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長雨と季節感 [日録]

 雨がずいぶん長いこと降り続いています。木曜の夕方くらいから降りはじめ、時に弱まったり強まったりしながら、もう丸2日以上降りやみません。
 こんな時期は家にじっとしていたいものですが、なかなかそういうわけにもゆきません。むしろこんな時に限って、何かと外出する用事が多くなります。
 金曜日はまた『トゥーランドット』のオーケストラリハーサルがあって顔を出さなければなりませんでしたし、晩にはChorus STの練習が入っていました。最初は直行するつもりだったのですが、篠つく雨の中、オケリハのための大量の重い荷物(編曲したスコア、それに元のフルスコアだけでいい加減重いのです)を抱えて歩き回りたくなかったので、一旦帰宅して出直したのでした。幸い、リハーサルの順番の関係で、私は多少早上がりすることができたので好都合でした。
 そして土曜日の今日は、いつもどおりピアノ教室の仕事がありました。明日は明日でまた出かけなければなりません。

 明日の用事は都心に出る必要があるので別ですが、金曜の板橋(オケリハ)と大塚(Chorus ST)、今日の戸塚安行(ピアノ教室)は、晴れていればいずれも自転車で行き来している場所です。距離でいうと板橋がうちから6~7キロくらい、大塚が10キロくらい、戸塚安行が12キロくらいです。
 雨のため、これらを全部電車とバスで移動しなければなりません。すると、予想以上に交通費がかさみます。板橋は正確に言うと東武東上線大山駅までなので、電車で移動すると300円余(消費増税以来設定された運賃の端数をまだよく把握していないので、「余」というあいまいな書きかたでご容赦を)、荷物が多い時は乗り換えを減らしたいので一部バスを使うと330円余になります。大塚までは167円(これはさすがに憶えた)、戸塚安行まではいろんな行きかたがあり、最短ルートのバスだと270円余、埼玉高速鉄道だと340円余かかります。
 これがすべて往復でかかってきます。今日の教室への往復は、幸い最短ルートの東武バスを両方とも使うことができました。何しろ日に5往復しかない、ド田舎並みの路線なので、往復両方とも使えるということはわりと珍しいのです。
 昨日今日の2日間だけで、交通費が1500円ほどもかかっていることになります。晴れていれば使わない金額であって、雨のための余分な出費というわけです。
 いまざっと計算してみて、自転車を使っていなかった頃はずいぶんと交通費を浪費していたものだと反省しました。教室へ行くのに、遅くなってタクシーを走らせたことさえありました。独身だったからできたことですね。もちろん、回数券や、プレミアの大きなバスカードなどを積極的に活用はしていましたが。
 ともあれそんなわけで、雨が長引くと交通費が余計にかかってかないません。また、自転車であれば荷物の重さもそれほど苦になりません。前カゴが重たいと、上り坂などではやはり少々疲れが増すようではありますが、抱えて歩くのに較べればずっと楽です。昨日にしても、晴れていて自転車で出ていれば、早上がりで時間が少々余っていても、一旦帰宅するなどとは考えなかったことでしょう。ちなみに大山から大塚までは、さほどの距離ではありません。

 ここ何年か、梅雨入りが早くなっているような気がします。まあ、子供の頃の感覚では「6月は梅雨」というイメージで定着してはいましたが、私の「若い頃」という感覚で言えば、梅雨入りは6月後半くらいになってからであることが多かったように記憶しています。梅雨明けは7月半ば以降、ひどい時には8月までずれ込んだ年もありました。長期的な変動というものがあるのかもしれません。
 また、私などの感覚では、梅雨というのは鬱陶しい雨がしとしと降るのが常道で、そんなに大雨が降るという印象がありません。梅雨明け近くになって大雨と言える降りかたをして、それが梅雨明けの合図みたいな気分でした。
 昨日や今日の雨を見ていると、降りかたも昔とは少し違ってきているように思えます。
 九州などでは、昔から梅雨時に集中豪雨みたいなバカ降りをして、水害になることが多かったようですが、どうもそういう降りかたが、東京近辺でも見られるようになってきたのではないかという気がしてなりません。
 東京が熱帯化ないし亜熱帯化しているという話はしばらく前からささやかれていて、特に夏の暑さ──単に気温の高さだけでなく、いわば暑さの質──が熱帯的であることは、もう疑いようもない事実と言えます。8月の温度と湿度は、赤道直下に近いジャカルタとほぼ同じ数値を示しているそうです。
 そうは言っても冬はそれなりに寒く、年間を通じて熱帯的であるとは言えないでしょうが、少し気になることがあります。
 それは、寒暖の変化がこのところ急すぎないか、という点です。
 うちのマダムも、「春物衣類」を着る機会が無いと嘆いていたりします。つまり、コートを必要とするような寒さから、いきなり半袖やらタンクトップやらに移行してしまい、その中間の時期が著しく短いということです。サマーセーターのような衣類をマダムはけっこう持っているのですが、そんなものを着ることが滅多になくなりました。私も、コート無しで長袖シャツという時期はほんの半月ばかりであったような気がします。
 春・秋という、いわば「移りゆく季節」は、もともと天候が変わりやすく、着るものをいろいろ調節しなければなりませんが、少なくとも日本では、「四季」という言葉のとおり、それぞれ1年の4分の1くらいの長さはあったはずです。春夏秋冬がバランス良く巡ってくるのが日本の良さでした。北海道だけは、亜寒帯に属するため、長い冬に続いてごく短い春があり、梅雨は無く夏になって、また短い秋を経て冬に戻るという、「二季プラスアルファ」くらいの気候でしたが、本州以南は、ところによって積雪が多かったり水害が多かったりなどのバラエティはあるものの、おおむね四季がはっきりしていました。
 それがどうも、首都圏限定であるのかもしれませんが、「二季プラスアルファ」状態に近づいているように思えて仕方がないのでした。ただし上記の北海道に較べると、夏がずっと長いですけれども。
 暑いか寒いかで、中間が少ないという気候になってしまうと、人々の性格にも影響が出るのではないかと危惧しています。中庸を重んじ極端を敬遠し、断定を嫌いあいまいさを好むというのは、日本人の美点でもあり欠点でもあると思いますが、季節のサイクルが変わることでそういう性格がだんだん変質し、白か黒かはっきりしないと気が済まないという人が増えてくるのではありますまいか。それはそれで良いこともあるでしょうが、寛容さが失われるということでもあります。日本人の寛容さを愛する者として、残念なことです。

 『唱歌十二ヶ月』とか、春のメドレー秋のメドレーなどを作る際に、四季に即した日本の歌をいろいろ蒐集しましたが、わりとすぐに感じたのは、

 ──春と秋の歌は多いが、夏と冬の歌は少ない。

 ということでした。もちろん少ないと言っても比較の問題で、なかなか見当たらないというほどではありませんが、とにかく春と秋の歌の分量に圧倒される想いでした。しかも、名曲──心にしみ入る歌詞、印象深いメロディ──となると本当に春と秋なのです。日本の詩人や作曲家は、春と秋、つまり「移りゆく季節」がよほど好きなのだなと感じました。
 私の作った春のメドレーである『春の情景』は、「早春賦」からはじまって、「春よ来い」と春を待ち望み、「どこかで春が」「春が来た」で春の到来を喜び、「春の小川」「さくらさくら」「花」で春の盛りを愛で、「朧月夜」で晩春の駘蕩たる風景を歌うという、季節の変化を追った並べかたをしてみました。『秋の祭典』のほうは時系列順というわけではありませんが、それでもなんとなく「訪れ→深まり」を感じられる並びになっていると思います。夏や冬では、なかなかこういう配列はできません。さまざまに変化し、いくつものフェイズが存在する春と秋こそ、詩人のインスピレーションを誘う季節であったと思うのです。
 これが近年のように、中間的な季節がごく短いということになってしまうと、産まれる作品の質も量も、ひどく寂しいことになってしまいやしないかと、私はつい心配してしまうのでした。

 雨はまだしばらく続くようです。しかも週明けからは、雨が続く上に気温も上がるそうで、やりきれない蒸し暑さがやってくるそうです。体調も崩しやすい天候ですので、皆様も健康には充分にご留意ください。


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