「沼」を考える [いろいろ]
前に、「私の好きな地形」として、「岬」を挙げたことがありましたが、「沼」というのもそこはかとなく好きです。
水たまりにはいろいろ呼称があって、湖、沼、池、潟湖(せきこ)、沢(たく)、谷地(やち)などさまざまです。大きさとか深さとか植生とかで分類するようですが、必ずしも名称と合っていない場合もあるようです。
湖というのは、中央部にまではエビモやフサモといった沈水植物が生えていない水たまりを指すそうで、一般には5メートル以上の深さがあるとされています。
沼はこれより浅く、中央部まで沈水植物が生えているものを指すとされます。
沢とか谷地は、深さが1メートルかそこらで、ヨシやガマなどの抽水植物が一面に生えているようなのを呼ぶようです。また潟湖は、海岸にあって一部海とつながっているようなものを指すそうです。ラグーンという呼びかたのほうが現在ではポピュラーかもしれません。
池というのは小型の水たまりを言いますが、特に人工的に作られたものを指すことが多いようです。
しかし、実際の地名と照らし合わせてみると、例外はいくらでも発見されるのでした。
水たまりにはいろいろ呼称があって、湖、沼、池、潟湖(せきこ)、沢(たく)、谷地(やち)などさまざまです。大きさとか深さとか植生とかで分類するようですが、必ずしも名称と合っていない場合もあるようです。
湖というのは、中央部にまではエビモやフサモといった沈水植物が生えていない水たまりを指すそうで、一般には5メートル以上の深さがあるとされています。
沼はこれより浅く、中央部まで沈水植物が生えているものを指すとされます。
沢とか谷地は、深さが1メートルかそこらで、ヨシやガマなどの抽水植物が一面に生えているようなのを呼ぶようです。また潟湖は、海岸にあって一部海とつながっているようなものを指すそうです。ラグーンという呼びかたのほうが現在ではポピュラーかもしれません。
池というのは小型の水たまりを言いますが、特に人工的に作られたものを指すことが多いようです。
しかし、実際の地名と照らし合わせてみると、例外はいくらでも発見されるのでした。
人工的な水たまりを池という、と書きましたが、現在ではダム湖というのがあって、これももちろん人工的に作られています。そして、広さにかかわらず普通は池とは呼ばれず、たいていは湖の名前が与えられています。ダム湖はその性質上、相当な水深を持つことが多いからでしょうか。
香川県にある満濃池などは確かに人工的な水たまりであって(空海が設計したと伝えられる)、池の定義には合っていますが、最大水深は30メートルを超えます。周囲20キロに及び、湖と呼んでも良さそうですが、あくまで「溜池」とされています。
北海道の大沼はかなり広く、車窓から眺めても湖というイメージを与えられます。深さも12メートルくらいあり、定義上は沼というよりやはり湖でしょう。アイヌ語の地名であった「ポロ・ト(大きな水たまり)」を訳すにあたって、大湖と大沼の二案が示され、語呂の感じからして大沼が選ばれたという次第であったとのこと。
そうした具合で、実際の名前は、けっこうその場の雰囲気でつけられるものであるようです。あるいは、古来からそう呼ばれているので近代的な学術分類とは一致しない、というケースも多いでしょう。
香川県にある満濃池などは確かに人工的な水たまりであって(空海が設計したと伝えられる)、池の定義には合っていますが、最大水深は30メートルを超えます。周囲20キロに及び、湖と呼んでも良さそうですが、あくまで「溜池」とされています。
北海道の大沼はかなり広く、車窓から眺めても湖というイメージを与えられます。深さも12メートルくらいあり、定義上は沼というよりやはり湖でしょう。アイヌ語の地名であった「ポロ・ト(大きな水たまり)」を訳すにあたって、大湖と大沼の二案が示され、語呂の感じからして大沼が選ばれたという次第であったとのこと。
そうした具合で、実際の名前は、けっこうその場の雰囲気でつけられるものであるようです。あるいは、古来からそう呼ばれているので近代的な学術分類とは一致しない、というケースも多いでしょう。
さて、それらのさまざまな水たまりの中で、「沼」というと、一種独特の雰囲気をまとっているように思えます。
「底無し沼」と言うことはあっても、「底無し湖」とは言いません。「底無し池」というのも言葉として聞いたことがありません。上記の水深による分類からすると不思議な気がしますが、「底無し沼」という場合は、底までの水深というよりも、底そのものが深い泥になっていて、落ちたらどこまでも沈んでゆくというイメージがあるように思えます。
そして、周囲が森林や草原に覆われているような印象もあります。あまり開発されていないイメージです。千葉県の印旛沼や手賀沼など、かなり都会に近い場所にあり、近隣人口も多いのですが、沼それ自体はやっぱり静かな自然に囲まれている感じが残っています。なおこのふたつの沼は最大水深がせいぜい1~2メートルしかなく、その意味では「沼」の定義に合っています。人口密集地に近く、これだけ浅いため、水質はきわめて悪いようですが、「湖」がきれいな水がたたえられていることを求められるのに対し、「沼」にはどこか、淀んであぶくが立っているような不透明な水でも許されるような印象もあるのでした。
もちろん、福島県の五色沼のように、神秘的なまでに美しい色合いを見せてくれる沼もあります。裏磐梯のこのあたりは、大小の湖沼群が無数にあるところですが、檜原湖など湖の名を与えられている水たまりは、五色沼に較べるとやはり明るい感じがします。
「底無し沼」と言うことはあっても、「底無し湖」とは言いません。「底無し池」というのも言葉として聞いたことがありません。上記の水深による分類からすると不思議な気がしますが、「底無し沼」という場合は、底までの水深というよりも、底そのものが深い泥になっていて、落ちたらどこまでも沈んでゆくというイメージがあるように思えます。
そして、周囲が森林や草原に覆われているような印象もあります。あまり開発されていないイメージです。千葉県の印旛沼や手賀沼など、かなり都会に近い場所にあり、近隣人口も多いのですが、沼それ自体はやっぱり静かな自然に囲まれている感じが残っています。なおこのふたつの沼は最大水深がせいぜい1~2メートルしかなく、その意味では「沼」の定義に合っています。人口密集地に近く、これだけ浅いため、水質はきわめて悪いようですが、「湖」がきれいな水がたたえられていることを求められるのに対し、「沼」にはどこか、淀んであぶくが立っているような不透明な水でも許されるような印象もあるのでした。
もちろん、福島県の五色沼のように、神秘的なまでに美しい色合いを見せてくれる沼もあります。裏磐梯のこのあたりは、大小の湖沼群が無数にあるところですが、檜原湖など湖の名を与えられている水たまりは、五色沼に較べるとやはり明るい感じがします。
「ヌシ」などが居そうなのも沼のほうです。まあ湖でも、八郎潟の八郎さま、田沢湖の辰子姫など、れっきとしたヌシが居るところもいくつもありますが、芦ノ湖や浜名湖のヌシというのはあまり聞いたことがありません。あとは諏訪湖のミシャグジさまくらいでしょうか。
沼の場合は、そんなビッグネームでなく、特に名前は無くともそれなりに巨大な魚とか蛇とかが、ヌシとして鎮座している……少なくとも鎮座していてもおかしくはないような雰囲気がある気がします。そんなにすごい神通力とかは持っていなさそうですが、ちょっとした天気の操作とか、ごく軽い祟りくらいのことができれば上乗でしょう。
ヌシになりそうな魚というと、まあナマズといったところでしょうか。日本最大の淡水魚で、かつて2メートルくらいの巨大な個体が確認されたことのあるイトウなど確かにヌシの風格がありますが、ただ寒冷地の清流にしか棲むことができないので、沼のヌシとしてはあまりピンときません。魚ではありませんがオオサンショウウオなんかもヌシっぽい感じがありますね。イワナやヤマメではいまひとつ迫力がない気もします。
沼の場合は、そんなビッグネームでなく、特に名前は無くともそれなりに巨大な魚とか蛇とかが、ヌシとして鎮座している……少なくとも鎮座していてもおかしくはないような雰囲気がある気がします。そんなにすごい神通力とかは持っていなさそうですが、ちょっとした天気の操作とか、ごく軽い祟りくらいのことができれば上乗でしょう。
ヌシになりそうな魚というと、まあナマズといったところでしょうか。日本最大の淡水魚で、かつて2メートルくらいの巨大な個体が確認されたことのあるイトウなど確かにヌシの風格がありますが、ただ寒冷地の清流にしか棲むことができないので、沼のヌシとしてはあまりピンときません。魚ではありませんがオオサンショウウオなんかもヌシっぽい感じがありますね。イワナやヤマメではいまひとつ迫力がない気もします。
「沼」というものにそんな思い入れを感じていたのですが、この前川越で見た伊佐沼にはびっくりしました。
何しろ、完全に市街地の中にある「沼」なのです。舗装道路で囲まれ、きれいな四角形に区画されており、調整池と言われたほうがしっくりくるような水たまりでした。こんな「沼」があるものか、とさえ思いました。
しかし、それはもともと沼があった周りに道路や家が建ち並び、市街地化してしまっただけのことであって、伊佐沼そのものはやはり自然の沼なのでした。むしろ埋め立てられたりせずに沼のままとどめられたことに感嘆すべきなのかもしれません。
それというのも、ここには「古代蓮」の群生地があり、その希少価値と学術的貴重さによって、埋め立てを免れたのです。市街地の中にこんな広大な、しかも沼の名にふさわしくごく浅い水たまりがあれば、普通だったら埋められるか干上がらせられるかして、住宅地や商業地などになってしまうところでしょう。伊佐沼は、古代蓮のおかげで、四角く区画されながらも生きながらえることができたのでした。
そもそも古代蓮などという、悠久の時を感じさせるような神秘的なアイテムが残っていたということ自体、伊佐沼がいかに市街地の中にあろうとも、やはり「沼」の名に恥じない存在であったと言えそうです。
印旛沼や手賀沼に「神秘」を感じるのは難しいかもしれませんが、やはり「沼」は、広さがどうだ深さがどうだという以前に、ヌシとか特別なアイテムとか、そういう「神秘的な何物か」に関連していて貰いたい、という気持ちが私にはあるのでした。
何しろ、完全に市街地の中にある「沼」なのです。舗装道路で囲まれ、きれいな四角形に区画されており、調整池と言われたほうがしっくりくるような水たまりでした。こんな「沼」があるものか、とさえ思いました。
しかし、それはもともと沼があった周りに道路や家が建ち並び、市街地化してしまっただけのことであって、伊佐沼そのものはやはり自然の沼なのでした。むしろ埋め立てられたりせずに沼のままとどめられたことに感嘆すべきなのかもしれません。
それというのも、ここには「古代蓮」の群生地があり、その希少価値と学術的貴重さによって、埋め立てを免れたのです。市街地の中にこんな広大な、しかも沼の名にふさわしくごく浅い水たまりがあれば、普通だったら埋められるか干上がらせられるかして、住宅地や商業地などになってしまうところでしょう。伊佐沼は、古代蓮のおかげで、四角く区画されながらも生きながらえることができたのでした。
そもそも古代蓮などという、悠久の時を感じさせるような神秘的なアイテムが残っていたということ自体、伊佐沼がいかに市街地の中にあろうとも、やはり「沼」の名に恥じない存在であったと言えそうです。
印旛沼や手賀沼に「神秘」を感じるのは難しいかもしれませんが、やはり「沼」は、広さがどうだ深さがどうだという以前に、ヌシとか特別なアイテムとか、そういう「神秘的な何物か」に関連していて貰いたい、という気持ちが私にはあるのでした。
Wikipediaで「日本の湖沼一覧」というページを見ると、地方別にいろんな湖沼が載っていますが、それを見ていてふと気づきました。
西日本には「沼」が無いのです。
九州、中国、四国、近畿、そして中部地方に至るまで、「沼」というのがひとつもリストアップされていません。「沼」があるのは、関東、東北、北海道に限られています。
西日本に、沼に相当する地形が無いということも考えられません。どうも西日本では、東日本・北日本で「沼」と呼んでいるような水たまりを呼ぶときには、「池」と言うようです。あるいはかなり小さなものでも「湖」にしてしまうのかもしれません。
「沼」という概念が、もともと西日本には無かったのでしょう。確かに「ヌマ」という発音そのものが、あまり上方では出てこないような響きであるようにも思えます。そうだとすると「沼」というのが単に地形的な観念ではなく、いわば民俗的な意味合いを持つ言葉だという可能性も見えてきます。私が「沼」に神秘性のようなものを覚えてしまうのも、これがもしかしたら、原初の日本人、おそらく西から来た新しい日本人に駆逐されてしまった古代日本人の残した言葉であったためかもしれないのです。
冒頭に「谷地」という言葉を出しましたが、そういえば「谷」という字を、西日本では「たに」と訓読みし、東日本では「や」もしくは「やつ」と訓読みします。「や」という読みかたでは世田谷、阿佐ヶ谷、鎌ヶ谷などおびただしい地名が残っていますし、「やつ」では鎌倉の扇ヶ谷とか亀ヶ谷とかがあります。船橋にある「谷津」ももとは単に「谷」だったのだと思います。
この「や」あるいは「○○ヶ谷」と書いて「○○がや」「○○がやつ」と読む地名が、西日本にはまったく見られません。義経の逆落としの鹿ヶ谷はあくまで「ししがたに」であり、「しかがや」とか「ししがやつ」ではありません。谷を「や」「やつ」と読むのは東日本独特であって、してみると水たまりの一種としての「谷地」も東日本だけの概念なのでしょう。
一方、「潟」とつく水たまりは北陸地方がほとんどです。「新潟」をはじめとして、新潟県には鳥屋野潟や福島潟、富山県に十二町潟、石川県に柴山潟や河北潟などなど。まあこのあたりは山が海岸線近くまで迫ってきていて、大きな水たまりといえば海岸近くにしか作られず、従って分類上の潟湖に相当するものばかりだったという事情がありそうですが、それにしても「潟」のつく地名がほかの地方にはほとんど無いことを考えると、「かた」というのが古来のコシの国で水たまりを指す言葉だったのではあるまいか、などと想像が拡がったりもします。秋田県の「象潟(きさかた)」はどうでしょうか。
沢は、「さわ」と読むと「沢歩き」という言葉に連なるように、いまでは山間部の、川の上流の水量の減ったあたりをイメージする人が多いでしょうが、中国の古代の書物などに出てくる「たく」は、かなり広い湖水を意味するようです。宮城谷昌光氏の小説によく出てくるのですが、最初のうちは日本語の「さわ」をイメージしてしまって、そこで大規模な水戦がおこなわれたりするという記述がどうにもつかめなかったものです。
いろんな呼称を、近代の学問では無理矢理にあてはめて分類していますが、実はそれぞれが、地域や歴史に根差した、けっこう偏在する「言葉」つまり概念であったことが窺えます。この文章には特に結論はありませんが、調べはじめると面白いことというのは、まだ世の中にはたくさんあるのだと思えてきます。
西日本には「沼」が無いのです。
九州、中国、四国、近畿、そして中部地方に至るまで、「沼」というのがひとつもリストアップされていません。「沼」があるのは、関東、東北、北海道に限られています。
西日本に、沼に相当する地形が無いということも考えられません。どうも西日本では、東日本・北日本で「沼」と呼んでいるような水たまりを呼ぶときには、「池」と言うようです。あるいはかなり小さなものでも「湖」にしてしまうのかもしれません。
「沼」という概念が、もともと西日本には無かったのでしょう。確かに「ヌマ」という発音そのものが、あまり上方では出てこないような響きであるようにも思えます。そうだとすると「沼」というのが単に地形的な観念ではなく、いわば民俗的な意味合いを持つ言葉だという可能性も見えてきます。私が「沼」に神秘性のようなものを覚えてしまうのも、これがもしかしたら、原初の日本人、おそらく西から来た新しい日本人に駆逐されてしまった古代日本人の残した言葉であったためかもしれないのです。
冒頭に「谷地」という言葉を出しましたが、そういえば「谷」という字を、西日本では「たに」と訓読みし、東日本では「や」もしくは「やつ」と訓読みします。「や」という読みかたでは世田谷、阿佐ヶ谷、鎌ヶ谷などおびただしい地名が残っていますし、「やつ」では鎌倉の扇ヶ谷とか亀ヶ谷とかがあります。船橋にある「谷津」ももとは単に「谷」だったのだと思います。
この「や」あるいは「○○ヶ谷」と書いて「○○がや」「○○がやつ」と読む地名が、西日本にはまったく見られません。義経の逆落としの鹿ヶ谷はあくまで「ししがたに」であり、「しかがや」とか「ししがやつ」ではありません。谷を「や」「やつ」と読むのは東日本独特であって、してみると水たまりの一種としての「谷地」も東日本だけの概念なのでしょう。
一方、「潟」とつく水たまりは北陸地方がほとんどです。「新潟」をはじめとして、新潟県には鳥屋野潟や福島潟、富山県に十二町潟、石川県に柴山潟や河北潟などなど。まあこのあたりは山が海岸線近くまで迫ってきていて、大きな水たまりといえば海岸近くにしか作られず、従って分類上の潟湖に相当するものばかりだったという事情がありそうですが、それにしても「潟」のつく地名がほかの地方にはほとんど無いことを考えると、「かた」というのが古来のコシの国で水たまりを指す言葉だったのではあるまいか、などと想像が拡がったりもします。秋田県の「象潟(きさかた)」はどうでしょうか。
沢は、「さわ」と読むと「沢歩き」という言葉に連なるように、いまでは山間部の、川の上流の水量の減ったあたりをイメージする人が多いでしょうが、中国の古代の書物などに出てくる「たく」は、かなり広い湖水を意味するようです。宮城谷昌光氏の小説によく出てくるのですが、最初のうちは日本語の「さわ」をイメージしてしまって、そこで大規模な水戦がおこなわれたりするという記述がどうにもつかめなかったものです。
いろんな呼称を、近代の学問では無理矢理にあてはめて分類していますが、実はそれぞれが、地域や歴史に根差した、けっこう偏在する「言葉」つまり概念であったことが窺えます。この文章には特に結論はありませんが、調べはじめると面白いことというのは、まだ世の中にはたくさんあるのだと思えてきます。
2022-10-23 23:10
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