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「カッチーニの」アヴェ・マリア [いろいろ]

 友人から「カッチーニの"アヴェ・マリア"」の編曲を頼まれて、それはすぐさま仕上げられたのですが、タイトルと作曲者クレジットをどうしようかと少し考えてしまいました。
 この曲はいろんなところで演奏されますし、確かテレビコマーシャルのBGMなんかでも使われていたように記憶します。せつなげなメロディーとコードで、シンプルな曲ながら人々に好まれています。
 ただ、この曲には根本的なところで大きな欺瞞があります。この曲はバロック初期の作曲家ジュリオ・カッチーニ(1556-1618)とはなんの関係もないのでした。ウラディーミル・ヴァヴィロフ(1925-1973)というロシアのギタリスト兼作曲家が作曲したものです。
 ヴァヴィロフという人は、なぜか自作を発表するときに、ルネサンス期やバロック期の作曲家の名を騙ることが多かったようです。
 こういうことをされると、過去の作曲家の真作・偽作の判定がややこしくなるので、やめて貰いたいものなのですが、古来、古人の名を騙って作品発表をするという性癖を持った人は少なからず存在しました。有名なところではヴァイオリニスト兼作曲家のクライスラーが居ます。
 クライスラーは大変多くの、よく知られたヴァイオリン曲を作っています。「愛の喜び」「愛の悲しみ」の2大ワルツなどは、ほかの楽器のために編曲などされて、人口に膾炙しています。そのほかにも「中国の太鼓」「美しきロスマリン」「コレッリの主題による変奏曲」「序奏とアレグロ」など、能力のあるヴァイオリニストが好んで取り組む作品がたくさんあります。
 しかし、彼はどういうわけだか、自分の名をクレジットすると共に、古人の名を騙った作品も多く作っています。上に挙げた「序奏とアレグロ」もブニャーニの名で発表されました。「プロヴァンスの朝の歌」などはクーブラン作曲ということにしています。マルティーニ作曲と称した「アンダンティーノ」というのもあります。
 現在ではいくつもの曲がクライスラーによる偽作であることがはっきりしているものの、どうしてこんな人騒がせなことをしたのかと訊かれて、クライスラーは悪びれもせずにこう答え、呵々大笑したそうです。
 「なに、作曲者がおれの名前になってると、ほかのヴァイオリン弾きが採り上げづらいんじゃないかと思ってな」
 メキシコマヌエル・ポンセなども、ほかの人の名前で自作を発表することが多かったと言われますが、ヴァヴィロフもこの流れに則ったのだと言えましょう。ただクライスラーよりさらにマイナーな人物を選んでいるため、彼の偽作であることがますますわかりにくくなっています。中には本当に民謡として受け容れられてしまったものすらあるそうです。

 ヴァヴィロフの偽作としては、フランチェスコ・ダ・ミラノ作曲と偽った「カンツォーナ“黄金の都市”」ミハイル・ヴイソツキー作曲とした「悲歌」ニコロ・ニグリーノ作曲とした「リチェルカーレ」などがありますが、わりに有名だったのはバラキレフ作曲と偽った「即興曲」でした。バラキレフといえばロシア五人組の代表とされた作曲家で、19世紀後半に活躍した人物です。これほど近い時代の作曲家まで偽作の餌食としているのは、いったいどういう考えによるものだったのでしょうか。
 問題の「カッチーニのアヴェ・マリア」については、実はヴァヴィロフは「作曲者不詳」ということで発表したそうなのですが、誰かがカッチーニ作と言い出し、それが定着してしまいました。ヴァヴィロフ本人は、訊かれても特に肯定も否定もせず、あいまいに笑っているだけだったのでしょう。
 いまに至るまで、この曲は常に「カッチーニ作曲『アヴェ・マリア』」として扱われており、CDのジャケットなどにもそうとしか書かれていません。楽譜も刊行されているものはすべて「カッチーニ作曲」となっており、わざわざカッチーニの生没年まで附記している本もあります。クライスラーの偽作群が、現在ではすべて「クライスラー作曲」とあらためられているのに、これはどうしたことでしょうか。クライスラーとヴァヴィロフの知名度の差なのかもしれません。
 私はこれを偽作だと知って以来、自分に関わりのある演奏会などでは、この曲がカッチーニ作曲でないことを力説し、正しく「ヴァヴィロフ作曲」とするべきだと主張しているのですが、これまたどういうわけだか、それを聞き入れてくれる歌い手やプロデューサーはほとんど居ないのでした。この曲が偽作であることには納得しつつ、作曲者名のクレジットについては、口を濁すかのように、
 「いや、まあ、いまから変えるのも面倒だし、カッチーニのままでいいよ」
 と言うのです。それどころか、トークでジュリオ・カッチーニの説明まではじめる人さえ居ました。
 やはり、ヴァヴィロフという作曲家が、ほとんど知られていないためではないかと思いたくなります。それと、この曲が「カッチーニ作曲」だという観念が世に行き渡りすぎて、いまさら「真相」を明かしても、奇をてらっているかのように思えてしまうのかもしれません。
 私も面倒くさくなって「カッチーニ作曲」にしてしまおうかと思うこともあるのですが、ひとたび「真相」を知ってしまった身として、それは真実に対して、また音楽に対して、誠実ではないのではないか、という懸念がぬぐえません。
 思えば、この曲をはじめて聴き、そしてカッチーニ作と聞いたときから、私はなんとなく違和感を覚えていました。
 最初から最後まで「Ave Maria」としか歌わない「アヴェ・マリア」が、カッチーニの時代にあり得たか。典礼文どおりに「Ave Maria, gratia plena……」と歌い継いでゆくのが普通にして当然だったのではあるまいか。
 バロック初期の音楽にしては、セブンスの連続したコードが凝りすぎてはいないか。特に長七の和音(メジャー・セブンス)をあんなにあからさまに出すことは、当時としては避けられていたのではないか。
 そんな疑問がもとからあったので、私は偽作と知って大いに納得したわけです。なお、ヴァヴィロフという人は、名を借りた古人の作風や様式に似せて作るということは特にしなかったとのことです。
 結局、友人に渡す譜面では、タイトルを「カッチーニのアヴェ・マリア」とし、作曲者名を「ウラディーミル・ヴァヴィロフ」と書くことにしました。それを演奏の場でどう用いるかは相手に任せることにしたわけです。

 偽作というのは、このように意識的になされることもありますが、後世の人たちの勘違いによって結果的に偽作になる、という場合もあります。
 好例としては、何度か書いたことがありますが、バッハメヌエットが挙げられます。
 初級者向けの曲集『アンナ・マグダレーナのためのクラヴィーア小品集』の2番目に載っているかわいらしいメヌエットで、ピアノを習っている人ならいちどは弾いたことがあるでしょう。ポップス音楽「ラヴァーズ・コンチェルト」ほか、この曲を原曲としているアレンジ作品もいくつもあります。
 この作品が、バッハではなく、ペツォルトというマイナーな作曲家の作品だったと知ったときは驚きました。
 実は、『アンナ・マグダレーナのためのクラヴィーア小品集』は、J.S.バッハの作品集というわけではありません。フリードマンエマーヌエルなど、息子たちの作ったものも一緒にまとめられています。またクープランの作品なども載っています。要するにバッハは、後妻アンナ・マグダレーナの練習のために、さまざまな曲を集めた「音楽帳」を編纂したのであって、自分の作品集を妻に与えたわけではなかったのでした。バッハ自身の作品でも、フランス組曲ゴールトベルク変奏曲などほかの作品から引用したものが含まれています。
 家族外の作品としてたとえばクープランの作品を採り入れ、同じ文脈上でペツォルトの作品も採り入れたということだったようです。
 このト長調メヌエットの次に載っており、よく組み合わせて演奏されることのあるト短調メヌエットも、やはりペツォルトの作品だったようです。
 ピアノの発表会などでこの曲を用いる場合は、プログラムなどには私は「ペツォルト作曲『バッハのメヌエット』」と記載することにしています。しかし、いまでも「バッハ作曲『メヌエット』」としているケースが多いのではないでしょうか。これも、ペツォルト作曲という事実を知らないというよりも、バッハ作曲という観念が強すぎて、

 ──バッハの作曲じゃないらしいけど、でも、バッハ作としてずっと知られてきたんだから、ねえ……

 というわけで変えていないということが少なくないのではあるまいかと思うのです。
 この「偽作」は、ペツォルトがバッハの名を騙ったというのではなく、『アンナ・マグダレーナのためのクラヴィーア小曲集』が、「バッハの作品集」だと勘違いした後世の人々が悪かったわけです。

 ちょっとしたプログラムの記載くらいなら良いのですが、楽譜出版社などがあえて「誤り」を正さないのはけしからんことだと思います。
 この前も書きましたが、「ソナチネ・アルバム」第2巻に収められている「ハイドンのセレナード」がその例です。この曲は長いこと、ハイドン作曲の弦楽四重奏曲だと信じられてきましたが、近年になって、ホフシュテッターというハイドン好きのアマチュア作曲家(本業は坊さん)の作品であったことが判明しました。ハイドンの大ファンで、ハイドンっぽい曲をいくつも書いていたそうです。
 「ソナチネ・アルバム」は日本の出版社がペータース社からライセンスを受けて刊行しているものなので、勝手に版を変えることはできないのかもしれませんが、しかし偽作であることが確定したのであればそこは書き換えるべきでしょう。本家のペータース社の動きが遅いようなら、せめて訂正の紙片くらい挟んでおいても良さそうなものです。放置しているのは、ある意味犯罪的と言っても良いと私は思うのです。

 どうも世の中の人は、「盗作」にはなかなか厳しいのですが、「偽作」に関してはわりとルーズな気がします。真相を知りながら、

 ──いや、でも、いまから変えるのも面倒だし……

 と誤情報を放置するなど、「盗作」の場合にはあり得ないことでしょう。
 クライスラーが全然悪びれなかったというのも、別に悪いことをしたとは思っていなかったからです。ちょっとした「シャレ」で済む、あるいは済ましてきたのが「偽作」の世界であるらしいのです。
 「盗作」は、他人の作品を自分の作品と偽ることです。「偽作」は、自分の作品を他人の作品と偽ることです。こう並べてみると、どちらも同じくらいけしからんことであるように思えます。少なくとも、美術における「贋作」と同じくらいにはとがめられるべき事柄なのではないでしょうか。
 まあこの場合、意識的であるかどうかによって罪の重さも変わってくるのは確かです。ペツォルトやホフシュテッターは、別に本人がバッハやハイドンの作品を騙ったわけではないでしょう。逆に、ペツォルトのメヌエットはバッハが編纂本に採り入れたからこそ後世に知られたとも言えます。ホフシュテッターにしても、あの「セレナード」が「ハイドン作曲」とされていなかったら、よく有線放送でかかるようなポピュラーな曲になっていたかどうか。
 見かたを変えると、意識的な偽作というのは、やはり一種の「盗み」ではないかという気がしてきます。何を盗んでいるのか。それは、名前を使われた古人の「ネームバリュー」です。古人のネームバリューに便乗して自作の曲を弘めようというのですから、かなりけしからんことです。そのためヴァヴィロフも、名前を借りるのはかなりマイナーな人にしていたようです(クライスラーはけっこうビッグネームを借りていましたが)。それだけに、バラキレフなどという、相当に時代の近い、メジャーな作曲家まで餌食にしていたのが意外だったのでした。
 そして意識的にしろ無意識的にしろ、偽作であることが確定しているのに記載事項などを放置しているのは、言ってみれば盗みを幇助しているようなものではあるまいかと思う次第です。

 やや趣きは異なりますが、作曲者不明というのもありました。「おもちゃの交響曲」などがその例で、私の子供のころはこれもハイドン作曲とされていました。いろんな玩具を用いた楽しいオーケストラの様子が、いかにもハイドンが書きそうだと思われたのでしょう。また確かに、曲の様式としてもハイドンに近いものがあります。
 その後、ハイドンではなくレオポルド・モーツァルトヴォルフガングの親父)作曲ではないか、とも言われました。そうなっている本もあるはずです。ヴォルフガング本人、あるいはハイドンの弟のミヒャエルこそ真の作曲者だという説が唱えられたこともありました。
 さらに研究が進められ、結局「おもちゃの交響曲」の作曲者は、エトムント・アンゲラーという人だと判明しました。ホフシュテッター同様、この人も本職は坊さんだったようです。ただしアマチュアではなく、聖歌隊の指導やオルガン演奏で活躍し、教会でおこなう音楽劇などもたくさん書いたとのこと。
 ピアノ連弾用に編曲した本なども出ていたと思いますが、これは最近はちゃんとアンゲラー作曲と書かれているのでしょうか。
 ともあれ、自分が作曲した作品にはちゃんと自分の名前をクレジットして責任を負うべきですし、作曲者としての栄誉が別人に与えられることがあってはならない、と私は考えています。

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