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「川口第九を歌う会」30年 [お仕事]

 ブログの管理サイトが微妙に変わり、その移行手続きに少々トラブってしまい、更新ができませんでした。お待たせいたしました。
 「MIC's Convenience」のトップページから呼び出してくださっているかたは問題ないのですが、日誌に直接アクセスしているかたは、URLが「http://micin-blog.blog.so-net.ne.jp/」だったものが「https://micin-blog.blog.ss-blog.jp/」と変わりましたので、ブックマークなどを変更していただければと存じます。しばらくは自動的に転送されるようですが、そのうちリンクが切れると思います。

 さて10月に入って、消費税が上がったり、不健全であった日韓関係が急速に正常化していたり(マスコミでは「関係悪化」と表現していますが、「普通の外国としての関係」を良しとする私の見かたからすれば明らかに「正常化」です)、いろいろと世の中も動いています。それぞれに思うところもあるのですが、とりあえず今回は、5日(土)に開催された、川口第九を歌う会30周年記念式典のことを書いておこうと思います。
 川口第九を歌う会については、日誌の中でも何度も触れて参りました。年末にベートーヴェン第九交響曲を歌おうというイベントは、多くの自治体で企画され開催されていますが、その大半は行政主導のイベントであって、6月頃に広報を出して区民・市民から参加希望者を募り、半年ほど練習を積んで、12月に本番をおこない、解散という形をとっています。私がもうひとつ関わった板橋区第九を歌う会もそうした形でした。単発のイベントを毎年催行しているという趣きです。もちろん、連年欠かさず参加しているというような人も居ることでしょうが、運営している役所の担当者のほうが数年で替わってしまうので、心情的な継続性というものはあまり感じられないのではないかと思います。
 その点、川口市の第九を歌う会は、行政主導でなく、市民側からはじまったものだそうで、それだけに単発のイベントで終わらず、30年も続く結果となりました。
 きっかけは、駅前の再開発地に川口総合文化センターリリア(リリアホール)が建てられたことでした。私が川口に越してきた頃にはすでに再開発がはじまっていて、2年か3年後にリリアが完成したのだったと思います。そのこけら落としとして、市民による「第九」演奏会を開いてはどうか、という提案をしたのが、前の会長であったKさんでした。
 そのときの役所の担当者の答えは、こけら落としはムーティの指揮でミラノスカラ座歌劇場管弦楽団の演奏会をおこなうことに決まっていて、「第九」をやるつもりはない、もしやりたいのであれば自分たちで勝手にやってくれ、という、いささか冷たいものだったそうです。この話はKさんが30周年の記念誌に寄稿していた文章ではじめて知りました。
 実は私も、リリアが開館した頃に似たような経験をしています。板橋区演奏家協会のような、川口市内在住のプロの音楽家を組織した団体を作り、その団体による定期的な演奏会をリリアで開いたりできないものだろうかと思い、第九を歌う会の正指導者である高橋誠也先生に口をきいて貰って、役所の担当者に話をしに行ったことがあったのでした。
 その結果はというと、向こうは私が何を言っているのかも理解できなかったようで、
 「市民音楽協会の活動とぶつかりませんかねえ」
 などと頓珍漢なことを言うばかりでした。市民音楽協会というのはアマチュアの団体で、ときどき有名無名の演奏家を呼んできて、その頃は唯一の大規模イベント施設であった市民文化会館で演奏して貰うというような活動をしていました。プロ団体である演奏家協会とはまったく重ならないのですが、いくら説明してもイメージが湧かないらしく、消極的な対応に終始されました。
 30年前の川口市の文化意識というのは、せいぜいそんなものだったのだろうと思うほかありません。本格的なホールができた、あとは有名な音楽家をじゃんじゃん呼んできて演奏会を開いて貰えれば、市の文化水準は黙っていても上がってゆくだろう、という程度の認識だったのでしょう。
 有名音楽家だって、そんなぽっと出のホールに踵を接するように来てくれるわけがなく、来てくれたところでそれだけで文化水準が上がるというものではない、ということには意が届かなかったものと見えます。
 私の川口市演奏家協会プランはそれで頓挫しましたが、Kさんは担当者の冷たい態度にめげず、それなら勝手にやってやるとばかりに、人を集め、練習場所を確保し、第九演奏会を実現すべく動き始めました。担当の小役人など相手にせず、市長や市議にも働きかけて協力を依頼したのでした。
 そのときの市長が永瀬洋治氏で、この人はけっこう音楽好きでした。サトウハチローに詩を頼み、團伊玖磨に作曲を頼んで、川口市民歌を制定したのも市役所職員時代の永瀬氏です。何年か前、名誉市民となっていた永瀬氏が亡くなって、市葬がおこなわれたとき、私は市役所から頼まれて、この市民歌を葬送行進曲風にアレンジするという仕事をやったことがあります。永瀬氏はKさんから持ち込まれた話を快諾し、いろいろと協力してくれたようです。
 またそのとき動いてくれた市議が、前市長の岡村幸四郎氏で、この人は何回目からだったか、みずから第九を歌う会のメンバーとなって、合唱団員として舞台に立って歌うということを続けました。それは市長在職中に急逝するまで、ほぼ毎年続けられたと思います。前の年の第九演奏会のあとのレセプションに出席して、たぶんその場のノリに過ぎなかったのでしょうが、
 「来年は私も一緒に歌いたいものです」
 みたいな発言をしてしまったため、政治家として前言をたがえるわけにはゆかないということでオンステすることになったと聞きます。むろん単なる義務感というのでもなく、毎年、いち合唱団員としての立場を愉しんでいたように見受けられました。
 こうして当時の市長と、その次の市長になるような有力な市議の支援を受け、川口第九を歌う会の活動はスタートしました。最初の練習日、50人も集まれば御の字だと思っていた関係者の思惑を超えて、なんと150人もの参加希望者が集まって、用意していた楽譜が足りなくなったなどというエピソードもあったようです。そして1990年11月25日に開催された第一回第九演奏会は、300人超えのオンステとなり、この合唱人数の記録はいまだに破られていません。

 私はこの第一回にすでに関わっていたのだったか、そのあとで関わりはじめたのだったか、はっきり憶えていません。第一回の「大工じゃないよ、第九だよ」という脱力もののキャッチフレーズは記憶していますが、他人事のように苦笑していただけだったような気もするので、私が練習ピアニストとして関わりはじめたのはもっとあとだったかもしれません。
 30周年の記念誌には、私も寄稿しましたが、この第一回のキャッチフレーズを枕に置きました。できてきた記念誌を見ると、このキャッチフレーズのことはKさんも書いていたし、講師仲間の藤井あやの寄稿にも触れられており、厚くもない冊子の中でつごう3回も言及されていて、当時を知らない人たちにもすっかり印象づけられたことでしょう。
 その頃としては「ヤレヤレ」と言うほか無いキャッチフレーズでしたが、30年を経てみると、上に書いた役所側の無理解と考え合わせて、少し別の考えを持つに至っています。私の記念誌への寄稿を若干引用してみます。

 ──このフレーズは、もちろん単なる駄洒落ではありますが、30年前の川口市ではまだ「ダイク」という響きとベートーヴェンとが、すぐには結びつかない意識水準だったことを顕しているようにも思えます。
 駅前至近のリリアホールができたおかげで、世界的なアーティストたちも頻繁に訪れるようになった川口ですが、通年で活動している「第九を歌う会」もまた、当地の文化意識の向上を下支えしているに違いありません。……

 なんぼ30年前でも、ベートーヴェンの第九を知らない人がそんなに多かったとも思えませんが、文化意識がいまよりもずっと低かったであろうことは争えません。駅前の一等地に、まだ宏大な鉄工場が居坐っていた時代です。今後ともずっと鉄工場を同じ場所で誇りを持って続けてゆく、と豪語していたものでしたが、そののち土地の利用区分が変更され、住宅地としての利用が可能になると、あっという間にマンション業者に売り渡して撤退してしまいました。えらく安い誇りだったのだなと思わざるを得ません。

 ともあれ川口の第九を歌う会は、民間で結成されただけに運営側の意気込みが違い、演奏会終了後も解散することなく、翌年の演奏会へ向けて動き始めました。リリアのほうも、2回目か3回目くらいからは積極的に協力してくれるようになり、形としては「リリアで主催する年末の演奏会に『第九を歌う会』の出演を依頼する」ということになりました。毎年欠かさず続けてこられたのは、この形が確立したからでしょう。リリアからは「出演料」という名目で予算補助が下りるようになったわけです。主催事業なのでホールも優先的に押さえて貰え、自主団体である第九を歌う会にとっては、ずいぶん楽になったはずです。
 そのおかげということでもないかもしれませんが、1991年の第2回演奏会ののち、自主公演が隔年でおこなわれるようになりました。ひとつには年間通じて第九の練習ばかりしていては団員も飽きるので、他の曲目を練習することで目先を変えようという意図があったものと思われます。最初はグノー「聖セシリアのミサ」、それからモーツァルトのレクイエム、フォーレのレクイエム、ブラームスのドイツレクイエムと、かなりの大曲を次々こなすようになりました。モツレクとドツレクは何度もやっていますが、ヘンデル『メサイア』やらヴェルディのレクイエムやらといった難物にも挑戦しています。こちらの活動もなかなか活溌なので、いっそのこと「川口第九歌う会」と改名したらどうだ、などと私は何度も提言しています。
 改名の是非はともかく、この隔年の自主公演が活動にアクセントを加えて、30年も団体を長持ちさせたということは間違いないと思います。そして市民団体の自主公演としてこんな大曲の演奏を続けられているということが、他の市民の文化意識の向上に役立っているのも確かだと思っています。

 私は最初からではないにせよ、かなり初期から関わっており、歳月の流れの速さを感じざるを得ません。思えば初期から続いている講師陣、藤井あやと私のほか吉田秀文くんや新田恵さんなどは、この団体が旗揚げしたときの高橋先生の年齢をはるかに過ぎているわけで、私らがこんな規模の団体の旗揚げから面倒を見られるだろうかと考えると、いささか心許ない次第です。

 さて式典は、リリアホールの催し広場というスペースで5日の15時から開催されました。催し広場などというとなんだか単純にだだっ広い、美術展でもやりそうなスペースをイメージしますが、リリアの催し広場というのはむしろ近年の公民館のホールみたいな形態です。可動式の階段座席を備え、子供の発表会などに使えるタイプの大きな部屋なのでした。前半は階段座席を出した状態で来賓祝辞や祝賀演奏などをおこない、後半は座席を収納して大広間状にして立席パーティになりました。
 祝辞は現市長である奥ノ木信夫氏やリリア館長の小西さんなどからいただきました。奥ノ木市長は岡村前市長、永瀬前々市長などに較べると音楽への理解や情熱はいまひとつという感じではあるのですが、前の二代からの伝統がある以上、第九を歌う会と縁を切るというわけにもゆかないでしょう。
 それから会の歴史を記録した動画が流され、クイズコーナーがあったりしたのち、祝賀演奏の部となりました。これは例によって講師陣が頼まれています。藤井あやと酒井崇くんは欠席でしたが、あとの吉田くん、新田さん、中野由弥さん、それから練習ピアニストの遠藤美栄子さん、さとう美樹さんは出席することになっていたので、いちど打ち合わせ会をおこない、その後メールのやりとりなどがあってプログラムを決めたのでした。なおパーティの部では第九のカットヴァージョンをみんなで歌うという企画もあり、そのときにバリトン独唱が必要だし、講師演奏のアンサンブルの上でもバリトン歌手が欲しいというので、中野さんのご主人である金澤平さんに特別出演を頼みました。金澤さんはこの団体の演奏会にも、しばしばエキストラとして参加したことがあるので、まったく知らない場というわけでもありません。ただ数日前に、胃腸炎を伴う風邪をひいてしまい、ここ何日かポカリスエットしかおなかに入れていないという、なんとも気の毒な状態での出演でした。
 曲目は、歌は「椿姫」乾杯の歌「カルメン」ジプシーの歌闘牛士の歌「トゥーランドット」「星は光りぬ」、それに「アイーダ」凱旋の歌と、まあド定番というべきプログラムでした。それらの伴奏は、合わせの日程のこともあって私が全部やりましたが、少々練習不足の気配があって冷や汗ものでした。
 あと、遠藤さんとさとうさんのピアニストふたりは連弾で「ハンガリー舞曲」を弾きましたが、第5番のときには鍵盤ハーモニカやフットシンバルを用いた宴会芸的な演奏になっていて、娯しめました。ふたりには第九カットヴァージョンの伴奏(一昨年だか、岡村前市長の追悼演奏会のときに私が編曲した連弾版)もやって貰うつもりだったのですけれども、連絡の行き違いでふたりは準備しておらず、そもそも祝賀演奏が終わったら所用があってパーティには出席できないということだったので無理でした。結局そちらも私がひとりで弾かなければなりませんでした。まあ、第九のピアノはほとんど暗譜しているくらいだから差し支えはないものの、4手による豪華な響きが得られなかったのは残念です。
 第九を歌う会は、今後も、40年50年と続けば良いとは思いますけれども、講師陣などはそろそろ先のことを考えなければならない時期にさしかかっているかもしれません。高橋先生はすでに喜寿を過ぎました。この会の自主公演のときは毎回、新日本交響楽団という、某プロオーケストラと非常に紛らわしい名称のアマチュアオーケストラとの共演をおこなっており、それは高橋先生がそのオーケストラの指揮者でもあることからのつながりによるものです。合唱指導はまだしも、オーケストラの指揮となるとあと10年続けられるかどうかは微妙です。オーケストラをこののち誰に託すのかわかりませんが、吉田くんにでも託してくれない限り、高橋先生が引退したあとはやや間接的な関係になってしまうことは避けられないでしょう。そうなった場合でも毎回自主公演につきあって貰えるものかどうか、縁起でもないと言われそうですが、そういったことも確認しておく必要がありそうです。
 私もいつまでお付き合いできるかどうか。練習ピアニストなど、いつまでもロートルが頑張っていないで、若い人に譲ったほうが良いだろうと思うこともあり、まあ指が動くうちは続けても良いかなと思うこともあり、いろいろ心が揺れています。40周年くらいまではなんとかついてゆけるかな、などと考えています。

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