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2台8手のピアノ [お仕事]

 少し遅れてしまいましたが、4月30日には恒例の「葵の会」があり、聴きに行ってきました。
 前にも説明したことがあるかと思いますが、「葵の会」というのは埼玉大学の卒業生による演奏会です。教育学部の音楽専攻だった人が大半だとは思いますが、ほかの学部や専攻だった人も居るのかもしれません。現在プロとして活躍している人も居れば、アマチュアのまま音楽を続けている人も居るようです。たとえば毎回のように演技を伴わない歌劇のような作品を発表している人が居ますが、その演奏にしょっちゅう起用されている杢子(もくし)さんなどは、板橋オペラに賛助出演してくれたこともある、れっきとしたプロの歌い手です。一方、ほぼ毎回出演している私のピアノの生徒のIさんなどは、時おり独唱や合唱の伴奏なども頼まれたりしているようではありますが、音楽で生計を立てているわけではないアマチュアです。
 そのIさんから、「葵の会」で弾く曲のレッスンを頼まれたことから、私との関わりがはじまりました。
 最初は確か、ブラームス「ハイドンの主題による変奏曲」の2台ピアノ版だったと記憶しています。もとはオーケストラ曲ですが、ブラームス自身の編曲です。1、2回、2台ピアノの相方と一緒にレッスンに来ました。
 それからバッハクラヴィーア協奏曲であったか、もしかするとブラームスと順番が逆だったかもしれません。
 そして、しばらく前から、Iさんとその相方のYさんを含む4人で、2台8手による演奏をはじめたのでした。

 ピアノの2台8手による曲というのは、そんなにたくさんあるわけではありません。私が知っているのは、オリジナル曲としては中田喜直「日本ふうのメロディーによる主題と変奏曲」くらいなものです。ただ、子供の頃に通っていたピアノ教室の、私が小学2年生のときにはじめて出演した発表会で、この曲の演奏に参加しました。私が第一奏者、確か5年生か6年生だった先輩が第二奏者、中学生の先輩が第三奏者、高校生の大先輩が第四奏者でした。先生が各年代から選抜して奏者を決めたようです。
 この曲の壮大な響きが愉しくて、私は2台8手連弾という編成が好きになりました。もっとも、後年自分がそんな編成の編曲をたくさん手がけるようになるとは思っても居ませんでしたが。
 その教室の発表会では、のちに後輩たちが、ベートーヴェンコントルダンス「エロイカ変奏曲」および第三交響曲終楽章の主題の元ネタ)を2台8手で演奏しているのを聴きましたが、これはオリジナルではなく誰かが編曲したものではないかと思います。
 その後しばらく、2台8手連弾からは遠ざかっていましたが、自分の教室の生徒がだいたい現在のメンバーになってから、ピアノを2台使った発表会をおこなうことになりました。それで、「韃靼人の踊り」「ペール・ギュント」などを2台4手用に編曲したりしたのですが、そのときに全員参加の「締め」の曲として中田先生の「主題と変奏曲」をやったのでした。
 で、次の発表会も2台ピアノということになったので、ほかにネタが無かったため、私が「フィンランディア」を8手用に編曲しました。これがはじまりであったのでした。
 教室の発表会は去年の夏までで10回おこなわれましたが、2台ピアノを使うことが多く、私はその都度編曲を書き下ろしました。「展覧会の絵」「くるみ割り人形」「新世界より」そして「田園」
 それらは、うちの発表会で演奏されてから、Iさん経由で「葵の会」に持ち込まれて再演されました。どうも、こちらで8手連弾をやっているので、「葵の会」のほうでもやってみようということになったのではないかと思われます。
 ともあれ、そんなわけで7年ほど前から、「葵の会」で私の編曲ものが毎回扱われることになりました。
 「葵の会」は上述のように埼玉大の卒業生が集まった会です。だいたいピアノか歌を専門とすることになるようで、弦楽器や管楽器が出てきた記憶はありません。それで演奏形態としては、冒頭に挙げた歌劇のほかは、独唱かピアノ独奏か、せいぜい4手連弾というところです。それに較べると、2台8手というのは響きが重厚ですし、2台めのピアノを配置したりするのも面倒ということで、いつも大トリに置かれることになりました。また、各出演者の持ち時間は10分程度であるようなのですが、これは4人が参加ということで特別に20分くらい貰えているらしくもあります。プログラムのバランスというところからも、大トリに置かれるのが至当であるわけです。
 私が聴きに行くと、演奏終了後に奏者から紹介され、その場で立って挨拶することになります。それをもって演奏会全体が閉幕となるわけで、なんだか申し訳ないような気がします。埼玉大OBの催しなのに、埼玉大とはなんの関係もない私が最後を「持って行く」感じになってしまうのです。例年歌劇を発表している作曲家の人などからすると、あまり面白くはないでしょう。
 今回は「田園」を演奏したわけですが、時間に限りがあるので、一部カットしていました。それはこれまでも同様で、「展覧会の絵」も「くるみ割り人形」も何曲か省略しており、「新世界より」も第三・第四楽章だけの演奏になっていたと思います。今回は、第二楽章をまるまるカット、第一楽章と第三楽章は中抜きして最初と最後をつなげ、第四・第五楽章はフルに演奏という形になっていました。うちの発表会だと時間はいくらでもかけられますが、「葵の会」ではせいぜい20分なので、交響曲とか大規模な組曲とかを全部やっている時間は無いわけです。

 いままでひとつだけ、私の教室での初演を経ないで、直接頼まれた編曲があります。「春の祭典」がそれで、これも第1部と第2部を、2回に分けて演奏しました。この2回のあいだに、第一次コロナ緊急事態宣言で中止になった2020年が挟まりましたので、いわば3年越しの初演ということになったのでした。
 「春の祭典」はほかのものに較べると、各奏者の難易度も、アンサンブルの難易度も高く、譜面を作りながらも私は、

 ──こんなのできるんだろうか?

 と内心不安でした。何しろ最後のほうなどは指揮者やオーケストラにとっても非常に難度の高いシロモノなのです。拍子がかなりめちゃくちゃに変化し、しかもその変化が聴いていてわかりづらいため、演奏するほうも聴くほうも混乱してしまうのでした。こんな曲にニジンスキーはよく振り付けられたものだと感心しますが、聞くところによるとニジンスキーという天才舞踊家は、音楽の拍節というものが全然わからない人だったとのことです。
 うちのマダムは趣味でフラダンスをやっており、ときどきインストラクターが拍節をよくわかっていないのではないかと愚痴ります。
 「踊る人が拍がわからないなんて、そんなことありうる?」
 などと私に言うのですが、ニジンスキーのことを考えると、踊りに必ずしも拍節は要らないのかもしれない、という気がしてきます。むしろわからないからこそ、あんなに複雑な変拍子をものともせず、平然と振り付けすることができたのだとも考えられます。
 話が逸れましたが、ともあれその「春の祭典」だけが、私が直接「葵の会」のために書き下ろした2台8手の曲だったのでした。これと「フィンランディア」を含めると、私はいままで6曲、2台8手のための編曲をしていることになります。

 このうち「展覧会の絵」だけは原曲がピアノ曲で、本来ひとりの奏者、つまり2本の手で演奏されるべきものを8本に拡張したものです。とはいえ、ラヴェルストコフスキーがオーケストラ版に編曲しているのでわかるとおり、「展覧会の絵」はかなりのパワーというか、シンフォニックな響きを持つ曲と言えます。8手版に編曲するにあたって、オーケストラのスコアは参照しませんでしたが、充分に各奏者が満足できるだけの「弾きごたえ」を与えられたと思います。とりわけ途中の「死者とともに死者の言葉で」の部分、それから終曲「キエフの凱旋門」などでは、独奏では決して得られない重厚かつきらびやかな響きを演出することができました。
 この「展覧会の絵」の8手版は、その後板橋のファミリー音楽会でも活用したことがあります。この8手版をもとに、ほかの楽器も付け加えて大合奏にしたのでした。
 そののち、どこかで、「展覧会の絵」を1台4手だったか2台4手だったか、ともかく2人用に編曲したという人と一緒になったことがありました。その人は、得意げな様子で、
 「ピアノ独奏版として書かれた曲ではあるんですけどね、やっぱり2本の手だけじゃとても表現しきれないところがあるわけですよ。それを4手にすることで、いろんな要素をくっきりと浮かび上がらせることができるんですね、これが」
 等々と居並ぶ人々に自画自賛していました。そこへ私が、
 「私はこの前、2台8手にしてみましたが」
 と口をはさんだところ、その人は一瞬絶句して、それから吐き捨てるように言いました。
 「そんなに多くちゃ、ごっちゃごちゃの大喧嘩になるでしょ」
 水を差されて気分を害したようで、その瞬間から彼は講釈をやめてしまいました。
 ちなみに私の編曲では、別に大喧嘩にはなっていません。ただし、原曲に無い要素も控えめながら加えたりしています。いわばラヴェルなどがオーケストラでやったことを、ピアノ2台8手という編成でできる限りやってみたという趣向ですので、「独奏曲をふたり用に分けた」らしきその人の方針とはそもそも違っていたのかもしれません。

 あとのものは管弦楽曲が原曲です。オーケストラの響きをピアノに移す場合、もちろん指の数が多ければそれだけ省略する音が減るわけですから、独奏用よりは4手連弾用、それよりは2台4手用、それよりは2台8手用のほうが充実したサウンドが得られると言って良いわけです。しかし、音色の多様さという点だけはどうしようもありません。また、当然ながらふたりのアンサンブルよりは4人のアンサンブルのほうが合わせにくくなります。なかなか、多ければ良いというものでもないところが難しいのでした。
 「フィンランディア」や「くるみ割り人形」は、原曲の音構成自体がわりにシンプルで、編曲するにあたって悩むようなことも少なかったのですが、交響曲や「春の祭典」などになると、やはり一筋縄ではゆかない印象を受けました。長さだけの問題ではなく、音の組み立てが複雑なのです。ピアノという単色の響きで効果を得るためには、単純にスコアに書かれている音をそのまま写せば良いというわけにはゆきません。必要とあらば原曲には無いオクターブで音を重ねたり、逆にあえて省略したりしなければならないことも出てきます。
 弦楽合奏のトレモロの効果などは、そのままピアノに移すことはまず無理です。馬鹿正直に和音連打などにすると、聴いた印象がまるで違うことになってしまいます。よくやるのが「ピアノのトレモロ」、つまり和音を分けて交互に素早く弾く奏法ですが、これも弦のトレモロに較べるとがちゃがちゃとうるさくなりますし、長く続いたりすると弾くほうがたまりません。「フィンランディア」を編曲したころは、弦のトレモロをそのままピアノのトレモロに移していました。このときは私が第四奏者として加わることになっていたので、なるべくそのトレモロは私が担当するように書きましたが、弾いてみるとむちゃくちゃ疲れるのでした。
 最近は分散和音型を取りまぜるなどして、いろいろ変化をつけようとしています。たとえば「田園」の終楽章の最後のほうに出てくる、弦の三連符のトレモロを、分散和音にしたりしましたが、どうもこの部分の重厚感というか感動が薄い気がしました。それで、同じ音域で(2台ピアノなので可能)トレモロや分散にしていない、原型の和音を一緒に鳴らしてみたところ、それなりの響きが得られました。編曲には、こういうちょっとした工夫や操作が必要になる場合があります。
 今後も、教室でピアノを教えている限り、2台8手の編曲は増えてゆきそうです。ただネタがそんなに保つかどうか。次は「アルルの女」でもやろうかと考えていますが、そのあとはどうなることやら。チャイコフスキーの三大バレエを制覇するとか、リストの向こうを張ってベートーヴェンの交響曲をコンプリートするとか、冗談みたいなアイディアは無いでもないのですが、生徒の技術水準や所要時間などを考えると、やはりネタは限られてくるのでした。

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