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パリは匂っているか [世の中]

 フランスの各都市が、清掃局員のストライキでえらいことになっているようです。すでに何十日もゴミの収拾がおこなわれず、パリをはじめとして多くの都市が、悪臭に包まれているという話です。年金政策の改定に反対してのこととされていますが、その改定案は通ってしまったようで、ストライキはいつまで続くのか予想がつかない状況になってしまっているとか。
 向こうでは、住んでいる日本人が見かねて自主的にゴミを拾ったりすると、清掃局員の仕事を奪う行為だとして批難されたりもするようで、なんとも面倒くさい管轄意識があるらしく、清掃局員のストライキがあっていろんな街が汚れても、自主的にゴミ収拾しようというような人は現れないと思われます。また、そんなことをしていたら「スト破り」として暴行を受けたりするのかもしれません。
 まあ、パリというのはもともと「悪臭の都」でもありました。王様すら、パリのあまりの臭さにたまりかねて、ヴェルサイユに逃げ出したほどです。そのヴェルサイユ宮殿にもトイレというものを作らなかったので、人々は庭園のあちこちで用を足したのでした。王様自身は、玉座を便座として作らせ、そこで垂れ流しながら執務をおこなったとか。謁見の場もすごい匂いであったことでしょう。フランス人、というより当時のヨーロッパ人は、トイレというものを根本的に理解していなかったのです。
 古代ローマには大浴場のほか、しっかりと水洗トイレが作られていたというのに、その後のヨーロッパ人は風呂もトイレも忘れ去ってしまったようです。こういう状況を見ると、ヨーロッパが古代ローマ文明の継承者であるとはとても信じられなかったりします。実際のところ、ギリシャ・ローマの学術文化を直接受け継いだのはヨーロッパではなく、イスラムのアッバース朝でした。古代文明は、一旦アッバース朝で整理されたのちに、あらためてヨーロッパ諸国に伝わったのだと見るべきです。風呂もトイレも、その過程で伝え忘れられてしまったのでしょう。
 中世ヨーロッパでは、例えば戦争に行った夫が帰るまで、いちども下着を替えないと願をかけ、それをやりとげた貴婦人が賞賛されたりしていました。なんともバッチイ話ですが、当時の衛生観念などはそんなものだったようです。逆に夫のほうが妻が浮気しないように、貞操帯をはめて、その鍵を持って出征するなんてこともあったようです。実際には合い鍵作り専門の職人なんてのが居て、貞操帯はすぐに外せたのだそうですが(そうでないと夫が戦死したりしたときに困る)、それにしても鍵のかかった貞操帯などはめていては下着を替えるわけにもゆかないでしょう。
 とにかく、その手のバッチイ話ならいくらでも挙げられるほど、中世ヨーロッパというのは不潔な世界だったのでした。最近のライトノベルで、よく中世ヨーロッパっぽい異世界に転生するなんて話がありますが、現代日本人の感覚を持ったままならば、その不潔さに一日ともたないのではないかと思われます。

 人間が生きていれば、必ず排泄物というのは出るもので、それをどう処理するかということは、世界中どこでも問題になることでした。人口が少ないうちは、川にでも流してしまえばそれで済みましたし、乾燥地帯だったらそのあたりに落としておけば砂と風がなんとかしてくれました。しかし、だんだんと狭い範囲に住む人間が増えてくると、人為的な処理方法を考えなければならなくなります。
 人間の排泄物を堆肥という形で活用することを思いついたわが先祖たちには、感謝してもしきれません。堆肥というのはただ大小便をそのまま撒き散らすわけではなく、一旦肥溜めに集めて、発酵させます。発酵の時の熱で大腸菌などは大体死滅します。このように、ちゃんと手を加えて肥料にしていたわけで、そのためには長いこと試行錯誤が必要だったことでしょう。
 残念ながら、ヨーロッパにはその思いつきが無かったようです。ヨーロッパの街では、大小便はおまるというかタライみたいなものにためて、いっぱいになったら道に棄てることが普通でした。その際、道を女性が通っていたらひと声かけるのがマナーだったと言います。言い換えれば、男性が歩いていた場合は、無警告でいきなりタライの中身が降ってくる危険があったわけです。
 当然ながら道には汚水が流れます。都市部の道の舗装は、多少は丸みをつけて、汚水が両脇に流れるようにはなっていたでしょうが、雨でも降れば大変なことになったでしょう。女性がハイヒールを履くようになったのは、汚水だまりを避けるためだったようです。
 ヨーロッパの都市では、しばしばペストが大流行して多くの人死にがありましたが、こう不潔では、そりゃペストも流行るだろうと納得せざるを得ません。長い戦争でもあると、屍体の放置とか、都市部の管理者不在などで、その猖獗はさらに深刻になります。三十年戦争のときにドイツの人口が3分の1になったと言われますが、死者のほとんどは戦死者よりも病死者だったと思われます。
 パリはセーヌ川ロンドンテムズ川ローマテヴェレ川ウイーンドナウ川と、ヨーロッパの大都市はたいてい名だたる大河のほとりに造られましたが、もちろん飲用水としての役割は当然として、汚水を流す先としての役割も切実なものがあったでしょう。現在ではどの川も、風光明媚な観光地となっていますけれども、往時の汚さを想像すると、素直に「わ~キレイ」とは言えなさそうです。

 パリにようやく下水道が引かれはじめたのは、1830年代に入ってからでした。政権をとったナポレオン3世の施策であったようです。ナポレオン3世は銃でも突きつけて話さない限りまるで信用できない男だったとけなされたり、普仏戦争でボロ負けした戦下手とくさされたり、あまり歴史上の評価は高くない人物ですが、下水道を引いてパリをきれいにしようとした点、少なくともパリ市民は感謝すべきではないでしょうか。日本だったらけっこう高評価を与えられる政治家であったような気もします。
 ヴィクトル・ユゴー1862年「レ・ミゼラブル」を書きました。彼がこの大河小説のクライマックスシーンに選んだのは、1832年6月暴動です。その2年前の1830年には7月革命が起こっており、事件としてはそちらのほうが大きかったと思うのですが、7月革命のときにはまだ無くて、6月暴動のときに存在したものがあります。それこそが、前年に造りはじめられたばかりの下水道なのでした。
 ユゴーは、当時できたばかりのこの設備を、物語の山場にしようと考えたのでした。瀕死のマリウスを背負って下水道を逃走するジャン・ヴァルジャン。それを追う警察官ジャヴェール。小悪党テナルディエなんかも登場して、いやが上にもサスペンスが昂まります。
 下水道という、ヨーロッパ初の(古代ローマにはありましたが)設備を、ユゴーは非常に誇らしく思っていたのでしょう。この山場に先駆けて、第4部のほぼまるまる一章を、彼は下水道談義に宛てています。実は「レ・ミゼラブル」を通読しようとする人が挫折するのがたいていこのあたりです。主要人物たちの動向をまったく置いてきぼりにして、得々と「下水道史」を語っているのにうんざりしてしまうのです。「レ・ミゼラブル」にはこれ以外にも、ストーリーを置き去りにして作者が持論を滔々と開陳する箇所がいくつもあって、小説の流れとしてはどうにも停滞してしまい、芥川龍之介

 ──全仏蘭西を蔽(おお)ふ一片の麺麭(パン)。併しバタはどう考へても、余りたつぷりとはついてゐない。(「侏儒の言葉」)

 などと皮肉られることになる所以なのですが、「レ・ミゼラブル」が書かれた時点で、ヨーロッパのほかの都市には下水道というものが無かったわけなので、それがどういうものなのかをしっかり説明しておきたいとユゴーが考えたのもまた理解できます。
 ユゴーが「レ・ミゼラブル」を書いた1862年ごろには、パリの下水道はほぼ完成形態に近づいていました。とはいえ、そのころまではまだ、下水は処理されずにそのままセーヌ川に流されていましたので、川の汚染と悪臭はひどいもので、1865年には悪性の伝染病が流行ったりしています。この伝染病を契機に、汚水の浄化設備が造られるようになりました。この最新式の浄化設備は1867年パリ万博の目玉にもなり、日本を含め多くの外国からの客を驚かせたのでした。
 この時期になって、パリはようやく悪臭から解放されたと言えるでしょう。フィレンツェを差し置いて「花の都」などと呼ばれるようになったのもこのころからだったのだと思います。つまり、パリの「花の都」歴は、せいぜいここ150年あまりに過ぎないのでした。
 悪臭は無くなりましたが、石造りの街ですから、そうそう建て替えができるわけではなく、街路や建物のそこここに長年しみついた汚れは容易に落ちません。ドゴール大統領の命令一下、パリが「白く」なるまでには、さらに80年ほどを要しました。すっかり汚れが落とされて、パリが清潔な街となったのは、実に第二次大戦後の話だったのです。

 そう考えてみると、清掃局員のストライキによってゴミだらけ、悪臭漂う街となってしまったパリも、いわば先祖返りしてしまったようなものかもしれない、という気もするのでした。住民も案外平気だったりして。いや、浄化設備のできる前のパリの匂いを憶えている人などはもう居ないでしょうが、こういうことは結構、遺伝子に伝えられたりしているものではないかと思えます。われわれも、田舎に行って肥溜めの側を通ったりすれば、
 「うえ~、臭い」
 と思いますが、それと同時に、どこか懐かしさというか郷愁というか、そんな心がうずくようでもあります。ずっと都会暮らしで農村の空気など知らない人でも、遺伝子のどこかに「これが日本の田舎の匂いだ」という記憶が刻み込まれているのではないでしょうか。いかしたパリジャン、パリジェンヌたちの中にも、王様が逃げ出した「臭いパリ」の民族的記憶が残っているように思えるのでした。
 そのころに較べれば、大小便がそこらじゅうに汚水だまりを作っていないだけマシというものかもしれません。ナポレオン3世が造らせた下水道は、ちゃんと役割を果たしているはずです。いまのパリが臭いと言っても、せいぜい生ゴミが腐ったくらいの匂いであって、かつての便臭たちのぼる「臭いパリ」よりはずっと耐えやすいでしょう。
 ……などとは言ってみたものの、生ゴミの匂いだってわれわれには耐えがたいわけで、それを放置すればまたハエやネズミなんかが激増し、また変な感染症が流行ったりしそうです。早いところなんとかして貰いたいのは言うまでもありません。

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