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札幌・弘前公演行(3)百周年演奏会 [旅日記]

 小樽商科大学グリークラブOB会に私が関わりはじめたのは、15年ばかり前からであったと記憶します。小樽商大の卒業生ですから、たいていは北海道に在住しているのですが、東京近辺に出てきた人も多く、演奏会を開催するに際して、東京組は東京組で練習して、前日リハーサルで北海道組に合流するという形ができたのでした。
 たまたま川口第九を歌う会の運営役員のひとりが、その東京OB会の世話役を兼ねていて、自分たちだけで練習することに限界を感じていたのか、第九を歌う会の指導陣のひとりであった私に、指導を頼んできたのです。何人も居る指導陣の中から私に白羽の矢を立てたのは、ピアノを弾きながら指導ができる人間であったことが大きなポイントでしょうが、私が札幌生まれであること、その世話役の現住所が私と同じ町内で、ほとんど隣と言って良いマンションであったことなども手伝っていたかもしれません。
 それで最初に指導したのが、たぶん創部90周年記念OB演奏会のためだったのだと思います。周年演奏会はそれまでも開かれていましたが、「OB」と入ったのはそれがはじめてだったようで、東京組が独自に練習して合流するというのもそのときが最初だったのでしょう。何十年も歌っていない、というような人がたくさん居ました。パートバランスも悪く、なるほどこれは自主練習だけでは大変だろう、と思ったのでした。

 2008年に開かれた創部90周年演奏会には、私は行きませんでした。それでお役御免になったかと思っていたら、2年ほどしてまた声がかかりました。こんどは2011年に開催される大学創立100周年の記念演奏会のための指導を頼みますというのでした。ずいぶんしょっちゅうやるんだな、と思いましたが、前のはグリークラブの周年演奏会、こんどは大学自体の100周年です。
 このときは私は聴きに行きました。会計にも少し余裕が出たか、交通費も出してくれたのです。
 それでしばらくは無いかと思っていたところ、2015年創部95周年の演奏会をやるのでまたよろしく、と言われました。なんだか勢いづいてしまったようです。このときは、東京組だけでひとつステージを持つことになって、それを指揮するために私も行ったのでした。夏休み中だということもあり、また私の結婚10周年でもあったので、マダムも同行し、洞爺湖野辺地馬門温泉などにも立ち寄って、けっこう長い旅行をしました。
 そして2020年には、創部100周年の演奏会が企画されました。100周年の節目ということで、松下耕氏に新曲委嘱がおこなわれました。これがなかなか大変だったのです。
 2020年の演奏会は、お察しのことと思いますがコロナ禍で流れ、開催は翌2021年となりました。松下先生、それで気が緩んだか、なかなか作曲が進まず、その年の暮れになってようやく1曲目が出来てきました。続いてもう1曲来ましたが、そこからまたしばらくあいだが空いて、全5曲が揃ったのは翌年4月のことでした。
 耕さんの曲はChorus STでも何曲も歌っていますが、初期の『子猫物語』などはともかく、最近はシンプルでわかりやすく、かつ力強さを感じるような曲が多かったように思います。Chorus STの前の演奏会で歌った「To Live」「出発」なども、音をとるのは決して難しくありませんでした。
 しかし、仕上がってきた曲を見ると、耕先生なに書いてんですか、と言いたくなるような難物でした。無調とまでは言いませんが調性が不確定で、響きのイメージを把握するのがまず大変。男声4パートのすべてがdivisi(パート分割)しておりこれまた音とりが大変。各パートの音域が広すぎて、本当にこんな音が歌えるのかと眼を疑うところも多々ありました。端的に言えば、とんでもない難曲であったのです。
 私も指導していて、時おり絶望感に襲われるほどでした。何度練習しても、歌えるようになってきたという実感がまるでつかめないのです。電子ピアノで音をたたいているときはなんとかついて歌っていますが、そのリードが無くなったり、あるいは4パート一緒に歌わせたりすると、ほとんど声が出なくなるのでした。
 半年ばかりで仕上げることが可能なのだろうかと思いましたが、幸い……と言ってはいけませんが2021年もコロナ禍おさまらず、演奏会の開催はさらに1年繰り延べになりました。もっとも、緊急事態宣言で練習のほうもしばらくお休みになったのですから、安心できる事態ではありません。
 去年の最後の2ヶ月くらいになって、ようやく本格的に練習がはじまりました。とはいえ、しばらくは月に2回程度のペースで、いちど練習しても、次にはレベルが戻っているというようなことが続きました。
 何しろ東京組はパートバランスが悪く、トップテノールなどはひとりしか居ないことが多いのです。そのひとりも自信満々で歌えるようなトップではないのでした。しかしトップがしっかり歌っていないとほかのパートも萎縮した感じになります。仕方がないので、私がトップを歌いつつ合わせる、という状況が普通になってしまいました。私はもともとトップテノールではなく、混声合唱でテノールがdivisiしていればたいてい下のパートを担当する、つまりセカンドテノール系です。1曲の中で3度も高いシの音が出てくるようなこんな曲のトップを歌えるとも思えなかったのですが、人間やればできるもので、だんだんと馴れてきました。
 しかし問題はトップだけではありません。セカンドテノールも人数は少なく、divisiすることが多いパートで、上のパートなどはやはりずっとひとりだけでした。バリトンはいちばん人数が居ましたが、divisiした場合には下パートはしっかりしているのですが、上パートはやはり自信なさそうな声になってしまいます。バスは日本人には困難なほどに低いところが多くて、そういう低音というのはピッチが決まりづらく、これまた苦労します。
 テノール系はせめて倍の人数が居ればと思わずには居られませんでしたし、バス系は自信をもって歌える人がもう数人居ればと熱望せざるを得ませんでした。
 やっとメンバーの危機感というか、熱が高まってきたのは、9月くらいからであったと思います。作曲者の松下耕さんが、札幌に赴いて、北海道組の練習に立ち会い、いろいろ語ったようで、そのときの動画を観て思うところがあったのでしょう。もっとも、耕さんも作曲からしばらくあいだが空いて、忘れていることが多いみたいなことを言っていたようです。
 バランスの悪い東京組も、本番が近づくと練習ペースも上がり、近くにちゃんと歌える仲間さえ居ればそこそこ自信をもって歌える、というところまでは持ってゆくことができました。トップテノールもひとり増えましたが、それにしてもやはり不安があるので、今回は私自身がトップテノールとして合唱に参加することになったのです。
 さて、演目はこの新曲だけではなく、ほかにも木下牧子さんの『愛する歌』とか、愛唱曲ステージなんてのもあります。新曲に傾注するエネルギー配分がどうしても多くなって、これらのステージの練習はおろそかになりやすかったのですが、新曲の練習を切り上げてこちらに移ると、メンバーも私も、たとえようもなくホッとしたものでした。
 私は当初、新曲の助っ人だけすれば良いということだったのですけれども、だんだんなし崩しに、全ステージ参加することになってしまいました。そうなると、プログラム外で歌う校歌とか逍遥歌なんかが、私は全然知らないので、かえって心配になったりしました。

 11月12日(土)の朝、札幌のクリスチャンセンターというところでリハーサルがおこなわれました。前日、たっぷりと時間をかけて北上した私も、そこに参加しました。クリスチャンセンターは確か前回の95周年のときもリハーサルで使っていたと思います。
 総勢60人ほど、下は30代から上は80代の兄さん、おっさん、爺さんがたが集結すると、さすがに濃いものがありました。最近北海道のコロナ感染者は東京都よりも多くなっていて、明らかに「密」な状態でちょっと心配です。東京組は全体の約5分の1というところでした。
 本番の並びかたはもう決定しているようで、リハーサルのときの椅子もそのとおりに並べられていました。私はほぼ端っこのほうです。
 指揮者はふたり居て、『愛する歌』と、愛唱曲のうちポピュラーソング系を振るのが佐野衛さん、新曲と、愛唱曲のうち多田武彦作品を振るのが田中修身さんです。いずれも学生指揮者上がりで、本職の合唱指揮者というわけではありません。小樽商大グリーは伝統的に、常任指揮者を置かない方針であるようです。あのややこしい新曲をよくまとめ上げたものです。
 リハーサルをはじめると、トップテノールには非常に強力なメンバーが居ることに気がつきました。わりに若い人で、声量も抜群なら、音程もきわめて正確です。あとで知ったのですが、この人は小樽商大のOBではなくて、賛助出演者として頼まれたのであったようです。つまり私と似たような立場ですね。
 この人が居るのならば私はそう頑張りすぎなくても良いな、と思い、とにかく楽な発声を心掛けました。またトップがdivisiしているところでは下のパートにまわって支えることにしました。実は私はほぼいつも最上声部を歌うようにしており、下パートにまわったのはぶっつけ本番に近かったのですが、特に問題はありませんでした。

 リハーサルは昼食をはさんで17時近くまで続けられました。前日にこんなに歌い続けて、皆さん明日大丈夫、と言いたくなりますが、男声合唱というのはかなりの程度ノリで動いてしまうところがあります。
 解散後、宿へ向かいました。宿は本番の会場である教育文化会館に近いところに取りましたが、クリスチャンセンターからは少々遠かったので、スーツケースをひきずったまま歩くのはけっこう疲れました。
 チェックインしてひとまず一憩してから、身軽になって外へ出かけました。夕食をとるのと、あと札幌の土産を買ったりできるのがこの日しか無かったからです。本番の日は夜までレセプションがあったりして暇が無いし、その次の日は朝早く出発してしまいます。
 入院中の母から希望された品物と、マダムが欲しがった品物と、あと数箇所を意識して買い求めましたが、1箇所では済まず、いろいろ歩き回ってしまいました。駅や空港の土産物屋なら全部揃いそうなのですが、街中に出てしまうとかえってショップがまとまっておらず、あちこち探し歩くことになるようです。
 いろいろ買ったらやたらとかさばったので、たまらず地下街の雑貨屋でエコバッグを買い求めました。適当に手に取ったものでしたが、マチが深くてかなり収納力が高く、このあとの旅で役に立ちました。
 それから「クリシュナ」にカレーを食べに入りました。オホーツク海をイメージしたという、青いソースにチキンが白く浮いた、あんまり食欲をそそられないカレーをご存じのかたも多いと思いますが、あのカレーを開発したシェフが札幌に開いた店です。前にマダムと来て、レインボーカレーという、その青いカレーも含む7色のカレーのセットを食べたことがあり、もういちど行ってみたいと思っていたのでした。
 地下の目立たないところにあるせいか、客は私ひとりです。早速レインボーを、と言いかけましたが、ひとりでは7色は頼めないそうで、7色のうち3色を選ぶように言われました。残念。黄色(ホタテ)、緑(ほうれん草とイカ)、藍色(オホーツク)を選んで食べました。

 宿では朝食を頼んでいないので、帰り道にどこかのコンビニなどで朝食になるものを買ってゆこうと思っていました。大通りの地下街をいちばん西側まで歩いて地上へ出ると、そこにあったのがセイコーマート。北海道地生えのコンビニで、品揃えなどマダムも私も気に入っていました。しばらく前までうちの近く(と言っても自転車で10分ほど)にあったのですが、残念ながら撤退してしまいました。セイコーマートに行き合ったのならここで買うしかありません。実際のところ、セブンイレブンやローソンで買うよりも満足度が高かったと思います。
 宿に帰って、入浴して、翌日のこともあるので早く寝ることにします。このところ外泊するときは温泉とか大浴場とかがついているところが多く、宿の部屋のユニットバスに入るのは久しぶりです。入る前につい掛け湯をしたくなるので困ります。

 11月13日(日)、天気予報によるとあまり天気は芳しくないようです。開演は15時ですが、そのころがいちばん雨がひどくなりそうでした。客足に響くのではないかと思いますが、まあこの手の、出演者の人間関係でお客を呼ぶタイプの演奏会では、それほど影響がないかもしれません。また前日に、北海道新聞で大きく扱われたそうで、関係者一同大いに心を強くしたようです。道内では、道新(北海道新聞)の威光はいまでも強力なものがあるのでした。
 セイコーマートで調達した朝食を食べ、最初から舞台衣装に着替えた状態で、コートを羽織って会場へ向かいます。できるだけ荷物を減らしたかったのでした。教育文化会館は、地図上ではかなり近い気がしたのですが、実際歩いてみると500メートルくらいはあった気がします。
 私は、最長老というべき「昭和30年代卒」のかたがたと共に、舞台からいちばん近い楽屋に割り振られていました。私が生まれるより前に大学を出ているのだから人生の大先輩です。いちばん早いのは昭和31年卒で、かれこれ米寿を迎えられているはずです。プログラムを見ると昭和30年代卒の出演者は6人ほど居られたようですが、ひとりはご不調のため不参加、あと3人は自分のパートの楽屋に行っていたようで、残りふたりと私の3人だけで部屋を広々と使っていました。
 前日と同様、10時から声出しがはじまり、続いてホールに移って練習をおこないました。曲を返したりすることはありませんでしたが、それでもひととおりフルで歌います。ホールの響きは悪くありません。
 昼食をはさんで、開場30分前まで練習が続けられました。実際にはもう少し早めに終わりましたが、日程表の枠ではそうなっており、こんなにギリギリまで歌っていて大丈夫だろうかと思ったものです。ただ私自身に関しては、のどがほとんど疲れていないので意外でした。東京組を指導しながら歌っていて、うまいこと力を抜きながら歌うコツが身についていたのでしょう。
 15時、横殴りの雨が吹きつける中、小樽商科大学グリークラブ創部100周年記念OB合唱団が開演しました。2年延期されたので、今年は実は102周年です。

 第1ステージが木下牧子『愛する歌』で、それに先立って逍遥歌が歌われます。えらく難しい歌詞が並ぶので、当然戦前の歌かと思ったら、昭和30年代に作られた歌だというので驚きます。

 琅玕(ろうかん)融(と)くる緑丘(りょっきゅう)の 春曙(あけぼの)を彷徨(さまよ)えば

 と、のっけから辞書が必要になるような言葉が飛び出します。作詞者は当時の札幌地方検察庁小樽支部長だったとか。琅玕という言葉は私も知りませんでしたので調べてみると、最高級のヒスイのことだそうです。最高級のヒスイを融かしたように美しい緑の丘、ということですね。なお大学のある場所を緑ヶ丘と言い、大学の同窓会を緑丘会と称しています。東京組の練習は、サンシャイン60の上のほうの階にある「緑丘会館」というところでやっていました。
 『愛する歌』は有名な「さびしいカシの木」が含まれる曲集で、合唱曲としてよりも、むしろ歌曲集として知られています。やなせたかし氏の詩画集をテキストにしています。ピアノ伴奏つきということもあり、ごく歌いやすいステージでした。北海道組は独立した男声合唱団として、ちょくちょく地元の合唱祭などに出ているそうで、そういうときに採り上げていたそうです。残念ながら東京組は人数やバランスの関係で、独立した男声合唱団として活動することは難しいでしょう。『愛する歌』は全10曲ですが、ここではそのうち6曲をピックアップして演奏しました。

 その次が松下耕の新曲『雪明りの路』です。小樽商大の卒業生である作家・詩人の伊藤整の詩をテキストにしています。伊藤整と、その1年上級であった小林多喜二が、小樽商大卒の二大文学者であって、小林多喜二に詩作がほとんど無いために、小樽商大グリーが新曲委嘱するとなると、伊藤整のテキストが選ばれることが多いのでした。実際、40年ほど前、創部60周年記念演奏会のときに多田武彦氏に委嘱して書いて貰ったのが、やはり伊藤整作詩の『吹雪の街を』であり、その表題作にして終曲「吹雪の街を」は、今回のアンコールとしても歌われました。
 実はそれに先立って、多田武彦にはやはり伊藤整作詩による男声合唱組曲がありました。それが今回の松下作品と同じ『雪明りの路』で、小樽商大グリーにとってはこちらも定番のプログラムとなっています。今回も愛唱曲ステージで、この中から「春を待つ」「月夜を歩く」の2曲が歌われました。
 私が学生時代に立原道造の詩で『夏の旅』という合唱組曲を書き、その終曲が「旅のをはり」というタイトルであったのを見て、佐藤眞先生が、
 「おいおい、ぼくの『旅』の終曲も『旅の終わり』だよ。著作権管理が面倒なことになるんじゃないか」
 と笑いながら言ったことがあります。
 「字が違いますよ」
 「発音で管理するんじゃないかなあ」
 ゼミでそんな会話を交わしたものでしたが、同じタイトルの曲というのはJASRAC的にややこしいようです。幸い佐藤先生とのバッティングは問題になりませんでしたが、この前『続・TOKYO物語』を刊行したとき、冒頭に「前奏曲」というのをつけておいたところ、
 「同一の作曲家は同じタイトルの曲を登録できないそうです」
 と出版社に言われて愕然としました。前の『TOKYO物語』にも「前奏曲」があり、そちらが私の「前奏曲」としてすでに登録してしまってあり、従って新しく「前奏曲」は使えないということだったのでした。
 「愛の夢」とか「花のワルツ」とかの、いかにもなタイトルならともかく、「前奏曲」などいろんなところで使いそうなキャラクターピース名であって、それが1曲しか登録できないとは驚きました。あわてて前のを「前奏曲(TOKYO物語)」と改称し、新しいほうを「前奏曲(続・TOKYO物語)」とすることで事なきを得ましたが、タイトルというのはことほどさように面倒くさいものなのでした。
 が、耕さんはわざとタダタケと同じ『雪明りの路』というタイトルを選んだふしがあります。タダタケに挑戦したい、という気分があったに違いありません。その気持ちは私にもわからないではないのでした。まあ、伊藤整の詩集の表題がそもそもそれだった、というのが大きいだろうとは思いますが。
 私は高校時代に、国語の先生が伊藤整好きだったようで、いくつかエッセイなどを読まされました。全体として、恋人ができない~親友ができない~どうしておれはこうなんだ~、とひたすら愚痴り続けているような文章ばかりで、共感はできましたが好感は持てませんでした。同属嫌悪みたいなものを感じたのかもしれません。はるか後年になって、オペラ『セーラ』の底本として買い求めた新潮文庫版「小公女」の翻訳者が伊藤整だったので驚いたことがあります。
 実際には当時の小樽では、商大(当時は小樽高等商業学校)の学生はモテモテだったと聞いて、さらに好感度が下がったものでした。今回耕さんが選んだ5篇は、重田根見子という女学生との恋の遍歴を詠っていますが、伊藤整はこの女性を「文学的な理由により」振ります。嫌いになったとか、やむにやまれぬ双方の事情があったとか、子供ができて相手の親が怒ったとかいうのではなく、「恋を文学的に完成させるためには、別れが無ければならない」という、いかにも戦前のインテリ青年が考えそうな、しかし身勝手きわまる理由で恋人を捨てたのでした。で、捨てたあとも未練たらたらな詩を詠んでいたりするのですが(それが「吹雪の街を」らしい)、まあそういった自分の「黒歴史」を、赤裸に小説やエッセイなどで白状しているあたりが、魅力と言えば魅力なのでしょう。
 共感はしたが好感は持たなかった私と違って、松下耕さんは伊藤整の詩集を読んで大いに刺さるものを感じたらしく、思い入れたっぷりの曲を書いたようでした。
 確かに最初のうちは、音像がつかみづらい曲だという印象が強かったのですが、練習が終盤に近づくと、徐々に全体構造が見えてきて、つい口ずさんでいる自分を発見したりしました。「名曲」であるかは今後の歌われかた次第だと思いますが、「力作」であることは間違いなく、ぜひ初演を成功させたいものだと考えるようになっていました。
 そういう想いはメンバーみんなに共有されていたかもしれません。何度合わせてもバラバラになっていた第4曲や第5曲の冒頭なども、本番ではぴったりと合っていて、歌いながらびっくりしました。
 本当は作曲者自身に指揮して貰う企画だったそうですが、初演が2年延び、この日はすでに合唱コンクールの審査員の仕事が入っていたとのことで、松下耕さんは初演指揮どころか初演に立ち会うこともできなかったのですが、まず満足できる初演であったのではないかという気がしました。それでも当然、歌い終わってから、あそこをこうすれば良かった、ああすればもっと効果的だった、と反省が出てきます。そこで、
 「作曲家にとって、初演はもちろん嬉しいものですが、もっと嬉しいのが再演です。再演されてこそ、自分の曲が認められたと実感できるのです。ですから皆さん、105周年でも110周年でも良いので、必ずもういちどこの曲を歌いましょう」
 レセプションで、スピーチを求められた私はそう言いました。耕さん感謝してくださいよ。

 休憩のあと、現役学生のステージがありました。グリークラブはもちろん男声合唱だったのですが、伝統ある小樽商大グリークラブも、人数がどんどん減って、8年ほど前に男声合唱として維持するのが困難になり、それまでときどきジョイントなどをしていた女声合唱団と合併して「グリー&カンタール」という混声合唱団になりました。近年はそれでも人数が減り続け、この日にオンステしたのは女子3人と男子3人、わずか6人に過ぎませんでした。登録メンバーは12人居るそうですが、半分しか載れなかったのです。しかもメンバー構成を見ると、1年生がたったひとりしか居らず、どうも先行き芳しからざるクラブ活動なのでした。
 常任指揮者を置かない、という方針では、そろそろ限界なのではないでしょうか。
 2曲ほど歌っており、自分たちでずいぶん頑張っている観はあったものの、舞台袖で聴いていて、

 ──あ~、一度だけでも指導しといてやれたら~!

 と身をよじるような想いを抱きました。良い資質を持っているのにもったいないなあ、という気分がこみ上げます。

 現役ステージのあとが、愛唱曲ステージです。ポピュラーソングが3曲、多田武彦作品が4曲でした。ポピュラーソングのほうは、「時代」「昴」はまあ良いとして、なぜかテレサ・テン「つぐない」なんて歌を採り上げていたのが謎でした。
 タダタケのほうは、上にも書いた『雪明りの街』からの2曲、それに有名作品として「柳河」「雨」です。「雨」は男声合唱の最高峰と呼ばれますが、確かに名曲で、何しろ構成のシンプルな明快さが素晴らしいと思います。タダタケに挑んだつもりの耕先生も、このシンプルさに対抗するのは無理なのではないでしょうか。16小節のフレーズが3回繰り返され、その都度ダイナミックスが小さくなってゆき、限りない静謐の中で終わるという単純明快さは、なかなか真似のできない境地です。
 プログラムは「雨」で終了、そのあとアンコールとして黒人霊歌の「Ride the chariot」と「吹雪の街を」を歌って、最後に校歌で締めました。校歌を譜持ちで歌っている人が少ないので、いささか気まずさを感じぬでもありませんでしたが、トップテノールの核になってくれた賛助の彼も譜持ちでしたから、まあいいかと多寡をくくりました。

 終演は17時15分頃でした。充実した演奏会でした。
 札幌在住の親戚が聴きに来てくれていたので、レセプションがはじまるまでのあいだ、会って話をしました。どこか喫茶店にでも入りたかったのですが、教育文化会館の周囲にも、またレセプション会場のホテルに行く途上にも、適当な店が見つからず、結局そのホテルのロビーで椅子を並べて話すにとどまりました。
 雨は小降りになっていましたが、風がひどくなっていました。こんな天候なのに、客入りはかなりのものだったので、やはり人の縁で集まる数というのは、雨や風ではさほど変動しないものだと思いました。
 この項、まだ続きます。

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