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岩船沖の油田 [旅日記]

 4日(水)5日(木)と、新潟へ行っていました。
 発案者は実家の父で、自分ももういい加減齢だから家族で出かけるのも最後になるかもしれない、と言い、父のこれまでの生涯でいちばんの快事であった岩船沖油田発見の象徴である採掘プラットフォームを家族に見せるべく計画したのでした。
 父は地質学者で、石油探鉱の会社に定年まで勤めていました。石油を掘ったり売ったりする役目ではなくて、石油のありそうな場所の地質を調べて、掘る人にこの地点が有望だと示唆するのが仕事です。それによって試験のための井戸がボーリングされ、充分な噴出があればそこから石油を採ることになります。
 とはいえ、採算の取れるほどの油田を発見できる人はそう多くなく、たいていはいくつかそれらしきものを発見しても、採算ベースに乗らないために採掘は見送られ、為すところなく定年を迎えてしまうケースがむしろ普通なのだそうです。
 その点父は幸運だったと言えるでしょう。いや、自分の積み重ねた知識やひらめきを総動員しての成果ですから、幸運という言いかたはいけないかもしれませんが、俗に千三つ(千のうち3つ)と呼ばれるほどに確率の低いことなので、やはりかなりの程度、運も関わっているような気がします。ちなみにタレントのせんだみつお氏の芸名はこの「千三つ」から来ています。
 ともあれ父が示唆して掘り始められた岩船沖油田は、予想以上に大きかったようで、発見から半世紀近くを経た現在でもまだ採掘が続けられています。つい最近、日本の油田の累計採掘量としては第1位に躍り出たとのことです。この発見を父が生涯の誇りとしていたのも当然でした。
 そのプラットフォームを家族に見せたいというのですが、4キロ以上の沖合にあって、行き来するにはヘリコプターを使うしかありません。父も現場を離れて久しく、そんな手配ができるだけの伝手はもう無いでしょう。直接プラットフォームに行くわけではなく、最寄りの海岸から眺めるだけで、本当に想い出のあとをたどるだけのことになりますが、本人がそれで良いなら是非もありません。旅費は全部父が持つということですし、行ってくることにしました。両親と妹、それにマダムと私の5人連れでした。

 切符なども父が手配したのですが、いろいろ間違えていてあとで面倒だったようです。コロナ前までちょくちょく海外旅行にも出ていたのですけれども、国内の手配は苦手だったのかもしれません。私がやったほうが多分簡単だったと思いますが、父が勢い込んで準備しているので、口を出すのは控えておきました。ただし宿泊の手配のほうは、予約する時期に父のパソコンが修理中だったとかで、私がおこないました。
 勢い込んでいた父は、参考資料まで渡してきました。世紀の変わり目ごろに、岩船沖油田の発見を回顧して、専門誌だか社内誌だかに載せた文章だったようです。2本もありました。専門誌に載った記事だけに、専門用語がずらずらと並んで、妹などは
 「さっぱりわからない」
 と言っていました。私も理解できない部分が多かったのですが、岩船沖油田が有望だという報を受けた翌朝、早めに会社に行って、誰彼構わず自慢して回ったというような件りは、ふだんの父を知っているだけに噴き出しそうになりました。よほどドヤ顔であったのでしょう。
 旅行計画では、まず初日は村上まで行って瀬波温泉の宿に泊まり、翌朝タクシーを雇って海沿いに南下し、最寄りの海岸のあたりでプラットフォームを眺めるというルートになっていました。
 村上へ行くのであれば、上越新幹線で新潟まで行き、そこから白新線羽越本線に乗り換えて……というのが通常ルートでしょう。私がひとりで行くのならもっと別のことを考えたかもしれませんが、家族旅行ですのでまっとうな行きかたにしておくのが無難です。
 「とき315号」大宮から乗車しました。両親は東京から乗ってきています。妹も大宮乗車だったようです。
 この「とき315号」は、熊谷本庄早稲田だけ通過しますが、高崎以遠はすべての駅に停車します。最近、こういう停車駅の多い「とき」が多くなりました。東京から新潟まで各駅停車というのもあります。上越新幹線では、「こだま」のような各停タイプと「ひかり」「のぞみ」のような速達タイプというようには分けず、新潟発着の列車を「とき」、越後湯沢・ガーラ湯沢発着の列車を「たにがわ」と呼び分けているのでした。当初は各停タイプを「とき」、速達タイプを「あさひ」と呼んでいましたが、長野行きの「あさま」が走りはじめると「あさひ」と紛らわしいことこの上なく、誤乗が頻発したため、「あさひ」を廃止するとともに列車名のコンセプトを変えたのでした。
 以前はけっこう上越新幹線に乗る機会が多かったのですが、ここしばらくはご無沙汰していて、3年前の秋に仕事で新潟へ行ったのが相当に久しぶりのことでした。昔よく乗ったMAXという、詰込み主義もきわまった横6席タイプの2階建て車輛はすでに引退し、最近の車輛はシートピッチも昔より余裕のある感じの、わりとゆったりしたレイアウトになっています。
 12時24分新潟着。新潟駅はずいぶん様子が変わり、新幹線から接続特急へは同一プラットフォームで乗り換えができるようになっていました。まあ、新潟駅から出る在来線特急は、いまや白新線~羽越本線の「いなほ」と、信越本線の「しらゆき」だけになってしまいましたが。私らは12時32分発の「いなほ5号」に乗り換えました。
 もちろん回転クロスシート装備です。両親と妹のため、座席を回転させて向かい合わせにしたのですが、車掌が通りかかったときに叱られました。コロナ以来、座席の回転は禁止になったのだそうです。そんなこととはまったく知りませんでした。いろいろと世の中が窮屈になっています。
 新潟を出て間もなく、阿賀野川を渡ります。なんとなく私が阿賀野川を見るときは、つねに増水している印象があり、平常の川幅を見たのは、はじめてでないにしても珍しいことでした。25年ばかり前に通ったときは、新潟県内が集中豪雨で、阿賀野川の河原は完全に水に覆われていました。もともと白新線が渡るあたりの阿賀野川は川幅が広くなっているのですけれども、そのときは何やら日本離れした大河のようにさえ思えたものでした。

 13時19分に村上に到着しました。父の計画では、鮭公園というところに行って、その中の食堂で昼食にするということでした。
 鮭公園というのは、私の持っていた四半世紀前の道路地図帳では「サーモンパーク」と記されていましたが、現地へ行ってみたらやっぱり「鮭公園」でした。イヨボヤ会館という施設に隣接しているというか、施設の一部のような趣きの公園です。なおイヨボヤというのは現地方言で鮭のことで、村上は古くから鮭漁で有名なのだそうです。そんなこととは知らず、不明を恥じるばかりです。
 その鮭公園へ、タクシーを走らせるつもりだったのですが、一行5人のため普通のタクシーには乗り切れません。営業所へ行って相談してみると、大型のタクシーを頼むよりは普通のに2台分乗したほうが安上がりだとのことで、それより歩いても行ける距離らしいので、結局歩くことにしました。
 しかし歩いてみると案外遠く、しかもほかに歩いている人がほとんど見られないので、若干不安を覚えました。
 20分ほどで鮭公園に着きました。着いてみるとけっこう人は多く、さらに食堂へ行くと、もう14時というのに、入店を待つ人の列ができていました。どこからそんなに人が出てきたのだろうかと思いましたが、要するに歩いて行く人などほとんど居ないのでしょう。
 食堂は意外と名店であるようで、入口に続く階段の壁には、多くの芸能人やスポーツ選手などのサイン色紙が所狭しと飾られていました。特に、スノーボード金メダリストの平野歩夢はこの村上市の出身だそうで、色紙が何枚もありました。
 30分近く待ってようやく入れましたが、ここの料理はやはり鮭をメインにしていて、いずれもけっこう盛りが多くなっています。宿での夕食もかなりの豪華版であるはずですから、あまりここで詰め込むのも考えものです。両親はふたりで一品頼んでいました。それでも充分だったようです。夕食時間はなるべく遅い枠で頼もうということになりました。
 食事のあとはイヨボヤ会館の中の「鮭博物館」を見学しました。こぢんまりとした郷土資料館のたぐいかと思ったら、案外と大規模で、地下を掘りぬいて公園を流れる川の中をガラス越しに見られるようになっていました。入場料は大人600円で案外高いなと思ったのですけれども、こんなに手間をかけているのではそのくらい徴収してもやむを得ないと感じました。
 鮭と言えば、前に小樽で大量に川に戻ってきたところを見たのを思い出します。源流までほんの2キロばかりの小さな川なのに、水面を埋め尽くすような大群で、泥の上に跳ね上がってもがいているのも居ました。こんなに帰ってくるものかと驚きましたが、河口にたどり着いた何百尾という鮭のうち、源流まで遡って無事に産卵を済ませられるのはせいぜい数尾というのでさらにびっくりです。
 村上では、市内を流れる三面(みおもて)に上がってくるそうですが、それよりもここでは、全国に先駆けて鮭の人工孵化をはじめたというのが特筆すべき点であるようです。明治11年からはじめられたそうで、そのあたりが郷土の誇りでもあるのでしょう。

 イヨボヤ会館まで宿の送迎車に来て貰いました。本来は村上駅とのあいだを行き来するだけなのですが、電話して頼んでみたらすぐにOKしてくれました。距離的には駅に行くのとそんなに変わらなかったようです。
 瀬波温泉は海岸のすぐ近くに出ている温泉で、宿も全室オーシャンビューになっていました。不思議なことに、近くには火山が無いのだそうで、なぜここに温泉が出てくるのかよくわかっていないのだそうです。もちろん近年増えた大深度のボーリング温泉ではなく、古くから温泉地として栄えています。
 部屋からベランダに出てみると、左の海上に小さく、油田のプラットフォームが見えました。海の上なのでスケール感がよくわかりませんが、15キロくらいは離れているはずなので、それで肉眼で視認できるのならなかなかの規模なのでしょう。
 宿は何段階かに分けて拡張された感じで、いくつかのエリアに分かれているようです。高低差があるのか、斜行エレベーターなどもあったようで、翌朝出発前にロビーの館内図で発見して、乗ってくればよかったと残念に思いました。斜行エレベーターというのはいくつかのタイプがありますが、ケーブルカーみたいなのもあり、鉄ちゃん的には見逃せないところです。
 風呂は最近のスーパー銭湯みたいに何種類もが備わっているわけではなく、大きな内湯と、同じくらい大きな露天風呂、それに時間限定の低温サウナがあるだけでしたが、海を望む壮大な背景は気持ちの良いものでした。上の階にも、少し小さめの展望風呂がありました。
 砂浜へ出ると足湯もあり、足湯好きのマダムにつき合ってそちらも行ってみましたが、湯温がかなり高く、大浴場に入浴後というのに、足首から先が真っ赤になりました。
 海岸は西向きなので、日没が真っ向から眺められます。露天風呂からか、展望風呂からか、部屋からか、どこから日没を眺めようかと迷いましたが、結局ラウンジの椅子に坐って見ていました。この日の日没は18時36分でした。
 これほど広い水平線に太陽が沈むのを眺めることは滅多にありません。空がだんだん赤く染まり、太陽が水平線に近づくと、いつの間にか潰れたような楕円形になっています。空気の密度差による屈折でそう見えるらしいのですが、あたりで何人もが
 「え~、あれすごくいびつになってない?」
 「潰れてるじゃん」
 などと声を上げています。案外知られていないことだったようです。
 日没時刻というのは太陽が沈みきる時刻のことだそうです。18時34分くらいから、太陽が水平線に接しはじめました。なんだかジュゥゥという音でも聞こえてきそうな印象です。
 2分ほどで、太陽は見えなくなりました。確かに18時36分でした。
 昼食が遅かったので、夕食は最後の枠の19時半にして貰いました。料理は予想どおりかなりの分量です。メインは村上牛の鉄板焼きと海鮮しゃぶしゃぶの「ダブル鍋もの」でしたが、そのほかにもずいぶん品数が多いのでした。また、ご飯もその場でひとりずつの小釜で炊くようになっており、岩船コシヒカリとかでとても美味でした。飯粒のひとつひとつが光っています。鉄板焼きの肉は歯が要らないくらい柔らかいものでした。
 マダムと私はなんとか完食しましたが、めっきり食が細くなっている両親はだいぶ残してしまい、妹もかなり食べ残していました。もったいないのですが仕方がありません。
 食後、満腹感がある程度落ち着いてから、もういちど風呂を浴びて、波の音を聴きながら寝ました。

 翌朝は、9時にジャンボタクシーを頼んでいましたので、朝食は8時までに済ませるということで、7時になったころに早々に出かけました。バイキング方式で、いろいろとおいしそうな食べ物が並んでいましたが、食べ過ぎにならないよう厳選しました。マダムも、昔は眼に映る限りのものを大量に取ってくるのが常でしたが、最近は適量を心掛けているようです。ただしデザート皿まで食べきると、やはりちょっと多かった様子でした。
 ジャンボタクシーを頼んだのは、普通のタクシーだと5人は乗れないからです。来たのを見ると9人乗りでした。運転席と助手席を加えると11人で、確か普通免許で運転できるぎりぎりの大きさです。9人乗りのクルマに5人乗って、余裕のあるスペースでした。
 クルマは国道345号線を走ります。しばらくは海岸沿いですが、岩船港あたりから少し海から離れます。岩船港は粟島へ向かうフェリーが出るところで、1隻泊まっていましたが、思ったより大きな船だったので驚きました。粟島というのは地図で見ても本当に粟粒くらいな小さな島に見えるのですが、朝食の時に窓から見えた島影も、考えていたよりもずいぶんと大きかったので、最初は粟島とは思わなかったほどです。まあ、長細い形の島であって、村上あたりから見るとその長辺のほうが見えるわけなのですが。
 荒川(朝日山系から流れ出して日本海にそそぐ川で、埼玉県を流れている荒川とはもちろん別です)を渡ると、国道は河口まで川沿いになり、それからまた海辺を行きます。完全な海辺ではなく、ある程度雑木林などをはさんではいますが、海はよく見えます。油田のプラットフォームもいよいよはっきりと見えてきました。
 荒川の河口から、桃崎浜荒井浜笹口浜中村浜村松浜藤塚浜……と、海岸線はほとんど凹凸が無いのですが、場所によっていろんな名前がつけられています。父は笹口浜あたりから眺めるのがいちばん近いと考えていたようですが、クルマが荒井浜を過ぎ、胎内川を渡って笹口浜に入ると、明らかにプラットフォームの姿がさっきよりも遠ざかっています。
 海とのあいだの藪が濃くなってきているし、海岸に出るような道も無さそうだし、どうも具合が悪いようです。運転手と相談して、しばらく道を戻ることにしました。
 どのくらい戻ったのか、地図上ではよくわかりませんでしたが、かなり引き返したようです。運転手によると桃崎浜まで戻ったようなことを言っていました。内陸側からの道路がぶつかって信号機が設置されたところに、幸いなことに海岸に出る小径がありました。クルマはそこへ乗り入れ、砂浜に出てしばらく進みました。ちょうど良くプラットフォームが眺められる場所になっていました。
 みんなプラットフォームを写真に撮ろうとしましたが、いざ撮ってみると豆粒のように小さく、構造もよくわからない写真にしかなりません。望遠レンズでも無いとはっきり写すのは無理でしょう。スマホのカメラの拡大倍率を最大にして写し、写したものをさらにスワイプして拡大すればそこそこの大きさにはなりましたが、画質は荒くてボケた姿にしかなりませんでした。
 しかし、この日の天気はすばらしい快晴で、青空と碧海にはさまれた白いプラットフォームが、美しいコントラストを形作っていました。
 15分ばかり、肉眼で眺め、双眼鏡で眺め、スマホで撮影したりしていましたが、父が満足そうであったので良かったと思います。
 岩船沖油田はもうしばらくのあいだ稼動していることでしょう。しかしいずれは石油や天然ガスが干上がって、役目を終えることになります。そうなる前に、油田を探し当てた当人である父がまだ元気なうちに見に来られて、何よりのことでした。
 クルマで中条駅まで行って貰い、帰途につきました。

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