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受け継がれる名前 [いろいろ]

 日本の男性名には、もともと通称「名乗り」があることは何度か書きました。通称は藤吉郎とか吉之助とかいうヤツで、文字どおり日常的に呼ばれる名前です。「名乗り」のほうは諱(いみな=忌み名)とも言って滅多に用いられず、主に公式な文書などに記されるものです。人の「名乗り」を直接呼ぶのは、たとえ主君であっても非礼とされていました。いまの感覚で言えば、実印みたいなものと考えれば良いのかもしれません。ただし、歴史上の人物の名前として伝わるのはもっぱら「名乗り」のほうです。
 現在でも、子供のうちならともかく、いい大人が相手を名前呼びするのは、相当に遠慮の無い間柄でしかありえないでしょう。USAなどでは簡単に名前呼び(愛称呼びのことも)するというので、そちらのほうが進んでいるというか、

 ──「個人」がたかだかと自立している感じがする。(司馬遼太郎

 などと褒めたたえる向きもありますが、われわれからすると一種の「甘え」があるようにも思われます。要するにそれぞれの土地の習慣というだけであって、どちらが進んでいるの遅れているのという話ではないでしょう。明治以来、通称と名乗りというふたつの名前を持つことが無くなって、どちらかに寄せた名前をひとつに定めたわけですが、礼儀感覚としては名乗りの側に偏ったということだと思います。


 
 さて、そのようにあまり使われなかった名乗りですが、著名な家系では、代々の名乗りを辿ってみるとなかなか面白かったりします。
 名乗りは、松浦家のように基本的に漢字一字でつけられる場合もありますが、ほとんどは漢字二字名となっています。その種類ときたら、任意のふたつの漢字を組み合わせれば名前になってしまうとさえ思えるほどですが、それなりに由緒があるところだと、それなりに法則性が見られたりします。
 例えば徳川将軍家ですが、15代の将軍のうち、大半の名前に「家」の字がついています。ついていないのは2代秀忠、5代綱吉、8代吉宗、15代慶喜の4人だけです。このうち、吉宗と慶喜は、前の将軍(7代家継、14代家茂)とは血縁が薄く、いわば他家から入って将軍位を継いでいます(吉宗は紀州徳川家、慶喜は一橋家)。またすでにもとの名前で大名として、あるいは政治家として活躍していたために、やはり従兄の後を継いだ家茂のように改名することも無かったのだと思われます(家茂はもとは慶福という名乗りだったが、13歳で従兄である家定の後を継いで将軍となったときに改名した)。綱吉は前将軍4代家綱の弟でしたが、これも成人後であったために綱吉の名前のまま通したのでしょう。
 秀忠だけは異質な感じですが、実は将軍の名乗りに「家」をつけはじめたのは彼の息子の3代家光からだったようです。秀忠の名のうち「秀」は、彼が元服したときの上位権力者であった豊臣秀吉から「偏諱(へんき)として与えられたものです。偏諱を与える、貰う、というのは昔からの習慣で、主立った家系を見るとたいてい見出すことができます。
 秀忠の兄である結城秀康も、「秀」の一字を貰っています。また、弟の忠吉武田信吉は、「吉」のほうを貰いました。そのまた弟である忠輝からは、関ヶ原以降の元服になるので、親父の家康も誰かから偏諱を貰う必要は無くなったのです。
 彼らの長兄で若くして自刃した信康の「信」は、秀吉の前の上位者であった織田信長からの偏諱です。偏諱について調べると、そのときのその家系の存在する位置のようなものがなんとなくわかるので、私は前から気になっていました。
 さて、長男信康・次男秀康の「康」の字のほうは、親父の「家康」から受け継いだのは明らかです。このように、親から受け継がれる字を「通字」ということもあります。日本史上の主立った家系の名前は、「偏諱」と「通字」を組み合わせて作られていることが多いのでした。家光以降は、将軍家の通字が「家」になったということです。これは足利将軍家でも同様で、通字は「義」でした。足利家の場合は、初代の尊氏以外は全員「義」がついています。清和源氏頼義以降)がそもそも「義」を受け継いできた伝統によるものでしょう。
 それでは秀忠の「忠」はどこから来たのかと言うと、これはおそらく彼の祖父、つまり家康の父である松平広忠から受け継いだものでしょう。忠吉や忠輝も、兄から一字貰ったというよりも、祖父から貰ったと考えたほうが自然です。
 実は、家康以前の徳川家、というより松平家は、「康」と「忠」を交互につける習慣であったようにも思われます。広忠の父は清康で、そのまた父は信忠です。「康」はここまでで、それより前は「親」の字がよく使われていますが、「忠」は信忠の祖父の親忠までさかのぼれます。康の字は秀康で使ってしまったので、三男にはもうひとつの通字であった忠の字を与えたのでした。
 前にNHKの大河ドラマ「春日局」だったか「葵・徳川三代」だったか、家光の弟の駿河大納言忠長が、謀反を起こした本意を問われ、

 ──私も「家」の字が欲しかった……!

 と述懐するシーンがあったのを記憶していますが、そもそもこの時点では「家」を徳川家の通字にすることはまだ決まっていなかったはずです。そもそもそんな甘ったれたことを、いやしくも武将が言うとも思えません。
 家康自身は、もとは元康と名乗りました。元服当時の主君であった今川義元の偏諱を受けています。桶狭間の戦いで義元が戦死したあとで改名しますが、この改名は、もはや今川とは縁を切ったという宣言にもなっています。

 上杉謙信などは、何度も名前を変えています。最初は長尾景虎を名乗りました。身を寄せてきた関東管領上杉憲政から、管領職と上杉姓と「政」の偏諱を受け継ぎ、上杉政虎と改名しました。その後上洛し、13代将軍足利義輝に拝謁したところ、「輝」の偏諱を与えられたので、今度は上杉輝虎となりました。これが彼の最終的な名乗りであり、謙信というのは法号です。先に偏諱を与えた上杉憲政は、彼が輝虎と改名したとき、どう思ったことでしょうか。
 偏諱を与えるのは、臣下に対する親愛の情とか信頼の証とか、あるいは褒章とか、いろんな意味合いがあるのでしょうが、与えられた側は当然ながらかなりの額の礼金を献上しなければなりませんでした。それでも、将軍家の偏諱を受けるというのは、地方においてはなかなかの箔付けになったものと思われます。
 奥州の伊達家を見ると、やはり義輝将軍の偏諱を受けた輝宗という人が居り、有名な伊達政宗の父親です。政宗が謙信とか信長、あるいは秀吉などよりも完全に一世代下であることがよくわかります。
 輝宗の父は晴宗といいます。12代将軍義晴からの偏諱です。その前の稙宗は、10代将軍義稙からの偏諱。そのまた前の尚宗は、9代将軍義尚からの偏諱になります。代々しっかり、将軍家から偏諱をいただいているのがわかります。毎回、莫大な礼金を贈っていたに違いありません。通字のほうは「宗」で一貫しています。
 尚宗の前は、成宗持宗氏宗とさかのぼります。ここは将軍家ではなくなっています。逆に考えると、尚宗が元服する頃に、伊達家はようやく、京の将軍家とコンタクトできる家格になったと言うべきかもしれません。
 その前の名前はどうしていたのかと言うと、関東公方の偏諱を受けていたと思われます。関東・奥州の抑えとして鎌倉に置かれた関東公方(もともとはこれを関東管領と呼んだ)ですが、だんだんと京都の将軍家に対して独立の気勢を上げるようになり、言うことを聞かなくなりました。東西が直接武力紛争に及んだこともありますし、将軍家の内意を受けた執権(のち関東管領)の上杉氏などが関東公方と戦ったこともあります。とにかく京都からしてみると厄介な存在でした。伊達家の当主としても、関東公方の頭越しに将軍家と結びつくことは不可能で、当初は関東公方に従っていたものと思われます。
 初代の関東公方は尊氏の三男の基氏で、以後、氏満満兼持氏成氏と続きます。伊達氏宗は氏満から、持宗は持氏から、成宗は成氏からの偏諱を受けたのでしょう。持宗は4代将軍義持からとも考えられますが、父や息子の名乗りを考えれば、やはり関東公方足利持氏の偏諱であると考えたほうが妥当でしょう。持氏が義持から偏諱を貰い、それをまた伊達家の跡継ぎに下げ渡した形です。
 なお伊達氏宗の父は政宗といい、南北朝末期から室町初期にかけての人物で、伊達家中興の祖とたたえられます。輝宗の嫡男が元服を迎えたときにはすでに足利幕府は滅びており、かと言って他に従うべき上位者も居なかったので、輝宗は息子に、この中興の祖である政宗の名乗りをそのまま与えました。これが戦国大名のほうの伊達政宗です。
 政宗の長男は秀吉の偏諱を受けて秀宗という名乗りとなり、次男は徳川秀忠の偏諱を受けて忠宗となりました。秀吉の偏諱を受けた長男秀宗は、江戸幕府が確立してしまうとどうも具合の悪いことになり、庶子であったこともあって伊達宗家からは外され、四国の宇和島であらたに一家を興すことになりました。幕末に黒船が来たとき、ちょっと見ただけでその構造や原理を理解し、あっさりとコピー品を作ってしまった三つの藩のうちのひとつ、宇和島伊達家が彼の子孫です。

 中国地方の雄、毛利家は、元就以前は小規模な国人に過ぎなかったために、代々の名乗りを見てみるとまた別の面白さがあります。
 元就の祖父の豊元のとき、応仁の乱での処遇に不満を抱き、それまで属していた山名から大内に鞍替えします。それで、豊元自身は山名是豊の偏諱を貰っていましたが、息子には大内政弘から一字を貰い、弘元としました。弘元の長男が、元就の兄である興元ですが、彼は政弘の息子の義興から偏諱を貰っています。なお、大内氏自体は、政弘の応仁の乱での活躍が認められて、その息子の代から将軍家と同じ「義」を通字にする許可を受けたようです。
 興元は大酒呑みだったようで早死にし、その息子の幸松丸も元服前に幼くして死んでしまったので(元就による謀殺を疑う人も居る)、弟の元就が家督を継ぎました。元就は本来世継ぎではなかったために、大内氏からの偏諱は受けていません。毛利家の通字である「元」だけ貰っています。
 しかし元就の長男はすでに「毛利家の世継ぎ」ですので、大内義興の息子の義隆から偏諱を受け、隆元を名乗りました。のちに元就と死闘を繰り広げる陶晴賢はもとは陶隆房であり、従ってむしろ隆元と近い世代であったことがわかります。なお隆房の父は興房で、陶家も大内氏から偏諱を貰っているわけです。隆房が晴賢となったのは、大寧寺の変で大内義隆を攻め滅ぼし、義隆の甥の晴英を豊後から迎えて大内氏当主として擁立したときのことです。義隆との関係を断ち切り、新しい主君である晴英に誠心誠意仕えることをアピールしたわけです。
 隆元は早死にしましたが、彼の息子は無事に育ち、元服を迎えます。すでに大内氏は滅び、陶家も滅び、山陰の尼子家も滅びて、毛利家は全国でも有数の戦国大名となっています。それで、もはや地方の上位者にはばかることもありませんので、直接将軍家から偏諱を貰うことにしました。義輝将軍から貰った「輝」の一文字を通字と並べて、輝元となったわけです。
 その輝元にはなかなか嫡子が産まれず、ひとまず従弟を養子にして世継ぎとしました。このときは秀吉の天下でしたので、秀の字と毛利の通字「元」を組み合わせて秀元という名乗りになりました。しかしその後輝元に男児ができたので、こちらを世継ぎとしましたが、秀元という名乗りはすでに使われています。それで、戦国大名としての始祖である曽祖父元就のもう一字のほうを貰って、秀就となったのでした。
 毛利宗家の通字は、その後「吉」になったり「斉」になったりしましたが、明治以降はまた「元」に戻したようです。現当主は元栄(もとひで)氏です。

 こういう例に較べると、甲斐武田家などは簡単明瞭な感じです。通字は「信」で、信玄の父の信虎までは、たいてい「信」が先にあり、誰かの偏諱を貰った形跡はありません。偏諱というのは上位者から与えられるものですので、二字ある漢字のうち先に置かれるのが普通です。信虎の代になって、ようやく将軍家から偏諱を貰えるだけの家格と財力をたくわえたのでしょう、長男に12代将軍義晴の一字を拝領しました。将軍からの偏諱ですから、それを先につけ、そこに通字の「信」を添えて、晴信……というのが信玄の本名です。信虎が長男を嫌い、次男信繁に家督を継がせようとした、などともっともらしく書いてある本もいまだにありますが、巨額の献金をして将軍の偏諱を貰ってやった長男を、信虎がないがしろにしていたとはとても思えません。晴信の名は、むしろ信虎が大いに期待していた証ではないでしょうか。
 なお信玄の長男が偏諱を貰ったのは、13代将軍義輝からです。それなら輝信となりそうですが、上に書いた大内氏のケースでわかるとおり、貢献が大きいと認められた家の場合、将軍家の通字である「義」をつけることを許されるのでした。それで、長男の名乗りは義信となりました。(上杉)輝虎、(伊達)輝宗、(毛利)輝元などより頭ひとつ抜けた感じです。これはもちろん、信玄の代になって甲州で俄然産出量の増えた黄金のなせる業でしょう。残念ながら義信は、南の今川家との外交関係において信玄と意見が食い違い、幽閉されたのちに早死にしてしまいます(自殺説と病死説がある)。彼が長生きしていたら、弟の勝頼よりは家中のまとめがうまく行っていたのではないかと思いますが、それはまあ歴史のイフの世界になってしまいます。

 秀吉は、あちこちの大名家に偏諱を与えるのが好きだったようです。足利将軍家とは違い、必ずしも礼金を要求しなかったのではないかという気がするのですが、どうでしょうか。これまで見てきた徳川家、毛利家などのように、複数人に与えたりしていることもあります。宇喜多秀家織田秀信(信長の孫)、蒲生秀行なども偏諱を与えた例でしょう。まあ蒲生家の場合は「秀」がもともと通字であったようでもありますが、父の賦秀(のち氏郷)、祖父の賢秀のように、通字としての「秀」は2文字目につくのが普通であったのが、秀行だけは1文字目についているところを見ると、やはり秀吉がらみではないかと思われます。
 最下層から成り上がった秀吉としては、自分の偏諱を各家の子弟に与えられるということだけで、もう嬉しくて仕方がなかったのではないでしょうか。「秀」のついた若者が増えてゆくのを、わくわくしながら眺めていたに違いありません。もちろん自分の血族にもみんな「秀」つきの名を名乗らせました。豊臣家・羽柴家としては、「秀」を通字にしたつもりだったのでしょう。
 では秀吉自身の名乗りはどこから来たのかというと、これはあまり明確ではないようです。かつて願をかけた日吉神社にちなんで「日吉」にしようと考えたが、神社のご神体が猿なので、猿とあだ名されていた自分にとってはあんまりだと思い、ちょっとずらして秀吉にしたのだとか、織田家中で世話になった丹羽長秀から1字を貰ったのだとか、いろんな説があります。

 先日、ヴィブラフォン奏者の鍋島直昶(なおてる)氏の訃報を耳にして、もしかして戦国武将鍋島直茂の直系に近い子孫ではあるまいかと思い、調べてみるとそのとおりで、しばし感嘆してしまったということがありました。そんなことから、偏諱や通字という、「受け継がれる名前」について少し考えてみました。

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