲を作り終えてから思い知ったのでしょう。本当はもっと何度もレッスンして貰う予定だったのでしょうが、あいにくと彼は間もなく世を去ります。いささか遅すぎた覚醒でした。
 頑張っているのはわかるが、せめてグローリアとクレドのフーガは、拍子とか導入パート順くらい変えたらどうだ、というのが私の感想です。ちなみに私はわりに対位法が得意なほうです。シューベルトのような美しい旋律こそ書けなくとも、こと対位法処理にかけてはシューベルトよりはなんぼかましであろうと思っています。
 このミサ曲には独唱も入りますが、その部分はあまり多くありません。そのため、合唱団用には長椅子も設置されていましたが、途中で坐ったりする余裕はありませんでした。ずっと立ちづめです。
 合唱との掛け合い部分が多いし、クレドではソプラノとふたりのテノール、ベネディクトゥス以降ではソプラノ・メゾソプラノ・テノール・バリトンがひとりずつ、という編成の変化があるところからしても、どうもこの曲の独唱は、作曲者の意図としては合唱団の中の人間が歌うというつもりだったのではないかと思われます。
 自主演奏会では、ソリストは基本的に常任講師陣が務めます。とりわけ出番の少なかったメゾの中野由弥さんやバリトンの酒井崇くんに
 「今日は楽だったでしょ」
 とイヤミ(笑)を言うと、申し訳なさそうな顔をしていました。
 なお、クレドに出てくる第二テノールだけは、常任講師陣では賄えず、エキストラとして合唱に加わっていた濱田翔くんが務めました。つまり、この演奏会でいちばん大変だったのが濱田くんということになりそうです。なお、彼は『セーラ』にも賛助のアンサンブルで出演してくれていました。不思議のご縁のようですが、実は第九を歌う会のエキストラの元締めを、ここしばらく板橋区演奏家協会の協会員である本馬親良くんがやっているので、そんなに偶然というわけでもありません。以前は長野佳奈子さんなどが出たこともあります。
 濱田くんは合唱に参加しているときは私の隣で歌っていて、おかげで私は声量を張り上げる必要は無くて助かりました。近くにいた新田恵さんによれば、濱田くんのほうは私の出しているピッチを少しあてにしていたらしいとのことだったので、まあうまく組み合わさったかな、という気がしました。

 それにしても、直前まで止め練習で、実はミサ曲全部を「通し」で歌ったことがいちどもなく、みんなペース配分は大丈夫かと私は心配していました。練習ではいつもクレドのあとで休憩が入っていました。直前練習でもそうでしたから、クレドが終わったところで集中力が途切れてしまうのではないかと懸念していたのです。
 しかし、本番特有のテンションがなんとか続いてくれました。サンクトゥス以降の3楽章が比較的短かったのも良かったのでしょう。
 アニュス・デイの最後の「われらに平穏を」を歌いきって、もうすぐにでも坐りたい気分でしたが、そうはゆきません。指揮者のアプローズがあり、指揮者とソリストへの花束贈呈があり、それからアンコールです。ハイドン『四季』のうち春の合唱で、この会では何度も歌っている曲ですが、実を言うと私は(伴奏は何度も引いていますが)歌うのははじめてで、これまたプレッシャーになっていました。だいたいドイツ語の歌は苦手なんだ。
 単純に時間だけで言っても、「第九」の6倍くらいは歌い続けていたことになり、疲れるのも当然でした。いや、Chorus STの演奏会などを考えると、時間に関して言えばもっと歌い続けたこともありますけれども、ステージの長さは15~20分ずつくらいなので気分を変えられます。それに、Chorus STの演奏会であれば私も長期間練習を積み、ほとんど身についた状態で歌えますから、大変さはそれほど感じません。伴奏者としては長期間曲につきあってきたとはいえ、歌い手としては3、4回の練習で大曲を歌いきったわけで、その両方があいまって、私のこれまでの経験上でももっとも体力を持ってゆかれた演奏会ということになった気がします。
 ロビーでの打ち上げに出席し、そのあと少人数での二次会にも顔を出したものの、そろそろ限界を感じたので中座し、帰宅したらもう日誌を書く気力もないほどに疲労困憊していて、さっさと寝てしまった次第です。
 次回の曲目は、今回アンコールで用いた『四季』らしく、大変ではないかと講師陣がまた心配していましたが、なんというか、今回を乗りきった合唱団には、もう怖いものなど無いのではないかと私などは思えたのでした。

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