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札幌・弘前公演行(5)弘前城と演奏会 [旅日記]

 11月14日(月)の晩に弘前に到着した私は、宿でチェックインのときに貰ったクーポン券を使って、実質80円で豪華な夕食をとりました。私は酒を飲まないので、こういうときにあんまり費用がかさまないのですが、それにしても実質80円とはわれながら恐れ入ります。
 クーポン券はまだ1枚(1000円分)残っています。使用期限は翌日15日までですが、何に使おうかとわくわくしながら眠りに就きました。
 翌朝、宿の朝食ビュッフェを堪能してからチェックアウトしました。演奏会場には正午過ぎに入れば良いので、午前中は暇です。せっかくなので弘前城のあたりを散策しようと考えました。演奏会場の市民会館は弘前城の一角にあります。
 バスを使っても良かったのですが、急ぐわけでもないので歩いて向かうことにしました。歩ける程度の距離のところの宿をとったのです。あいかわらずスーツケースが重いのですが、まあキャスター付きなので、かさばるだけで、負担がかかるというほどでもありません。
 行く手の厚い雲にうっすらと虹がかかっているのが見えました。この時点では青空が見えていますが、11月15日(火)の弘前は昼から雨という天気予報でした。札幌の演奏会に引き続いて、こちらの本番も雨模様のようです。私は雨男というわけではないのに、どうしたものかと思いました。
 弘前公園の木立がやがて見えてきました。南側の追手門口から中に入ります。公園の中は紅葉がきれいでした。赤や黄色の色さまざまに、という唱歌の歌詞のとおりです。雨の予報とはうらはらに青空が拡がり、お城の白とも映えて、極彩色と言うべき絶景になっていました。
 市民会館は、南西の隅あたりにありました。市立博物館と隣り合っています。場所を確認してから、本丸のほうへ向かいます。あわよくばスーツケースを預けられるロッカーでもないかと思ったのですが、建物はまだ開いておらず、ロッカーがあったとしても使うことができません。
 前に来たのは冬のことでした。かれこれ15年前の2007年の年末、マダムとふたりで(だけ)温泉に湯治に行きました。弘前からバスで50分ほどのところにあるひなびた温泉です。2泊して、ひたすら温泉に漬かりまくりましたが、食べる量が多くて、かえって体重が増えてしまったのでマダムが蒼くなったほどでした。その帰りに、バスを弘前公園で下りて、立ち寄ってみたのです。
 さすがに年末ではあたりは雪に覆われて、歩きづらかったこともあり、下乗橋のところから天守を眺めて引き返しました。本丸の台の角のところに、小ぶりですが形の良い天守が建っているのを記憶しています。橋の欄干は真っ赤に塗られていて、天守の白い壁や降り積もる雪などと美しいコントラストを為していました。
 久々にその同じ弘前城を訪れたわけですが、なんだか様子が変です。台の角のあたりにあったはずの天守が無く、少し奥まったところに見えたのでした。首を傾げながら歩を進めます。
 天守の見学は有料(大人ひとり320円)で、途中に切符売り場がありましたが、料金表などを眺めていると、係りのお姉さんが
 「9時までは無料で入れるので、どうぞ見て行ってください」
 と声をかけてきました。時計を見ると、9時までにはまだ10分くらいある感じです。
 お言葉に甘えてそのまま進むことにしました。スーツケースを預けられないか訊いてみたら、天守の1階で預かるとのこと。天守まではやはりころがしてゆかなければならないのでした。途中から地面が砂利敷きになり、キャスターの車輪がうまく回らなくなって難儀しました。
 天守の南側から接近しましたが、順路どおりに歩くと、東側をまわり、北側を経て、西側に入り口がありました。南側からいきなり西側に行くことはできないのでした。
 あらためて近くから見てみると、やはりずいぶんとこぢんまりとした天守でした。この前見た松江城などとは規模がまるで違います。松江城は6層ありましたが、弘前城の天守は3層に過ぎません。それも道理で、津軽信枚が建造した弘前城の天守はわずか16年後、1627年に落雷で焼失し、以後弘前城は200年近くにわたって、天守を持たない城であったのです。もう江戸時代も末期に近い1810年になって、9代藩主の津軽寧親が、幕府の許可を得て再建したのが現在の天守で、もう巨大な天守閣を構えるような時代でもなく、また大名たちはいずこも経済的に疲弊していて、巨大な天守閣を建造する予算もとれなかったはずです。こぢんまりとしたかわいらしい天守を建てるのが精一杯なのでした。つまり戦国時代や江戸時代初期の天守のような防衛的な意味はほとんど無く、きわめて趣味的なお城だったと言えそうです。
 それでも、明治以前に建てられた天守としては、東北地方に残る唯一のものであるだけに、重要文化財に指定され、弘前の随一の観光名所となっているのでした。白河城若松城などは、いずれも明治以降に再建されたものです。
 入り口のところに売店があり、スーツケースはそこで預かってもらえました。
 天守が前と違う位置にあった理由は、入ってみてわかりました。天守のあったあたりの石垣がいつぞやの地震で崩れかけてしまい、急遽石垣を修理することになったのです。修理するには、その上にあった天守が邪魔なもので、天守をまるごと本丸の中央近くまで移動させてしまったのでした。天守の1層には、その移設工事の様子が写真入りで解説されていました。ジャッキで土台ごと持ち上げて運んだのだそうです。また数年ほどしたら元の位置に戻すらしい。
 趣味的な天守であるとはいえ、いちおう防衛施設のはしくれとして、1層には「石落とし」なども設置されていましたが、すぐ下に地面があって、なんの意味があるのか最初わかりませんでした。実際には石垣に突き出すような位置にあり、石垣を登ってくる敵兵に対して石を落として対抗するというわけです。
 夏に松江城で6層まで上り下りしたら足が筋肉痛になって、翌日の演奏会のとき楽屋の出入りに響いたということがありましたが、弘前城は3層しか無いので筋肉痛になる懸念はなさそうです。小さな天守ではありますが、3層に登ると岩木山などがよく見えました。頂上には大きな雲がかかっています。隣に鳥海山という山がありますが、これは出羽の霊山とはもちろん別物です。
 簡単に見終わって、スーツケースを回収し、外へ出ました。
 まだだいぶ時間があります。近くにあった「弘前城情報館」というところに入りました。何基ものモニターが並び、それぞれペダルクリックによりいろんな情報が提示されるというものです。歴史分野のモニターの前で操作して読みはじめたら、思いのほか詳しく、多方面にわたっていたので、つい熟読してしまいました。石田三成の娘が津軽信枚に嫁いで、3代目藩主の信義を生んでいたというのはいままで知りませんでした。関ヶ原で敗れて斬首された三成ですが、その血筋ははるか津軽の地で続いていたというわけです。

 だいぶ長いこと読んでいたつもりですが、情報館を出てもまだ10時くらいです。もういちど市民会館を見ると、扉は開いてはいましたが、中へは入りづらい感じで、裏の「市民会館口」から一旦公園を出ました。
 道を挟んで、藤田記念庭園というのがあります。弘前出身の実業家・政治家で、日本商工会議所の初代会頭を務めた藤田謙一(1873-1946)の別邸を元にした庭園です。それなりに弘前の名所のひとつになっているのですが、私の目的は庭園見学ではありません。敷地内にふたつほどカフェがあるのですが、その片方で、「おでかけクーポン」を使えるらしいので、残っている1枚を利用すべく「クラフト&和カフェ 匠館」というのに立ち寄ったのでした。なおそこはまだ有料区域でなく、カフェまでは普通に入れます。
 焼きリンゴが一押しだったようなので、カフェオレとのセットで注文しました。最近あまり売っているのを見ない「紅玉」を使った焼きリンゴで、昔ながらの酸味の強いリンゴの味が絶品でした。ゆっくり食べながら、まったりとした時間を過ごしました。
 お値段は880円。クーポン券ではお釣りが出ませんが、それは構いません。ここでも実質無料でおいしいものを食べられました。
 ふと思ったのですが、さきほど天守の入場料も、9時前だったということで免除されています。つまり、私はこの日、朝から一銭も使っていないのです。これから会場入りすれば、おそらく昼食も夕食も弁当が出るし、飲み物やお菓子などもケータリングで用意されているはずで、ひょっとしてまったくお金を使わない一日になるのではないかと気がつきました。旅先でお金を使わなくて良い日があるとは、珍しいこともあるものです。

 11時になりました。出演者の会館入りはまだあとで、ほかの人たちはようやく青森空港に着いた頃ではないかと思いますが、スタッフは用意をはじめているはずなので、楽屋入口のあたりに行ってみました。幸い顔見知りの事務所スタッフにばったり遭えたので、楽屋に入れさせてもらいました。
 30分くらいして、もうひとり楽屋に入ってきましたが、打楽器の奏者でした。打楽器は飛行機で運べないので、ほかのメンバーとは別行動でクルマで到着したようです。
 正午を過ぎて少し経つと、出演者たちが到着したようでした。前乗りのはずだったのが当日入りになったので、みんな大きな荷物を抱えています。
 この会場は楽屋の数が少なく、それぞれの楽屋もあまり広くないため、たちまち「密」になってしまい、結局大半のオーケストラメンバーは舞台袖の控室に移動しました。私が入っていた楽屋は主に合唱団の男声に明け渡されましたが、私自身はこの企画ではだいたい合唱団と同じように行動するので、同じ部屋にそのまま滞在します。
 こちらの演奏会に関しては、あまり詳細には触れられませんが、午前中あれほど晴れていたのにだんだんと雨模様になってきて、開演ころには相当な雨量になっていたにもかかわらず、客入りは上乗でした。まあ、このあたりなら歩いて聴きに来たりする人は少ないのかもしれませんので、天候はあまり関係ないとも言えそうですが。
 終演後、駐車場いっぱいに入っていたクルマがある程度はけないと、われわれの移動のためのバスが出られないというので、しばらく待機しました。クルマの出口が、さっき私も通った市民会館口しか無いようで、しかもそこがすぐに道路に面しているため、なかなからちがあかないようでした。
 ようやくバスが発車し、弘前駅に隣接したような場所のホテルに連れてゆかれました。これまでこの事務所の企画で停まった宿よりもワンランク上といった感じで、なるほど前夜に同じところを取ろうとしたらえらく高かったわけだと納得しました。聞くところでは、事務所でこの宿を押さえたわけではなく、弘前側の主催者が確保してくれたのだそうです。オーケストラメンバーや合唱団員も、主役の有名歌手と同じところを押さえてしまったのだそうで、つまりその有名歌手が通常泊まるのと同格のホテルであったわけです。
 オーケストラメンバーの大半は、それから飲みに行ったようでしたが、私はこのところの早寝早起きでかなり眠く、夕食として貰っていた弁当を部屋で食べてすぐに寝ました。なお弁当はステーキ弁当で、これまたえらく立派なものです。ホテルの電子レンジで軽く温めて食べました。
 飲み物もケータリングでたくさんあって、特に津軽りんごのジュースのブリックパックが大量にあったので、少なからぬ個数を貰ってきてしまっていました。そのため飲み物を買いに出る必要もありませんでした。この日、私は本当に一銭たりともお金を使わずに済ませたのです。凄い。

 ネットの口コミでもいろんな人が褒めていた朝食ビュッフェをゆっくりといただき、9時半に出発です。青森空港から飛行機で帰ります。これはもちろん事務所持ちですので、私は弘前到着以降、循環バス代100円、夕食代の端数80円、そして青森空港の売店で買った若干の土産物代しか使わなかったことになります。ちなみに最初の宿代はクレジット払いなので、当日は支払っていません。
 札幌の仕事だけだったら、当然帰りの交通費もかなりかかったはずです。弘前の仕事が偶然飛び込んできて、本当に助かりました。
 青森空港などという空港ははじめて利用しましたが、山の中にある感じのこぢんまりしたところでした。いままで使った中では米子と同じくらいの規模かな。ハバロフスクソウルへの国際便もあったようですが、当然のように現在は中止されています。
 羽田までは1時間15分ほどで、意外にも新千歳空港~羽田の1時間25分と大差はありません。飛行機は、離陸と着陸のシークエンスに時間がかかるのであって、滞空時間はわりとフレキシブルである気がします。
 青森の上空は厚い雲に覆われていましたが、やがて地上が見えるようになりました。この路線はほぼ地面の上を飛ぶことになるので、どのあたりを飛んでいるのかと眼を凝らして窓を見ていましたが、さっぱりわかりません。特徴的な流れかたの川なども眼につくのに、山形なのか福島なのか、全然見当がつかないうちに羽田到着が近くなりました。

 多少の体調不良などは旅に出れば治ってしまうような私ですが、5泊6日で2回の演奏会をこなさなければならなかったとあっては、やはり純粋な遊びの旅行よりはだいぶくたびれたようです。
 しかし、鉄道、フェリー、高速バス、飛行機というさまざまな交通手段を、それぞれかなり本格的に利用した今回の旅は、なかなかバラエティに富んで楽しいものでした。2回の演奏会も、まるで趣きの異なる内容で、私自身の役割も全然違うものだったというのが、不思議なようでもあり、面白い経験でもありました。こんなことがまたあるでしょうか。

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