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「大阪都」の挫折 [世の中]

 橋下徹大阪市長の持論であった「大阪都構想」は、住民投票で否決されたようですね。わりと僅差ではあったとのことですが、大阪市民は橋下市長の思ったようには踊ってくれなかったというわけです。
 大阪市民に対してどういう説明がなされていたのか、私にはよくわかりませんが、はたから見ている限り、どうもつかみどころが無い政策であるように思えてなりませんでした。
 まず根本的なポイントとして、「大阪都」なる言葉の問題があります。「都」はメトロポリタンのことであって、国の首都にしか使えないはずです。この点については都知事時代の石原慎太郎氏も、記者会見で「大阪都構想」について訊ねられるたびに指摘していました。
 東京都と同じように、「大阪府」の下に直接特別区を設置するというのが「都構想」の眼目ですが、そのことを理解しやすくするために象徴的に「大阪都」という耳慣れない言いまわしを使っていた……とばかり私は思っていたのですが、橋下氏の発言を聞いていると、どうも本当に「大阪都」という名称に変えたがっていたかのようでもあり、そのあたりがどうにも不明瞭です。まあ、大阪市もしくは大阪府が、

 ──うちら、今日から「大阪都」って名乗ることにしましたんで。

 と言っても、日本政府はそう簡単に認めはしないでしょうが。

 特別区というのは、長らく東京にのみ存在していました。
 その昔は、東京にも「東京市」というのがあり、その中に区が設けられていたのです。その時代はいまの「東京都」の領域は「東京府」でした。東京府の下に東京市があり、その下に牛込区とか麹町区とかの区が存在する、つまり現在の大阪や京都と同じ形を採っていたわけです。
 明治22年1889)に東京市制が施行された際は、市域は現在の山手線を少し東にずらしたくらいの範囲でした。渋谷・新宿・池袋などの「裏山手」はまだ市域に入っていません。その代わり、深川・本所・浅草など、山手線より東に外れた地域が入っていました。
 現在の新宿にあたる内藤新宿町が、豊多摩郡から市内に編入されたのが大正9年1920)でした。この時は四谷区の一部とされています。
 昭和7年1932)に至って、東京市に隣接した82町村が、一挙に市内に編入されます。それまで15区であった東京市は、いきなり35区体制となりました。人々は拡張された東京市を、「大東京市」などと呼びました。また「帝都」という呼びかたが流行したのもこの頃からであったろうと思われます。山手線の外郭にひとまわり大きい環状鉄道を敷設しようとしていた東京郊外鉄道が、帝都電鉄と名称をあらためたのもこの時でした。ちなみに帝都電鉄はその後資金難でなかなか計画が進まず、ごく一部の支線だけ開通して現在の京王井の頭線となっています。
 この35区は、現在の23区とほぼ同じ領域でした。4年後の昭和11年1936)に北多摩郡砧村(現在の成城学園前附近)と千歳村(現在の千歳烏山千歳船橋附近)が世田谷区に編入されて、現在とまったく同じ形になります。
 そして戦争中の昭和18年1943)に東京都制が施行されます。これによりはじめて「東京都」が誕生し、各区は「特別区」となって「市」と同格のものとされ、「東京市」は廃止されました。
 この改組が少々不充分であったのは、東京都を、たとえばUSAワシントン特別区のような、他の府県とまったく別の扱いにしなかったことです。ワシントン特別区は、どこの州にも属さない連邦政府直轄地となっていますが、東京都はそこまで徹底できず、周辺市町村を含む、他の府県同様の領域となりました。このために、旧「東京市」部、すなわち狭義のメトロポリタンを指す言葉が無くなってしまって、少々ややこしいことになりました。仕方なく「区部」あるいは「都区内」といったこなれない言いかたをしているのはご存じのとおりです。本当は、都政施行と共に、現在の「市部」や「郡部」は別の「県」として統合するか、隣接する神奈川県・埼玉県・山梨県などに吸収させるべきでした。
 戦後の昭和22年1947)になって、35区は23区に再編成され、現在に至っています。

 都道府県に直属し、「市」と同格である「区」が「特別区」ですが、地方自治法では「都の区」として規定されています。この規定に従えば、特別区が置けるのは「都」だけということになります。規定そのものが、東京都の区を想定して作られているので、それもやむを得ないでしょう。
 橋下氏が「大阪都構想」を打ち上げた5年ほど前には、まだこの規定が生きていました。そのため、特別区を置くには「大阪府」を「大阪都」にしなければならない、という事情もあったのだろうと思われます。
 平成24年2012)に、「大都市地域における特別区の設置に関する法律」が可決されました。これによってはじめて、東京都以外の道府県にも特別区を置けるようになり、しかも特別区を置いた道府県は法制上は「都」として扱われることにもなったのでした。
 この法律では、人口200万人以上の政令市、もしくは政令市と同一都道府県にある隣接市町村を含めた人口が合計200万人以上あるところに特別区を設置することができるとしてあります。これにより、にわかに北海道・埼玉県・千葉県・神奈川県・愛知県・京都府・大阪府・兵庫県の各道府県に特別区が誕生する可能性が出てきました。福岡県福岡市北九州市のふたつの政令市を持ちますが、残念ながらどちらの市も、隣接市町村を含めても200万には達せず、両市が隣り合ってもいないということで、規定から外れます。
 いまのところ大阪以外で特別区設置の動きが出ている様子はありません。この法律はどうも、「大阪都構想」に対応して出てきたものと思われます。特別区を擁する道府県は法制上「都」の扱いをうけることになるが、その名称までは変更しない、つまり「埼玉都」とか「愛知都」などにはならない、と釘を刺しているあたりも、「大阪都」を考慮しての規定であるようです。
 こういうあらたな仕組みが法制化されるきっかけになっただけでも、橋下氏の、一見大風呂敷に見えた「大阪都構想」も、それなりの効果があったということになるかもしれません。その意味では、住民投票で否決されたとはいえ、もって瞑すべしというところでしょう。
 この法律ができてからも「大阪都構想」なる名称をあらためなかったというのが、否決の一因にもなっているかもしれません。橋下氏が「本当は何を」もくろんでいるのかが、いまひとつわかりづらかった可能性があります。構想やキャンペーンの名称を「大阪に特別区を!」とでもひらたく変えておけば、もう少し賛同者も増えたようにも思えるのです。みずから起ち上げた「大阪都」という言葉の響きを、ロマンチストでもある橋下氏はどうしても棄てられなかったのでしょう。

 「大阪府」と「大阪市」による二重行政の弊害を解消し、無駄を無くす、というのが「大阪都構想」の眼目でした。しかし反対派は、

 ──弊害のあるような二重行政など、そもそもおこなわれていない。

 と主張していました。どちらが正しいのか、じっくり討論でもして貰いたいところでしたが、橋下氏は反対派を説き伏せるよりは切り捨てるほうを選んでしまったようです。放映時間の限られているテレビ番組での癖が出たのかもしれません。そういえばテレビの討論番組のたぐいというのは、出演者がそれぞれの持論をまくし立てるだけで、「その場で反対者を説得」しえたなんて場面を見たことがありません。それは橋下徹にしても同じことです。橋下氏はそういう「討論番組」のありかたに馴れすぎてしまって、対立する相手をじっくりと説き伏せるというような迂遠なことは苦手であったようにも思われます。
 市政・府政のありかたもさることながら、大阪市が無くなれば、市議も市職員も一挙に失職するわけで、その受け皿が新生特別区にきちんと用意されていたのかどうか、そんなこともはっきりとは伝わってきません。これでは不安になって反対するのも無理はないでしょう。
 特別区になることによって、生活のどこがどう変わるのかという明確なヴィジョンを明示できなかったのが、結局敗因だったのではありますまいか。

 今回、大阪ではうまくゆきませんでしたが、近いうちに、案外愛知や京都あたりがあっさりと特別区を設置してしまうかもしれません。そうなると、大阪の騒ぎはなんだったのかということになりますが、上にも書いたとおり、「特別区の設置に関する法律」が施行されたのはまぎれもなく「大阪都構想」が原因です。いちおう、構想を起ち上げたこと自体に、一定の影響力はあったと見るべきでしょう。
 維新の党の幹部たちが、今度の否決に伴い、軒並み身を引く表明をしているとのことですが、少々あきらめが良すぎるきらいがあります。もう少し粘ってみても差し支えないのではないでしょうか。


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