SSブログ

島根県公演行(2) [旅日記]

 島根県での演奏会にオーケストラの一員として参加すべく、7月14日(木)隠岐島に渡り、15日(金)のソワレ(夜公演)を済ませて、16日(土)朝の高速船で本土の境港に到着し、さらにバスで松江市街にあるホテルに運ばれました。まだ11時です。
 2回めの公演は17日(日)のマチネ(昼公演)です。16日はホテル到着後、まるまるフリーでした。
 しかしホテルのチェックイン時刻まではまだ時間があり、部屋に入って昼寝するなどというわけにはゆきません。大きな荷物だけ預かって貰って、三々五々出かけてゆきました。
 私も、ホテルのフロントのラックにあった松江市内のガイド冊子を片手に、軽装で外に出ました。さっきまで晴れていたのに、あいにくと雨が降り出しています。ここ数日は、全国的に天気が安定しなかったようで、関東地方などでは雨続きだったと聞きます。
 傘をさして、松江の街を歩きました。さしあたって目的地は、松江歴史館です。松江城に隣接しており、もとは家老の屋敷跡だったとのこと。周辺もお屋敷町といった雰囲気です。
 途中で、地元チェーンのスーパーマーケットを見かけました。夕食はここで買うことにしようと考えました。私は旅先の地元チェーンのスーパーで買い物するのがわりと好きです。松江らしいメニューにはならないでしょうが、その点はほかの人の話を聞いても、沖縄料理の店に行ったとかうどん屋に行ったとか、別に松江ならではの食事をしたようでもなさそうだったので、事情はさして変わりません。
 1キロあまり歩いて、歴史館に着いた頃には、雨はさらに繁くなっていました。憂鬱な天候ですが、悪いことばかりではなくて、「雨の日割引」とかで入場料が100円安くなっていたのでした。
 ミュージアムとしてはそう大きな構えではありませんが、松江城や松江の町の歴史がわかりやすくまとめられていました。
 松江というのは、そう古い街ではないようです。松江城を築き、城下町としての松江を造営したのは、堀尾吉晴忠氏の父子でした。堀尾吉晴は豊臣秀吉に仕えた武将ですから、16世紀後半くらいに活躍した人です。
 堀尾父子が来るまでは、このあたりの中心は、尼子氏が居城としていた月山富田城でした。いまの安来市に位置します。この城は「信長の野望」なんかでも難攻不落の大規模な堅城として登場しますが、かなり内陸部にあり、あまり便利な場所とは言えませんでした。
 堀尾吉晴は、織田軍の稲葉山城攻めの際に、秀吉の部隊の道案内をして一番乗りの手柄を立てさせたとかいう真偽不明な功績のほかは、さほど華々しい武功がある武将ではありませんが、秀吉の下で順調に出世していますから、有能だったのは間違いないでしょう。戦さよりも、築城とか都市計画など行政面に才のある人だったのかもしれません。その吉晴の眼から見ると、月山富田城は出雲の統治にはどうにも使いづらく、中海宍道湖のあいだにある湿地帯を開拓して、まったく新しい城と城下町を造営しようということになったわけです。
 確かにこの場所は悪くありません。北側に島根半島の山塊を背負い、南側に中海~大橋川~宍道湖という大きな水辺を望む、いわゆる咸陽の地です。防衛的な面でも、陸地から攻めようとすれば大きく宍道湖を迂回してこなければならず、敵に疲労を強いますし、海から攻めようとしても境水道・中海・大橋川という、大軍が通るには不適当な水路を抜けて来なければならず、両岸から大砲でも撃ちかければかなりの損害を与えられるでしょう。これまで多くの城や城下町の造営をこなしてきた堀尾吉晴のお眼鏡にかなったのがこの場所だったのでした。
 息子の忠氏が関ヶ原の戦いで東軍に属して奮闘した功績により、徳川家康から出雲に領地を貰ったのでしたが、忠氏はその後まもなく若死にしてしまいます。跡継ぎの三之助(のちの堀尾忠晴)はまだ幼く、隠居していた吉晴が孫の後見人となって、松江の造営に取り組んだのです。
 湿地帯の後背の山を崩して台地を造成し、そこに城を建てました。その周囲に内堀・外堀その他の水路を縦横にめぐらせて水はけを図り、同時に干拓した土地に城下町を造ったわけです。
 堀尾吉晴は城下町の完成を目前にして亡くなりました。忠晴は跡継ぎができなかったので、大名家としての堀尾家は断絶し、次に京極氏がこの地を拝領しましたが、またしても無嗣断絶となりました。そのあとは親藩である松平氏が入って、幕末まで統治しました。
 松江城も松江の街も、江戸時代の初期に造られたもので、それ以前の歴史がほとんど無いという点、日本の都市としては珍しいタイプに属するようです。

 ……というようなことを、展示を見ていろいろ納得しました。雨はまだ降り続いています。なんとなく外に出るのも物憂く、附属している喫茶室に入りました。これがけっこうアタリでした。
 茶人大名として有名な松平不昧が出たのでもわかるとおり、松江は茶道の盛んな土地です。その派生として和菓子でも知られています。歴史館附属の喫茶室「きはる」は、有名な和菓子職人が運営しており、作りたての和菓子と抹茶をセットにして味わえるのでした。蒸し暑いので私は冷抹茶にしましたが、お菓子は確かにとても美味だったのでした。
 いつまでもそこに居ても仕方が無いので、まだ雨はだいぶ強く降っており、雷も鳴っていましたが、外に出ました。歴史館の入場券で、近くにあるホーランエンヤ伝承館も見学できるというので、そちらにも行ってみました。
 ホーランエンヤというのは松江で10年にいちどおこなわれる神事で、前回は2019年だったようです。いままで全然知らなかったのは、開催されることが少ないからでしょうか。装いをこらした5艘の舟と、それを護衛するかのように取り巻いたたくさんの小舟が、大橋川から意宇川を通ってご神体を運ぶというもので、10万人からの見物客が集まるのだとか。ホーランエンヤはそのときに歌われる唄もしくは掛け声のことですが、厳密に言うと舟によって少しずつ掛け声が違うのだそうです。
 展示は簡単なものでしたが、映像などもあり、いまだ見たことのない神事のイメージがかなりリアルに想像できるようになりました。

 さて、そのあとのことは考えていなかったのですが、とりあえずお城に行ってみようかと思います。
 歴史館やホーランエンヤ伝承館の近くには、お城に入るための北惣門橋というのがお堀に懸かっていますが、現在は工事中だそうで通行できません。仕方なく、その南側にある大手門のほうへ歩きました。
 すると大手門の前に、「堀川めぐり」の船着き場がありました。そういえば歴史館に行く途中でも、背の低い高瀬舟みたいなのがお堀を行き交っているのが眼に止まりました。
 どんなものだろうかと興味を惹かれて、切符売り場の建物に入ってみたら、ほかに客は居らず、
 「いらっしゃい、どうぞ、ご乗船ですか」
 と大きな声をかけられて、成り行き上乗船券を買うことになってしまいました。1500円なのでそう安くはないのですが、当日であれば何度でも乗船できるそうです。まあ、そう何度も乗る人は多くなさそうですが。
 20分ごとくらいに運航しているらしく、あと10分ほどで出発すると教えられました。
 屋根のついた平べったい舟で、乗船すると靴を脱ぐようになっており、ゴザの上に坐ります。低い屋根がついていますが、堀にたくさん懸かっている橋の中には、やたらと橋桁が低いものもあり、そういうのをくぐるときは、屋根が下がる仕掛けになっていました。乗っている当方は、ほとんど寝るみたいな姿勢にならないと頭がぶつかります。そんなこともあって、8~10人くらいしか乗せられないようでした。
 船着場から少し北上して、さっきの歴史館のあたりから西へ折れます。小泉八雲の旧宅や記念館などはその先にあり、前にマダムと松江を訪れたときにレンタサイクルで来たことがあります。それで今回は割愛したのでしたが、考えてみると前に来たのはすでに10年も前のことです。時の流れの速さにあらためて慄然とします。
 内堀はごく浅いらしく、水深1メートルもないところが多いようでした。しかしもとが湿地帯であるため、水底は底なしの泥になっていて、落ちたら自力では脱出できないとか。
 あちこちで水鳥の姿を見かけますが、馴れているのか舟が通りかかってもまったく反応せず悠然としています。乗客の大半は勢い込んでスマホをかざしており、どちらが高等生物なのかわからないような様相でした。
 お堀の西南端から水路を通って京橋川に入ります。大橋川の北側を流れている水路です。県庁カラコロ工房赤十字病院のあたりを通って、米子川に左折します。それからもとの外堀と合流して、さっきの歴史館の角のところへ戻り、船着き場に帰ってくるのでした。所要時間は約50分。ルート上には、実に多くの大小さまざまな水路がつながっており、「水の都」というあだ名が伊達ではないことを実感させられました。

 舟から下りると、雨はほとんど止んでいました。遊覧中も降ったり止んだりしていましたが、そろそろ雲が切れて青空も覗きはじめています。
 今度こそ天守閣に向かいます。現存の天守閣としては姫路城・松本城に次いで第3位の大きさだそうです。改築はされていますが、破却されたものを再建したわけではなく、基本的には堀尾吉晴が建造したそのままの姿を保っています。つい7年前の平成27年2015年)に国宝指定されました。つまり私が前に松江を訪れたときにはまだ国宝にはなっていなかったわけです。お城の国宝指定は、昭和27年1952年)の犬山城以来63年ぶりのことでした。決め手となったのは、城内に収められていた2枚の祈祷札が近くの神社で発見されたことで、これにより建造時期が確定されて国宝指定となったそうです。それまでは、建造時期がはっきりせず、建て替えられたりしていたのかもしれないというので、重要文化財から国宝へなかなか昇格できなかったとか。
 姫路城などとは違って、実用一点張りという感じの武骨な天守閣です。関ケ原の戦いからそう年月も経っておらず、まだまだ大きな戦さがあるかもしれないという時期に建造されたため、敵を迎え撃つことに特化した建築思想がそこかしこに見えるのでした。
 矢狭間、鉄砲狭間は各階の随所に設けられていますし、2層めには城近くまで攻め寄せた敵を粉砕するために大きな石を落とすための設備もあります。しかもそれが、外からはわからないように設計されているのでした。確かにこの城を攻め落とすのは容易なことではないと思われます。築城の名手であった堀尾吉晴の面目躍如という建物でした。
 ただし、天守閣というのは、大砲の的になりやすく、この時代すでに、城攻めには大砲が有効だということが知られはじめていました。だから実際に戦さになれば、この城がどのくらい耐えられたものか微妙ではあるのですが、幸いなことに松江城は戦さに巻き込まれることなく江戸時代を生き抜き、明治の破城令も昭和の空襲も切り抜けて現在に至りました。
 最上階の6層めからの眺めは、昔も今もそれほど変わらないでしょう。松江にはそんなに高い建物がありません。建物の形や密度は変わっても、地形はそのままです。広大な宍道湖とその背後にそびえる中国山地のどっしりとした姿は、堀尾3代、京極1台、松平10代の殿様が眺めたのと同じものです。

 天守閣に通じる石段や、内部の梯子段を昇り降りして、すっかり足が痛くなりました。翌日の公演のときには、筋肉痛がひどくて、楽屋と舞台袖のあいだの階段の昇降に難儀したほどです。私の年齢からして、翌日に筋肉痛が来るというのは案外元気な証拠で、そろそろ翌々日に来るという老化現象があらわれはじめるころなので、その点は満足したものの、痛いのには変わりないので困りました。

 空はすっかり晴れて、陽射しがえらく暑くなりました。千鳥橋のほうから下りて、県庁に出ましたが、さあこれからどうするかは本当に決めていません。
 一畑電鉄にでも乗りに行ってくるかと思い、松江しんじ湖温泉駅に向かって歩き出しましたが、どうも思ったより遠いようで、バスに乗ろうにもどちら向きのどこ行きに乗れば良いのかよくわからず、急に暑くなって汗だくでもあり、なんだか面倒になりました。時計を見ると15時半くらいで、もうホテルのチェックインが可能です。もういちど地図を見ると、どうやらホテルまでは案外と近いようだったので、とにかくいちど戻ってみようと考えました。
 フロントでチェックインして、預けてあった荷物を回収します。荷物の様子を見ると、ほとんどの人はまだ戻っていないようでした。
 隠岐島の宿の部屋に較べると断然狭いシングルルームに荷をほどき、まずは汗を流しに大浴場へ。ビジネスホテルみたいな宿ですが、「天然温泉・旅人の湯」というのがついています。最近そういうのが増えました。
 冷房の効きがあまり良くなく、何より部屋を空けるとすぐに電源が切れてしまうのが少々不満でしたが、しばらくベッドに寝転がっていると、だいぶ気分が良くなってきました。
 マダムから、そちらは大雨になっているのではないかとメッセージが来ました。隠岐島で100ミリの豪雨というニュースがあったようです。一日ずれていれば大変でした。松江では青空が見えていると返事しました。昼間の雨雲が海を渡って島に行ったのかもしれません。
 18時半くらいになって、再び出かけました。まずは先ほど見かけた地元チェーンのスーパーで夕食などを入手します。ほとんどの品物が半額などになっていて、値段以上のものが仕入れられたと思います。
 それから、「ぐるっと松江レイクライン」の停留所に向かいました。松江市内を周遊するレトロバスです。市内を要領良く廻ってくれるので、ちょっとした観光バス気分にもなれます。実は宍道湖沿いを走る区間がけっこう長く、夕陽を眺められるのではないかと思ったのでした。停留所に行ってみると、最終便が18時50分にやってくることになっていました。調べておいた日没時刻は19時半ちょっと前で、これならちょうど日没のころに宍道湖畔を走ることになりそうです。運賃は全区間均一で210円と、実にお得でした。
 ところどころの停留所で時間調整などをしていたのでちょっとやきもきしましたが、宍道湖畔に出たころにはちょうど夕映えが美しくなっていました。ただ、夕焼け雲は真っ赤に染まって美しかったのですが、肝心の太陽がどこにあるのかよくわかりませんでした。雲に覆われていたのか、それとも思っていたより早く対岸の山影に隠れてしまっていたのか、とにかく入日を眺めることはできず、そのうち夕闇が迫ってきました。
 やや残念ではありましたが、小型のバスで市内を廻るのは愉しい体験でした。「ギャートルズ」「ペエスケ」の作者・園山俊二が松江の出身だったことをはじめて知りました。バスの車窓から、記念碑とかキャラクターの銅像などもいくつか眺められました。
 ホテルに近い停留所で下車します。一畑電車に乗るのはまた次の機会にしようと思いますが、はたしていつになることやら。

 一夜明けて7月17日(日)。旅の最終日であり、第2回の公演がおこなわれる日でもあります。
 会場のメテオプラザというのがどのあたりかと思って調べてみると、松江の市街地ではなく、なんと島根半島の先のほう、七類(しちるい)に近い……というか七類港のフェリーターミナルみたいな建物です。隠岐島への航路は、境港とこの七類港から出ているのでした。境港と七類港は、島根半島を隔ててほとんど南北に並んでいるようなものでした。かつては松江の市域には含まれていなかったはずです。
 こんなことなら、境港で宿泊していれば移動が簡単だったのではないかと思うのですけれども、そこは少しは観光させてやろうという事務所の計らいだったのではないでしょうか。境港にはそれこそ水木しげるロードくらいしか見どころが無さそうですし、七類などに泊まった日には、隠岐島の宿どころではないほどになんにも無いところです。私は松江市内ばかり歩きましたが、出雲大社へ行ったグループもあり、玉造温泉などへ行ったグループもあったようで、松江からならいろいろ足が伸ばしやすかったわけです。
 さて、その七類港の建物がメテオプラザと呼ばれているのは、平成4年1992年)に美保関の民家に墜ちた隕石(メテオ)にちなみます。宇宙空間から飛来した隕石は、大気圏で燃え尽きることなく、民家の屋根を破り、2階の床を破り、1階の床も破って、床下に突入しました。住人は落雷でもあったのかと思ったようですが、翌朝床下を見て仰天したそうです。隕石は重量6キロあまりで、人に当たっていたりしたらえらい騒ぎでした。
 こういう場合、隕石の所有権はその家屋の持ち主に帰属するらしく、売れば何億円だかになったという話ですが、住人は松江市に寄付しました。せっかくの隕石が研究のために切り刻まれたりするのがイヤだったとか。ただ、ほんの一部だけが欠きとられて研究に供されました。
 その結果、驚くべきことがわかりました。1100年ほど前の平安時代、九州の直方に墜ちた隕石と、この美保関隕石はまったく同一の成分を持っており、明らかに同じ母星(たぶん小惑星)由来の姉妹隕石であったというのです。地球も隕石も宇宙空間の中を動いているのに、同じ母星から生まれた2つの隕石が、1100年の時を隔てて、これほど近く(直線距離で400キロ足らず)に墜ちたというのは、素人が考えても奇跡的に思われます。
 その隕石を展示すると共に地域文化センターとしての機能を持たせ、かつフェリーターミナルとしても活用できるようにしたのがメテオプラザなのでした。地域文化センターとしての側面からホールも併設され、そのホールで演奏会を開催するというのが今回の趣旨です。
 ホテル前からバスに乗って、11時前には到着しましたが、リハーサルは13時からとなっています。待機時間が長いのはこの種のイベントではやむを得ないことですが、出演者からすると時間をもてあまし気味です。せっかくなので、私は隣の建物でやっていた隕石の展示を見てきました。なぜかほかには見に行った人は居なかったようです。私の興味が、ほかの音楽家たちとはずれているのかもしれません。
 展示室にはほかに客も居らず、巨大スクリーンのイントロデュースアニメを独り占めしたのち、とんがったドームの下に安置されている隕石をじっくりと眺めました。漬物石みたいな形状と大きさを持つ物体で、路傍に落ちていたら誰も見向きもしないのではないかと思われました。こんなのがいきなり墜ちてきたら、そりゃあ住人はびっくり仰天でしょう。
 おかげで退屈な待ち時間を有益に潰せました。

 演奏会は15時半開演、17時半過ぎの終演でしたが、ちょうど終演と同じころにフェリーが到着し、そのフェリーに接続する路線バスが発着することになっていました。演奏会の時程は、お客たちがそのバスに乗って帰れるようにという配慮だったのかもしれませんが、見ていると路線バスに乗ったお客などはほとんど居なかったようで、本来の対象であるフェリーからの下船客がちらほらと乗っていたばかりでした。みんなマイカーで聴きに来ていたようです。
 地方での公演をすると、こんな交通の便の悪い会場にいったい人は集まるのだろうかと心配になったりすることが多いのですけれども、公共交通機関などを使ってやってくる人はまず居ないというのが実態です。都会のイベントの常識は通用しないのでした。
 路線バスが発車したのち、私たちもバスに乗って米子空港に向かいました。米子空港は米子市ではなく境港市に属し、会場からもごく近いのでした。20分ばかりで到着します。
 隠岐世界ジオパーク空港ほどではありませんが、ここもこぢんまりとした空港です。米子鬼太郎空港と称しており、水木しげるによる妖怪絵のステンドグラスなども設置されていました。
 ここの待ち時間も2時間以上あって、会場で配られた弁当を食べたりしていましたがやっぱり暇をもてあまします。しかし、いつしか時は過ぎ、羽田行きANA390便の搭乗がはじまりました。この空港はなぜか国内線は羽田行きしか無く、大阪や福岡などとは路線がありません。むしろソウル上海などとの国際便路線が幅を利かせている感じですが、むろんのこと現在はコロナのため運航しておらず、それで余計にがらんとした雰囲気なのでしょう。
 飛行機はB767で、6列席の中型機でした。私の好みとしては、このくらいの大きさの飛行機がいちばん良いように思います。ジャンボ機はどうも、詰め込まれたニワトリのような気分になって、息苦しくてなりません。
 搭乗がスムーズだったのか、予定より少し早めに動き出しました。羽田や成田のように滑走路が混んでいないためでもあるでしょう。
 機内では、私はフライトデータを眺めているのが好きです。上空に上がって少しすると、もう若狭湾の上あたりにさしかかっているので驚きました。さらに、飲み物を受け取ったりしている間に、ふと気づくと早くも富士山の近くになっています。本当に飛行機という乗り物は始末に負えないなと思います。
 羽田到着も、予定より少し早くなっていました。もっともローカル線なので、出入り口はだいぶ虐待されており、えらく長い通路を歩かされました。
 もう22時を過ぎています。京急品川まで行き、そこから上野東京ラインに乗り換えようと思ったら、なぜか30分くらいすっぽり抜けている時間帯で、仕方なく京浜東北線の電車に乗って、途中18の駅に停車しつつ帰宅しました。
 全体としては、けっこう楽しい旅公演であったと思います。

nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。