SSブログ

吉野ケ里の墓所発掘 [いろいろ]

 吉野ケ里遺跡で見つかった墓所の発掘結果が待ち遠しくてなりません。
 吉野ケ里は北九州ではじめて見つかった本格的な環濠集落で、これこそ魏志倭人伝に記された邪馬台国の跡なのではないかと騒がれました。
 邪馬台国については、九州説と畿内説がずいぶん昔から対立していました。魏志倭人伝には、倭、すなわち当時の日本について、多くの小邦に分かれていたとして、30ほどの国名が列記されています。それぞれの国名はいままで、いろんな現存の地名に比定されてきましたが、まあ言葉遊びのようなもので、ちょっと似たような響きの地名があると「こここそが○○国!」などとドヤ顔でのたまう人がけっこう居ました。
 何しろ魏志倭人伝以外に文献資料が無く、考古資料だけでは地名までは比定できないというわけで、本職の歴史学者や考古学者に加えて、素人が議論に参加することが多い問題だったと言えます。
 文中に記された方角や距離が、何を元にしているのかがよくわからないのも、比定の難しい原因です。いくら古代でも、太陽の向きを間違えたりすることはなさそうにも思えますが、羅針盤などもまだ発明されていない頃で、あまり方角があてになりません。「南」を「東」に読み替えるべきだ、などという説を唱える学者も居ました。
 距離のほうも、現代のわれわれは距離と言えばまず「直線距離」を考えてしまいますが、当時そんな概念が存在したかどうか。歩いたときの実測距離が根拠になっているのではないでしょうか。だとすると、地面の起伏の多い日本列島では、何百里などと言っても、直線距離では意外と近いところにあったかもしれません。
 そもそも、三国志を書いた陳寿は、もちろん倭国に実地検分などには行っていませんし、実際に倭国に使者として訪れたことのある人間、たとえば張政などから詳細に話を聞いたとも思えません。せいぜい東夷の窓口であった帯方郡あたりの役人経験者に取材した程度でしょう。中国の歴史書における日本の記述などはけっこういい加減で、朝に大迷惑をかけた豊臣秀吉のことなども、なんじゃこりゃ、と言いたくなるような説明しかついていません。誰に聞いたんだろう、と思いたくなります。

 ──国々の名前は、史官が非常に注意深く耳を傾けて発音を聴き取り、字を宛てたはずである。

 というような意見を読んだことがありますが、いやいや、そんなに正確を期そうとしたとはとても思えません。中国の史官を過大評価しているようです。
 ともあれ、倭の北限として、狗耶韓国というのが最初に出てきます。これはどう読んでも、現在の朝鮮半島の南岸地域にあったとしか思えないのですが、どこぞに遠慮したのか、狗耶韓国は倭には含まれないとする意見が近年まで主流でした。最近になってようやく、古代の朝鮮半島の南岸は倭の領域だったという説が力を盛り返しています。
 そこから海を渡って、対馬に着きます。これも一国として数えられています。次に一大国というのが出てきますが、これは壱岐であろうとされています。
 次の末盧国からがおそらく本土で、この末盧(まつろ)というのはたぶん松浦(まつら)でしょう。生活の様子の記述からしてもそんな感じです。なお狗耶韓国から対馬に渡る海路、対馬から壱岐への海路、壱岐から末盧への海路はいずれも「一千余里」と書かれています。現在の地図では、これらの海峡はいずれも30キロ~60キロ程度で、一千余里というのはいかにも誇大です。当時の1里は450メートルくらいですので、これだと500キロくらいあることになります。何かほかの基準があったのでしょうか。いずれにしろ、魏志倭人伝に記された距離というのは、10分の1くらいに考えておいたほうが良さそうです。
 そこから陸路で東南に500里ほどで、伊都(いと)に着きます。糸島半島あたりと比定されています。伊都国は帯方郡からの使者が行く場合たいてい滞在することになる場所だそうで、「都」という文字が含まれているとおりほかの国々とはやや別格という意識があったかもしれません。
 さらに東南へ行くと、(な)があります。約2万戸と、ほかとは隔絶したような大きな人口を抱えた国だそうです。これは博多あたりと考えられています。例の「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)の金印が発見されたのも博多近くでしたし、この近辺は昔から「那の津」という名で知られていました。「ナ」という国がこのあたりにあったのはまず確実でしょう。
 このあと、東に不弥(ふみ)、南に投馬(つま)の名が挙がり、9番目に出てくるのが邪馬台国です。不弥と投馬を経て邪馬台国に至ることになるのか、それとも奴国から直接行けるのか、このあたりも微妙です。「東に至る」とか「南に至る」とかいう書きかたが、奴国より前と後とで、ちょっと異なっているのでした。
 不弥国は福岡県の宇美に比定する人が居ます。投馬国は宮崎県のに比定する人が居ますが、これまでの国のサイズや間隔からして、ちょっと離れすぎているようでもあります。
 結局、この程度の小邦をいくら経由しても畿内にはたどり着けないだろう、というのが、邪馬台国九州説の論拠となっています。この時代の「国」は、せいぜいいまの村落程度の大きさだったと思われ、その中で邪馬台国は「7万余戸」と飛び抜けて巨大でした。1戸に5人として、35万人の大都市です。まあこの数字にどれほどの信憑性があるのかわかりませんが、とにかく女王卑弥呼の君臨する大国で、ほかの国々から仰ぎ見られていた、ということです。
 ただ、九州説には致命的な弱点がありました。当時の「国」を特徴づけているはずの環濠集落跡が見つかっていなかったのです。それが吉野ケ里で発見されたのですから、九州説をとる人々が勢いづいたのも無理はなかったでしょう。

 佐賀県東南部という位置は、かつて邪馬台国の所在として比定した人も居た場所です。奴国以後の、不弥国、投馬国、そして邪馬台国への道筋が、経路順というわけではなく、いずれも奴国からの方位を意味しているという仮説に基づくならば、確かにこのあたりになりそうなのです。邪馬台国の距離として記載されている「水行十日陸行一月」といのはいささか多すぎるようでもありますが、もともと距離の記載はあてになりません。一方、畿内までだったらこのくらいかかるだろう、という意見ももっともではあります。
 まあ冷静に見るならば、吉野ケ里は邪馬台国そのものではないまでも、それと同時代のれっきとした「国」跡のひとつであろう、ということになるでしょう。
 観光の呼び物があんまり無かった佐賀県は、この遺跡を大いに喧伝しました。ほどなく、それまで古代遺跡の代表のようであった静岡の登呂遺跡よりも人気が出ました。東京や大阪などからは遠いのですが、線路(長崎本線)の近くであったのが幸いで、早速設置された吉野ケ里公園駅から徒歩でも行けるのが強みです。古墳時代の遺跡である登呂よりも、弥生遺跡である吉野ケ里のほうが、ロマンを感じさせるようでもあります。
 ほどなくして青森で、もっと古い縄文遺跡である三内丸山遺跡が発見されましたが、交通の便の良さは吉野ケ里に及ばないせいか、三内丸山にお株を奪われるというほどのことにはなりませんでした。

 私は九州を旅したのは1回だけですが、吉野ケ里公園にはもちろん立ち寄りました。駅ができて間もなくのことであったと思います。まだ発掘中の場所が多くて、立ち入れるところは限られていましたが、それでも邪馬台国の時代の遺構に立っているという感慨は充分に感じられました。
 なお、現在の時代区分では、弥生時代と古墳時代のあいだに、庄内式期という時代が100年ばかりはさまっていて、卑弥呼の時代はその庄内式期に相当するとされているようです。土器の作りかたが違っているのだそうです。
 見たところ7万戸・35万人というべらぼうな人口を養えるほどの立地とは思えませんでしたが、ここが邪馬台国であったとすれば、吉野ケ里などはそのほんの一部であったのかもしれません。有明海沿岸一帯に広々と版図を持っていた「国」だったのかもしれないのです。遠浅の内海である有明海は、荒れることもそう滅多に無く、大きな人口をゆったりと賄えるだけの水産資源が得られたのではないかと思います。
 また、有明海には不知火海と同様、夏になると不思議な光り物が見えることがあるそうで、そんな神秘的な光景も、古代の王権が成立する要素になりそうです。

 ともあれ、発掘作業はまだ続いていたようで、今回の石棺も最近見つかったものであるようです。蓋は起重機を使わなければならないほど重く、どうやらかなり高位の人物の墓所ではないかとされています。すわ卑弥呼の墓か、と勢いづいた人もだいぶ居た模様です。
 蓋の裏に×印に似た文様がいくつも描かれていたとか、中は土で埋まっていたとか聞きましたが、土を掘り返して被葬者や副葬品の様子がわかるまでには、まだしばらくかかるでしょう。慎重に慎重に夾雑物を取り除いてゆかなければなりません。
 被葬者が女性であったのなら、いよいよ卑弥呼説が強くなりそうですが、そうでなくとも、何か重要な副葬品が出てくればと思います。日本では文字はまだ使われていない時代ですが、魏からの交易品や恩賜品などに文字が刻まれている可能性はあります。当時の日本の職人が作ったらしき、「漢字っぽいけど意味をなさない文様」、どうも漢字を真似てそれらしきものを掘りつけたような鏡などもいままでに出土したことがあるので、そんなものでも面白そうです。
 貴人の墓所というのは、それまでの常識を覆すような知見が得られることも少なくありません。何が現れるか、楽しみに待っていたいと思います。

nice!(0) 

nice! 0