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多忙な週末 [日録]

 前の週末も忙しかったのですが、今度の週末もなかなか多忙でした。もともとの予定の他に、急遽入ってきた用件もあって、相当広範囲に動き回った週末でもありました。
 土曜(11月10日)には世田谷区の合唱祭がありました。これ自体は前からわかっていたことです。今年の11月は、3日に新宿区の、4日に北区の、10日に世田谷区の合唱祭があり、私はそれぞれ別の形で関わることになっていました。新宿区はクール・アルエットの指揮、北区はChorus STでの歌唱、そして世田谷区はコーロ・ステラのピアノ伴奏です。私の関わっている合唱団がそれぞれ別の区の合唱祭に出場したわけですが、よく日程が重ならずに済んだと思います。
 この前怪我をしたとき、この中ではコーロ・ステラのピアノ伴奏のことがいちばん心配でした。指揮は最悪副木やギプスをつけたままでもできないことはないし、歌うのにはさらに関係ありません。しかしピアノを弾くのだけは、副木が外れ、さらに指が動かなければどうしようもありません。
 本番前に3回、合わせのために練習に行ったのですが、最初の1回はまだ副木がついており、次の回は副木が外れた翌日で、まだ心許ないので、マダムについてきて貰って、連弾で伴奏を弾きました。3回目が先週の6日で、その前の4日に無謀にも「第九」の指揮者合わせのピアノを弾いていたので、たぶん大丈夫だとは思いましたけれども、「第九」ならごまかしが利くのに対し、私自身の作品である『大地の歌 星の歌』を弾くのにごまかしを入れるのは、なんだか負けたような気がします。とにかく6日はひとりでやってみて、やはり不都合があるなら本番もマダムに連弾を頼むつもりで居ました。
 幸い、弾いていて痛みを感じるとかそういうことはほとんどありませんでした。ただ力が思ったように入らないということはあります。その後もいろいろ弾いてみて、和音などのポジショニングによっては少し痛いというケースがある程度だとわかりました。痛いと言っても、骨が折れた箇所ではなくて、指を2週間固定していたために筋がこわばってしまって痛いというだけなので、日が経つにつれそれも楽になってゆくでしょう。
 それで10日の本番はひとりで弾くことにしました。ただし、譜めくりがかなり忙しく、不自由な指を抱えた左手でめくろうとして事故があるといけないので、マダムに譜めくりを頼みました。
 そこまでは予定していたことだったのですが、1週間ほど前になって、急に、その世田谷区合唱祭の講評をすることになったのでした。

 世田谷区での講評は何度か招かれてやったことがあります。合唱連盟の会長は外山浩爾先生で、副会長は遠藤正之先生で、いずれも昵懇を賜っていますし、事務局長のAさんはコーロ・ステラの団員のご主人でもあります。人間関係がけっこう濃密ですので、その流れで講評を頼まれることにもなったのでしょう。ただここ数年はご無沙汰しています。そろそろまた頼まれないかなと思っていましたが、今年も話は来ませんでした。ところがAさんから電話がかかってきたのです。
 外山先生のご体調があまりよろしくないので、外山先生ご自身がやるはずだった第1部の講評を代行してくれまいかということだったのでした。コーロ・ステラの出番は第2部なので、その前の第1部だけならできるのではないかという判断だったと思われます。
 むろん否やはありません。外山先生も、MICが引き受けてくれるなら安心だ、という意味のことを言われたそうで、かたじけない限りです。朝がだいぶ早くなりますが、引き受けることにしました。

 ところでほぼ同じ頃に、ある訃報が入りました。マダムの父方の伯父さんが亡くなったとのことで、そのお通夜が10日、告別式が11日という連絡がありました。
 10日、合唱祭が終わったあとにお通夜に駆けつけることは可能と思われました。11日については、土曜日を合唱祭で潰したために、いつも土曜日にやっているピアノ教室のレッスンを、振り替えることにしてありました。そのレッスンの前に告別式に出席することも不可能ではなさそうでしたが、ただ11日は、もうひとつ予定を入れていたのです。
 レッスンが終わってから、溝の口洗足学園まで行くつもりでした。学園祭のようなことをやっていて、その一環として、例の10人のピアニストによるアンサンブルグループ「レ・サンドワ」のミニコンサートがあったので、聴きに行こうとしていたのです。
 レッスンとコンサートと、もうひとつ告別式をハシゴしても良いようなものですが、あいにくと葬儀は横浜戸塚でおこなわれるのでした。午前中に戸塚で告別式に出て、午後東川口に舞い戻ってレッスンをおこない、夜にまた溝の口まで行く──つまり神奈川と埼玉を2往復するのは、いかにも無理矢理感があります。
 それで、告別式は失礼させて貰うことにし、お通夜に寄らせていただくことにしました。衣裳の点でもそのほうが都合が良いようです。合唱祭の衣裳が黒シャツ黒ズボンという出で立ちなので、黒ズボンをそのまま礼服としてしまえるわけです。本番のとき以外も、講評者ですから少しはきちんとした格好をするべきで、白いワイシャツとジャケットを着ることにしました。あと黒の背広と黒ネクタイを持てば葬儀の服装になります。
 なお、マダムは両方に出席することにしていました。
 そのような次第で、あちこち飛び回る週末となってしまったのでした。

 10日の朝8時半頃に家を出ました。マダムも一緒です。本来マダムは、コーロ・ステラの出番のときに譜めくりをしさえすれば良いので、そんなに早く出なくても良かったのですが、会場の世田谷区民会館ははじめて行くときには少々わかりにくいし、私が講評をしている第1部は客席で聴いているというので一緒に出発しました。
 最近は、渋谷からバスで世田谷区役所前という停留所まで乗ってゆくのが普通になっていましたが、渋谷の埼京線プラットフォームから出口までが、動く歩道が廃止されてさらに面倒くさくなりましたし、マダムが世田谷線の電車に乗ってみたいとも言うので、新宿から京王線下高井戸に出て、そこから世田谷線に乗りました。私も意外だったのですが、世田谷線を使うのであれば、渋谷~三軒茶屋まわりとさほど時間的に差がないのでした。
 楽屋のほうへ行くと、吉岡弘行さんと出くわしました。2番目に出場する合唱団の指揮をしているので、待機中だったようです。吉岡さんも何度か世田谷区合唱祭の講評をしていて、私と一緒だったこともあります。今日はやらないのかと思っていたら、土曜日は午後にもうひとつ教えている合唱団があったようで、たぶん日曜でないと講評の仕事などもできないのでしょう。吉岡さんの団は「ラシーヌ讃歌」を歌っていましたが、実は彼はマダムの高校の合唱部の指揮者もやっていたことがあり、マダムもそのころ「ラシーヌ讃歌」を教わっていたそうです。客席で聴いていて懐かしく思ったのではないでしょうか。
 外山先生は、冒頭の開会の言葉だけ言うためにやってきました。体調がお悪いと言うよりも、普通に衰えてこられたのではないかと思います。杖をついていましたが、奥様の手引きがないと歩くことはもちろん、椅子に坐るのも覚束ない様子でした。しばらくお目にかかっていませんでしたが、ずいぶん不自由そうになられていて驚きました。しかし意気は軒昂で、声も多少弱々しくはなっていたもののまだまだ張りがありました。ただ往年の深いバスバリトンではなく、高齢者特有のけっこう高い声になっていましたが。
 開会の言葉も、舞台脇の反響版に寄りかかって述べられました。しかし何やらお説教みたいな調子で、おからだは弱っても気持ちはまだ堂々たるものだと感じました。お元気でおられていただきたいものです。
 講評者席に着いて、演奏を聴きはじめます。
 第1部の出場は14団体。全体では4部、51団体です。すごい数と言って良いでしょう。ご多分に漏れず、少人数の合唱団が増えているためですが、さすがに世田谷区には、伝統ある大きな合唱団も少なくありません。ただいずこも高齢化が進んでいて、プログラムの団紹介を見ると、過半数が80代、なんて団もいくつも見受けられました。そこまで至ってしまうと、もう活動を続けてくれているだけでありがたみのある感じでもあり、私の講評文も多少甘めになっていたかもしれません。
 この種の講評の常として、半分くらいまではなかなか進まない気がするのに、半ばからはどんどん進んで、文章を書いているうちにいつの間にか演奏が終わっていたりするようになります。14団体が終わったときには、
 「え、もう終わり?」
 というような気分でした。
 マダムとロビーで待ち合わせて、事務局で貰った弁当を食べます。いつもは会館内の食堂の食券を貰うのですが、今回は食堂がお休みだったとか。それで弁当になったのですが、なぜかマダムの分も用意してくれていました。しかもマダムが前から食べたがっていたM泉の助六カツサンド弁当です。大喜びでした。
 そのあと客席に戻り、コーロ・ステラの出番の少し前まで聴いていました。講評をせずに聴いているのは気楽で良いのですが、ときどき眠くなります。選曲の傾向がわりとどの団も似ていたせいかもしれません。
 その中にあって、わがコーロ・ステラの歌う『大地の歌 星の歌』は、自分で言うのもなんですがけっこう異彩を放っていたのではないかと思います。そろそろ退屈してきていた聴客の眼を醒まさせるような曲だったのではないでしょうか。あとで聞いたのですが、外山先生が前のほうで聴かれていて、この曲になったときに、急に眼を見開かれたとのことです。
 実は途中、楽譜の配置を間違えていて、弾きながら直すことが困難な状況でした。マダムを譜めくりに置いておいて大変助かりました。

 コーロ・ステラの出番は第2部のうしろから2番目だったので、終わったあと最後の団の演奏を聴き、すぐに出ました。楽屋で着替えをして、戸塚の葬儀場に向かいます。
 バスで渋谷に出て、東横線の電車に乗ります。湘南新宿ラインに乗れば、乗り換え無しで戸塚まで行けるのですが、調べてみると、なんと複数の会社にまたがっている東横線経由のほうが、JRだけで行くよりも200円くらい運賃が安いのでした。所要時間もそんなに大差ありません。マダムも東横線経由が良いと言いました。
 Fライナー、つまり東横線内特急に乗れたので、いわば最速です。もっとも、混んでいました。メトロ副都心線との直通がはじまってから、東横線の起点駅である渋谷から乗るのでは、東横線の電車で坐れることは滅多に無くなりました。
 横浜に着き、東海道線に乗り換えて戸塚へ。駅ビルのトイレで喪服に着替え、ちょっと時間が余ったのでハンバーガーを食し、斎場へ向かいました。地図はデータで貰っていたのですがプリントしてくる暇が無く、うろ覚えで出てきたし、斎場の名前も忘れてしまっていましたが、わかりやすい場所にあったので難なく到着しました。マダムの両親もすぐ前に到着していたようです。
 ほとんど身内だけの、ひっそりとしたお通夜でした。伯父さんには私はほとんどお会いしたことが無く、自分の結婚式のときに参列して下さったのと、あとオペラの初演のときに来聴して下さったときにお目にかかったくらいなので、そんなに故人への想いというほどのものはありませんでした。ただ義父がわりと早い時期にお姉さんを亡くし、いままたお兄さんを亡くして、兄弟で自分ひとりだけになってしまったので、気落ちしていないかと心配ではありました。
 マダムも、マダムの両親も、翌朝の告別式にも参列するので、当初、戸塚駅近くのしかるべきビジネスホテルあたりに宿泊しようかという話がありました。しかしよく調べてみると、週末はえらく値段が上がっています。最近は変動料金を採る宿が多くなって、土曜の晩などに安上がりに泊まるのが困難になりました。またビジネスホテルというのは平日の晩に混んでいて週末はガラガラというのが相場だったのに、この頃は逆転しているようです。ともあれ泊まったりしてはけっこう高くつくことがわかり、一旦帰宅することにしました。私たちもかなり遠いのですが、両親は北柏まで帰って明朝また出てくるので大変です。
 とはいえ上野東京ラインが通じて、それもだいぶ楽になりました。以前のように東京で一旦下り、山手線に乗り換えて上野へ行き、さらに常磐線に……という手順だとうんざりしますが、いまは品川から上野までのどこかで1回乗り換えればまでは行けます。両親は、東北線系と常磐線系が同じプラットフォームに発着する新橋で乗り換えていました。

 義父は気落ちしていたかもしれませんが、むしろいつもより饒舌な感じで、新橋で下りるまで、私を相手に昔の想い出などを語り続けていました。義父がこんなにしゃべったのを見たのははじめてかもしれません。

 翌朝、マダムは朝早く、ふたたび戸塚に向かいました。私は昼まで洗濯などをして過ごし、昼から教室に出かけました。川口の市街は御成道まつりで賑わっていたり、主要道路が通行止めになっていたりしましたが、幸い私が乗るバスには影響がありませんでした。
 ちなみに教室の最寄り駅は戸塚安行で住所は川口市戸塚ですが、これは上にさんざん出てきた横浜の戸塚とはまったく別です。読みも、横浜のほうは「とつか」で、川口のほうは「とづか」と濁ります。
 17時までレッスンをして、戸塚安行駅から埼玉高速線に乗りました。
 溝の口まで行くには、埼玉高速が乗り入れるメトロ南北線にそのまま乗って永田町まで行き、そこでメトロ半蔵門線に乗り換えると田園都市線に直通するので、乗り換えは意外なことに1回だけで済みます。しかし時間はかなりかかり、戸塚安行を発ったのが17時19分で、溝の口到着は18時31分でした。永田町の乗り換えでわりに歩いたとはいえ、所要72分というのは、首都圏内の移動としてはだいぶ長いように思います。
 洗足学園に行くのははじめてのことでした。もう夜なので詳しくはわかりませんが、入り口をくぐるといきなり銀色のドームが建っており、シルバーマウンテンと称するらしいのですが、そこがホール棟のようなものらしく、レ・サンドワのコンサートもその2階で開催されるのでした。かつてテレビドラマ「のだめカンタービレ」で、舞台となる音楽大学のロケ地として使われたのがこの洗足だったのですが、そんなことも含め、なにげに派手さのある学校という気がしています。なおここの講師でレ・サンドワの一員であり、クール・アルエットの常任ピアニストである山本佳世子さんによると、ドラマのロケ中は音を防ぐために一切の窓を開けることが禁じられ、けっこううっとうしかったとのこと。映画のロケなら1日2日で済むでしょうが、連続ドラマの主要舞台ともなればかなり長いこと撮影班に占拠されていたのかもしれません。
 レ・サンドワは4台のピアノを駆使した大アンサンブルが呼び物ですが、この日は2台だけの演奏でした。それでも「火祭りの踊り」など2台8手でかなりダイナミックな音響になっており、あまりピアノアンサンブルを聴きつけていないらしき学生などが感動していました。また来年、浜離宮ホールでコンサートをやるそうですが、今度は委嘱作品などは無いようです。いずれ『いのちの渦紋』を再演して貰えないかと思います。
 コンサートは60分だけで、ここに来るのに72分間電車に乗ったことを考えるとなんだか割りに合わないような気もしましたが、まあ招待券を貰っていたので文句はありません。帰りは南武線に乗り、川崎に出て上野東京ラインに乗り換えました。2日連続で上野東京ラインに乗って帰宅するなあ、と思いましたが、よく考えてみるとそんなに特筆すべき偶然というわけでもないようです。毎日上野東京ラインで通勤しているサラリーマンもいくらでも居るでしょう。出不精な生活をしているので、そんなことを興味深く感じたりします。
 ともあれ秋の行事は大体終わったようです。少しは落ち着くでしょうか。

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