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ドラゴンクエスト今昔 [趣味]

 テレビゲームの『ドラゴンクエスト』をプレイしていたのは、もうずいぶん前のことになります。VIIまでしかやっていないので、もうかれこれ20年くらい前になるのではないでしょうか。その後画面が3Dになったり、オンラインゲームになったりと、私がプレイしていた頃とはだいぶ違った展開になっているようです。
 VIIが発売延期になってしまったときに、それを待ちながらドラクエについて書いたものがあり、いまチェックしてみたら2000年の2月のことでした。「かれこれ」ではなく本当に20年前だったようです。
 それからドラクエとは離れ、さらにそもそもゲーム機からも離れてしまっていまに至るわけですが、ときおり思い出すこともあり、いろいろ語りたくなることもあるのでした。
 今回ドラクエのことを急に語りたくなったについては、まずテレビ東京系で『ドラゴンクエスト・ダイの大冒険』がリメイクされて放映がはじまったことがひとつ。それから、ビデオ録画していたもののまったく忘れていた『勇者ヨシヒコと導かれし七人』をわりと一気見したことがひとつの要因となりました。『ダイの大冒険』はあとまわしにして、先に『勇者ヨシヒコ』について触れますと、「予算の少ない冒険活劇」と銘打って放映されていた深夜ドラマです。テレビ東京の「ドラマ24」という枠の一環でした。
 山田孝之演ずる勇者ヨシヒコは、『ドラゴンクエストV』の主人公みたいな扮装で、毎回微妙にしょぼい冒険を繰り広げます。最初のシリーズである『勇者ヨシヒコと魔王の城』のときは、まだ魔物のフォルムがドラクエっぽい程度で、若干控えめだったのですが、2作目『勇者ヨシヒコと悪霊の鍵』からはスクウェア・エニックスの公式の協力を得たようで、呪文などもそのまんま使うようになりました。先ほど見た『導かれし七人』の終盤では、ザラキだのベギラマだのメラゾーマだの、懐かしい文言が次々飛び出していたものです。公式パロディとして堂々認められたものと思われます。
 そして『ダイの大冒険』ですが、これは1991年にいちどアニメ化されており、ほぼ30年ぶりのリメイクとなります。当時、「週刊少年ジャンプ」誌上でドラクエを大いに推しており、ドラクエの脚本家である堀井雄二のコラムコーナーなんかも連載されていました。タイミングとしてはIIIからIVにかけての頃と記憶します。その一環として、シナリオ三条陸、作画稲田浩司による長篇マンガも連載されていたわけです。このマンガはゲーム自体のシナリオとは無関係で、ただ魔物や呪文、職業システムなどをゲームと共有する物語でした。ジャンプ作品らしく「友情・努力・勝利」の要素もふんだんに詰まっていて、非常な人気を得ていました。
 連載と同時期にアニメ化されたのも当然でしたが、それを30年経ってリメイクする理由がどうもよくわかりません。来年あたりゲームの新作でも出るのでしょうか。そのプロモーション代わりということなら、なるほどと思えるのですが。
 懐かしさから見てみましたが、リメイクアニメによくある妙な改変はほとんど無さそうで、IV以降のシリーズの登場モンスターを若干加える程度であり、きわめてまっとうなアニメ化になっているように見受けられました。
 ともあれ、そんなことが重なったので、ドラクエについて回想してみたいという気になったのでした。

 最初のI(無印、とも言う)は、私が学生時代にピアノのホームレッスンに行っていた家の子が、夢中になってやっていたのを憶えています。なかなかピアノの部屋に来ないなと思ったら、隣の部屋からファミコン独特のあの音によるメロディが蜿蜒と聞こえてきていました。その子のお母さんに頼まれて、BGMをいくつか耳コピして、ピアノで弾けるようにしたこともあります。ファミコンの音源では3声しか同時に出すことができなかったので、ピアノで子供が弾くくらいのこともできたのです。
 どこだったかから頼まれて、ドラクエのBGMのメドレーをピアノ協奏曲のような形でアレンジしたこともあります。そのときは私はドラクエについて全然知らなかったのだから、けっこう心臓が強かったと思います。クライアントからはBGMの録音テープが送られてきましたが、それだけではわけがわからず、メドレーとしての組み立ても見当がつかなかったので、やむなく市販のBGM集の楽譜を買ってきて底本としました。
 実際にプレイしたのは、学校を出てからです。前に書いたことがあると思いますが、友人から、正月休みのあいだ、ファミコン本体と『女神転生』のソフトを借りて夢中になって遊んだのが私のファミコンデビューで、その後自分でも本体を購入したのでした。
 『女神転生』は続篇やスピンオフがどんどん出て、RPG界の一方の雄となっていますが、その最初のファミコン版ときたら、取扱説明書がおそろしく簡素で、はじめてファミコンのコントローラーを持ったプレイヤーにとっては不親切きわまりないものでした。そもそも何を目的としてどう進めてゆけば良いのか、さっぱりわからないのです。敵に遭って逃げまくってそのうち力尽きてしまう、ということを何度か繰り返し、逃げるのではなく戦えば良いのだと気づくまでにしばらくかかりました。しかし、いちどコツをつかんでからははまりました。手書きマッピングも面白く作業できたものです。
 メガテンをクリアしたあとで取り組んだドラクエIは、同じジャンルのゲームとは思えないほどに親切設計、かつ私にはえらくぬるく思われるほどでした。
 ドラクエが創り出される以前のファミコン用のコマンド式RPGというと、『ドルアーガの塔』とか『ウィザードリィ』の移植版くらいしか無かったと思われます。あとはアクションRPGがいくつかあったくらいでしょう。それで、開発陣は、まずコマンド式RPGとは何かということをゲームの中で示さなければならず、それが痒いところに手が届くような親切設計になったのだと思われます。コントローラー操作についても、説明書に書かれたのは最低限のことであって、詳しくはゲームの中に出てくる登場人物(NPC)が教えてくれる仕様になっていました。小学生でも無理なく操作を覚えられるようになっていたわけです。
 コマンド式RPGの基本的な考えかたは、それまでテーブルゲームとして遊ばれていたロールプレイングゲーム、その後はTRPG(テーブルトーク・ロールプレイングゲーム)と呼ばれるようになったゲームをコンピュータに移し替えたというものです。TRPGは、ゲームマスターと呼ばれる進行役がいろいろなイベントを用意し、各プレイヤーは役柄になりきってそれらのイベントをプレイします。ほとんどの行動は、サイコロの目によって結果を得ることになっています。例えば敵に出会ったとき、プレイヤーはまず「戦う」か「逃げる」かを選択し、その行動が成功するかどうかを、サイコロを振って判定します。「逃げる」を選んだ場合、ゲームマスターが
 「サイコロの目が5以下だったら逃げるの失敗!(振ってみて……)”ハイン”は逃げ延びた!」
 というように宣言します。なおTRPGでは、普通の6面体ダイスを1個だけ使うということはまず無く、6面体ダイスなら2個使うか、あるいは20面体ダイスのような、大きな数が出せるサイコロを使います。
 行動ごとにいちいちサイコロを振るので、とにかく時間がかかります。私は残念ながらTRPGをプレイしたことは無いのですが、徹夜になってしまうことも珍しくはないようです。
 そのゲームマスターの役割と、サイコロ判定とをコンピュータに任せたのがコンピュータRPG、もしくはコマンド式RPGというヤツで、のちにはそちらのほうをRPGと呼ぶようになって、原型である会話ゲームのほうは「T」がつけられるようになったのでした。
 ドラクエは、そういうコンピュータRPGのシステムに、首尾一貫した「大目的(竜王を倒す)」とそれに付随する「小目的(ロトシリーズの武具を集める、ローラ姫を救う、メルキドを護るゴーレムを眠らせるなど)」を設定し、数多くの伏線を含むシナリオを構築し、あたかも長篇ドラマのような「興味の持続」「世界観」「感動」などを付加した作品であったわけです。それまでのコンピュータRPGは、原型であるTRPG同様、与えられるクエストを次々とクリアしてゆくだけの、いわば短篇集と呼ぶべきスタイルだったのでした。
 ドラクエI、II、IIIがわりと矢継ぎ早に発表され、子供雑誌などでも盛んに特集が組まれたりしたために、1980年代の子供たちには文字どおり熱狂的な支持を得たのでした。現在40代あたりを中心としたこの世代にとっては、ドラクエこそRPGの王道であり、またファンタジーの典型と感じられるまでになりました。それは、「異世界ものライトノベル」の世界観そのものが、基本的なイメージとして「ドラクエのような世界」であることでも証明されます。もちろん個々の作品を見れば、それぞれに差別化を図っているらしいことが窺えますが、その差別化を図る対象はやはり「ドラクエのような世界」なのです。
 多くの異世界ものに、「勇者」なる存在が登場するのもドラクエの影響でしょう。最近は「勇者」が敵になることなども多いようですが、それでも単なる戦士とも魔導士とも異なる唯一無二の存在としての「勇者」のインパクトは強烈です。考えてみれば『ファイナルファンタジー』には「勇者」は出てきません。プレイヤーの操るパーティ全体が「光の戦士」などと呼ばれることはありましたが、ドラクエの勇者のような特別な存在であるとは思えません。
 もちろんドラクエでも、だんだんと「勇者」の意味合いが違ってきて、Vの主人公は「勇者の父親」でしたし、VIIなどになると勇者も「職業のひとつ」になってあまり「唯一無二」感がなくなってきましたが、I、II、IIIのいわゆる「ロト三部作」での勇者の存在感は、いわば「原体験」になりうるほどに大きなものだったと考えられます。
 その結果として、たとえドラクエをプレイしていなくとも、ドラクエ的な世界観については、ある年代以下の人々にとっては常識みたいなことになりました。本来ドラクエの世界観は、いわゆる西洋ファンタジーと呼ばれるものの一部をシナリオの要請に従ってローカライズしたものであり、その西洋ファンタジーは、主にトールキンが各地の説話などを整理・再構築して『指輪物語』にまとめたものが元になっています。だからドラクエの世界がそのままファンタジーの世界であるとは言えないわけですが、日本人にとってはドラクエの世界こそ「ファンタジーの王道」ということになりました。そこまでの共通認識を生み出したこのゲームは、やはり大したものだと思います。
 制作陣がもともと作りたかったのはIIであって、IはユーザーにIIをプレイする準備をさせるために作ったのだとどこかで聞いたことがあります。Iの序盤での懇切丁寧な操作説明、主人公がパーティを組まず単独で行動し、敵も必ず1体のみで挑んでくることなど、なるほどIはコンピュータRPGというジャンルそのもののチュートリアルであったようにも思えます。レベル上限も確か30というささやかなものでしたし、呪文も10個しか使いませんでした。その中でも直接攻撃呪文は序盤に覚えるギラと、終盤で登場するベギラマのふたつだけでした。
 パーティプレイになるIIのほうが、やはり本来のRPGの味わいに近い気がします。3人パーティのうちふたりが魔法を使えますが、それぞれ使える呪文が異なっているので、戦術の立てかたに選択肢が生じます。特にIIは、III以降と違って、「すでに倒してしまった敵をターゲットにしていた場合は空振りになってしまう」という戦闘システムだったもので、余計に戦術を丁寧に立てなければなりませんでした。
 伏線の張りかたなどもIIはたいへん凝っていて、いまだにシリーズ中でIIがいちばん難しいともいわれます。移動呪文ルーラが、直前にセーブした場所へしか戻れず、伏線回収の必要上過去に訪れた街に戻ったりするのがやたらと面倒くさいという点も一因でしょう。また伏線回収の手がかりがかなり細分化されてあちこちにばらまかれており、その後のシリーズではもう少し謎解きが素直になっているようでもあります。
 パーティメンバーの替えが利かないのもIIだけで、終盤でサマルトリアの王子がいかにどんどん役立たずになっても、決して別れるわけにはゆかないという切実感がありました。仲間の掛け替えの無さという面では、IIはドラクエシリーズのみならず、他のいろんなRPGシリーズと較べてみても、とりわけ深刻であったイメージがあります。
 そんなわけで私も、VIIまでしかやっていませんが、その中ではIIが好きです。IVも好きですけれど。

 IIIからは、オートセーブになって、あのいまいましい「復活の呪文(コンティニューパスワード)」が無くなったのが何より嬉しい変化でした。ただし私は、IIの終盤で完全に詰んでにっちもさっちもゆかなくなり、そのときに以前の復活の呪文で前に戻ってリトライできたことがあります。ロンダルキアの洞窟をはじめからやり直さなければならないという苦行を強いられましたが、詰んでしまってクリア不能に陥るよりはましでしょう。だから必ずしも復活の呪文方式がイヤだったわけでもありません。とはいえ、50文字以上に及ぶ無意味な文字列をいちいち写し取り、コンティニュー時にいちいち入力するのはやはりかなりのストレスではありました。1文字でも間違えてメモしていると、もう先へ進めなくなってしまうのです。
 IIIでも、「ぼうけんのしょは きえてしまった!」という泣くに泣けない事故がときおり起こったようですが、幸い私はその悲劇には遭いませんでした。
 IIIの後半で、Iのフィールドであったアレフガルドが出てきたときに、「おおっ!」と歓声を上げた人は多いのではないかと思います。IIはIの数百年後の世界という設定でしたが、IIIはしばらくIやIIとの関連性がわからなかったのです。どうやらIの数百年前の世界らしいとわかったときの「つながった感」は感動的でした。IV以降はそれぞれ別個の世界での物語となり、ときにはいくつもの世界を渡り歩くような壮大なシナリオにもなりましたが、「ドラクエの世界」と言って多くの人がイメージするのは、やはりI~IIIの「ロト三部作」の世界なのではないでしょうか。

 呪文名などが、独特のネーミングセンスであるのもドラクエの特徴です。たいていのゲームだと、「ファイア」とか「サンダー」とか、英語をもとにした名前をつけていますが、ドラクエの呪文名はひたすらフィーリングで、それでもそれなりに系列ができていてどんな呪文か見当がつくというのが、制作陣の並々ならぬこだわりを感じます。
 Iから登場しているギラ、ベギラマはIII以降では「閃熱系呪文」という分類になり、上級呪文のベギラゴンも加えられました。Iの最強攻撃呪文、IIでも相当に強いほうの呪文であったベギラマが、III以降では閃熱系中級呪文となり、中級呪文の中でもあんまり威力が無い印象になってしまったのは残念です。ただし上記『ダイの大冒険』とか、IIIとIのあいだの時代を扱った『ロトの紋章』などでは、ベギラマはけっこう強いイメージになっています。
 火炎系の呪文をメラとしたのは、火がめらめら燃えるイメージからでしょうからわかりやすいのですが、イオが「爆発系」というのはややわかりづらいようです。IIに登場した最強呪文イオナズンに、中級のイオラ・初級のイオを加えて体系化したわけですが、IIで出てきたときは雷撃系かと思っていました。「稲妻」などの語感から名付けた気がしていたのでした。しかし爆発の呪文であったようで、雷撃系はライデインという別の系列が用意されました。
 冷凍系ヒャドというのはいかにも冷やっこいイメージですし、真空系バギというのはバキュームの語感からでしょうか。
 睡眠呪文ラリホーはIから登場していますが、ラリホーというのは1960年代にハンナ・バーベラで作っていたヒーローものアニメ「スーパースリー」の主題歌、

 ──ラリホー、ラリホー、ラリルレロ♪

 から来ており、もともとはRally, Ho! で気勢を上げる感じの語感であったものを、あえて眠らせる呪文の名前に使ったのが面白いですね。
 トヘロス、トラマナ、ピオリムなんかになると、あんまり使う機会が無いせいもあって、ときどき、ありゃなんの呪文だっけかなどと考えてしまうこともありますが、基本的に英単語を使わずに語感だけで命名して、しかもけっこうイメージが湧くというのは大したものだと思います。英単語由来のはドラゴラムくらいでしょうか。
 ただVI以降くらいになると、「特技」というのが出てきて、ものによってはイオナズンやメラゾーマ以上の威力を発揮したりして、どうも呪文のありがたみが少なくなってきたようでもあるのですが、こちらはジゴスパークとかギガスラッシュとか、何やら英語めいた言葉が使われています。呪文との差別化ということなのかもしれませんが、やや残念な気もします。

 シリーズ各作のシナリオなどまで語りはじめると、もうとめどがなくなりそうですので、このあたりでとどめておきます。ずいぶん前にやったゲームであるのに、関連する番組をふたつ近接して見たことで、なんとなく思い出してみました。

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