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還暦について [いろいろ]

 早いもので、私も還暦とやらに達しました。還暦というのは満60歳のことだと思っている人が多そうですが、そうではなく数え61歳のことですので、誕生日にならなくとも、その年の正月からもう還暦です。私は8月末の生まれなのでまだ満60歳にはなっていませんが、すでに還暦にはなっているわけです。
 今さらですが、いちおう還暦ということの意味合いを説明しておきます。
 干支(えと)というのがあります。干支とは子・丑・寅・卯……のことだと、これまた思っている人が多いかもしれません。これも不充分な理解で、子・丑・寅・卯……というのは十二支です。そのくらいわかっているよと言われそうですが、現代では十二支と干支を同一視することが多いように思います。
 十二支のほかに十干(じっかん)というのがあり、甲・乙・丙・丁……というのがそれです。この十干と十二支を組み合わせたものが干支なのであって、字面を見てもそれははっきりします。
 そして、どちらが重要かというと十干のほうなのでした。「干」とは「幹」であり、「支」とは「枝」です。幹、枝という文字をよく見ると、干、支がそこに含まれていることがわかります。
 十二支を全部憶えている人は多いでしょうが、十干を憶えている人は少ないかもしれません。昔は成績表などで甲・乙・丙……という点がつけられていたものですが、いまはまず見ないでしょう。
 私自身、成績表で甲・乙・丙……を見たことは無く、小学校では数字を用いない3~5段階、中学・高校では数字を用いた10段階、大学では秀・優・良・可……という評価法でした。甲・乙・丙……でつけたのでは、いまでは子供も親もわからないかもしれませんね。

 十干を全部並べると、

 ──甲(こう)・乙(おつ)・丙(へい)・丁(てい)・戊(ぼ)・己(き)・庚(こう)・辛(しん)・壬(じん)・癸(き)

 となります。「こう」と発音するのが「甲」と「庚」、「き」と発音するのが「己」と「癸」とふたつずつあるのがちょっとややこしいですね。
 これは中国上代における一種の数字であったようです。一二三……や壱弐参……という書きかたよりも古いのでしょう。しかも、この中では「甲」が10を表す最大の数で、「乙」が1になるのだと読んだことがあります。確かに「乙」は「イツ」とも読み、「イチ」に通じるようでもあります。

 十二支のほうはお馴染みです。

 ──子(し)・丑(ちゅう)・寅(いん)・卯(ぼう)・辰(しん)・巳(し)・午(ご)・未(び)・申(しん)・酉(ゆう)・戌(じゅつ)・亥(がい)

 とはいえ日本では十二支の音読みはあまりしないので、この読みかたは馴染みが無いかもしれません。
 こちらも本来は数字の一種で、ネズミ・ウシ・トラ……と動物の名前に関連づけられたのはかなりあとになってからであったようです。
 この十干と十二支を組み合わせて、数を表したわけです。
 ただし、それはその後の「進法」とは異なっていました。「進法」の考えかたであれば、

 ──甲子・甲丑・甲寅……

 と進めて、「甲亥」まで来たら次は「乙子・乙丑……」という具合にすれば良いわけで、120までの数を表せることになります。
 しかし、干支の進ませかたは、十干と十二支を同時に進めるという独特なものでした。つまり、「甲子」の次は「乙丑」となり、以後「丙寅」「丁卯」「戊辰」「己巳」「庚午」「辛未」となります。
 第一の「桁」が10、第二の「桁」が12ですので、ひとつずつ進ませると、10番めには「癸酉」となり、11番めは十干が元に戻って「甲戌」になります。12番めが「乙亥」で、13番めには十二支が元に戻って「丙子」となります。
 それぞれの「桁」が「互いに素」であれば、表せる数は両者を掛けたものになりますが、10と12は互いに素ではなく、2という公約数があります。それで、表せる数は両者を掛けた120を公約数の2で割った、最小公倍数である60になります。「乙寅」「戊巳」「庚酉」といった組み合わせは決して現れないわけです。
 十干と十二支を組み合わせた「干支」は、60までの数字に対応させることができることになります。それで、かつては年の名前や日の名前にも使われました。そのころは、人間は60年も生きないことが多かったし、ひと月のうちにはせいぜい29日か30日くらいしかありませんでしたので、干支によって勘定するのにちょうど良かったのでしょう。そして、生まれた年から数えて61年めに、干支がひとまわりして「還って」くるために、数え61歳のことを「還暦」と呼ぶようになったのでした。

 十干のほうは現代の日本ではあんまり馴染みが無い、というようなことを書きましたが、歴史的にはしっかりと使われています。
 さきたま古墳群で発見された金錯銘鉄剣には、「辛亥年七月」と記されていました。辛亥という年は60年ごとに巡ってきます。中国の近代化を促した辛亥革命1911年ですので、辛亥の年は1911から60の倍数を引いて行った中のひとつということになります。比定されているのは、1440を引いた471年です。その前の411年、その次の531年と主張する学者も居るようですが、いまのところ471年の可能性がいちばん高いとされています。金錯銘鉄剣には「獲加多支鹵大王」という人名も記され、これは「わかたけるのおおきみ」と読めます。ワカタケルという名を持つ「大王」とは雄略天皇のことです。この鉄剣により、雄略天皇は物証によって存在が裏付けられる最古の天皇ということになりました。なお411年には、皇位継承のトラブルがあって天皇が空位であり、また531年は欽明天皇の御代ですが、欽明天皇にはワカタケルという名に比定できる呼びかたがありません。それで471年説が最有力であるわけですが、この鉄剣は雄略天皇の実在を裏付けると共に、干支を年号にあてはめる暦法が、5世紀にはすでにわが国で一般的であったことも立証されます。
 干支で年号を呼んだ例は、ほかにもいろいろあります。歴史上の有名な事件としては「壬申の乱」「戊辰戦争」が双璧でしょう。壬申の乱は皇位が武力によって争われた最後の戦争です。戊辰戦争は江戸幕府を終焉させた戦争です。壬申の乱は7世紀、戊辰戦争は19世紀ですから、干支の暦法はずいぶん長いこと使われ、つい150年前までは人々に多用されていたことがわかります。
 あちこちにある「庚申塚」の庚申も干支です。中国の近代史では、上に書いた辛亥革命のほか、戊戌政変などという事件も起こりました。また李氏朝鮮で起こった東学党の乱は、現代の韓国では甲午農民戦争と呼ばれることが多いようです。
 中国では朝から一世一元となりましたので、元号と干支を組み合わせた呼びかたもおこなわれました。「万暦庚辰」「雍正丙午」といったようにです。これ、同じ元号が61年以上続くと、同じ呼び名の年が2回現れるので少々厄介ですが、中国史上で60年を超えたのは「康熙」「乾隆」だけですので、事実上はさほど混乱もしないでしょう。日本史上では「昭和」のみであり、おそらく今後も「還暦を迎える元号」は現れないと思われます。そういえば昭和61年、昭和が2度目の「丙寅」を迎えたときに、陳舜臣氏が「元号の還暦」という小文を書いておられたのを思い出します。

 十干と五行を組み合わせたのは日本独自か、あるいはやはり中国由来でしょうか。「甲乙」「丙丁」「戊己」「庚辛」「壬癸」とふたつずつ組み合わせて、五行の「木火土金水」にあてはめたものです。そしてふたつを兄弟ということにしました。それで「甲」は「きのえ(木の兄)」、「乙」は「きのと(木の弟)」とも読まれるようになったのでした。
 同様に「丙丁」は「火の兄、火の弟」、「戊己」は「土の兄、土の弟」、「庚辛」は「金の兄、金の弟」、「壬癸」は「水の兄、水の弟」と呼び分けられました。このうち、「金」だけは「かね」ではなく「かのえ、かのと」と読まれます。あとは「ひ」「つち」「みず」とそのままです。
 この言いかたで、いまでもわりに有名なのは「丙午」つまり「ひのえうま」でしょう。「火の兄」の属性を持つ馬、つまり気性の荒い馬というわけで、いわゆる「じゃじゃ馬」です。この年に生まれた女の子は「じゃじゃ馬」になる、つまり気性が荒くなるという語呂合わせみたいな迷信で、そのために丙午の年には生まれる子供が少なくなると言われています。言われているどころか、人口動態を見ると本当に少なくなっています。丙午の年に女の子が生まれるのを避けようとして、実際に子作りを控える親が多かったのでした。
 私の2年下(1966年生まれ)がこの丙午です。この年の従弟が居ますが、男であるせいかちっとも気性は荒くなく、むしろおっとりとした性格になりました。この年の生まれも少なかったようです。
 その前の丙午は1906年でした。この年は日露戦争が終結した翌年です。古来、大戦争が終わった次の年は出生率がすさまじく増加すると言われています。実際、日清戦争が終わった翌年の1896年も、大東亜戦争が終わった翌年の1946年もベビーブームとなっています。出征から帰ってきた兵隊さんたちが、久々に奥さんとヤリまくるのでそうなるのでしょう。ところが、丙午であった日露戦争翌年は、前後の年よりも出生数が減っているのでした。「ひのえうま」の迷信はかくも強力であったのです。
 次の丙午は、再来年、すなわち2026年です。さてこの迷信、いまだに有効なのでしょうか。ちょっと楽しみです。
 私は辰年ですが、その中でも甲辰、「きのえたつ」です。「ひのえうま」が2年下なのでわりとわかりやすく、けっこう前から自分の生まれが「きのえ」であることは知っていました。十干がはじまる年に生まれたわけで、ちょっと感慨を覚えたことがあります。うちの母はふた回り上の辰年で、庚辰つまり「かのえたつ」となります。

 十干のほうはだんだん忘れられつつあるようですが、十二支は年賀状の習慣が続く限りは生き残りそうです。まあ今度また郵便料金が上がるとかで、紙の年賀状を出さない人も増えており、十二支もいずれは忘れられてしまうのかもしれませんが。
 「子午線」「丑三つ時」など、十二支に由来する日本語は数多くあるのですが、これらも最近はあまり聞かないようです。
 前にも書きましたが、日本の「鬼」の姿は風水説と十二支から理論的に考えられたものです。風水説では、艮(ごん)の方角を「鬼門」と呼び、そちらから厄災が訪れると考えます。艮の方角とは、東西南北で言えば北東にあたります。伝教大師最澄平安京の北東に延暦寺を建てたのは、都の鬼門を護るという建前によるものでした。その建前を吹聴して、最澄は朝廷からお寺の建造費をかなり出資させたのです。なお江戸城に対しては寛永寺がその役割を果たしています。
 さて、方位を十二支で示すということも古来おこなわれていました。上記の子午線は、「北から南に引かれた線」という意味です。そして8世紀ころには、すでに十二支が動物と関連づけられていました。
 艮すなわち北東は、十二支で表すと丑と寅のあいだです。そのため艮の字は「うしとら」と訓読みされます。ちなみに北西である乾(けん)は戌と亥のあいだになるので「いぬい」と訓読みされます。南東の巽(そん)を「たつみ」、南西の坤(こん)を「ひつじさる」と読むのも同様です。
 「鬼の門」が「うしとら」にあるので、「鬼」とは「うし」と「とら」の属性を持つものであるはずです。それで、牛の角と虎皮のパンツを身につけた強そうなヴィジュアルが誕生したのでした。中国語の「鬼」は亡霊を意味するので、ここで日中の鬼のイメージが決定的に乖離したことになります。
 こんな話も、干支が忘れられるとわけがわからなくなりそうですね。

 何年か前、ある市が住民に配布した手帳に「六曜」が記されているというので市民団体が抗議し、市役所が謝罪するという、さっぱり理解できない騒動が起こったことがあります。六曜というのは先勝・友引・先負……というアレですね。そんなものになぜ抗議したかというと、六曜は迷信だから差別を助長する可能性がある、というのでした。六曜のどこがどのように、誰を差別し傷つけることになるのか、という説明が、その市民団体からも市役所からも一切なされず、ほとんどの人に「なんのこっちゃ」と思われた騒動でした。
 そんなことを言うなら、上記の「ひのえうま」など、はっきりと社会に影響のある迷信です。そのわりに、干支は差別を助長する、などと主張する団体はあまり見受けられません。干支に難癖をつけると、まだ反撥する日本人が多いのではないでしょうか。それで、あんまり反撥が無さそうな六曜から槍玉に挙げたという感じで、なんとも姑息な運動であったように思いました。
 そのうち、十干十二支の意識がいまより人々から薄れた頃に、差別とかなんとか言い出す手合いが現れるかもしれません。あるいは次の丙午である再来年あたり登場してくるかもしれず、その意味でも再来年が少し楽しみなのでした。

 ともあれ還暦、旧来のイメージからいえば自分も立派なじじいということになりそうです。昨今の60歳はまだ現役バリバリの人が多く、そんなに年寄りという印象が無いのですが、「年甲斐も無く」と言われないように穏やかに過ごせればと念ずる次第です。

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