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幻の「帝都電鉄」 [いろいろ]

 ずいぶん前になりますが、帝都電鉄という幻の電鉄会社について触れたことがあります。
 実際には、これも前に採り上げた「関東電気鉄道」などとは違ってちゃんと設立登記されましたし、一部の路線は開通して現在も健在ですから、「幻の」と冠するのは失礼かもしれませんが、けっこう壮大な建設計画を持っていたのにごくわずかな部分しか実現することができず、設立されたとはいえその名前で営業できたのはごくわずかな期間、名前も最近まではなごりが残っていたのにそれもいまでは消えてしまった、という事情を考えると、どうしても「幻の電鉄会社」という形容をしたくなってしまいます。
 帝都電鉄は、東京山手急行電鉄渋谷急行電鉄という、ふたつの会社が合併したものです。と言っても、どちらも線路は敷いていません。これから敷く予定という段階で合併しました。最初は東京郊外鉄道と称したようです。その路線の主要部分が、当時はまだ東京市内に含まれていなかったのです。
 昭和7年に、東京市は周辺の町村を思いきった規模で合併し、それまでの15区体制が、一挙に35区となりました。これは現在の23区とほぼ同じ領域です。4年後に千歳村と砧村が世田谷区に編入されてのちの23区の領域が完成しました。この拡大された東京市のことを、当時は「大東京市」などと呼んだようです。また帝都という呼びかたがはやったのもこの頃からではないかと思います。フィクションの世界で、よく大正時代あたりを舞台としているのにやたらと東京のことを「帝都」と呼んでいるのがありますが、たぶん大正時代にはそんな言いかたはしなかったのではないでしょうか。
 東京郊外鉄道の計画路線も、この市域拡大により、ほぼ全線が市内に含まれることになり、それなら「郊外」でもあるまいということになったのか、流行の「帝都」を採り入れて「帝都電鉄」と名乗ることになったのでした。

 東京山手急行電鉄も渋谷急行電鉄も、設立はしたものの昭和恐慌に祟られ、たちまち資金難に直面せざるを得ませんでした。先立つものがなくては、とても鉄道建設などというビッグプロジェクトを進めることは覚束ないのです。
 そこへ、救世主が降臨しました。小田急の総帥、利光鶴松です。小田急は新宿小田原間の80キロ近い長距離路線を、突貫工事で一挙に開業したことで一躍注目を集めていた鉄道会社でした。鉄道会社はどこも資金繰りに苦労しており、ちびちびと開業しては、そこの営業利益でなんとか次期工事区間に手をつけるという形が一般的でしたので、80キロ一挙開業というのは驚異だったのです。
 それというのも、利光は鬼怒川水力電気という電力会社を経営しており、その頃の世の中の急激な電化を受けて、いわば有卦に入っていたのでした。その潤沢な資金で小田急の一挙開業を実現したのでした。
 まだロマンスカーはありませんが、ふたり掛けクロスシート、いわゆるロマンスシートを備えた電車という、当時としては劃期的な車輌を走らせ、「東京行進曲」に「いっそ小田急で逃げましょか」という歌詞が詠み込まれたほどでした。言うまでもなく、小田急の戦後の新型特急にロマンスカーの愛称がつけられたのは、ロマンスシートが戦前から小田急の代名詞みたいなものだったからです。
 その鉄道界の驍将・利光鶴松がバックについたことで、東京山手急行電鉄と渋谷急行電鉄は息を吹き返しました。両社を合併して東京郊外鉄道とし、さらに帝都電鉄としたのは利光の意向だったと思われます。
 まずは路線の短い、元の渋谷急行電鉄の予定路線が建設されました。渋谷から井の頭公園までが昭和8年中に敷かれ、さらに一区間を延ばして吉祥寺まで全通したのは翌9年のことでした。言うまでもなく、現在の井の頭線にあたります。当初は渋谷急行線と呼ばれました。
 帝都電鉄は引き続き、山手急行電鉄部分の建設に取り組みましたが、資金難、用地難などでらちがあかず、なかなか話が進まない中、昭和15年には免許が失効してしまいました。すでに戦雲がたちこめており、あらたな免許を求めて運動するどころではなくなっていました。鬼怒川水力電気が国策で取り上げられてしまったのも大ダメージでした。
 山手急行線(仮称)は、ついに1メートルも線路が敷かれることなく終わりました。
 帝都電鉄の唯一の路線であった渋谷急行線は、小田急と合併し(というより吸収され)、帝都線と名付けられました。利光としては、帝都電鉄の夢を、せめて名前だけでも残しておきたかったのかもしれません。
 その帝都線の名称も短命でした。昭和17年には、東京南西部エリアの私鉄がほとんど五島慶太率いる東京急行電鉄に吸収されたのです。現在の社名で言えば、東急の他、小田急、京王京急東京メトロが残らず一社にまとめられたと考えれば良いでしょう。五島には帝都電鉄に対する感傷などはこれっぽっちも無く、帝都線をあっさりと井の頭線に改名してしまうのでした。
 こういう事情から、戦後、各鉄道会社が東急の傘下から独立したとき、井の頭線は当然小田急の路線となるべきでした。
 ところが、傘下の鉄道のうち、京王は近代化が遅れ、路線も短く、グループ企業であった電力会社も失っており、単独ではとても運営が困難だということで、井の頭線を与えられることになったのでした。井の頭線は渋谷と吉祥寺を短距離で結んでいただけに、当時としてもなかなか営業成績が良かったと見えます。なお、小田急のほうはその見返りに、箱根登山鉄道神奈川中央バスなどを傘下におさめることを認められました。
 京王は井の頭線を自社に迎えるにあたり、かなり気を遣ったようです。帝都線の名を残し、京王帝都電鉄を名乗ったのもその一環でしょう。この社名から「帝都」がとれてシンプルに京王電鉄になったのは、なんと半世紀以上あとの平成10年1998年)のことでした。帝都線時代の従業員が生きているあいだは「帝都」を外すわけにはゆかなかったのかもしれません。
 京王線の線路幅が1372ミリという珍しい軌間であるのに井の頭線が普通の狭軌である1067ミリであること、井の頭線と小田急の連絡駅である下北沢に、つい去年までは乗り換え改札が無かったことなど、井の頭線がもとは小田急であったなごりはいろいろ残っていました。
 明大前駅の井の頭線のりばも、なごりのひとつです。この駅は、切り通しに設置された二面二線の相対式プラットフォームになっていますが、その切り通しが異様に広いのです。二面二線だけに用いるにはもったいないくらいに幅をとっています。京王線の線路が上を通っていますが、その線路を支える陸橋も、永福町側に見える水道橋も、井の頭線の線路の両外側に、もうひとつずつのスペースが空いています。
 現在は切り通しの幅を利用して、エスカレーターや構内店舗が設置されたりしていますが、実はこの駅は、本来は二面四線、隣の永福町と同じレイアウトになる予定でした。それはなぜかというと、幻に終わった山手急行線と、渋谷急行線であった井の頭線との、乗換駅になるはずだったからです。
 交差する形ではありますが、井の頭線は明大前の少し手前から、それまで東西方向に走っていたのが大きくカーブして南北方向に向きを変えます。それだから京王線と直行するわけですが、南北に走るはずだった山手急行線とは、このあたりで並走しますので、同一平面での乗り換えが可能なのでした。両線には渡り線も設けられ、相互直通も可能になる予定でした。

 さて、その山手急行線とはどんな路線になるはずだったのでしょうか。
 もともとは、国鉄山手線の少し外側を通る、東京の第二の環状線として計画されました。山手線が環状運転をはじめたのは大正14年ですので、そのわずか翌々年の昭和2年にはこの第二環状線計画が起ち上がっていたことに驚きを覚えます。
 建設免許は、品川区大井権現町から深川区西平井町までとなっていました。大井権現町はほぼ大井町駅と言って良いでしょう。深川区というのはいまは無く、西平井は江東区に属します。総武線平井駅があるので、その近くと考えれば良さそうです。
 完全な環状ではありませんが、東京の南側海岸近くから、西側と北側をぐるっと廻って、東側の海岸近くまで達する50キロ余りの大型路線です。
 私鉄研究の第一人者である和久田康雄氏の「私鉄史探訪60年」という本に、当時の計画図が収録されており、どういうルートを考えていたのかがわかります。ただし、駒込~西平井町の免許は早い時期に失効しており、この計画図では大井町~駒込が計画路線として記されています。とはいえ駒込から先も、他の未成線と共に書き込まれているので、在りし日の大計画を偲ぶことはできます。
 細かい駅までは記してありませんが、他の鉄道路線とどこで交差するか、その交差地点のあいだをどのようなルートで結ぶのかは見当がつきます。計画図を元に、幻の山手急行線のルートを辿ってみましょう。
 大井町を出発した山手急行線の電車は、東急大井町線の南側を走って、東急池上線雪が谷大塚(当時の雪ヶ谷)駅で交差します。計画図でははっきりしませんが、現在であればJR横須賀線西大井駅、都営浅草線馬込駅にも接続できそうです。当時の電鉄の駅間距離から考えると、馬込と雪ヶ谷のあいだに2駅くらい設置されたかもしれません。
 雪ヶ谷を出ると、次は東急の自由が丘駅に接続しています。あいだにひと駅くらい設置されたでしょうか。この間、東急目黒線奥沢駅近くも通っているようですが、奥沢では自由が丘との距離が近すぎて、山手急行線の駅は設けられなかったかもしれません。
 自由が丘からは、東急田園都市線駒沢大学駅、東急世田谷線松陰神社前電停、小田急の梅ヶ丘で交差しつつ、明大前に達します。自由が丘と駒沢大学のあいだに2駅、駒沢大学~松陰神社前と、松陰神社前~梅ヶ丘にそれぞれ1駅くらいずつ設置されたかもしれません。これが実現していたら、交通の便の悪い世田谷区役所にも行きやすくなっていたと思われます。
 明大前から中野に向かいますが、この間の詳細なルートを知りたい気がします。メトロ丸ノ内線方南町・中野富士見町そして新中野の近くを通りそうに思えるのですが、乗換駅というほどには近くないかもしれません。逆に先に山手急行線の駅ができていたら、丸ノ内線の駅はそれに近づけて作っていたのではないでしょうか。
 西武新宿線とは新井薬師前駅で接続。西武池袋線とは江古田駅で接続します。このあいだに都営大江戸線新江古田駅がありますが、これは接続駅というほど近くに駅ができていたかどうか不明です。少々江古田に近すぎるようでもあります。
 このあたりで東西方向に向きを変え、JR板橋駅の北側で交差します。現在の都営三田線新板橋駅のほうに近いでしょうか。東武東上線とはどのあたりで交差するのか判別しづらいようです。計画図では大山中板橋あたりのように見えます。だとするとメトロ有楽町・副都心線とは、千川小竹向原のあいだで交差する感じになり、接続駅は無さそうです。もちろん、山手急行線が存在していれば、メトロの駅も接続を図ったでしょうが。
 そのあと、たぶん滝野川一丁目電停のあたりで都電荒川線(当時は王子電軌と言った)と交差して駒込へ向かったのだと思います。
 駒込の先は、まず田端を通りますが、山手線よりもっと南側を通して、田端で直行するようにし、北千住へ向かうようになっていました。京成本線の北側を通る感じです。都電荒川線との再度のランデブーは、町屋二丁目電停のあたりだったでしょう。現在はその手前で日暮里・舎人ライナーとの交差もあります。赤土小学校前駅が案外と近いかもしれません。
 北千住からは、おおむね荒川(当時は荒川放水路)に並行するようにして平井に向かいます。既設路線との細かい位置関係はわかりづらいのですが、東武伊勢崎線(スカイツリーライン)の牛田・堀切・鐘ヶ淵京成押上線八広などがすぐ近くにありそうに見えます。このあたりの免許が早々と失効したのは、東武のテリトリーだったからかもしれません。実際、このあたりにそんなに鉄道の利用需要があったかどうか微妙です。平井附近ではほど近くに東武亀戸線も走っており、かなり密集していると言えます。
 非常に多くの路線と交差しており、開通していたらそれぞれの路線相互の行き来がとても楽だったでしょう。その後計画されたメトロセブンエイトライナーと違い、各路線のけっこう主要な駅に接続しているのも高得点です。西大井や馬込はともかくとして、雪が谷大塚は池上線の中では、両端のターミナルと旗の台に次ぐ主要駅と言えます。この駅で折り返し運転をする電車もあります。
 自由が丘は言うに及ばずで、東急の重要ジャンクションのひとつです。駒沢大学は現在ではあまり存在感がありませんが、玉電の時代は駒沢は重要電停のひとつでした。松陰神社前は地味ですが、上述のとおり世田谷区役所の最寄り駅になるので重宝したでしょう。
 梅ヶ丘は現在各停しか止まらない小駅ですが、山手急行線は小田急グループだったのですから、もし開通していれば下北沢と並ぶジャンクションとして整備されたでしょう。急行なども停まっていたかもしれません。
 明大前も3路線の集まる一大ジャンクションとなります。中野ももちろん主要駅です。西武系との交差地点は少々地味に思えますが、これらの駅が乗換駅になっていたとしたら、現在とはまた違った発展をしているかもしれません。新井薬師前も江古田も、準急くらいは停まっていたのではないでしょうか。
 北千住はすでに大ジャンクションですが、山手急行線があればさらにもう1線加わっていたわけです。

 鉄ちゃんとしては、こんな路線が開通していまも営業していたらなあ、と夢想せざるを得ないわけですが、まあ実現性を考えると、少々山手線に近すぎるかもしれないとも思えます。やはりメトロセブン、エイトライナーくらいには離れていたほうが使いやすそうでもあります。
 環状線の宿命として、長距離客はあまり望めません。品川から北千住へ行くならば、大井町に出て山手急行線を使うよりは、やはり国鉄(JR)を使うでしょう。短距離客をたくさん乗せるという、薄利多売式にしなければ環状線は経営が難しいのです。
 またスピードも大事です。ターミナル駅まで行ったほうが早いようでは意味がありません。電車のスピードもそうですが、乗り換えが楽であることも重要です。同グループである小田急は配慮することでしょうが、他の鉄道会社がそれほど山手急行線との乗り換えの便を考えてくれるかどうか、私鉄同士であるだけに微妙です。残念ながら私鉄同士というのは、あんまり接続相手に配慮した駅造りをしないように思えます。猪瀬直樹元知事が「バカの壁」と呼んで隔壁を撤去させるまで、メトロと都営地下鉄の乗り換えが異様に不便だった九段下駅が思い起こされます。
 一方、私鉄であるだけに、うまく行った場合はいろいろな経営展開ができて面白かったかもしれません。傘下の企業として帝都百貨店なんてのができて、渋谷・大井町・吉祥寺・自由が丘・中野・北千住あたりの沿線に店舗が建てられたかも、などと空想します。戦後は帝都という字面に引け目を感じて、カタカナでテイトデパートなどと改称したかも、といったところまで考えます。バス会社なども作っていたかもしれません。
 計画倒れに終わった鉄道路線などあまたありますが、山手急行線ならびに帝都電鉄は、東京のど真ん中に計画されていたという点、実現していたらという夢想がとりわけ色濃く感じられるのでした。

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