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ある改変 [お仕事]

 『TOKYO物語』という編曲メドレーが、あちこちでいろんな使われかたをしているらしいということは前にも書きました
 本来は女声三部、もしくは混声三部の合唱とピアノのための戦後歌謡曲メドレーというものなのですが、独唱もしくは重唱で使われることもあり、一部をカットして歌われることもあり、ピアノを2台にしたり打楽器を加えたりなど楽器編成を変えて演奏されることもあります。
 そういう、もともとの形と違った扱いをするにあたって、出版社経由で許可を求めてきたり、問い合わせをしてきたりすることもあります。わりとそういうことが多いので、その種のリアレンジに関しては、私の許可を求める必要はない、ということを、少し前の増刷の時から本そのものに追記しました。
 オリジナル作品であればそんなに放任もしないでしょうが、ものが編曲ですから、私が作った形にそれほどのこだわりはありません。いろんなところで、その場に合わせて好きなように改変して使えばよろしかろうと思っています。本が売れれば印税や著作権料が私に入ってきますから、『TOKYO物語』が私の作ったものであることに間違いはありませんが、気分としてはもう合唱界の共有物という感覚になっており、むしろ編曲本がそんな位置を占めることができたことに喜びを感じてさえいます。先例があるとすれば源田俊一郎さんの『ふるさとの四季』くらいなものでしょうか。
 さて、先日のことですが、また新たに改変の許可を求める報せがありました。
 本にも許可を求めなくて良いと書いたことですし、出版社もいちいち私に取り次がなくても良いのに、と思ったのですが、今回はちょっと毛色が変わった改変だったのでした。

 どういうことかというと、

 ──ナレーションを書き換えたい。

 ということだったのです。
 ご承知のかたも多いかと存じますが、『TOKYO物語』にはナレーションがついています。本来は朗読するつもりではなく、初演者(共立女子大学合唱団)への心覚えでした。ナツメロのメドレーがやりたいということで共立の合唱団から委嘱を受けたものだったのですけれども、女子大生たちはたぶんここに扱われた曲の時代背景などほとんど知るまいと思ったのです。もちろん、昭和20年代といえば私だって生まれる前のことで、知るよしもありませんが、それでもいろいろ本は読んでいますし、彼女らより多少は(笑)年上なのでイメージも湧きやすいはずです。それで、簡単に時代背景の説明として、各曲のかたわらに文章をつけておいたのでした。
 冒頭の空襲の日付などは、愛読していた内田百閒の随筆から拾いました。百閒は戦争中、なかば意地になって疎開をせず、空襲が盛んになってもずっと東京に頑張っていました。その時の戦中日記が「東京焼盡」というタイトルでまとめられています。何月何日の空襲で東京のどこが焼かれた、という話題が克明に記されていて、新聞の縮刷版などよりずっと扱いやすく役に立ちました。
 空襲の日時だけではありません。この本には、戦時下から戦後すぐにかけての、リアルタイムの人々の「空気」が描かれています。こればかりは、回顧録のたぐいでは決して得られない貴重なコンテンツです。あとからの美化も正当化もされていない、市井の人々のナマの雰囲気がそのまま感じられるのです。
 「東京焼盡」を読んで私が感じたのは、状況が「悲惨」ではあっても気分が「悲嘆」にはなっていない庶民のバイタリティでした。何もかもきれいさっぱい無くなった時、人はもう笑うしかないのかもしれません。前に空襲にあって焼け残った家が、再度の空襲で焼け落ちてしまったのを見て、通りがかりの人が
 「虎刈りだったのを刈り直したんだろ」
 「わっはは」
 と笑いあいながら歩いて行ったなどというエピソードは、その時でなければ記録できない「ナマの声」にほかなりません。
 焼き尽くされた東京が、意外と「明るかった」ということを私が知ったのは、この本と、それに続く戦後すぐの百閒随筆(『随筆億劫帳』など)を読んでのことです。
 それだから、『TOKYO物語』につけた私の文章も、決して悲惨さを強調するようにはなっていません。むしろそんな悲嘆に暮れた時代ではなかった、ということを女子大生たちに伝えたいつもりで書いておいたのです。
 が、その文章を朗読したほうがカッコいいじゃないか、ということになって、初演で「ナレーション」をつけたらわりと好評だったため、のちに出版される時にもそのまま添えておきました。こういう事情であるため、朗読する場合少々タイトになってしまう箇所もあります。
 実際の演奏に際しては、ナレーションに関しても、省略することもあり、少し変えることもあるのではないでしょうか。もともと心覚えですから、それらも私は別に構わないと思っています。ただ、私自身が演奏に関わる場合には、このナレーションは、あまり感情を込めずに、ニュース原稿のように坦々と読んでくれるよう朗読者に頼んでいます。加賀美幸子アナウンサーをイメージしたというようなこともどこかに書いた憶えがあります。
 それにしても、まるまる差し替えたいという申し出ははじめてのことで、私は少々びっくりしました。出版社の担当者もびっくりしたようです。

 詳細を書くのは遠慮しますが、ある地方都市のイベントで使うための改変だったようです。
 そのため、東京に特化している元のナレーションを、その都市の事情に合わせて変えるというわけで、それならまあ構わないのではないかと私は思いました。ただ、このメドレーは選曲も東京に特化しているのに、ナレーションだけ変えても浮いてしまうのではないかという気はしました。
 出版社からのファックスには、その改変版のナレーション案も付けられていましたので、ちょっと読んでみました。
 私の文章では「前奏曲」の部分は、東京の空襲記録を、それこそ史料のように事務的につけておいただけでしたが、それがいきなり地獄絵図みたいなベタな描写からはじまっていたので、眼を丸くしました。
 進行に伴って、その都市の戦後史を振り返るみたいな流れになるのかと思ったら、後半はイベント自体の縁起を語る感じになっていました。よくありますが、「平和のなんたら」というたぐいのイベントでした。
 『TOKYO物語』が、題材的に、そういうイベントで使われることは充分考えられることです。
 この日誌をお読みのかたはご承知かと思いますが、私は「いわゆる」平和主義者でもありませんし反戦主義者でもありません。もちろん戦争など起こらないほうが良いに決まっていますが、それでも人としてどうしても戦わなければならない時はあるものだと思っています。また、平和を維持したいのならそれなりの備えは不可欠だと考えています。平和とはお題目を唱えていて得られるものではなく、時にえげつない、司馬遼太郎氏の言葉を借りれば「人脂(ひとあぶら)のべとつくような手練手管」が要るのだと思います。だから当然、集団的自衛権の行使にも賛成しています。
 それから原発も稼働させるべきだという意見です。ただこれは「原発推進派」というより、さっさと核融合を実用化して貰いたい、そのためには現在の核分裂エネルギーのノウハウを断絶させてはならない……という立場ですけれども。
 要するに私は、「平和のなんたら」というたぐいのイベントの主催者たちが聞いたら、おそらくがっかりするような思想の持ち主と言えそうです。
 実のところ、『TOKYO物語』を出版するに際して、私はナレーションを読み返し、いくつかの言葉を修正し、全体として決して、あからさまな「反戦主義」みたいなものが出ていないことを確認してから校了したくらいです。
 私が描きたかったのはあくまで「復興のバイタリティ」であり、戦争の悲惨さなどということではありません。それだから空襲記録も、一切の感情を交じえずに事務的に記しました。あとになってみると、それがかえって良かったような気がします。この世の地獄みたいなおどろおどろしい描きかたをしていたら、かえってリアリティが失われたことでしょう。

 「改変はお好きなように。ただし、差し替えるナレーションの作成者の名前を、パンフレットなどに明確にクレジットしてください、とお伝え願います」
 出版社への返事に、私はそんなことを書いておきました。
 考えてみると、『TOKYO物語』というメドレーには、その気になればかなり政治的な内容を含むナレーションでも乗せられそうです。今回のケースだと、冒頭はいささか生々しかったものの、そのあとはさほどの問題もありませんでしたが、同じようなケースで反戦の集会とか護憲の集会とかで扱われた場合に、私の意図と違ったナレーションが乗せられるということもあり得なくはありません。そのため、先例として、改変者の名前を明記して貰うことにしたのでした。
 それにしても、いろんなことが起こるものです。


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