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ハギビスその後 [世の中]

 颱風19号「ハギビス」は、想像以上に大きな爪痕を残して行った様子です。私は襲来当日(12日)の夜あたりの時点で、それほど大水害ということにはならなかったようで良かった、という意味のことを日誌に書きましたが、一夜明けて13日になると、大小河川が50箇所以上決壊・氾濫し、70人近い死者が出ていると報じられ、びっくりしたものです。
 死者数は、日が経つにつれさらに増え、80人に迫る勢いですし、行方不明者も30人以上出ているとのことです。水害の行方不明者というのは、関係者のかたがたには申し訳ないことながら、他の災害とは違って、ほぼ生存は絶望的というのが一般的な見かたですので、最終的には死者は100人を超えることになるのではないかと思われます。
 水深数メートルに達する洪水もあちこちで発生しましたし、床上浸水で家屋が泥まみれになったところなど数え切れないほどです。これから冷え込む季節になるのに大変です。まあ、暑ければ暑いで、病気の発生などを警戒しなければなりませんし、どの季節なら良かった、というような話でないのはもちろんです。
 家の中の何もかもが泥に覆われてしまって茫然としている人々の表情をテレビで何度も見て、まことにお気の毒にと言いたくなりますし、何やら大して被害の無かった自分が申し訳ないような気分になるほどでした。これは東日本大震災のときでも同様でした。あのときは、うちは奇跡的に何も倒れず何も壊れず、本棚の上に積んであった古雑誌が落ちてきたくらいで済んだので、あとで知り合いから、皿が全部割れたの天井が抜けたのという話を聞いて、なんだかスミマセンと言いたくなったものです。
 ともあれ「この百年で最大」と言われた颱風の威力は半端なものではなかったようです。自分の当日の状況把握が甘かったことを恥じると共に、被害に遭われたかたがたには衷心よりお悔やみを申し上げます。

 さて、私の住んでいるのは荒川流域で、荒川の土手までは300メートルほどしか離れていません。荒川が氾濫するのではないかとだいぶ警戒されましたが、それは幸いありませんでした。中流域である熊谷あたりでは危険情報が出されていましたけれども、川口のあたりでは、水防団による監視はおこなわれていたし、避難勧告なども出されては居ましたが、結局それ以上のことは起こらずに済みました。
 荒川は、前にも書きましたが、本来はその名に恥じぬ暴れ川でした。何度も流域に深刻な水害をもたらしていたのです。渡し船時代は増水して川止めになることも多く、そのため江戸からごく近いのに、両岸に緊急避難用の宿場(岩渕と川口)が置かれていました。
 明治43年の大水害のあと、抜本的な荒川の治水がおこなわれることになりました。荒川は、少し上のほうでは入間川というけっこう大きな支流が合わさり、岩渕のあたりではまた新河岸川という支流を合わせて、相当な水量が流れ込んでくるのに、それを隅田川1本で受け止めようとしていたところに無理があったと言えるでしょう。隅田川というのは本来、荒川の下流域の呼称です。荒川と新河岸川が合流して隅田川になる、と考えておけば良いでしょう。「春のうららの隅田川」と平和に歌われていますが、「錦織りなす長堤」というほど大した堤防は無く、何より充分な河川敷が設けられていないのは現在の隅田川を見てもわかります。荒川が増水したら、隅田川流域の下町はたちまち洪水の餌食になっていたことでしょう。
 それで、岩渕から分流する、大規模な放水路を設置することになりました。千住を通って、葛西の海岸に水を導くバイパスです。明治・大正時代といえども、そのあたりには多くの住民が居たでしょうし、その立ち退きを含めて大変な難工事で、大正時代のうちには終わらず、昭和5年にようやく完成しました。かなり増水しても大丈夫なように、河川敷には相当に広い余裕が設けられました。通常時に荒川沿いの土手などを歩くと、土手から水面までがえらく遠くて、こんなに河川敷をとらなければならないのかと首を傾げたくなりますが、もう洪水はこりごりという危機感が、充分すぎるほどに余裕のある設計に結びついたのでしょう。
 この放水路は、もともと本流であった隅田川よりもはるかに大きな流れとなり、水量も隅田川の倍以上となりました。そのためか、昭和40年にはこちらが荒川の本流であるとされ、隅田川のほうが放水路扱いということにされたのでした。昭和40年代後半に小学生であった私は、地図帳で隅田川のところに「(荒川放水路)」と添え書きされていたのを憶えています。いまの地図ではどうなっているのでしょうか。
 放水路工事のおかげで、荒川流域の水害は激減しましたが、それでも昭和22年カスリーン颱風では堤防が決壊して大きな被害が出ました。このため、もう少し川上のほうでもかなり徹底的な治水作業がおこなわれ、取水堰、遊水池、調節池、それに治水ダムの建設が相次ぎました。
 今回の颱風で、危ないと言われながらも荒川本流が無事だったのは、こういう長年の治水事業が実を結んだと言えそうです。

 荒川と明暗を分けたのが多摩川でした。東京都と埼玉県との県境となっている荒川に対し、多摩川は東京都と神奈川県の県境で、似たような立場と言って良いわけですが、こちらは二子玉川のあたりで氾濫してしまい、人口密集地だけにかなりの被害を及ぼしたのでした。
 これについては、堤防改良工事にあたってあのあたりの住民が反対運動を起こし、訴訟騒ぎになったことも大きな要因になっているということです。裁判は結局住民側敗訴となり、堤防改良工事は再開されたのですが、今回の大雨には間に合わなかったのでした。
 だいたい堤防の改良に反対するという神経がよくわかりません。自然の景観を残したいということなのでしょうが、都市化が進みきった二子玉川、世田谷区川崎市の境目なんて場所で自然の景観と言われても、何を今更な感じです。反対派の言い分だと、桜並木とか松の立木とかを残したかった模様ですが、そもそも桜並木は「自然」ではなく、人が植えたものです。桜は植え替えが利きますが、水害に遭ってしまっては取り返しがつきません。
 これは以前、石神井川の川沿いを歩いたときにも思ったことがあります。石神井川はごくささやかな小河川ではありますが、それでも昔はよくあふれて、流域に洪水を起こしていました。いまはほぼ全域に護岸工事がほどこされて、まず洪水は起きなくなりましたが、歩いていると何箇所か、護岸工事を拒否している住民の家と思われるところがありました。そこだけコンクリートの堤防が途切れて土が露出しているのです。その上に、かなりぎりぎりのところに建てられたボロ屋が乗っかっているのが共通していました。たぶんもう居住者は齢をとっていて、ワシが生きているうちにはもうどうせそんな洪水など起こらんだろうとたかをくくって、担当者の説得を拒否し続けていたのでしょうが、堤防というのは一箇所でも工事のし残しがあれば、必ずそこから決壊するものです。いざ洪水が起こったときに、その居住者は責任をとれるのだろうかと思いました。
 もう20年くらい前の話ですが、あの家はその後どうなったろうかと気になります。
 ともあれ、多摩川は決壊しました。
 反対運動をしていた団体は、直前まで大いばりで、貴重な景観を保護するために活動していますというような看板を掲げていましたが、決壊以来、ホームページも削除して逃亡してしまいました。さすがに立場が悪いと判断したのでしょう。下手をすると、被害を受けた人たちから、工事を遅らせた責任を問われて訴えられかねません。
 武蔵小杉あたりで最新鋭のタワーマンションが、地下にあった電気系統が水でやられて停電となり、エレベーターもトイレも使えなくなるという惨状に陥っていますが、あれもちょうど多摩川が決壊したあたりです。
 堤防の弱いところに必ず被害が出るという、そのテキメンさに唸らされる気分ですが、実は多摩川に関しては、堤防だけの問題ではありません。
 荒川と違って、多摩川には治水ダムや遊水池がほとんど設置されておらず、そのため下流域に一挙に水が流れてしまったために堤防も決壊したのでした。
 多摩川の上流には奥多摩湖があります。別名小河内(おごうち)ダム、東京の水がめと言われている大きな人造湖です。東京で繰り返される夏の渇水を救うべく計画され、約6千人の住民を移転させて作られました。この6千人という数字は、たぶんダム建設のために移転を余儀なくされた住民の数としては、いまなお日本最大ではないかと思います。かなりの山の中ですが、さすがに東京都内と言うべきでしょうか。
 当然建設当時は大変な反対運動があり、共産党山村工作隊が工事現場の爆破をもくろんで露見し、検挙されたりしています。国会でも都議会でも、そんなものを作っても無用の長物だ、おごうちダムどころか小(しょう)河(が)内(ない)ダムだ、などとさんざん叩かれたものでした。
 しかし完成してみると、その効果は絶大でした。東京はほぼ夏季の渇水を免れるようになったのです。これができていなければ、山本七平氏も「日本人は水と安全をタダだと思っている」などとは評さなかったかもしれません。もちろん代々木の共産党本部も大いに恩恵にあずかりました。「村民6千の犠牲により造られたダムの水など利用できるか!」と、せめて数年だけでも意地を張って貰いたかったものですが。
 このように役に立っている奥多摩湖ですが、治水という意味では、奥多摩湖単独ではいかんともしがたいものがあります。少し下流に白丸ダムというのもできましたが、二瀬滝沢浦山有間合角(かっかど)と何段階にもダムが設けられている荒川水系と較べると、その数も処理能力もはるかに劣っています。
 そして、中流域あたりに遊水池や調整池を多数設置するだけの土地も取れませんでした。多摩川流域は、古くから人口が稠密なのです。
 結局、上流・中流のあたりで水量調節が充分にできなかったのが、堤防決壊の大きな要因でしょう。
 被害に遭われたかたがたには酷な言いかたになるかもしれませんが、事前に充分な準備をしていたところは無事で、準備が足りなかったところがやられるという、なんだか人間の営為を自然に見透かされているような因果応報が目立ったのが、今回の颱風の結果だったように思われます。

 ダムと言えば、「脱ダム宣言」なるものをしていた知事が居ましたし、「コンクリートから人へ」を旗印にあちこちのダム工事や堤防工事を停止させていた元政権政党もありました。
 颱風19号「ハギビス」の被害は、首都圏よりもむしろ、その後に通過した信越地方や東北地方のほうが深刻でした。大雨になったのが夜中であったせいで逃げ遅れたというケースも多かったでしょうが、河川の決壊・氾濫もそれらの地方のほうが多く発生していたようです。
 特に「脱ダム宣言」の長野県では、あちこちで大変なことになっています。治水ダムを造らせなかったために、あっという間に盆地に水が流れ込み、あふれかえったのでした。長野県のような地勢で治水ダムを造らないというのは自殺行為のような気もします。田中康夫元知事に誰かインタビューしに行ったらどうでしょうか。
 一方、隣の群馬県では、同じような地勢ではありますがさほどの被害は出ませんでした。ここは、民主党政権の初期にだいぶ話題になっていた八ッ場(やんば)ダムがあるところです。工事を続けるべきだ、いや公共工事にカネをかけるのは無駄だ、と大論争があったあげくに、鳩山政権は工事の中止を決定しました。
 しかしすでに移転していた元住民からは「なんのための移転だったんだ」と突き上げられ、ほうぼうから必要論も巻き起こってきて、野田政権時に工事再開となりました。
 この八ッ場ダムが、今回の颱風で大いに役立ったようなのです。ダムは竣工してから間もなく、試験的に注水をはじめていた時期でした。それが一挙に満水になったというのだからすごいものです。八ッ場ダムが完成していなければ、それだけの水量がいきなり下流に押し寄せ、利根川流域でもはるかに深刻な被害が出ていたことでしょう。
 これについて、「一時は工事を中断したとはいえ、結果的にGOサインを出したのは民主党政権のときだった。だから民主党の功績だ」などと言い出している手合いが居るそうですが、やいのやいの突き上げられて渋々再開したようなもので、そんなに誇らしい話とも思えません。間に合わなかったらどうするつもりだったのでしょうか。
 「ちょうど試験注水しているタイミングだからたまたま役に立っただけ。普通に稼働していたらさほどの効果は無かっただろう。八ッ場ダムを過大評価すべきではない」などと負け惜しみのようなことを言っている学者も居たようですが、無いよりはあったほうが良いでしょうし、「さほどの効果はなかっただろう」というのもこの人の想像に過ぎません。この人は中立的立場を装っていましたが、過去にダム建設反対の本を書いていて、しかもめぼしい著書と言えばそれだけで、「ただの反対派じゃね~か」と暴露されていました。
 民主党政権は、ダム建設を中止させただけでなく、スーパー堤防の建設も中断させていました。「百年に一度というような滅多にない災害に備えるために、そんなに国民の税金を注ぎ込むのは無駄である」という論理でした。「スーパー無駄遣い」とも言いました。その後まもなく、東北沿岸一帯に「千年に一度の津波」が押し寄せ、今回また「百年に一度の颱風」が通過したわけです。百年に一度というのは、今後百年は遭遇しないという意味ではないということを、特に蓮舫氏には肝に銘じていただきたいと思います。当の蓮舫氏は、今回の災害対策について例によって安倍政権を批難しており、「どの口が言うのか」「おまえが言うな」と各方面から批判の声が上がっています。

 治水は、どの時代、どの地域でも、最優先の政治課題でした。中国でも最初の世襲王朝()を開いたは、黄河の治水に成功して王様に推戴されたのです。エジプトのファラオたちも、ナイルを治水したことでその権力を保持しました。古代では、治水こそ王者の業であり、資格でもありました。
 古代ばかりではありません。あの強大なモンゴル帝国が中国()から撤退したのは、彼らが乾燥地帯の人間で治水の概念が無く、黄河の治水を放置したり、大運河を詰まらせたりしたために、物流が滞りまくってにっちもさっちもゆかなくなったのが大きな原因です。日本でも江戸時代に、大和川利根川の付け替えという大変な工事がおこなわれています。
 どんなに富強を誇っていても、治水をおろそかにした政権や国は、短期間で亡びるというのが歴史の教訓です。民主党政権はまさにその典型として、末永く記憶されるべきでしょう。「(今回の水害について)民主党を批難するのはナンセンスだ」などという発言が、旧民主党の政治家などから上がってきているようですが、もう昔のことは忘れて貰いたいという悲鳴みたいなものと思われます。とんでもない話で、治水にかかる費用を無駄遣いと言い切った為政者のことは、歴史の教科書に載せていつまでも語り継がなければならないはずです。
 治水はいまもって、政治の重要課題なのです。もちろん、なんでもかんでもコンクリートで固めるのが良いかと言えば、そういうわけではないと思います。もっと人の気持ちをざらつかせず、しかも効果の高い堤防やダムの造りかたというのもあるはずで、そういった研究にこそ、われわれは叡智と資金を惜しみなく投入してゆくべきだと考える次第です。

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