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能登という土地 [世の中]

 元日に起こった能登を中心とした大地震は、日を追うにつれて被害の深刻さが拡がりつつあるようです。すでに死者は160人を超え、避難所収容者は数万人に達するそうです。倒壊した建物の映像が次々と入ってきています。
 東日本大震災のとき、建物の倒壊や火災ということがほとんど起こらず、揺れた直後の段階では死者もごく少数だったことを思い出します。
 あの震災による2万人近い死者のほとんどは、津波によるものでした。だから私は「大津災(だいしんさい)と呼んだほうがふさわしいのではないかと思ったほどです。陸前高田などほとんど街ごと津波に持ってゆかれたようなものでしたし、駅や鉄道線路なんかもだいぶ持ち去られました。一昨年の秋、私は常磐線の特急に仙台まで乗ってゆき、津波の爪痕が10年以上経ってもまざまざと残されているのを車窓から見て、暗然たる想いになったのでした。
 それと共に、津波さえなければ地震の被害は驚くほど少なかったのではないかと思え、日本の耐震技術のものすごさに感心し、また誇らしくも思ったのです。たぶん、同じ規模の地震がどこか外国で起こっていたら、死者は6桁になっていたに違いありません。
 この分なら、ずっと懸念されている南海地震が起こっても、津波さえ対策すれば、そう怖れるには及ばないのではないかという気がしました。

 ところが、その後起こった熊本地震でも、そして今回の能登地震でも、思ったよりも建物の倒壊と、それによる人命の喪失が見られたようなので、私は意外に思いました。今回、5階建てのマンションが崩れたという話を聞き、なんだか、東日本のときのあの耐震技術への感動を返せ、とさえ言いたくなりました。
 もちろん、直下型地震とプレート型地震では、同じ震度でも揺れかたが異なることは理解できます。実際、私は東日本のときのあと、もういちど「震度5強」という地震を経験しましたが、そのときの揺れは、東日本のときとはだいぶ違っていました。
 東日本のようなプレート型地震の場合、震源が遠いので、タテ揺れ(P波)とヨコ揺れ(S波)にだいぶ到達時間の差があります。最初にドカッと来て、あとゆさゆさという感じの揺れがかなり長いこと続くという揺れかたです。それに対し、直下型はタテ揺れとヨコ揺れがほとんど同時に来ます。2度目の震度5強は直下型に近かったので、ドーンと来たあとは10秒かそこらでおさまりました。
 ゆさゆさが長いプレート型のほうが、体感では怖い気がするのですが、もしかすると耐震建築というのは、このゆさゆさ揺れを主な対応対象にしているのかもしれません。だとすると、直下型地震で見られるドーンとした初動、いわば上下動に対応するのは苦手だとも考えられます。熊本も能登も直下型でしたので、耐震技術の隙間を衝かれたというところだったのでしょうか。
 まあ、そういうことよりも、大地震の到来を勘定に入れている地域と入れていなかった地域の差という面が大きかったとも考えられます。太平洋岸は、いずれ大地震が来るとずいぶん前から脅されており、耐震建築を義務づける条例などが敷かれた自治体も多いのですが、熊本などは「まさかここでそんな大地震が起こるとは」と、想定外だったような気配があります。そういうところでは、耐震建築もまだそれほど一般化していないのかもしれません。
 ただ能登となると、過去けっこう大きな地震に何度も見舞われている地域です。そういう地域で「まさか」と思っていたとすればこれは行政の怠慢ですし、耐震建築が進んでいなかったなら意識が低すぎると言えるのではないでしょうか。そのあたり、今後きちんと検証する必要があるでしょう。

 能登半島には、何度か行ったことがありますが、本格的に旅したのは、1990年代の夏のことでした。梅雨明けがひどく遅かった年ですので、1993年だったかな。
 1泊2日を、輪島沖の絶海の孤島「舳倉島」で過ごしたりしました。そこでの体験は、大げさに言えばカルチャーショックを覚えるほどでした。舳倉島は周囲6キロばかりの、文字どおりの小島で、現在は海女の島という様相になっています。島民のほとんどが海女さんで、世帯主も女性であることが多いのでした。昼頃に輪島から着いた船がいわば交易船みたいになっていて、出港するまでの数時間、港が市場のようになるのです。野菜や肉などは島ではほとんど採れないので、その船に頼るしかないのでした。ちなみに定期船は1日にその1便しかありません。
 そんな小島ですが、遺跡が存在します。しかも、港のある南側ではなく、北側にあるのでした。シラスナ遺跡と呼ばれています。渤海国からの船を迎えたところだそうです。
 渤海国は、朝鮮半島の根元あたりから満洲地方にかけて古代から繁栄していた高句麗という国が、により亡ぼされたのちに、高句麗の故地に建てられた国です。しばしば日本に使者を送っており、菅原道真が応対してその学識のほどに驚かれたことは有名です。使者の乗った船は、日本海をまともに突っ切ってやってきており、その途上で必ず舳倉島に立ち寄って、食糧や水の補給をしたと言います。絶海の孤島ではありますが、満洲地方あたりから日本へ向かってくる船にとってはまさにオアシスのような存在だったのです。また、ここまで来れば日本の本土ももう間近という気分もあったことでしょう。輪島と舳倉島は、現在の船で約1時間半。当時の船であっても、一日あれば充分に渡ることができたはずです。
 当然、渤海国の船は、まず輪島附近に上陸したでしょう。そうするとそのあたりに、上陸した使者を迎えるための施設もあったわけです。
 当時の日本に、正式に訪れる外国使節は、事実上渤海国だけでした。まあ新羅からも来ていたかもしれませんが、唐にはこちらから遣唐使は派遣しても、向こうからいちいち答礼使がやってきていたわけではなさそうです。その遣唐使も、上記の菅原道真の具申により廃止されました。道真は、唐がそろそろ滅びの道を歩きはじめていたことを察していたようです。それもありますが、民間の交易が活溌になって、いちいち国家の使節を送る必要も無くなったという事情もあったようです。
 ともあれそんなわけで、日本が外国使節を受け容れる先は、渤海国と新羅くらいしか無かったことになります。この2国だけが、正式な外交の相手だったと言っても良いでしょう。
 その意味では能登半島は、当時の日本の外交の要とも言える位置だったと考えられます。
 渤海国の関係だけではありません。能登は、江戸時代の北前船にまで連なる日本海側航路のど真ん中に位置しています。大陸との交易でも、上代から要地になってきました。能登の旅の途中、真脇の縄文遺跡も訪ねてみましたが、ここには驚くべし約4000年にわたって大きな集落が営まれていたことがわかっています。古都と言われる京都がせいぜい1200年、奈良もプラス100年、その周辺を含めてもさらにプラス100年程度の歴史しか持たないことを考えれば、4000年という時の悠久さには眼がくらむような想いを抱かされます。

 能登は、いまも昔も、農業生産力という指標で見れば大したことはない、むしろ貧しい土地です。そんな土地に4000年も栄え続けた集落が存在し得たのは、疑いようも無く、日本海交易による富を得ていたからにほかなりません。能登は、いわば日本海の十字路というべき至高の土地だったのです。
 能登半島は奥深い半島で、かつて国鉄七尾線蛸島まで通じていたころでも、金沢から3時間以上かかっていました。七尾線の大半がのと鉄道に移管され、そののと鉄道もほとんどが廃止された現在では、バスを乗り継いでさらに時間がかかるようになりました。なんという僻陬の地だろうか、と思ってしまいますが、それは陸上交通が主役になった現代の感覚でしかありません。日本の歴史において、陸上交通が主役という時代は、実はそんなに多くないのでした。特に日本海側は、海上交通のほうがずっと重要な時代が長く続いたのです。そして海上交通という観点から見れば、能登半島は僻陬どころか、最重要ポイントと言わざるを得ません。
 おそらく古代においては、能登半島は人や財物が集積された、きわめて豊かな土地だったでしょう。
 福井県の東半分を越前と呼び、富山県越中と呼び、新潟県越後と呼びます。石川県加賀と能登は、ある時期に越中から分割されたものです。古代には、この広大な地域はまとめてコシと呼ばれました。コシ(古志)の国という富強な国が日本海側にあったのでした。継体天皇は、このコシの国から迎えられたということになっています。ありようは、武烈天皇の悪政で混乱した大和に、コシの国の王であったヲホド(継体天皇)が、その富強ぶりを武器に介入してきたということだろうと私は考えています。
 コシの国の領域は、農業生産力は大したことがありません。新潟平野も富山平野も、そのころはまだ充分な堆積が進んでいませんでしたし、何より寒冷なため、稲なども育ちづらかったでしょう。新潟が米どころになったのは明治以来稲の品種改良がおこなわれたからで、戦国時代ころでも越後はせいぜい40万石あまりの国に過ぎませんでした。近江(滋賀県)が120万石などと言われていたのに較べれば、なんともおとなしいものです。
 人の行き来を陸上交通の感覚でのみ考えてしまうのと同様、土地の豊かさを農業生産力でのみ量ろうとするのは、歴史を考える上で決して妥当とは思えないのです。コシの国は、日本海貿易を一手に支配した、当時随一の強大な国でした。
 元日の夕方テレビをつけて、津波の警報が出ているところを地図上に色分けして示しているのを見て、これはまさにコシの国ではないか、と私は感じたものでした。

 今回、津波はそれほど大きな被害をもたらさなくて、その点は良かったと思いました。最大5メートルの高さにまでなったようですが、避難はうまく行ったようです。そこは東日本大震災の教訓が活かされたのかもしれません。
 津波というのは、もちろん何階建てだかの巨大な建物が一斉に倒れてくるようなもので、その破壊力もさることながら、引くときがむしろ怖いということを、東日本で思い知らされました。陸前高田が街ごと持ってゆかれたのも、仙石線大船渡線の駅が無くなってしまったのも、津波が引くときの力によるものです。以前、外国の映像でしたが、高さ50センチ程度の津波に襲われたところをテレビで見たことがあります。高さ50センチでは、「押し寄せたとき」の衝撃力は大したことは無いのですが、それこそ「引くとき」には、地面に立てた柱はすっぽ抜けるし、駐めておいたクルマも持ってゆかれるし、ましてや立っている人間など簡単にひっくり返されて沖に流されそうになっていました。50センチの津波といえども、甘く見てはいけないのです。
 「揺れ」の質と耐震技術の関係性、そして津波についても、今後しっかりと検証をしてゆく必要があります。防災というのは、一歩一歩知見を積み重ねてゆくしか仕方のないものだと感じる次第です。

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