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「ドン・ジョヴァンニ」の編曲終わる [お仕事]

 やっと『ドン・ジョヴァンニ』の編曲作業が一応終結を見ました。前に書いたように、もうひとりの編曲者と分担だったので、全体の半分とはいえ、分量は相当ありました。
 このオペラは、モーツァルトの生前だけでもいくつかのヴァージョンが書かれています。一度上演してみて物足りなかったり、あるいは歌手からもっと見せ場を作るよう要求されたりしたのだと思われ、「No.10a」とか「No.21b」とか、番外になっている曲がいくつもあります。今回は、「No.21a」という、滅多に演奏されることのない二重唱だけカットすることになりました。序曲を含めて全27曲です。私はそのうち14曲を手がけました。
 オーケストラメンバーは全部で16人で、そのうちひとりは私が受け持つレチタティーヴォ伴奏ですのでパート譜は不要(ヴォーカルスコアを見て弾く)としても、パート譜は各曲15部ずつ必要になります。本物のフルオーケストラに較べれば少ないと言っても、15部のパート譜にスコアを含めた16ずつのファイルを14曲分印刷に廻すのは、送信するだけでもけっこう時間を要しました。
 それでも、いちいち郵送していた頃のことを思えば、ずっと楽になったと言うべきでしょう。ページ数を正確に計算してはいませんが、概算でもスコア・パート譜を合わせて800ページは超えているはずで、これを全部郵送しようとしたら1000円以上かかると思います。料金だけの問題でなく、梱包などの取り扱いも大変です。その点、メール何本かに分割してファイルを添付すれば済む現在の形は、実に簡便だと言わざるを得ません。「運賃」としてかかる通信料も、せいぜい数十円というところでしょう。ブロードバンドの常時接続時代ですから、もしかすると数円で済んでいるかもしれません。

 編曲という作業は、よく依頼されるわりには、実のところ私にとってそれほど喜びを得られる作業とは言えません。
 作曲も、やっているあいだはつらいもので、なんとか早くこの責め苦から逃れたいという気持ちに苛まれますが、完成した時の充足感はやはり格別で、この仕事をやっていて良かったと感慨ひとしおになります。しかし、編曲の場合は「終わった解放感」があるくらいです。
 他人の作ったものを加工するだけの、いわば二次的な作業であるためだろうと思います。だから、原曲をかなり自由に変形して良い、「編作曲」と呼べる作業になれば、それなりの喜びも出てきます。
 そういう意味では、妙な編成だけれどもなるべく原曲に近い響きにしなければならない、毎年の板橋オペラの編曲作業などは、正直言ってうんざりするものであることを認めざるを得ません。
 ただ、こういう堂々たる古典作品を扱う場合に関しては、作業そのものとは別の興味も生じます。

 良い文章を書けるようになるためには、古今の名文と呼ばれる文章を書き写すのが良いと言われますが、音楽の場合も同様で、名曲の楽譜を書き写すのはいろいろ勉強になるものです。音符だけでなく、楽語やアーティキュレーションなどを丁寧に書き写すことで、その作曲家の考え方や、意図した効果などが、かなり想像できるようになります。
 作曲家志望の若い人だけでなく、演奏家にもぜひ写譜をお奨めしたいところで、他人の演奏のCDを聴いたり解説書を読んだりするよりも、ずっとその曲に対する理解が深まることは請け合います。作曲者はなぜここでスラーを切っているのか、この音にアクセントをつけることにどんな意味があったのかなどなど、楽譜を譜面台に置いて眺めているだけではつい見逃してしまうようなことをいろいろ考えてしまうのです。
 編曲は写譜とは違いますが、板橋オペラのようなケースだと、歌の部分はそのまま写すことになります。それだけでも、ずいぶん気づくことがありました。
 モーツァルトのオペラの醍醐味が、アリアよりもむしろ重唱にあるとわかったのはそのおかげだったりします。特に3人以上の歌い手がからむシーンにおいて、対比と調和の絶妙なバランスを感じます。あまりに絶妙なので、聴いていても自然に聴き流してしまい、それがどれほど絶妙であるのかに気づきづらいかもしれません。やはり楽譜に向き合って、写してみて、はじめてわかる点で、やっぱり誰がなんと言おうとモーツァルトという男は天才だったのだと納得してしまいます。
 そういえば映画「アマデウス」で、モーツァルトが「フィガロの結婚」の六重唱を自慢するシーンがありました。

 ――6人ですよ6人! それがみんな違うことを歌うんです。セリフなら何がなんだかわからなくなるでしょう。でも音楽なら全員の言うことがわかるんですよ。

 この通りのセリフではなかったでしょうが、大体こんなようなことを、王様に向かって力説していたと記憶しています。「アマデウス」の元の形の戯曲を書いたピーター・シェーファーは慧眼だったと思います。
 美しいメロディーを書く作曲家はたくさん居ます。美しい愛の二重唱を書く作曲家も少なくありません。が、美しく、なおかつひとりひとりのキャラクターが立っているような三重唱(以上)を書ける作曲家はそうそう見当たりません。ヴェルディプッチーニでも無理です。まして私など、音楽劇の真似事のようなものを作っている身として、本当に爪の垢でも煎じて飲みたいような気がします。
 もちろんオーケストラの部分も、じっくり向き合っているうちにいろいろ発見があります。古典を編曲する際は、作業そのものよりも、そのように勉強になることが多い点で、やはり実りある仕事であったと思ったりもするのです。

 大変な作業が一段落したので、今日はオフ日のつもりでだらだらと過ごしました。急を要する仕事は今のところありませんが、いくつか心づもりしている作曲の仕事があるので、明日からはそれらの準備に取りかかろうと考えています。


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