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山口博史先生とドビュッシー [ひとびと]

 先週と今週、マダムが彼女の母校でおこなわれている夏期講習を受けに行っていたのですが、6月頃に受講を申し込んですぐ、受ける予定だった講座の先生から連絡が来ました。
 そんなに驚くほどのことではなくて、その先生というのは彼女が在学中所属していたサークル「フランス音楽研究会」(略称「フランケン」)の顧問というか指導をしていた山口博史先生で、卒業後もちょくちょく先生宅で集まったりしていたようです。そういう関係で、なんと講座のときに模範演奏をして貰いたいと頼まれたということでした。
 受講を申し込んだから頼まれたというのではなくて、そこはどうやら偶然だったようです。講座はドビュッシー『前奏曲第二集』を扱う予定で、山口先生がよく知っていて、フランスに留学経験があって、なおかつ安いギャラでも弾いてくれそうな(笑)ピアノ弾きを4人(全12曲を、3曲ずつ弾かせるつもりだったらしい)集めたら、その中にマダムが勘定されていたということでしょう。マダムは
 「もっと上手な先輩とか、いくらでも居るのに~~」
 と少々びびっていましたが、たぶんそういう先輩がたに頼むには申し訳ないようなギャラだったに違いありません。
 マダムに割り当てられたのは最後の3曲「カノープ」「交代する三度」「花火」で、このうち「花火」は彼女の十八番のひとつでもあって自分の結婚式のときにも弾いたくらいですからさほどの問題は無し、「カノープ」はゆったりとしたテンポで重厚な和音が連なるといった曲なのでこれも譜面を見ながらなら特に問題は無し、ただ「交代する三度」だけはこれまでほとんど弾いたことが無く、テクニック的にもけっこう上級クラスであり、そう簡単に人に聴かせられる演奏が仕上がる曲ではありません。
 「……えらいことになった……」
 とマダムは蒼くなっていたのでした。

 山口博史先生は、実は私が大学1年のときにソルフェージュを教えて貰った師でもあります。ソルフェージュというのはまったく知らない人に説明するのがなかなか難しいものなのですが、簡単に言えば

 ──実際の音と楽譜上の音符を直接に関連づけるためのトレーニング

 と言って良いでしょう。楽譜を見てすぐにそれを音として歌う「視唱」と、音を聴いてすぐにそれを音符として書き取る「聴音」が二本柱で、そこから派生して「視奏」「移調唱」などもおこないます。いわば音楽の基礎ですが、とりわけ作曲科の学生は「楽譜を書く」「楽譜を読む」が商売の基本みたいなものなので、演奏科よりもソルフェージュは得意であることが多く、レベルごとにクラス分けされた場合でもたいてい上位クラスに集まっているものでした。
 クラス分けは、講義がはじまる前に聴音のテストをして決めます。やたら変化音や連符などが多いややこしい問題で、あちこち間違えた自覚があるのですが、それでも私はどうしたことか最上位クラスの「A1」に属することができました。作曲科の仲間は私の他、寺嶋陸也くん、山田武彦くん、三河正典くんの3人でした。A1クラスの他の学生は、指揮科がひとり居て、あと4、5名がピアノ専攻であったと記憶しています。ちなみにA2というのも似たような構成で、そちらにはひとりだけ声楽科が含まれていました。私の最初の歌曲集『悩める者ども』とその次の『季節のうた』を初演してくれた芝江勢津子さんで、ソルフェージュ上位クラスくらいでないとなかなか新曲の演奏を頼むのも大変なのでした。
 話が逸れましたが、ともあれそのA1クラスの指導を担当して下さったのが山口先生であったわけです。最上位クラスの指導者ですから、ソルフェージュ界ではすでに非常に力のある人だと見なされていたのだと思います。もっとも、最下位クラスの指導も相当な力量が必要でしょうが。
 レベルが揃っていることもあって、授業はけっこう楽しいものでした。週2回、しかも第1時限で朝早くからの授業でしたが、欠席する者はあんまり居なかったように記憶しています。
 「せっかく作曲科が4人も居るので」ということで、四部合唱で歌える視唱課題をひとつずつ書くなんてこともやらされました。しかも「モーツァルトのスタイルで、ソナタ構造の1楽章ずつを担当する」という縛り付きでした。私が第一楽章を書き、寺嶋が第二楽章で三河が第三楽章だったかその逆だったか、山田が終楽章だったのは確かです。彼は
 「みんなやっぱり弦四(弦楽四重奏)っぽく書きやがって。おれは断乎ピアノっぽく書いたぞ」
 と威張っていましたが、低音などレラファラ、レラファラといった伴奏型が連続して、歌いにくいのなんの。試演は大騒ぎになりました。
 私の作った第一楽章は、確かに山田に言われたとおり弦楽四重奏っぽいものでした。というか弦楽器に移せばそのまま「モーツァルトっぽい弦楽四重奏」になるような曲で、もちろん作品リストには載せていませんが、自分ではいまでも案外気に入っています。
 必修のソルフェージュは2年まであって、2年のときも私はA1クラスでしたが、指導の先生はA1とA2が交代したようで、山口先生の受け持ちではなくなりました。しかし2年目になると、A1クラスとA2クラスがなんとなく混ざったような状態になり(実際合同授業などもあった)、一緒に遊んだりするようになりました。それで山口先生の自宅にみんなで押しかけたこともありますし、夏休みには先生をまじえてみんなで伊豆に旅行に行ったりもしました。実は私が芝江さんと共にその旅行の幹事だったこともあり、懐かしい想い出です。
 私の山口先生とのつながりはそこまでだったのですが、まさかその20年後に出逢ったマダムの恩師であったとは、びっくりです。
 マダムと知り合ったのは、ネット友達のだーこちゃんの結婚式に招かれたときであって、それまでまったく関係が無かったはずなのですが、実はいろんなところでつながりがあったのでした。彼女が高校時代にソルフェージュを習っていたのが上にも出てきた三河正典、同じく高校時代に合唱部で指導を受けていたのが作曲科の先輩の吉岡弘行さん、それに山口先生のこともありますし、私のわりと親しい人のところに他の人の伴奏でついて行っていたりなどということもあったようです。なんというか、月並みな感慨ではありますが、世の中は狭いですね。
 まあ、それだけ重層的につながりがあったことを知ったおかげで結婚にはずみがついたということもあるので、世の中の狭さもそれなりにメリットがあったわけですが。
 結婚前の時期に、連れ立って山口先生のお宅にお邪魔したこともあります。「フランケン」OBを集めた勉強会に私が特別参加したという形でした。ほぼ20年ぶりでしたが、山口先生は私のことを憶えていました。あまり無い苗字なので印象に残っていたのでしょう。
 当然ながら、結婚式にもお招きするつもりだったのですが、なんとしたこと、先生ご自身が結婚するために、都合がつかないとのことでした。私よりひとまわり以上年上のはずでしたがそれが初婚で、しかも相手はマダムの後輩に当たる人だったそうです。私とマダムがそもそも9歳離れていますので、山口夫人はご亭主より明らかに20歳以上年下ということになります。私の作曲の師である佐藤眞先生も奥様とは20歳ほど離れていますし、そのまた師である池内友次郎先生に至っては40歳年下の奥様をお持ちでしたし、この業界では齢の差婚もそう珍しくはないのですが、山口先生もそうなったとは、苦笑するしかないような話でした。

 さて、蒼くなりはしたものの、ほかならぬ山口先生からの依頼でしたので、マダムは模範演奏の仕事を引き受けました。
 ドビュッシーの前奏曲は、第一集・第二集それぞれ12曲ずつ、全24曲から成っています。曲数に関しては、ショパンなどの「前奏曲集」の伝統を受け継いでいると言えますが、それまでの「前奏曲集」が24の長短調を順番に並べ、それなりに「曲集」としての首尾一貫性を持たせて作曲されているのに対し、ドビュッシーのものは特に長短調を揃えるという意思があまりありません。第一集はいちおう全部違う調にするつもりがあったようですが、第二集ではもう調などどうでもよくなったと思われます。また、「通して弾く」こともあまり考えていないように見受けられます。
 また、一曲一曲にタイトルがついているのも特徴的です。実のところ標題音楽的に受け取られるのは作曲者の本意ではなかったようで、どのタイトルも曲のいちばん末尾に、カッコ付きで記されているだけです。
 「まあ、タイトルを付けるとすればこんなところじゃね?」
 という程度の意味合いのようで、演奏にあたってタイトルのイメージにこだわりすぎるのは私も反対です。とはいえ、便利なのでついついタイトルで呼んでしまうのですけれども。
 第一集には有名な「亜麻色の髪の乙女」「沈める寺」などが入っており、わりとポピュラーです。
 しかし第二集になると、かなり玄人好みというか、曲想も曖昧模糊としたものが多く、かなりピアノに深入りした人でないとピンと来ないかもしれません。ただひとつ最後の「花火」だけは、24曲の最後を飾るという記念的な位置でもあり、景気の良い曲想でもあるので、演奏される機会が多くなっています。
 この曲集を講座の題材に選ぶというのは、相当にマニアックと言えるかもしれません。
 講座は2日に分かれており、演奏もそれぞれ6曲ずつでした。マダムは最後の3曲ですから、出番も最後になります。マダム以外の奏者は、みんなずっと後輩にあたる人だったそうです。
 マダムが弾かなければならなかった「交代する三度」は前奏曲集の中でもちょっと特異な曲で、タイトルもこれだけ妙に説明的です。そういえば『映像』にも「動き」なる絵画的でないタイトルの曲があり、「交代する三度」と共通するのはなんとなく「練習曲」的な雰囲気を持つ曲であることです。ドビュッシーは印象派と呼ばれているのでその比喩を用いるなら、印象派の絵画の中に1枚だけ抽象画が混じっているみたいな違和感を覚えます。
 研究者によると、「交代する三度」は終曲の「花火」よりあとで書かれたそうで、『前奏曲集』ののちに作られた、ドビュッシーのまとまったピアノ独奏曲としては最後のものになる『練習曲集』の感覚を先取りしているとも言われています。文字どおり、両手に置かれた3度音程の重音が、上になり下になりしながら進んでゆきます。
 マダムはピアノの先生のところへ何度も通ってレッスンを受けていましたが、この曲を弾くにあたっての大きな問題は、

 ──譜めくりが自分ではできない。

 ということでした。暗譜するほどの時間は無く、譜面を見て演奏するしかないのですが、両手が絶え間なく動いているので、演奏中にページをめくることができません。
 その辺の受講生に頼んで譜めくりして貰うことは可能ですが、ぶっつけ本番だと失敗する場合がありますし、マダムのほうも気を遣ってアガってしまう危険があります。
 それで私が、「譜めくりできる譜面」を作ることにしました。
 具体的に言うと、元の譜面にははっきり言ってかなり無駄なスペースが含まれています。これを圧縮することでページ数を減らし、譜めくりをあまりしなくて済むように作り直すという作業です。
 中間部に、ちょっと静止点のような箇所があり、譜めくりをそこだけにすれば自分でも可能になります。本のような、見開き2ページの形ではそれは困難でしたが、バラで印刷してテープで貼り合わせ、見開き3ページで置くようにすればOKでした。
 元譜では、1行が3段になっているところがずいぶんありました。言うまでもなく、ピアノの譜面というのは2段が基本です。上段が右手、下段が左手ということになっています。しかし、両手が錯綜したり、あるいは左手がベース音を鳴らしつつかなり高い音域で動かなければならなかったりして、2段ではかえって見づらいということがときどきあります。それで、シューマンリストの頃から、3段譜というのも使われるようになりました。ちなみに現代音楽となると、4段譜・5段譜も使われています。4段譜のハシリはラフマニノフの前奏曲でしょうか。
 ドビュッシーは、『映像』の第一集はすべて2段譜ですが、第二集はすべて3段譜になっています。同じように、『前奏曲集』も第一集はすべて2段譜で書かれていますが、第二集では「すべて」ではないものの3段譜がメインとなっています。ただ、本当に3段が必要だったのかどうか疑問の部分も少なくありません。なんとなく3段のほうがカッコ良く感じられたからそうしているのではないかと疑わしくなるケースも多いのです。
 「交代する三度」に関してはまさにそのとおりで、私はスペースを圧縮するために2段譜に書き換えてみたのですが、なんの問題もなく書き換えられました。しかも、さほど見づらくなったという気もしないのです。他の曲のことはともかく、少なくともこの曲については、ドビュッシーが見た目を気にしただけということが判明しました。
 マダムも重宝したようで、だいぶ感謝されました。
 他の曲も2段譜化できるかもしれません。ドビュッシーくらいの近代の作曲家になると、印刷譜もなるべく本人が書いたとおりの体裁にすることが原則となっていますが、もしかして同じような「圧縮版(実用版)」を作って一冊にまとめたら、案外と売れるのではないかという気がしてきました。もちろんドビュッシーファンやドビュッシー研究家からは総スカンを食らうことでしょうが。

 マダムは幸いなことに、まあまあ山口先生のメンツを潰さずに済むくらいの演奏はできたようでした。何しろ講座の模範演奏ですから、受講生はみんな楽譜を見ながら聴いているわけで、普通の演奏会などよりもプレッシャーが大きかったと思われますが、無事に済んで何よりです。
 演奏するだけでなく、先生に促されて留学中の想い出とか、フランス音楽に関する私見などを語る機会もあったようで、そういうのも愉しかったのでしょう。満足した様子で帰ってきました。


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