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札幌・弘前公演行(1)震災の爪痕 [旅日記]

 先週の金曜日(11月11日)から今日(16日)まで、仕事で札幌弘前に行っていました。5泊6日という、かなり長い出張です。確かロシアを旅行したときも5泊6日でした。独身時代に遊びで旅行へ行っていた頃にはもっと長い行程もありましたが、マダムを残してこれだけ長い日程で留守にするのははじめてのことだと思います。
 札幌も弘前も、北のほうの街ですし、同じブログラムを場所を変えて2公演、と思われそうですが、そうではありません。札幌の仕事と弘前の仕事はまったく別件です。
 先に札幌の仕事が決まっていました。詳しい内容はここで語り出すと長くなるので、あとで書くことにしますが、何度か足を運んだことのある小樽商科大学グリークラブOB会の関係です。そこが11月13日(日)に札幌で演奏会を開催し、私はその演奏会に参加することになったのでした。
 日曜に札幌で用事があるということは、いままで祖母の法事などで何回かあり、その場合はよく土曜のピアノ教室の仕事を終えてから、晩の飛行機で飛ぶという行程を採ることが多かったのです。しかし、今回は前日(12日)におこなわれるリハーサルにも出て貰いたいということでした。
 午前中からやっているリハーサルに出るとなると、朝相当早い飛行機に乗らなければなりません。それもやったことはありますが、私としては気が進まないことでした。
 それで、前日に出てしまおうと思い立ちました。金曜は晩にChorus STの練習がありますが、クール・アルエットがコロナ禍で解散して以来、仕事は入っていません。その気になれば朝からでも出かけられます。朝早い飛行機はごめんこうむりたいのですが、朝早い列車、なるべくなら新幹線でない列車に乗るのであればそんなにイヤではありません。われながら現金です。
 それで、「ひたち」に乗ってゆくことにしました。常磐線回りなど、ずいぶん長いことやっていません。常磐線といえば東日本大震災でかなりの被害を受け、さらに福島第一原発の事故で長らく不通が続いていた路線です。震災以降、いちどもそのあたりを通ったことが無かったので、この機会に様子を見てみたいと思ったのでした。
 仙台まではそれで良いとして、その先を新幹線を使わずに鉄道で旅しようと思うと、鈍行列車を乗り継いでゆくしか方法がありません。それは望むところではあるのですが、新幹線に乗らないとまともに北海道に渡ることができず、しかも夜行列車が1本も無くなって、どこかで宿泊を余儀なくされるという状態です。
 どうしようかと時刻表の索引地図をためつすがめつしていたところ、ひらめきました。青函連絡船こそ無くなりましたが、八戸から苫小牧にフェリーが出ています。夜行便もありますし、個室寝台もついています。これだ、と思いました。船賃は、B寝台までであれば、なんと八戸~苫小牧の鉄道の普通運賃よりも安いのでした。これに乗ればゆっくり寝られる上に、苫小牧には朝の6時に着き、そこから札幌に移動すればリハーサルに楽々間に合います。
 そんなわけで、一風変わった北海道行きの旅をすることになりました。
 演奏会が終わったあとはどうしようか、と考えていましたが、そこへ15日(火)に弘前でおこなわれる演奏会に出演して貰えないかというオファーが飛び込んできたのです。こちらは、7月に島根に行ったときと同じプログラムでした。この企画で平日のコンサートというのは珍しいのですが、私としては偶然の神が微笑んでくれたようなものです。13日の小樽グリーの演奏会を終えたあと、翌14日に札幌から弘前へ移動すれば、ひと続きの旅でふたつの仕事をこなしてこられることになります。しかも弘前からの帰りの交通費は事務所払いで、私が払う必要がありません。さらに、当初は弘前へは前乗り(前日に移動して宿泊)という話だったので、宿代すら浮かせられることになりそうでした。
 その後、前乗りはやめになったようで、残念ながら弘前での1泊めの宿代は自腹になりましたが、それでもずいぶんと節約できたと思います。
 しかし、そろそろ前置きが長くなり過ぎました。細かいことはあとで書くことにして、旅立つことにしましょう。

 11月11日(金)の朝、8時00分上野発の「ひたち3号」に乗り込みます。「ひたち」は一日に十何往復も出ていますが、仙台まで行き来するのはわずかに3往復しかありません。「ひたち3号」を逃すと、次は5時間後の「ひたち13号」になってしまいます。
 上野発の特急に乗るというと、ついテンションが上がりますが、昔のように下の頭端式プラットフォームから発車するわけではなく、上野が始発ですらありません。品川から走ってきます。それでもやはりワクワクします。
 「ひたち」は全車指定席です。「ときわ」と共に朝夕などにホームライナー的な役割を果たさせなければならず、そのためには着席保証が必要なのでした。私は特急といえども自由席にばかり乗ってきた人間なのですが、ここへ来て全車指定の特急が増えてきています。昔はそれがあたりまえではあったのですが。
 なお特急券は、乗ってから買うこともできるようになっています。中距離電車のグリーン車と同じく、車内で買うと少し高くなるようです。そして、そのグリーン車と同じく、座席の上方に赤や緑のランプがついていて、赤いところはそこの特急券を持った客が居る座席という意味でした。だから特急券無しで乗った客は、緑ランプのついた座席に坐らなければなりません。で、緑ランプの座席に坐った客を見かけると、車掌が特急券を発行するという仕掛けでした。中距離電車のグリーン車と違うのは、黄色いランプというのもあるところで、これは次の停車駅で特急券を持った客が乗ってくるというサインでした。特急券を持たずに乗った客は、坐っていた座席が黄色ランプになったらそこをどけ、ということです。
 上野を出て、次のに停まるまでは、黄色ランプのついた座席がずいぶんありました。柏からの乗客が多かったわけです。それ以降は、黄色が点灯するにしてもごくわずかという感じでした。
 朝の、北上する特急ですから、右の窓から陽光がさんさんと差し込みます。たいていの客はブラインドを下ろしていましたが、もちろん私は開けっ放しで、飽くことなく車窓を眺めていました。
 水戸勝田で半数以上の客は下ります。ここまでなら「ときわ」でも良いわけで、わざわざ仙台行きに乗らなくても良さそうですが、その先の街との輸送需要など大したこともないわけなのでしょう。
 勝田から先に乗るのは久しぶりです。ひたちなか海浜鉄道にマダムと2回も乗りに来たことがあるので、その起点駅の勝田までは乗っているのですが、その先となると、たぶんまだ日立電鉄が残っていたころに乗りに来て、終点の鮎川からバスで日立に出てJRで帰った記憶がありますので、どんなに遅くとも2005年以前、つまり独身時代ということになります。日立以遠となるとさらに前、おそらく2002年の初夏に乗って以来です。20年ぶりということになりますね。
 しかもそのときは、仙台から上り列車に乗ってきたのでした。上野から乗った下り常磐線列車でそのあたりを通ったのは、まだ「ゆうづる」「みちのく」が残っていた時代ではないかと思います。はるけき昔という感じで、車窓の記憶などほとんどありません。たとえば日立に着くより手前で海が見えたことなど、まるで憶えていませんでした。

 茨城県最後の駅・大津港を通過し、いよいよ福島県に入ります。このあたり、海の見える風光明媚な車窓です。福島県最初の駅である勿来(なこそ)は、古来からの関所にちなむ地名で、ここからは蝦夷(えみし)の住まう蛮地ということだったのでしょう。「な来そ」というのは「来るな」という意味の古語です。「な~そ」という係り結びの用法を憶えるのにちょうど良い地名なのでした。
 いわきを過ぎると、乗客もごく少なくなります。大半の座席の上には緑色のランプが点灯しています。
 いわき市というと、私の中学・高校くらいのころは日本最大の面積を持つ市として知られていました。を中心に、あたりの街が合併した結果やたらと広くなったので、駅名もそのころは平でした。当時の第2位が札幌市、第3位が静岡市でした。平成の大合併の結果、高山市日光市などむちゃくちゃ広い市がいくつもでき、いわき市の順位はだいぶ下がったのではないかと思います。
 Jヴィレッジなどという、聞き慣れない駅を通過します。サッカーのナショナルトレーニングセンターなのだそうですが、原発事故のときに復興の拠点として利用されたと言います。ついにかつての被災地に足を踏み入れたのでした。
 富岡駅の周囲を見たときには、思わず胸を衝かれました。この駅は、富岡町の中心駅であり、以前から特急も停車するわりに大きな駅だったのですが、津波で駅舎を持ってゆかれ、100メートルほど北に移設されました。西側はそれなりに施設もできていますが、東側は、海岸までの500メートルほど、見はるかす荒れ地となっていました。津波の爪痕が、10年以上を経たいまでもまだまざまざと残っているようです。ここらに再び家や商店が建ち並ぶときは来るのだろうか、と寂莫たる気分に襲われました。
 大野・双葉・浪江と3駅連続停車します。いちおう町の中心駅とはいえ、どれも特急が停まるほどの駅ではなかったのですが、このあたりの運転本数がまだ少ないための措置でしょう。大野も双葉も、単線の片面駅となっています。かつては上り線の線路があったのであろうスペースが、舗装道路としてずっと単線に並行しているのが寂しさを際立たせます。またこのあたりのトンネルは複線用でなく、単線用のものが並んで掘られている場合が多いのですが、使われなくなった上り線トンネルを見ると、なんともむなしい気分にかられます。常磐線には、意外にももともと単線という区間がけっこうあったのですが、複線であったところが単線になっているのは、御殿場線などもそうですが悲哀を感じさせる光景です。
 車窓を見ていても、かつては家があったのだろうなあ、というスペースがいくつも眼につきます。新しく建て替えられた家ももちろん多いのですが、歯抜けになっている様子がやりきれない気がしました。
 小高という小駅を通過します。実はこのところChorus STでよく歌っていた「群青」という合唱曲が、この地にちなむ曲なのでした。原発事故の影響で離散せざるを得なくなったここの中学校の卒業生が持ち寄った「ことば」を、その学校の先生が再構成して曲をつけ、それを聴く機会のあった信長貴富くんが合唱曲に編曲したのでした。Chorus STにとっては愛唱曲のようになっており、それだけに小高という地名には思い入れを感じていました。当の中学校がどこあたりにあるのかはわかりませんでした。
 私はこの曲の「あたりまえが 幸せと知った」という歌詞のところが大好きで、歌うたびにそのあたりで涙ぐみそうになります。あのころ、まさにそのことを思い知らされる日々ではなかったでしょうか。

 原ノ町・相馬を過ぎると、さすがに原発事故の影響はそれほどでもなくなりますが、津波の被害はむしろその先のほうが大きく、駒ヶ嶺から原吉田までの20キロほどは、線路そのものをかなり内陸側に付け替えてあります。だから駅もみんな新設で、まだピカピカしているようでした。
 海岸は遠くなりましたが、その遠い海岸までの一面、さえぎるものが何も無いのが、心に寒い風が吹くかのようでした。そしてその、海岸から遠いはずの沿線にも、壊れたままのガードレールが見えたりします。津波の破壊力がどれほど大きく、どれほど遠いところまでふるわれたものか、ぞっとするようでした。
 亘理あたりから、ようやく「日常」が戻ってきた気がしました。
 むろん、高速で走り抜ける特急の車窓から眺めただけで以上のような感想を抱くのが、いい気なものだという自覚はあるのですが、それでもこのルートを選んで良かったと思います。
 12時29分、仙台着。

 朝、お通じが無くて、ちょっと便意を覚えたため、トイレに入ってみたら、5室ほどもある大便用が全部ふさがっていたので唖然としました。ほかのトイレにも入ってみましたがやはり満室。急を要するというほどではなかったので諦めましたが、仙台駅はトイレが使えなかった駅ということで私の記憶に結びついてしまったかもしれません。
 仙石線の乗り場に行きます。東北本線の駅の下を横切る形の地下駅となっています。
 12時49分、高城町行きの各停電車に乗りました。
 一路北を目指すのであれば、仙石線に乗るのはちょっと寄り道っぽい気配があります。しかし、仙石線もまた津波の被害の大きかった路線で、海に面していた東名(とうな)駅など、駅舎ばかりでなく、線路もプラットフォームも信号機も、駅すべての設備がまるごと津波に持ってゆかれてしまいました。そのあたりが、どのように復興されているのかも、ぜひ見てみたかったのです。震災の2ヶ月半ほど前に乗ったことがあるので、常磐線よりもさらに思い入れがありました。
 もうひとつ、仙石東北ラインに乗ってみたいというもくろみもありました。
 仙石線は昔から近郊電車型の路線で、快速電車なども頻繁に走っていました。それが津波で寸断され、快速を走らせる余裕などなくなってしまいました。ある程度路線が復旧しても、なかなか難しいというので、松島海岸以遠の比較的遠距離の客の便宜のため、仙台からしばらく東北本線を走り、塩釜の先で仙石線に移るという列車を走らせることにしたのでした。仙石線はもともと宮城電気鉄道という私鉄だったこともあり、東北本線とほとんど並んで線路が敷かれているところがあって、そこに渡り線が設けられていました。その渡り線を活用して運転される列車群を仙石東北ラインと呼ぶことになったわけです。東北本線内は基本的に各駅に停車し(通過する便もある)、塩釜の先で渡り線を通って仙石線に入ると快速運転となります。
 この仙石東北ラインが、仙石線が復興したのちも運転され続けて、仙石線快速として機能しています。そのため、渡り線より仙台寄りには、快速は走らなくなり、あおば通~高城町間は各駅停車だけの運転となりました。
 そんなわけで、私は高城町まで仙石線の各停電車で行きました。45分ほどかかります。多賀城あたりまではいかにも近郊電車の趣きですが、本塩釜を過ぎたあたりからは観光路線の雰囲気になります。海岸沿いのところもまだ多く、津波のときは大丈夫だったのだろうかと心配になります。
 高城町は特に大きな街でも駅でもなく、住宅地の中の平凡で簡易な駅でした。たまたま渡り線に近かったから結節点になっただけで、本来はただの途中駅なのです。

 ここで反対向きの快速に乗れば、仙石東北ラインに乗ったことになりますが、津波の被害が大きかったのはむしろその先です。また、反対向きの快速というのは50分ほど待たないと来ないようでした。
 それで、7分後に到着した下りの快速で、矢本まで行きました。そこまで行けば10分ほどで反対向きの快速がやってきます。さらに先の停車駅である陸前赤井まで行けば、上りと下りの快速の発車時刻が同一になっていて、おそらくそこですれ違うのだと思われましたが、あまりに余裕の無い折り返しもいかがなものかと思って、矢本で折り返すことにしたのでした。矢本はかつてマダムが幼少のころに住んでいたところで、震災の直前にふたりで訪ねたことがあります。
 快速は思ったより速く、車窓を見ていても様子がよくわかりませんでした。それで、矢本の駅ではプラットフォームの端っこに移動し、最前方に立って見てみることにしました。
 やがて入ってきた上り快速を見て、私は屋根にパンタグラフがないことに気がつきました。そういえば、列車前面にハイブリッドカーと書いてあります。さらに根本的に、時刻表に書かれていた仙石東北ラインの列車番号には、すべてディーゼルカーを表す「D」の添え字がついています。私は旅程表を作るときに、必ず列車名や列車番号を明記することにしているので、この「D」も自分で写したはずなのに、変だとは思わなかったのでした。自分の注意力の散漫さがイヤになります。
 そう、仙石東北ラインは、ディーゼルエンジンの出力でモーターを廻す、ハイブリッドカーだったのでした。前に小海線で見たばかりで、その後あまり話を聞きませんでしたが、この仙石東北ラインに大々的に投入されていたのです。
 なぜ電車でなくてハイブリッドカーを用いているのかは、渡り線を通るときに判明しました。つまり、渡り線の上には架線が無く、電車が走れない仕様になっていたのです。わずかな距離ですが、JRはここに電化工事を施すよりは、電気の要らない列車を走らせることにしたのでした。
 動力源がディーゼルエンジンですから、カテゴリーとしてはあくまでディーゼルカーなのですが、走行音などは電車そのものですし、スピード感も電車のものでした。上に書いたように、車窓からは速すぎて様子がよくわからなかったほどです。
 折り返しで最前方の窓を立ち見して、ようやく線路の状態がよくわかりました。かつて海岸すれすれにあった東名駅は、海など全然見えない内陸側に移設されていました。もとの線路とどの辺から分かれたのか、まるで見当がつきません。とにかく、再度津波に襲われても、駅や線路が流されないようにはなっているようでした。車内からの眺望は失われましたが、やむを得ないことだと思います。

 高城町を再び出て、渡り線を渡って、さらにしばらく走って、塩釜駅に着きました。目的は果たしたので、ここで仙石東北ラインを下り、東北本線の下り線に乗り換えます。
 18分あったので、ここでようやくトイレへ。仙台駅で行きそびれてから、高城町で乗り換え、矢本で折り返しましたが、前者は7分、後者も10分しか無くて、落ち着かなかったのでした。すでに3時間近く経過して、便意もだいぶ高まってきました。
 塩釜駅のトイレに駆け込むと、大便用は2室あり、片方は和式、片方は洋式でした。洋式に入りたかったのですが、なんと清掃中。どうもそうすぐには終わらなさそうです。仕方なく和式に入りました。和式トイレにしゃがんだのなんか、いつ以来だろうかと思います。もう10年以上和式でしていないのではありますまいか。
 ひとつには私が人並みより図体が大きく、お尻を拭きにくいという事情もあります。相撲部屋で、新入りが兄弟子のお尻を拭かされるなんて話があるくらいで、肥っていると本当にお尻まで手が届かないのでした。私もいままでいちばん肥っていた頃にその経験があり、それ以来苦手意識があったのでした。
 幸い塩釜駅の和式便所には、太い掴み棒が設置されていて、それで体重を支えつつ、若干腰を浮かせ気味にすると、わりと楽にお尻が拭けたので安心しました。とはいえ、最近はウォシュレットに馴れているため、紙で拭いただけではなんだか落ち着きません。
 尾籠な話で締めて恐縮ですが、この項、続きます。もちろんトイレの話ではなく、旅の話です。

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