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つれづれなるままに [世の中]

 国の緊急事態宣言、それから東京都の警戒状態(東京アラート)が解除されて1ヶ月ほど経ちましたが、最近また東京都とその周辺県で武漢コロナウイルスの感染が増えているようです。都内では50人以上の新規感染者が出ることがもう何日も続き、ここ数日に至っては100人を超えているとか。私が住まいする埼玉県でも少々増加傾向が現れています。
 とはいえ、もともと特効薬やワクチンができたわけではなく、ただ対人接触を減らすという物理的な方法だけで感染者の拡大を防いでいたのですから、その対人接触の制限を緩めれば、また拡大するのは充分に予想できた話です。だから本来、そんなに驚いたり、大異変であるかのごとく報じたりするようなことではありません。
 日本の対コロナウイルス戦略は、ひとえに、医療崩壊を防止するという一点に絞って立てられています。そのために、初期には検査をぎりぎりまで抑え、次いで学校など人が集まる場を閉鎖し、さらに緊急事態宣言を出して企業などの協力を求めました。それぞれの施策には、その都度各所からの批判が飛びましたが、医療崩壊防止という当面の目的は充分に達しましたから、戦略的にはおおむね成功と言って良いでしょう。
 検査を抑えるという当初の戦術は、とりわけ批判の的となりました。韓国やドイツのように、闇雲に検査をたくさんやっているところがもてはやされ、それに較べて日本は……というわけです。感染者が少なく見えるのは検査数が少ないからで、実際には十倍二十倍といった感染者数が居るに違いない、と勘ぐられました。
 しかし、検査をたとえば無料にして増やすことで、検査機関への人の密集が否応なく起こり、感染を拡大したという側面は見逃せません。また医療従事者にしても、検査に人手と時間をとられて、他の病気や、武漢肺炎にしても重篤者への対応が手薄になったのは事実です。また医療従事者への感染というケースも多くなりました。結果、多くの国で医療崩壊が発生してしまいました。
 日本でもかなりギリギリのところではあったようですが、かろうじて医療崩壊を回避できました。重篤者のケアも充分おこなわれ、世界的に見て奇跡的と言える死亡率の低さをマークしています。また、マスク着用、うがいと手洗いの徹底という国民への示唆と、それをきちんと実行した国民のガバナビリティ(被統治能力)の高さにより、同じ予防策が通用するインフルエンザも激減し、病気による死亡率が例年よりむしろ下がるというオマケまでついたのでした。
 日本政府はコロナによる死者数をごまかしているんだ、他の死因として扱っているものの中にコロナによる死者が相当数含まれているに違いない、などと決めつけて騒いでいる人も、4月くらいまでは居たようですが、すっかりおとなしくなりました。全死亡者数そのものがむしろ減っているという事実を前にしては、ぐうの音も出なかったのでしょう。また、死亡者数そのものが操作されているんだ、などと叫んでいた人も居ました。これは各地の葬儀場の稼働率を見れば妄言であることは一目瞭然なので、あんまり相手にされていません。
 ともあれ、ここまでの政府の施策の狙いは、医療崩壊防止にあることは明らかです。医療のリソースを、検査にではなく重篤者の救済に注ぎ込めるよう全力を尽くしたわけです。その結果、検査を受けられないことで国民から不満が出ることはやむを得ざるデメリットと承知していたと思われ、この戦略を練り上げた専門家会議も、それを押し通した政府も、ひとまずは上出来であったと、一国民としては敬礼したいところです。

 さて、感染者がまた増加しているのは確かに不気味ですし、再び緊急事態宣言が出されて、あの火の消えたような街が戻ってくるのではないかと不安になるのも当然です。
 しかし、3月以来の施策が「医療崩壊を防ぐ」という一点を狙っての戦略であったということを考えれば、二度目の緊急事態宣言が出されるのは、よほどの予想外の事態が発生して、再度医療崩壊の危険が迫ってきたときでしかないとわかるはずです。東京都で100人台の新規感染者が判明しても、いまのところ政府や都が静観しているのは、その程度の増加であれば想定内というか、医療崩壊を起こすほどの事態ではないと判断しているからでしょう。
 3~4月のころに較べれば、医療機関の対応態勢も調いましたし、治療薬とまでは行かなくとも対症薬のいくつかは出てきましたし、検査方法も複数確立されています。メディアがあおりにあおっているわりには国民も落ち着いています。むしろいままでさっぱり動かなかった働きかた改革などを一気に推し進める好機だとしている論者も多いし、実際に企業や学校のありかたが変わりつつあります。日本人は、歴史を見ても、過去に忠誠を尽くすよりも変革に賭ける人が多く、それゆえにあまり血を流さずにがらりと社会を変えてきました。源平合戦も南北朝対立も戦国時代も明治維新も、確かに多くの血は流れましたが、諸外国の革命や政変に較べればヤクザの出入りレベルです。
 感染者数、というか、感染発覚者数は、これからも増えるでしょう。いままで検査していない人が検査すれば増えるし、対人接触が増えれば当然増えます。われわれはもう、それを受け容れた上で生きてゆくべきで、新規感染者の数に右往左往する時期は過ぎています。怖れるべきは死亡者数、死亡率であって、これがあるとき跳ね上がったならば、そのときこそ自粛を再開する必要があるのだと思います。

 USAの黒人デモは、過剰なポリコレと結びついて、なんだか変なことになってきているようです。建国の元勲であるワシントンジェファーソンの像が引き倒されるに至っては、もうわけがわかりません。ワシントンもジェファーソンも、黒人奴隷を所有していたからけしからんということらしいのですが、現在の価値観で歴史を裁くことの愚かしさを、いい加減人類は学習したらどうなのだと言いたくなります。
 「風と共に去りぬ」が差別的だから映画の貸し出しをやめるとか、それも行き過ぎだから注意書きをつけて貸し出すとか、ばかな騒ぎにもなっています。
 キリスト像を白人っぽく描くのも差別的だという話が出てきました。イエスは白人でなかったとしても、セム族でしょうから決して黒人ということにはなりません。黄色人種だったというのがいちばん確かでしょう。もう、「差別」という錦の御旗があれば、どんな無理でも通ってしまうような状態になりつつあります。
 日本のアニメなんかまで飛び火しそうで気が気ではありません。すでに、キャラクターがみんな白人ぽく見えるのはどういうわけだといきり立つ半可通が海外には多く、あれはただの記号であって人種を示してはいないと反論するマニアとのあいだに論争が起こっています。とにかく、黒人の黒い色を強調するのは差別、黒くあるべきところを白く(薄く)するのも差別、面倒くさいから登場させないのも差別になるんだそうで、どうすれば満足するのかさっぱりわかりません。「サイボーグ009」008(ピュンマ)が、原作および最初のヴァージョンのアニメでは当時のいかにもな黒ん坊デザインだったのが、のちのアニメではずいぶんイケメンなデザインに変更されていたのを思い起こします。そのイケメンなデザインでも、文句を言う人は居たようです。
 要するに「差別的」というレッテルを気に入らない相手に貼ることでマウントをとりたいという、そういう連中が多すぎるのです。そしてそのレッテルを怖れる人も多いので、現状ポリコレ派にとって非常に効果的な武器になっていると言えるでしょう。日本でもだいぶその傾向がありましたが、USAという最高度の自由を標榜している国で、人々がレイシストというレッテルをこれほどに怖れるというのは、意外を通り越して驚異でした。
 ネットを見ても、USAがこれほどまでに同調圧力の強い国であったことに驚きあきれているコメントがあふれています。
 いままで、日本社会の同調圧力の強さについてはさんざん論じられてきました。同調圧力が強いために、集団の中で理不尽なことがあっても容易に改めることができないとか、みんなが残業しているときに自分だけ帰ると言い出せずに必要もない残業が増えて生産性を落としているとか、正しいと思うことを貫くのが大変だとか……裁判員制度導入のときも、日本人は同調圧力に弱いから審理がゆがめられるのではないかとさんざん心配されたものでした。名作映画「12人の怒れる男」に対し、筒井康隆「12人の浮かれる男」とか三谷幸喜「12人の優しい日本人」とかのパロディが書かれたのも、日本人の同調圧力に対する弱さを自虐的に皮肉ったものでした。陪審員が日本人ならこうなっちゃうんじゃないの?……という諦めというか冷笑というか。
 しかし、同調圧力ということなら日本社会に限らず、どこにでもありそうな話です。こういうパロディが出てくるのは、外国人、とりわけ欧米人ならば、もっと「個人」がたかだかと自立していて(司馬遼太郎さん風)、たとえ同調圧力があったとしてもそれに立ち向かう勇気をひとりひとりが持っているに違いない、という思い込みによるところが大きいでしょう。つまり、「怒れる男」のヘンリー・フォンダのような人が多数を占めていると思っていたのです。
 考えてみれば、この映画でのヘンリー・フォンダのような人が多数派なのであれば、この映画は成立しないというか、まるで面白くないわけです。12人のうちでたったひとりだけ、ありふれた犯罪の審理に際して違和感を持ち、それを残り11人からの同調圧力に負けずに根気強く説得してゆくというところに、フォンダ演じる主人公の勇気や魅力を感じるからこそ、この映画は名作としてもてはやされたのであるはずです。パーネル・ホール「陪審員はつらい」では、陪審義務を果たすことになった主人公が、自分だけ他の陪審員と意見が違うことになったらどうしよう、「12人の怒れる男」の主人公みたいに他の連中を説得するなどできそうもない、とびびるところがありました。やはり、USAでも同調圧力というのは相当にあるのだろうな、と思いました。
 そういえば「大草原の小さな家」でも「ドクタークイン」でも、主人公が村の同調圧力の前に苦悩するエピソードがありました。視る者は、その同調圧力に屈しまいとする主人公側に感情移入しているので、ははあアメリカ人というのは同調圧力をものともせずに信念を貫く人たちなのだな、と思ってしまうのですが、言い換えれば主人公以外の村人たちは屈してしまっているわけです。滅多に見られないことをやってくれるからこその主人公なのであって、大多数のアメリカ人はその他大勢の村人なのだということを忘れてはいけません。
 今回の騒ぎは、アメリカ人といえども日本人と同じかそれ以上に、同調圧力には弱い、という現実を露呈したことになりそうです。ひとつの幻想が壊れたわけですが、良いことではないかと思います。

 中国の全人代で、香港国家安全維持法が満場一致で可決されました。前世紀末に英国から香港を返還される際、50年間は香港の体制には手をつけないことを中国が約束し、「一国二制度」とぶち上げたものでしたが、今回の安全維持法は香港に本土と同じ制度を強制するもので、一国二制度の終焉を意味します。英国との約束を臆面もなく反故にしたわけです。
 当然、諸外国からは批難を浴びるわけですが、中国は「内政干渉」で押し通す気でしょう。
 まあ、一国二制度は、50年を待たずして破綻するのではないか、という点はかねてより予想されていました。中国が「異物」としての香港をそれほど長いこと許容しているわけがない、というのは見る人が見れば明らかだったのです。
 何度か書きましたが、中国は基本的に、夷狄と交わした約束などは、不都合になれば──もしくは守らなくても不都合が無くなれば──いつでも破って構わない、と考えています。それはもう、武帝のころから一貫してぶれない態度と言えます。それは「洋夷」である英国相手でも変わりはないのであって、現在の英国に、自分らの破約をとがめるだけの実力が無いと見れば、約束などはなんのうしろめたさもなく破るのが中国というものなのでした。
 自由の無くなった香港は、なんの魅力も無い街に成り果てるでしょう。上海青島福州などの沿岸都市とまったく差別化されたところのない、普通の中国の街になってしまうと思います。後背地にも恵まれていないので、ここから拡大してゆく未来も見えづらいところです。
 共産党強権下の本土とは違う自由さがあったればこそ、世界中から企業や人が集まり、巨額のカネが動く一大ビジネスセンターとして機能していたのですが、それが無くなれば、要するに中国の一都市というに過ぎません。
 いわば、「楽市楽座」をはじめてみたものの、あまりの自由さに恐れをなして早々と弾圧をはじめてしまった戦国大名みたいなもので、織田信長がそんなことをやっていたら決して天下人にはなれなかったでしょう。啼き声がうるさいからと金の卵を産むガチョウを殺してしまったことに習近平が気づくことはあるでしょうか。

 習近平といえば、しばらく前の全人代で、国家主席の任期を無くして事実上の終身独裁者となりました。それと同じことを、ロシアのプーチンもやらかしたようです。憲法を改正して、終身大統領になれるようにしました。当初は引退後も影響力を行使できる「院政」が敷けるような改憲のつもりだったらしいのですが、それも面倒くさくなったのか、ずっと大統領で居ることにしたのでしょう。
 中国とロシアという、いちばん遅くまで独裁帝国であった両大国が、相前後してトップの終身地位を導入してしまいました。これがもし世襲ということになれば完全に「帝国」です。さすがに世襲にはしないと思いますが、自分の死期を悟ったらそれもわかりません。自分の血縁者を後継者にしようとする可能性は充分にあります。
 いかに中華人民共和国、ロシア共和国連邦を名乗ろうとも、この二国はもはや共和国の名には価しません。終身独裁者、すなわち「皇帝」をいただいた「帝国」と見るべきでしょう。共和国を名乗る専制国家、大統領を名乗る専制君主というのは以前からいくらでも居たわけですが、共和国と名の付く第1位、第3位の国が事実上「帝国」となってしまったからには、共和国(リパブリック)という言葉の輝きも地に落ちたと言って良いと思います。
 ちなみにこの両国に接して、サイズは小さいものの世襲専制君主をいただく「共和国(北朝鮮)」もありますので、少なくとも東アジア地域では「共和国」の冠はなんの意味もないものに成り果てたと言えましょう。
 そのまた隣にある国でも、大統領が三権を掌握する独裁者となり、その地位の終身化を狙っているのではないかという挙動が眼につきます。韓国のことですが、この国は地位を退いた大統領がほとんどもれなく悲惨な目に遭っていますので、自分がそういうことにならぬよう大統領の任期規定を外すのは、文在寅大統領にとっては自己防衛でもあります。そのもくろみが当たって終身独裁者となれば、北朝鮮と何が違うのかということになります。
 19世紀にはすでに時代遅れと見なされ、20世紀初頭にほぼ絶滅したはずの「帝国」が、21世紀に入ってから再びうごめきはじめています。帝国とは名乗らない帝国であるだけに、扱いづらいところもありそうです。民主主義陣営としては、新しい「帝国」が名乗っている「共和国」云々という看板に惑わされず、これらをちゃんと「帝国」として扱うべきでしょう。いろいろとカオスな状況になってきている気がします。

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