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信仰と法の狭間 [いろいろ]

 『大草原の小さな家』という海外ドラマを毎週見ていたのは何十年前のことだったでしょうか。私が小学生の時代にははじまっていたと思うので、かれこれ50年近く前にはすでにやっていたことになります。相当な長寿番組で、私が大人になってもまだ続いていたような気がしますが、いつの間にか終わっていました。
 ドラマに登場する三人姉妹の次女であるローラ・インガルス・ワイルダーの自伝的小説が原作で、19世紀のUSAの中西部を舞台に、開拓民の家族の日々を描いています。原作小説のほうも一部読んだことがありますが、ドラマのキャラクターとはだいぶ違っていたので驚いた記憶があります。ドラマではどこまでも優しく頼りがいのある「父さん」が、意外と頑固オヤジでしたし、これまた優しさあふれる「母さん」は、インディアンや黒人に対してあまり好意を持っていない感じで、いまなら差別主義者とか言われかねません。
 最近のUSAのポリコレ(ポリティカル・コレクト)は度を超していて、『風と共に去りぬ』が差別主義的であるというので動画配信を停止するほどの騒ぎになっています。さすがに停止はすぐに撤回されましたが、ただ差別主義的な内容である旨の注意書きをつけることを要求されました。こんな状態だと、『風と共に去りぬ』どころか、『アンクル・トムの小屋』『若草物語』『ハックルベリー・フィンの冒険』も全部ダメになりそうです。19世紀USAの現実を赤裸に描いた文学作品が、ことごとく差別主義の汚名と共に貶められようとしているのは、見ていて情けなくなります。ポリコレ勢は、19世紀USAの現実そのものを「無かったこと」にでもしたいのでしょうか。少なくとも、現在の価値観で過去を裁くというのは、20世紀以降の文明国ではやってはいけないことになっていたはずです。
 そんなわけで、『大草原の小さな家』の原作小説も、いまのポリコレ勢の様子ではNGということになりそうな印象を受けたのですが、ドラマのほうはたぶんひっかからないのではないかと思います。原作小説の毒気をすっかり抜き、父さんも母さんもほとんど聖人君子ではあるまいかと思われるほどのキャラになりました。娘たちも良い子ばかりです。ときどきイタズラやケンカもしますが、父さん母さんから少し諭されればすぐに反省します。
 いわばUSAの田舎における理想的家族像のようなものが、ドラマのインガルス家にはあったのでした。レーガン大統領だったか、USAの家庭をみな『大草原の小さな家』のようにしたい、と発言したこともあったほどです。
 しかし、現実のほうはドラマのようにはゆかなかったようです。その後のUSAのホームドラマは、『フルハウス』のように、血のつながらない人たちが家族を作るという形が多くなりました。『大草原の小さな家』と舞台や時代が似通っていた『ドクター・クイン 大西部の女医』も、主人公の女医は亡くなった友人の子供たちを引き取って家族を作ります。離婚や養子縁組が急激に増えたことが背景にあるでしょう。もはや、実の両親と実の子供たちが結束力のある家族を作るということ自体が、偽善的に感じられてしまうほどにUSAの現実が変容してしまったと言えるかもしれません。あるいはこれも、ポリコレによる少数者への過度の配慮ということなのかもしれませんが、とにかくUSAのドラマにおける家族のありかたが、大きく変わってきているのは事実です。

 さて、前置きが長くなりましたが、その『大草原の小さな家』のあるエピソードが、昔から頭に残って仕方がない、という話をしたかったのでした。
 19世紀の話ですから、登場人物はみんなとても信心深く、何かというと神様にお祈りします。ほとんどの人が、「良きプロテスタント」です。意地悪なオルソン夫人やその子供たちも含めて、日曜日の朝には教会に出かけて礼拝をおこなう人々です。
 そういう背景を頭に入れた上で、私が気にかかっているエピソードというのは、父さんことチャールズ・インガルス氏が、友人と一緒に物資を売りに行ったのだったか、あるいは買いに行った帰りであったか、とにかく食糧や衣類などを馬車に満載にして走っていたのでした。しかし、積載量が多すぎたのか、馬車が途中で壊れてしまいます。
 ふたりは困りました。滅多に人も通らないような道で、誰かにひっぱって貰えそうにもありません。
 人も見当たらないことだし、というわけで、ふたりは馬を馬車から外し、近くの村まで救援を頼むべく走り出しました。あとには、いろんな品物を積み込んだ車だけが残っています。
 近くの村と言っても、馬で数時間はかかる距離でした。ふたりはなんとか村を見つけ、救援を求めて、車のところに帰ってきます。
 しかし、車は無かったのです。
 車が放置されていた半日ほどのあいだに、非常に貧しく、また非常に信心深い家族が偶然通りかかったのでした。もう何日も食事をしていないほどの貧しさでした。
 彼らは、食糧や衣類が満載になった車が放置されているのを見て、
 「ああ、神様のお恵みだ」
 「わたしたちがいつも心正しく生きているから、ご褒美をくださったんだ」
 などと言い、泣きながら十字を切り、その車を自分の家まで牽いていったのです。
 車のわだちなどが残っていますから、それが持ち去られたこと、そしてどこに持って行かれたかは一目瞭然です。そうやって、彼らの行為はすぐに発見されました。
 「この泥棒野郎!」
 と憤慨するチャールズの友人。もちろん、聖人君子のチャールズ氏は声を荒げたりはせず、困った顔をする程度ですが。
 何日かぶりの豪勢な食事や新しい服などに感激していた家族は、いきなりねじこまれて茫然とします。
 「泥棒なんてしていない。神様がわたしたちにくださったんだ」
 と主人は真顔で反論します。
 このエピソードの結末がどうなっていたかは記憶していないので、尻切れトンボになってしまって恐縮ですが、私の中で長く印象に残っているのは、このエピソードが、倫理的というか哲学的というか、かなり大きな問題をはらんでいたからではないかと思います。

 車を持ち去った家族は、近代の法に照らせば明らかに窃盗犯と見なされるでしょう。彼らは、悪いことをしているつもりは一切無く、自分たちの信心に対して神様がご褒美をくれたのだと信じて、所有者らしき人が近くに見当たらない車を持ち去ったわけですが、近代法では犯意にかかわらず窃盗行為に対しては罰が与えられます。
 しかし、法的にはともかく、倫理的な立場から見て彼らは罪人になるのかどうか、その点に関して自分の中ですっきりした結論が得られないために、いままでひきずっているのだと言えそうです。
 常識的に考えて、神様のお恵みが道端に放置されているなんてことはあり得ない、この家族は犯意は無かったかもしれないが揃いも揃って頭がおかしい……と言ってしまうのは簡単ですが、毎週の礼拝で牧師さんから「神様の奇蹟」について講釈され、その他の情報はほとんど得られないような環境で暮らしていれば、「神様の奇蹟」が「道端に放置された車」という形でもたらされることに疑いを抱く余地もないのではないか、と私は考えてしまうのでした。

 私たちが海外旅行に行くとき、空港の待合室などで椅子に荷物を置いたまま買い物やトイレなどに行かないようにと、くどいくらい注意されます。さすがに最近は日本国内でもそういうことをする人は少なくなったと思いますが、以前は多かったのです。国内なら、それで荷物を盗まれたりすることはまず滅多になかったわけです。
 しかし、外国へ行ってそんなことをすると、あっという間に荷物を盗まれるというのでした。試したことがないので、その危険がどの程度のものだかはわかりませんが、口やかましく注意されるということは被害に遭った人も多いのでしょう。
 そういうところで置き引きをする連中は、いくらなんでも犯意がないとは思えませんが、もしかすると
 「持ち主はこの荷物を放置してどこかへ行ってしまった。きっと、困っている者にくれるつもりだったに違いない。おれはいま困っている。だからこの荷物はおれが貰っても差し支えないはずだ」
 と、本気で考えている向きもあるかもしれません。19世紀とは違って、神様が恵んでくれたとまでは思わないにしろ、自分の中ではちっとも悪いことをしたつもりがない、というのは充分にありうる話です。
 前に、ドイツでイスラム移民たちが暴動を起こした事件のとき、
 「自分たちを受け容れてくれたドイツに感謝の念は無いのか」
 と批難する人が多かったのですが、私は少々異論を立てました。彼らは感謝したことでしょう。しかしそれは受け容れてくれたドイツへの感謝ではなく、異教徒をして新天地を与えてくれたアラーへの感謝であったに違いありません。トルコあたりの、日常的にキリスト教徒とも接していて、いわば気心の知れたムスリムであればそこまで食い違うことは無かったでしょうが、メルケル女史が受け容れた、もっとディープな地域のムスリムになると、そもそも「異教徒に感謝する」という概念がありません。アラーが異教徒を動かしてあらたな居場所を作ってくれたとしか考えませんので、感謝の対象はアラーでしかなかったでしょう。逮捕された移民のひとりは、
 「おれたちはあんたんとこのメルケルに招かれてここへ来たんだ。もっと鄭重に扱って貰おう」
 と言い放ったと言います。アラーがメルケルに命じて自分たちを招き入れたのだと信じていたと思われます。
 そういう考えかたは、近代世界では誰もがおかしいと思うでしょうが、信仰が何よりも大切と考える世界においてはちっともおかしくはなく、当然のことになります。
 そして、『大草原の小さな家』に出てきた信心深い家族は、彼らと何が違うのかという気がするのです。
 道端に放置された、品物が満載された車。近代的な考えかたからすれば、明らかに誰かがそこに置いて行ったとわかるし、たぶん車が壊れたのでどこかへ救援を頼みに行ったのだろう、と推測することも難しくないはずです。それを自分のものにしてしまうのは窃盗になるともわかるでしょう。しかし、信仰のみに生き、信仰のことしか知らない人々がそれを見たときに、神様のお恵み、神様からのご褒美と考えてしまうのを、責めることができるでしょうか。
 そしてそれは、イスラム教の話ではなく、つい百数十年前のUSA──キリスト教国での話なのです。キリスト教世界が、こういう盲目的な信仰から脱したのは、ほんの百数十年前だということでもあり、イスラム教世界がまだそこから脱していないことを批難する資格がどの程度あるでしょうか。

 ともあれ、「知性を欠く信仰」というものが、他の人々にとってはかなり迷惑なものだ、という教訓にはなりそうです。
 そしていまや、「知性を欠く信仰」のみを持った人たちが、容易に世界中に散らばることができるようになっています。知性と言って悪ければ、近代的合理性と言い換えても良いでしょう。欧米、日本を含む多くの国では、合理性が物事を判断する根拠となっていますが、合理性より上に信仰心を置くところも、まだ決して少なくはありません。そこから生ずる摩擦や軋轢は、これからますます増えてゆくことと思います。これからの世界は、それらをどうやって解決してゆくかということに、否応なく人知を傾けてゆかなければならない時代になってゆくのでしょう。 

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