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ドナルド・キーン博士の訃報 [ひとびと]

 ドナルド・キーン博士の訃報に接し、大変残念に思いました。まあ享年96歳だったとのことですので、大往生と言ってしかるべきでしょう。
 博士の多大な業績に関しては、そのほんの一端を知るばかりですが、誰よりも「日本文学者」であったひとだと思います。
 この場合の「日本文学者」とは、「英文学者」「仏文学者」などという言いかたと並べたつもりです。普通「日本文学者」と言うと、「日本の文学者」と考えてしまい、数多く居る作家や劇作家や評論家などを思い浮かべますが、そうではなく、「日本文学を研究する学者」としてこの名称を使いました。
 この名に価する学者が、日本人の中には案外見受けられない気がします。それは当然かもしれず、「英文学者」「仏文学者」と言ってイメージするのは、英国人やフランス人の「自国の文学を研究している人」ではないでしょう。大学の英文学科や仏文学科で教えている先生、という印象が強いと思います。ある国の文学を総合的に取り扱う学問というのは、むしろ他国の学者によっておこなわれることのほうが多いのではないでしょうか。
 その意味ではキーン博士は間違いなく「日本文学者」であり、日本人の中に博士に比肩するほどの学問的業績を上げた者がそれほど見られないことを、われわれが恥じる必要はありません。日本文学というものを総体的に俯瞰するためには、「外からの眼」というものが必要不可欠なのかもしれないのです。
 数年前に亡くなった陳舜臣氏と同様、ドナルド・キーンの名前を私がはじめて知ったのは、司馬遼太郎氏との対談本からでした。キーン博士は初対談の前、司馬氏が

 ──ソウセキ・ナツメという日本の作家が居りますが、ご存じですか?

 みたいなことを訊いてくるのではあるまいかと、内心びくびくものだったそうです。つまり、日本文学を研究している外国人というのが、その頃の日本人からしてみるとどうにもイメージしづらく、そんな子供だましのような質問をしてくる者が少なくなかったということでしょう。
 最近ではそうでもなくなったと思いますが、1970年代くらいの日本人の自己評価というのは、著しく小さいものがありました。粟粒のように小さい国の、とるに足りぬ国民に過ぎず、世界という場から見れば吹けば飛ぶような存在に過ぎないと信じきっていました。それだから、外国人が日本語をしゃべっただけでも驚異そのもので、
 「あのー、シンジュク駅にはどのようにゆけばよろしデスかぁ?」
 「え~、あ~、あ、あいきゃんとすぴーく、いんぐりっしゅ」(逃亡)
 というような、マンガみたいなやりとりが実際に見られたものです。日本語のようなマイナーな言語を外国人がわざわざ学ぶわけもなく、当然しゃべるはずもないと、心のどこかで思い込んでいるために、実際に外国人から日本語で話しかけられると、精神的なバランスを失ってパニクってしまう……という実情があったように思えます。
 司馬遼太郎氏自身も、そういう「小国意識」を十二分に備えていました。エッセイ類でもそういう意識はそこかしこに散見されましたし、小説にしても、「そういう小国の中で懸命に生きることのつらさ」を主題に置いているように思えるものが多い気がします。何度も例に挙げてきましたが、『坂の上の雲』の、

 ──まことに小さな国が、開化期を迎えようとしている。

 という、なんとも言えない心許なげな書き出しは、当時の日本人の自己像そのものでもあったでしょう。
 そんな日本人が、柄にもなく大国意識を持った結果が、先の戦争である……というのが司馬氏の総括であったようで、大国意識を持つことの危険性をくりかえし説いてもいます。
 ある程度はうなづける気もするのですが、しかし必要以上に自己像を小さくとらえるのも、大国意識と同じくらいいびつで危ういのではないか、と私は思ったりするのでした。要するにありのままを意識すればそれで良いのですが、ただその「ありのまま」というのが、なかなか自分ではわからないものです。
 そこでキーン博士のように、外からの眼を持つ人が公平に観てくれるということが、とても貴重だということがわかってくるわけです。
 司馬氏は時代に即したとも言える、いささか卑小な自己像を持つ作家ではありましたが、外語学校の出身だけに、外国人に対して身構えるという姿勢はありませんでした。キーン博士のことも、日本文学の研究においては自分よりはるかに先達であるという意識を持ち、対談もどちらかというと博士に教えを乞うような態度で進めています。キーン博士も大いに満足した様子です。はじめて、語るに足る相手が見つかったというところだったのではないでしょうか。

 キーン博士が日本文学に興味を持ったのは、アーサー・ウェイリー訳の源氏物語を読んだのがきっかけであったようです。それも、古本屋で安かったというだけの理由で購入したのだとか。しかし、本との出逢いというのはそんなものかもしれません。
 ウェイリー訳の源氏物語は、その英文が非常に美しいことで知られます。日本で言えば森鴎外訳の『即興詩人』あたりに相当するでしょうか。英米人の読者は、まずその達意の英文に魅了され、そのあとで原作が千年近く前の日本の女流作家の手になるものだと知って驚愕するという、二段構えの驚きを味わうことになるのでしょう。源氏物語はもちろんわが国の誇る文化遺産であるわけですが、ウェイリーのような天才肌の紹介者を持てたことは幸せなことであったと思います。
 キーン青年も、そのとおりの道筋をたどって日本に魅せられました。そしてコロンビア大学で日本文学を専攻することになるわけです。もっとも彼は幼少期からフランス語にも堪能であり、仏文学に進むか日本文学に進むかで迷ったようでもあります。結局、仏文学よりも圧倒的に研究者が少ないということを理由に、日本文学を選ぶことになります。
 戦争中には通訳官として活躍しました。日本人捕虜の訊問などにもあたった模様です。最初に訊問した相手が、のちに戦記作家となる豊田穣だったというのも不思議な縁で、この文学性豊かな捕虜との対話を通じて、キーン博士はさらに日本への、そして日本人への興味をかき立てられたようでもあります。
 どこで読んだのか忘れましたが、昭和天皇「人間宣言」を受けた日本人が、まったくショックを受けた様子がないことに、キーン博士が衝撃を受けたという話も記憶しています。GHQは、日本人が天皇を「現人神(あらひとがみ)」と考えていることを知り、そのいわば精神的支柱を折るために、昭和天皇に人間宣言を出させたのでした。神と信じていた存在がただの人間だったことを知れば、日本人は幻滅するだろうと思ったわけです。USAは敵対した国や勢力のトップをこのようにさらし上げて支持者を幻滅させようという意図による愚行がけっこう多く、サダム・フセインのときもできるだけみじめな姿をテレビカメラで映すようにしました。結果、

 ──仮にもアラブの指導者であった者をあのようにさらし上げるとは、USAはけしからん。

 と憤慨する連中が増えて、かえって逆効果に終わっていました。さて昭和天皇のケースでは、圧倒的多数の日本人は

 ──え、天皇陛下が「実は人間だった」って? 何を今さら、あたりまえのことを。

 と平然としていたのでした。現人神とは、欧米人の考えるゴッドとはまったく違う存在であったのです。天皇が人ならぬ存在であるなどと本気で信じていた日本人はひとりも居なかったでしょう。ただ日本人のほぼすべてが、天皇の血脈あるいは疑似血脈から生まれているという点で、天皇は日本人のいわば総本家であり、なおかつ神話上の「神」から連綿と続いてきた存在であり、その曾祖神に対し、古代から一貫して国民の幸を祈り続けてこられたかたであればこそ尊いのだと、意識的にせよ無意識的にせよ日本人はみな知っており、だから人間宣言などに接してもひとつの驚きも無かったのでした。
 GHQのさまざまな施策の中でも、天皇の人間宣言はひときわ愚かしかったと私は思います。まるで期待した効果が顕れないので、GHQの首脳部は首を傾げたことでしょうが、その中で

 ──やっぱり日本人って面白い!

 と感激していたのが、通訳官を務めていたキーン青年だったとおぼしいのです。

 復員したのち、キーン青年はコロンビア大学に戻って修士号をとり、さらにハーバード大学ケンブリッジ大学でも研究を進めました。27歳で博士号を取得し、31歳のときに念願の京都大学への留学を果たすのでした。この段階になると、キーン博士の興味は、日本文学の枠を超えて、日本と日本人全体に拡がっていたに違いありません。
 司馬遼太郎氏との対談本は何冊かありますが、私が興味深いと思ったのは、当時のキーン博士が、日本人の精神的背景には儒教があると考えていたらしいのと、司馬氏がそれに反対し、いくぶん論争めいた展開になっていた箇所です。
 いまの眼から見れば、これは「日本は儒教に関しては目も当てられないほどの落第生だった」とする司馬氏の意見のほうが正しいと判断できますが、キーン博士も「日本人とはなんなのだろうか」ということを真摯に考え続けており、その時期においては儒教ということを軸に考えていたと見るべきでしょう。確かに、そのころまでの政治家や実業家などは、「論語」を座右の書としているような人も多かったので、日本人の精神の背後には儒教がある、と考えてしまうのも無理はありませんでした。
 むろん、論語というのは孔子の言行録であるに過ぎず、儒教そのものではありません。理想国家を建設するという抱負に胸躍らせながら、結局どこの国にも仕官できなかった、失意の男の愚痴大全……というのが論語の正体であろうとは思いますが、君子(指導的立場にある者)はこうあるべきだ(=実際にはそうなってはいないけれど)という形の箴言が多いために、個人的な修養の書としてはそれなりにすぐれています。澁澤榮一はじめ、論語を愛した人はたくさん居ます。
 しかしながら、儒教というのは本質的に「国家・社会のありかた」を規定するシステムですので、個人的にいくら論語に啓発されようと、儒教を採り入れたということにはなりません。儒教を全面的に採り入れたときに成立するのは、李氏朝鮮のような社会です。人々の身分はどうしようもなく固定され、下の者は上の者に絶対服従で、将来見返してやる希望もありません。あらゆる新規なことが忌避され、十年一日どころか百年経っても二百年経っても、ずっと同じようなことが繰り返されます。血縁の者とそうでない者とのあいだに差をつけるのはあたりまえで、一族の誰かが運良く出世すれば、その一族全員がそこにくらいついて利権をむさぼります。
 日本人はたいてい、こういう社会にはうんざりします。そして、世を変えてやろうと発奮する人間が、必ず現れます。新しい流れができれば、それに乗ろうと考える者もたくさん出てきます。つまり、いかなる意味でも儒教的ではありません。
 最近ではケント・ギルバート氏などが、日本は儒教を拒否したために中国や韓国と異なる道を歩んだということに気がついて本を出したりしていますが、ギルバート氏ほどに長いこと日本に住んでいても、それに気づくにはかなりの時が必要であったようです。「東アジア=儒教」という思いこみは、欧米人にはかなり強固なものがあるのでしょう。
 キーン博士も、のちには日本の社会がむしろ儒教を拒絶したところに成立していることに気づいたものと思います。博士は明治天皇の浩瀚な伝記を書きましたが、あるいはそれは、儒教に替わる日本人の精神的背景をさぐった末の結論とも言うべきことだったのかもしれません。

 博士は、東日本大震災ののち、日本に帰化します。それまでしていなかったのが私にはむしろ驚きだったのですが、ともあれ晩年の8年間を本当の「日本人」として過ごし、そして大往生を遂げました。
 震災をきっかけに帰化した理由は想像するしかありませんが、あの大災害の中での日本人の整然としたふるまいを見て、それまで抱いていた「いとおしさ」が一気に高まったのかもしれません。あの人々と同じところに立ちたい、という想いがあふれ出てしまったのでしょう。
 日本を愛し、日本人とは何かということを深く考え続けた一生でした。私たちは日本人として、キーン博士の深い愛情に応えられるほどの人間であるのかを、確かめ続けてゆかなければならないと思います。ともあれ、ご冥福をお祈りいたします。

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