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消えた隣人 [日録]

 隣の部屋で改装工事が始まり、しばらくはうるさい想いをしそうです。先日工事の人が訪ねてきて、予定表を置いて行きました。私が応対して予定表を受けとりましたが、あとでマダムが、
 「タオルの一本も持ってこなかったの?」
 と不満そうに言いました。
 住人が改装するのではなく、転売するための改装らしいので、そういう配慮が無かったのかもしれません。
 近所づきあいということをほとんどしないので、もう同じところに25年くらい住んでいるというのに、これまで隣にどんな人が住んでいたのかもよく知りませんでした。マダムが一緒に住むようになってから、マンションの管理組合の理事などになったりしたので、多少近隣の住民とのつながりができたくらいです。

 隣の住人は、私が住み始めたよりあとから越してきたのだったと思います。引っ越してきた時には挨拶くらいあった筈ですが、それもほとんど記憶にありません。ただ、時々壁越しに電子オルガンの音がするのと、最近はやたらと吠える犬が居たことが印象に残っています。犬はミニチュアダックスフントとかいう種類でしょうか、深夜の零時とか1時とかになって急に吠え出すことがよくありました。主人の帰宅がそのくらいの時間だったのかもしれません。
 奥さんや娘が居たと思うのですが、ほとんど見た憶えがありません。マダムは、奥さんは日本人ではないんではないかと言っていました。私のおぼろげな記憶では外国人という気はしなかったので、あるいは最初の頃とは違う奥さんだったのかもしれません。娘さんのほうは、このところ全く気配が感じられませんでした。
 ここ半年ほど、妙な具合でした。私の家のドアホンが鳴ったので出てみると、女性が立っていて、
 「お隣のSさん、ご不在なんですが、いつ頃なら居られるかご存じですか」
 と訊ねるのです。それがなんというか、一度や二度ではないのでした。私の不在の時にマダムも応対したようですし、出かけようとするとその女性が隣家のドアの前に立っていたこともあります。彼女は「伊藤」と名乗っていましたが、話し方を聞くと、それこそ明らかに日本人ではないようでした。
 もちろん隣人の予定など知りませんので、
 「さあ、わかりませんねえ。帰ってくるのは夜遅いことが多いようですよ」
 と私は答えていましたが、何度も来るので不安になりました。隣人は何か変なことに巻き込まれているのではないかと、ほとんど知らない人ながら心配です。
 訪ねてくるのは必ずその女性だったのですが、マダムによると、男がふたりくらい一緒に来て、少し離れたところで待っていたといいます。
 ある日、外出しようと玄関を出かかると、隣のドアに何か紙が貼られているのに気がつきました。盗み見するのは悪いと思ったし、私の知ったことでもないのですが、特に隠しているようでもないので、つい見てしまいました。マジックで金釘流の文字が書かれていました。

 ――ごれんらくください ×××× 伊藤

 ××××のところは、アルファベットが4文字。あとでダメモトでググってみたところ、とある外資系の自動車会社が関係している金融機関の略称であるようでした。他の団体の略称である可能性が無いとは言えませんが、その女性がしげしげと訪ねてくるのはどうやら金銭がらみであるようです。
 隣家の主人・S氏は、ひたすらその女性から逃げ続けているようですが、そのままでは済みますまい。それに(マダムによると)外国人の奥さんはどうしているのでしょう?
 あいかわらず、深夜になると犬がキャンキャン啼き始めます。以前はよく聞こえていた電子オルガンの音は、まったく聞かなくなりました。

 そんなことが繰り返されてからしばらく経った、今から一ヶ月ばかり前の日曜日の朝、ドアホンが鳴りました。インタフォンで出ると、
 「お隣の者なんですが……」
 急いで玄関に出てみました。脊の低い、半白の男性が立っていました。こんな人だったかな、とちょっと首を傾げたくなりました。
 「今日出て行くことになりましたんで……はあ、お昼過ぎまでちょっとバタバタするかもしれませんが……」
 そう言って、S氏は菓子折を差し出し、戻ってゆきました。
 引っ越しは簡単に済んだようで、そんなに「バタバタ」した気配もありませんでした。もしかしたら家財道具などももうあまり残っていなかったのかもしれません。
 私の住んでいるマンションは、平日の午前中に通いの管理人が居るだけです。週末には管理人が居ません。次の日の月曜日、ゴミを出しに行って管理人と挨拶しました。
 「Sさん、引っ越しちゃったんですか?」
 管理人が心外そうに言いました。
 「ええ、昨日、業者が来て、あっという間に居なくなっちゃいましたよ」
 私は答えました。管理人には転出の挨拶が無かったようです。

 たぶんS氏は金策に困って、隣室を売ることにしたのでしょう。どこへ越すともなんとも言っていませんでした。売るといっても、すでに築30年に及ぼうとしている古マンションですし、たぶん二束三文ではないでしょうか。他の部屋が売りに出ていたのを広告で見たことがありますが、表示されている価格がすでに7桁に過ぎませんでしたから、買い取り値はどのくらいになるものやら。
 ともあれ、馴染みの無かった隣人はどこへともなく姿を消し、そして今日から業者が入って転売のための改装が始まりました。隣人に何があったのか、いろいろ想像はできますし、私にもっと文才があればちょっとした短編小説のネタくらいにはなりそうな気もしますが、何しろS氏の人となりも何も知らなさすぎるので、頭も尻尾も雲をつかむようです。
 これからしばらく、隣の工事のやかましい物音に眉をひそめるたびに、あの犬の啼き声を思い出すことになるかもしれません。


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