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「現代のベートーヴェン」の転落 [ひとびと]

 全聾の作曲家として知られ、「現代のベートーヴェン」などと呼ばれていた佐村河内守氏が、実は別人が書いた曲を自分の作品として発表していたことをカミングアウトして騒ぎになっています。
 私は佐村河内氏の作品とされていた曲を聴いたことがなく、そもそも名前も去年のいつだったかにはじめて眼にして、最初はサムラ・カワチノカミなどと読んでしまったていたらくですので、特に感慨というほどのものは覚えないのですが、今朝がたからマダムがずっと騒いでいます。ソチ・オリンピックに出るフィギュアスケートの高橋大輔選手が、佐村河内氏の曲を使うことになっていたとかで、何もこんな時にカミングアウトして高橋選手に動揺を与えなくとも良いじゃないか、というのがマダムの主張でした。
 マダムは朝っぱらから携帯電話のニュースでこの話を発見して、あれこれまくしたてながら検索したりして、もう少し寝たいと思っている私の耳元でウィキペディアの佐村河内氏の記事を大半読み上げていたもので、私も氏のおおまかな経歴などは諒解してしまった次第です。マダムがしゃべくり続けているので、ついに私は又寝することができませんでした。

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永井一郎氏の訃報 [ひとびと]

 声優の永井一郎氏が、広島のホテルの浴槽で倒れているのを発見され、病院に搬送されたものの亡くなったというニュースが入りました。
 前日までナレーションの仕事をしていたそうですから、病死というより事故に近かったのかもしれません。お湯に漬かった途端に心不全でも起こしたか、あるいは浴槽で足を滑らせでもしたか、ともかくもう82歳という高齢なのにお付きの人も連れていなかったようなので、そういうことがあっても発見が遅れてしまったのが命取りだったのでしょう。チェックアウトの時間を過ぎても下りてこないのを不審に思ったホテルの従業員が様子を見に行って発見したのだそうです。
 つい2ヶ月ほど前に、アニメの「サザエさん」が長寿番組としてギネス認定されたことに関してエントリーを上げましたが、その中で波平役の永井さんと、フネ役の麻生美代子さんがとうに80を過ぎていて、いつまで演じてくれるか微妙だ、というようなことを書きました。私の書いたことなどが世の中に何かの影響を及ぼすはずはないとはいえ、なんだか讖(しん)をなしてしまったようで、少々後味の悪い想いを覚えます。

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三善晃氏の訃報 [ひとびと]

 三善晃氏の訃報が伝えられました。
 この数年くらい、もうほとんど連絡もつけられない状態だという話を編集者や合唱指揮者などから聞いていたので、意外な気はしません。時間の問題ではなかったかと思います。80歳だったそうですから、まあまあ頑張ったと言えるのではないでしょうか。もともと、あまりお丈夫そうな雰囲気の先生ではありませんでした。
 私は三善先生の謦咳に接したことはほとんどありません。学生時代の合唱の授業で、『子どもの季節』だったかを練習したことがあって、その時に合唱の先生が授業に三善先生を招いて話をして貰ったことがあります。直接お目にかかったのはその時だけだったのではなかったかと思います。お目にかかったと言っても、私は数多くの学生の中のひとりに過ぎませんでしたから、もちろん三善先生のほうでは私のことなど知りませんでした。
 合唱の先生の意図としては、当然、演奏上の注意などを言って貰いたかったのでしょうが、私が憶えている三善先生の言葉は、次のようなものでした。
 「ぼくはですね、小さい子供の、あの、首の後ろの、ぼんのくぼって言うんですか、あそこのくぼんでいるところを見ると、もうたまらなくて。いや、あなたがたくらいの齢になるともうダメですよ。小さい子のあそこを見ると、なんというかこう、胸がキューッとしちゃうんですね」
 作曲家というものが多かれ少なかれ変態であると悟ったのはその頃でした。むろん、私自身を含めての話ですが。

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ENAさんとの再会 [ひとびと]

 愛知名古屋の、ではなかったと思います)ENAさんから、上京するので会いませんかというメッセージが「お客様の声」に寄せられていました。早速連絡をとって、今日の午後にお目にかかることにいたしました。
 最近はオフ会もすっかりご無沙汰していますし、ネット友達に会うことも少なくなりました。そもそも掲示板の書き込みとかチャットルームなどでコンタクトをとることさえ稀になっています。ひとつには私の怠惰のせいでもありますが、ミクシィとかフェイスブックとかのソーシャルネットワークサービスによるつながりがネットの人間関係の多くを占めるようになり、ホームページの掲示板などに書き込む人が減ってきたという事情もあろうかと思います。過去のオフ会は、やはり掲示板やチャットなどで話が盛り上がって開催したというケースが多かったわけなので、その辺の交流が減ったために、オフ会を開こうというところまで至らない状態になっているのでしょう。
 たぶん私もSNSをやれば良いのでしょうが、どうも生活に収拾がつかなくなりそうで、いまのところ近づかないようにしています。マダムはミクシィのヘビーユーザーですが、彼女が片時も携帯電話を手離さない様子を見ていると、私などが始めれば、ほとんど仕事が手につかない状態になるのではないかと危惧してしまうのです。そのため、時々寄せられるSNSへのお誘いにも、すべて無反応で通しています。
 そんなわけで、ネット友達との交流も、一時期に較べるとめっきりお寒いものになってしまっています。最近でも時々顔を合わせることがあるのはだーこちゃんくらいですが、それも確か2年半ばかり前が最後ですし、立ち位置としては私のネット友達というよりも、マダムの友達のご亭主という感覚のほうが強くなっているようです。
 (ここをお読みになっているかたで事情をご存じない向きもおありでしょうが、だーこちゃんの結婚式に招かれた時に、新婦側友人として招かれていたのが当時はっちぃと称していたマダムで、そこで知り合って5ヶ月後に私どもも結婚したのでした)

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ある旧知への手紙 [ひとびと]

 (ある人に向けて書いた文章ですが、名前はあえて出していません。読めば誰のことかはすぐわかると思いますが、興味本位で検索されて読まれることはあまり好まなかったためですので、ご了解ください) 

 君とは6年間の中・高一貫校時代に何度か同じクラスになったというだけで、友人と呼べるほどの付き合いは無かったと思う。
 実際のところ、最近何回か、マスコミからの取材を受けたのだが、君について語るべきことがほとんど思いつかないので、その都度不得要領に終わった。たぶん、名簿順が近かったので私のところへなど接触してきたのだと思うが、いずれも

 ──もう少し何かありませんかねえ。

 という様子だった。中学高校時代、君がどんな生徒であったかということを訊きたいようだったが、本当にこれといった話題が無かったのだ。
 中には、君が休み時間によくやっていた紙麻雀のことまで持ち出して、当時からギャンブル好きであったことを私から引き出そうとした記者も居たが、そういうゲームをやっていたのは何も君だけではないし、そもそもお金を賭けていたかどうかも私は知らない。
 麻雀については、体育祭の休憩時間に教室でやっていたのを先生に見つかって、
 「おまえたち、まさかカネを賭けてるんじゃないだろうな」
 「賭けてませんよ」
 「賭けもしないで麻雀をやって、何が楽しいんだ?」
 とその先生が言ったというひとつばなしを憶えているが、その時とがめられた一団の中に君が入っていたかどうかもわからないのである。

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北杜夫氏の訃報 [ひとびと]

 北杜夫氏の訃報が伝えられました。この24日に84歳で亡くなったそうです。
 最近はあまり読んでいませんでしたが、一時期ずいぶんと入れ込んで愛読したことがある作家なので、やはり感慨を覚えます。もう84になっていたのかという驚きもあったりしました。昭和2年生まれですから、勘定してみれば確かにそういう年齢です。

 北杜夫氏は、躁鬱病という病気を人口に膾炙させたことで知られます。確か『あくびノオト』という本の中で躁鬱病であることをカミングアウトしたのだったと記憶しています。その後さかんに自虐ネタのごとく自分の症状をユーモラスに書き綴りました。ゆゆしき精神症状ではありますが、そのおかげで一般の人々がわりと身近に──とは言わないもののあまり恐れずに受け容れるようになりました。
 最近はそれが行き過ぎて、鬱病という病名を安易に使いすぎる傾向があるようです。以前ならせいぜいノイローゼ(神経症)と診断されたであろう症状が軒並み鬱病扱いされ、悪く言えば怠ける口実を与えているようにさえ見えます。ここまで来ると、北さんもいささか不本意だったのではないかと思ったりするのですが、ともあれ精神病に対する偏見をある程度取り除いたのは確かでしょう。北さんの芥川賞受賞作『夜と霧の隅で』はまさにその、精神病に対する偏見を告発した作品でしたから、ある意味では初志を貫き通した生涯であったとも言えそうです。

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4つの墓 [ひとびと]

 今日は土曜日で、本来ならピアノの教室に行く曜日なのですが、お盆休みという口実でオフにしてしまいました。
 特に予定があって休みにしたわけではなかったのですが、お盆休みの口実に符牒を合わせたかのように、マダムの母方のお墓参りに行くことになりました。
 マダムと私の両親はまだそれぞれ健在ですが、祖父母はすでに全滅しています。最後に残っていたのが札幌在住だった私の母方の祖母で、かろうじて私の結婚に間に合い、新婚旅行で北海道へ行った時にマダムと引き合わせることができましたが、その翌年の秋に亡くなりました。
 その祖母が札幌に居たのでおわかりの通り、私の母の実家は札幌で、祖父母の眠るお墓も札幌にあります。ただ、たぶん昔は市域外だったのではないかと思われる、海が近い北のはずれで、墓地に行くためのろくな交通機関も無く、親戚のクルマに同乗でもしないと墓参りはできません。祖母の三回忌の時に一度お参りしたきりです。祖父はずっと前に亡くなっているのですが、お墓を買ったのはかなり後のことだったはずで、私が墓参りをする機会もなかなかなかったのでした。
 これに対し、父方の祖父母のお墓は東京の高尾にあります。比較的近場とはいえ、高尾駅からバスに乗るので、面倒くさいと言えば面倒くさく、そのせいもあってこのところしばらく墓参りをしていないので、多少気になっています。おんなじような墓石が並ぶ広大な公営墓地なので、よく迷ってしまいます。

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ピーター・フォーク追悼と『刑事コロンボ』の想い出 [ひとびと]

 ケーブルテレビのAXNミステリーチャンネルで、去る6月23日に亡くなったピーター・フォークの追悼特集をやっていたので、録画して少しずつ見ています。
 このチャンネルではしばらく前から『刑事コロンボ』の完全版放送をはじめていたところで、まったくの偶然とはいえ、驚くべきタイミングであったと言えるでしょう。『コロンボ』のほうは中盤にさしかかったあたりです。
 ピーター・フォークは、調べてみるとずいぶんたくさんの映画やドラマに出演しているようですが、どうしてもコロンボのイメージが強くて、他の映画やドラマに出ているのを見てもコロンボにしか見えないということになっています。しかも故小池朝雄さんによる吹き替えがはまりすぎて、日本人としては小池さんの声でないとピンと来ないという状態かもしれません。
 かく言う私も、昭和47年にNHKで『刑事コロンボ』の日本語版放送が始まってからずっと見ていました。何しろ当時は私も小学2年生ですから、コロンボ=フォーク=小池朝雄、という組み合わせが完全に刷り込まれてしまったと言って良いかと思います。

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Tasty 4の演奏会へ [ひとびと]

 今夜から、山陰方面へ行って参ります。
 レジャーとしての旅行でもありますが、用事が無いわけではありません。用事にひっかけて何日か骨休めをしてくるという、私にとってはよくあるパターンです。
 出雲大社のすぐ近くに、大社文化ブレイスという文教施設があります。平成21年10月開館と言いますから、まだできて1年半しか経っていない新しい施設です。ここに「ごえんホール」という200席ばかりの小さなホールがあり、明後日(4月30日)の夕方から、Tasty 4というグループが演奏会を開催します。
 この演奏会を聴きに行くというのが、私の「用事」です。

 はるばる島根県までわざわざ演奏会を聴きに行くのは、私の書いたものが演奏されるからではありますが、演奏されるのは「春の情景」という春の歌の編曲メドレーで、初演というわけでもなく、本来なら足代でも出ない限り、現地に赴くほどのことはしなさそうです。
 ただ、Tasty 4というグループに、ずっと以前からの関わりがあるのでした。
 実のところこのグループは、四半世紀近く前に短期間活動して、その後解散してしまっていました。メンバーに言わせると「発展的解散」ということだったそうです。実はその一員が、Chorus STの指揮者である清水雅彦さんで、私が関わったのも清水さんを通してのことでした。
 当時は、清水さんも若く、もちろん私などはもっとぺーぺーでした。最初に知り合ったのは、作曲科の友人の紹介で伴奏を弾きに行った「板橋第九を歌う会」という合唱団でのことでした。私の文章に時々出てくる「川口第九を歌う会」とは全く別団体ですのでご注意下さい。「第九を歌う会」と称する団体は各地にあり、特にバブル期にはずいぶん乱立したものです。板橋の会は、川口のそれのように独立して活動することはせず、行政の管轄下であるとはいえ、バブル崩壊後あちこちの「第九を歌う会」が予算を切られて活動を中止する中、今でも続いているのは立派と言うべきでしょう。私は「板橋第九」には数年関わっただけとはいえ、板橋区演奏家協会に入ることになったきっかけ……というより入る根拠となったのは板橋第九の伴奏をしていたことでもあり、その後の私の人生をだいぶ左右しています。
 清水さんと知り合ったのもやはり大きな転機でした。「板橋第九」の合唱指導のチーフは外山浩爾先生でしたが、もっと若い声楽家連中が補助として代わる代わるやってきては指導していました。私が行っていた頃は、清水さんの他、小島聖史さんとか、大志万明子さんとか、その後いろいろ活躍なさっているかたがたが指導陣に加わっていたものです。
 その中で特に清水さんとの関わりが深まったのは、「板橋第九」に参加していたメンバーが、オフシーズンでも合唱団として活動を続けたいと言い出したことに端を発します。「第九」は、たいてい春頃に団員募集がかかり、6月頃から練習がはじまり、12月に本番を迎えるというスケジュールでやっているので、本番が終わってからの半年ほどは活動停止状態になってしまいます。このオフシーズンを埋める活動をおこないたいといメンバーが集まって、「板橋アルモニー」という合唱団ができました。ここに指揮者として招かれたのが清水さんで、伴奏ピアニストとしては私が招かれたのでした。
 板橋アルモニーは今でも活動を続けていますが、私は十数年前に縁が切れています。合唱団の方向性のようなことが原因だったため、やむを得ぬ仕儀でした。それにしてもかなり長い間、清水さんと共にこの合唱団に関わっていました。なお、板橋アルモニーは最初の「『第九を歌う会』のオフシーズン活動」という趣旨からははやばやと離脱し、次の年の「第九」の活動がはじまってもそのまま続けられましたし、以後ずっと通年合唱団となっています。
 このアマチュア合唱団のため、私はいろいろな曲を編曲しました。私にとっても、合唱曲を書いてゆく上での大きな勉強の機会になったと思っています。この団体のために書いた合唱編曲の集大成が『唱歌十二ヶ月』という曲集になっています。一方清水さんにとっては、いわば「ド素人を教えるためのノウハウ」をずいぶん体得できたのではないかと思います。彼はNHKの合唱番組によく出てきて講評をしたりしていますが、非常にわかりやすく、かつ当たりが柔らかいことで有名です。たぶんそれは板橋アルモニーの指導を通して得た清水さんなりのコツなのではないでしょうか。Chorus STなどでは、番組でイメージされる人格よりもっと短気です(笑)。
 さて、そんなことで一緒に仕事をしておりましたので、清水さんが他で編曲などを必要とする時にも手近の私を起用したのは自然な流れでした。清水さんが指導している磯辺女声コーラス合唱団ユートライ(現在は指揮者が代わっています)のために編曲や、時には作曲をした他、合唱以外の場の仕事も頼まれることがありました。そのひとつが、Tasty 4でした。

 Tasty 4というのは、当時清水さんが、学校で学年の近い人たちと組んでやっていた、声楽家4人・ピアニスト2人のグループです。アンサンブルグループというほどのものではなく、ソリストとして活動している人々がゆるいグループを組んだという趣きでした。若い頃は、例えばひとりでリサイタルを開くのが、実力的にも金銭的にも少々苦しいので、仲間と一緒にジョイントという形で開催することがよくありますが、その仲間がある程度固定されると、これでひとつのユニットということになるわけです。
 とはいえ、コンサートともなると、それぞれがソロで歌って終わりというのはあまりに愛想がないというものです。それで、よくコンサートの最後に、全員参加の、いわばお楽しみステージが置かれます。
 その、お楽しみステージの編曲を頼まれたのでした。
 Tasty 4のメンバーは清水さんの他、ソプラノの栗栖由美子さん、メゾソプラノの大國和子さん、テノールの小濱明さん、そしてピアニストが鈴木真理子さんと鈴木永子さんです。みんなその後大いに活躍している人々です。ちなみに鈴木真理子さんは清水さんの夫人となりましたが、結婚したのはこのグループの活動末期近くのことでした。
 私が関わり始めたのは、このグループの第2回演奏会からのことでした。開催時期が12月だったので、クリスマスソングのメドレーを求められたのです。
 ちょうどその直前にクリスマスソングメドレーをひとつ作っており、しかもうまいことにピアノ連弾による伴奏がつけてあったので、それにちょっと手を加える程度のことをして渡しました。作品リストには「たのしいクリスマス」として載っております。
 それから第3回に秋の歌メドレー「秋の祭典」、第5回に北海道の歌メドレー「白の地平線」、第6回にモーツァルトの作品メドレー「モーツァルトの花束」というのを提供しています。ただしこの最後のものは、企画段階からどうもあまりうまく行きそうもないと思い、やってみるとやっぱりうまく行かなかったという自覚があって、私自身の中では黒歴史化してしまい、作品リストにも載せてありません。この第6回演奏会をもってTasty 4も活動を終えましたが、当時、モーツァルトメドレーが失敗だったせいではないかと思ったりしたものです。
 もちろんそんなことではなく、メンバーそれぞれの活動が多忙になったのが主因でしょう。グループを組まなくてもやってゆけるという感触になってきたのだと思います。

 Tasty 4のメンバーとはそれぞれ知己を得ましたが、栗栖さん・小濱さんにはその後あまり接触がありませんでした。小濱さんは最近少しだけまた顔を合わせる機会ができましたが……
 鈴木永子さんとも接触は無くなりましたが、一昨年の夏、新田恵さんのリサイタルに共に関わったため、久しぶりに再会しています。
 清水さんはもちろんその後も親しくお付き合いいただいていますし、鈴木真理子さんも以前ほどではないにせよちょくちょくお目にかかります。
 大國さんも、板橋アルモニーやChorus STに、ヴォイストレーナーとして来てくれることがあって、時々顔を合わせました。
 ところがこの大國さんが、去年のはじめに急死してしまったのです。

 あまりに突然の訃報であったので、しばらくは言葉も出ませんでした。
 お弟子さんも多く、友達も多く、家族は居なかったもののいつも賑やかにしている人だったのに、なんと孤独死だったというので、やりきれない気がしたものです。特にその少し前、私の作曲科の同級生のひとりも、同じような状況で孤独死をとげていたので、余計にショックでした。
 家族が居ないところで、長患いもなくぽっくり逝ってしまえば、まあ孤独死ということになるわけですが、最期の時はどんな想いで居たものでしょうか。「これはダメだな」と思うものなのか、それともそんなことを思う間もなく意識が遠ざかるものなのか。
 約束していた用事に姿を見せないので、不審に思った相手が電話してみたところなんの応答も無く、これはまさかと駆けつけてみるとすでに事切れていたということです。まだ50代半ばという若さでした。
 大國さんは島根県の大社町(現在は出雲市の中)の出身でしたが、すでにご両親は無く、ごきょうだいも血のつながっている人は居らず、里帰りの時に寄っていた親戚の人が呼ばれました。遺体をすぐに故郷へ運びたいとの意向でしたが、東京の知人たちが頼んで、葬式ではなく「お別れ会」を催すことになりました。私も取るものも取りあえず駆けつけました。遺体と対面しましたが、それほど長時間苦しんだ形跡が無いようだったので、残念な想いながらも少し安心したのを憶えています。
 あちこちで活動していた人で、関係する団体も非常に多く、歿後わずか3ヶ月の去年4月、それらの団体を集めて早くも追悼コンサートが開催されました。Chorus STも出演しました。東京文化会館の大ホールで、おそろしく盛大な会となっていました。
 それから一年、大國さんの声楽家活動の原点でもあったTasty 4の演奏会が、20年近くの時を経て、大國さんの故郷である大社で開かれることになったわけです。
 大國さんのポジションであったメゾソプラノはもちろん空席になりました。今回そのポジションには、大國さんの弟子で、清水さんの生徒でもあり、かつてはChorus STのメンバーでもあった向野由美子さんが加わることになっています。

 そして、あの頃と同じく、私の編曲メドレーで全員演奏をすることになったのでした。
 「春の情景」という春の歌メドレーは、清水さんはTasty 4のために最初作成したと思っていたようですが、そうではなく、別のちょっとしたミニコンサートのために作ったものです。編成もピアノ伴奏がひとり、歌い手は3人というものでした。その後Chorus STで再演した際、四部合唱に変え、伴奏もピアノ連弾にしてあったので、今回そのまま使える状態になっていたわけです。ただ、Tasty 4は「ソプラノ・メゾソプラノ・テノール・バリトン」という普通の四重唱編成でなく、バリトンが居なくてテノールがふたりという変則的な形ですので、四部合唱そのままではちょっと歌いづらかったかもしれません。
 ともあれ、私がはるばる出雲まで出向こうと考えたのは、青春時代の追憶につながりそうなイベントであったからです。

 大國さんとお目にかかる機会は少なくなかったものの、仕事の場で一緒になることは意外と少なかった気がします。あまり仕事を介さないお付き合いでした。
 また、ニアミスの多いお付き合いでもありました。全然別件で知り合った人が、意外にも大國さんの弟子であったり、同郷の後輩とかであったり、伴奏に行っていたり、というケースが、不思議なほどに多かったのです。近いところではうちのマダムも、大國さんのところへレッスンを受けに行く友達に、伴奏者としてついて行ったことがあるそうで、もちろん私と知り合うよりずっと前の話です。
 ただ一度だけ、一緒に日帰りの旅をしたことがありました。
 『幼年幻想』という歌曲集は、新潟の鈴木紀久代さんというソプラノ歌手に委嘱されて書いた作品ですが、この紀久代さんが大國さんの弟子でもありました。ただし、それは上記の合唱団ユートライがらみだったので、そんなに意外な話というわけではありません。
 紀久代さんが最初のリサイタルを開くにあたって、私に歌曲集を委嘱してきたわけですが、師匠である大國さんにも賛助演奏を依頼したのでした。それでふたりながら新潟へ出かけることになったのですが、どうせ行くのなら同じ便にしましょうということで、待ち合わせて新幹線に乗ったわけです。道中なんの話をしたか忘れてしまいましたが、ひとつだけ、当時NHKで「名探偵ポワロ」が放映されはじめていたところで、
 「ポワロの吹き替えをするなら熊倉一雄さんしか居ないと前から思ってたんですが、ドンピシャでした」
 と私が力説していたことだけ、妙に鮮明に記憶しています。

 今夜の夜行で経って、明日29日松江市内を散策したのち出雲市駅前のホテルに泊まり、翌30日はやはり演奏会を聴きにゆくChorus STの仲間と落ち合ってから出雲大社に詣り、大國さんのお墓にも詣でてから演奏会に向かうことにしてあります。その後2、3泊して帰ってくる予定ですので、次の更新は5月3日か4日になると思います。


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