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「楽語」を考える(1)速度標語 [いろいろ]

 楽譜を開いて見ると、いちばん目立つのはもちろん音符なのですが、それ以外にもいろいろな記号や文字情報などが書き込まれています。
 音符だけ書いてあっても、音楽を演奏するにはいろいろと足りないことがあります。どのくらいの速度で演奏するのか、どのくらいの音量で演奏するのか、どんな音質を求めるのか、音と音のあいだをつなげるのか切るのか、どんな表情をつけるべきなのか、考えることは次から次へと湧き上がってきます。
 楽譜というものが現在の形に整ったのは大体17世紀ごろですが、最初のうちはそれこそ五線に音符が並んでいるだけのものでした。バロック期を通じて、次第に速度の指定や音量の簡単な指定がなされるようになりましたが、いまの眼から見るとごくあっさりとしたもので、書かれているとおりに演奏してみてもどうにも物足りないというか、ぶっきらぼうな音楽になってしまいます。
 演奏者は行間ならぬ「音符間」を読み取ってゆかなければならないわけですが、これはなかなか経験の浅い者には難しいことです。それで、えらい演奏家や研究者などが、自分なりに解釈した「編曲版」というのを作ったりしています。作曲家の自筆譜や、作曲家自身が眼を通したであろう初期の出版本、いわゆる「原典版」を元にして、現在用いられているさまざまな記号や文字情報を書き加えたものです。
 18世紀末くらいから、作曲家自身が書き込むものが増えました。モーツァルトベートーヴェンの楽譜を較べると、明らかに後者のほうが、書き込まれている記号や言葉が多くなっています。
 19世紀に入ってロマン派音楽が隆盛すると、何しろ感情の描出を強調する傾向の音楽ですから、書き込まれる記号や言葉の種類も多彩になりました。
 記号のほうはともかくとして、楽譜に書き込まれるこれらの言葉は、音楽用語……略して「楽語」と呼ばれています。楽語は、習慣的にイタリア語で書かれるようになっています。イタリアが音楽の中心であった時期が長かったからでしょう。現在のイタリア語の辞書を見ても、ずいぶん多くの単語に『楽語』というマークがついていたりします。その多くは、本来のイタリア語としての意味を持つ言葉なのですが、中には楽語としての意味合いのほうが一般的になってしまっている単語も目につくのでした。
 楽語の使われかたや由来などを調べてみると、なかなか面白かったりするので、何度かに分けて書いてみたいと思います。順不同な感じになるので見づらいかと存じますが、ある程度まとまったら索引でもつけることにしましょう。

 まず、速度を表す楽語、いわゆる「速度標語」について考えてみます。速度標語は、たいてい楽譜の冒頭に、少し太いフォントで記載されています。最近は基準となる音符(例えば4分音符)が1分間にいくつ入るかを示す数字、すなわち「メトロノーム記号」だけ記してあるものも増えましたが、速度標語が添えられていると、速度(テンポ)だけでなく、その曲全体の持つ曲想までもイメージできるという利点があります。また標語のほうも、曲想を積極的に喚起することを期待して、複数の言葉を並べてあるという場合もあります。

●遅いテンポ●
 遅いテンポを表す言葉には、

  Grave
  Largo
  Lento
  Adagio

 などがあります。昔ながらの振り子式メトロノームの盤面を見ると、遅いほうからこの順序で速度標語が並んでいますが、あれは便宜上のことであって、つねにラルゴのほうがアダージオより遅い、などということはありません。
 遅いテンポを表すために作曲家がどの言葉を使うかは、それぞれの好みというのもありますし、また曲想がどのようであるかということにも関わってきます。
 この4つの中で、単純に「遅い」という意味なのはLentoです。速度が遅いことでもありますし、タイミングが遅いという場合にもlentoという言葉が使われます。「速い」「早い」の両方の対語としての「遅い」に相当する言葉ですね。英語で言えばslowとlate両方にあたるわけです。
 そのため、「もっと遅く」という場合にはPiù lentoと書かれます。Più adagioというのもときどき見ますが、Più largo、Più graveなどというのは滅多にお目にかかりません。なおpiùは英語のmoreに当たる、「もっと」という意味の副詞で、速度だけでなくいろんな種類の楽語に使われます。
 それでは、ほかの3つはLentoとどう違うのかというと、これは原義を考えれば見当がつきます。
 Graveの原義は「重い」、Largoの原義は「(幅が)広い」、Adagioの原義は「くつろぐ」です。なお楽語として使われるのは、ほとんどの場合に副詞形の言葉です。「重く」「広く」「くつろいで」と書くべきかもしれませんね。Graveは英語のgravityなどに関連します。Largoはlargeですね。Adagioは似た語形の英単語は無さそうですが、cozyあたりが近い意味合いでしょう。
 こういうニュアンスの差により、昔から文部省あたりで制定している訳語では、Graveは「遅く荘重に」、Largoは「幅広くゆっくりと」、Adagioは「ゆるやかに」などとなっていました。
 Graveは、あたかも葬送行進曲のような、重々しく荘厳な雰囲気の曲に与えられる速度標語であるわけです。昔の序曲などにもよく用いられました。その場合、附点リズム、複附点リズムなどが多用された曲が多かったようです。
 Largoは、大河が滔々と流れるような、文字どおり広々とした曲想の曲に与えられます。俗にヘンデルのラルゴ」などと呼ばれている「樹木の陰で」などまさにそんな感じですね。
 Adagioは、居心地の良い感じの、ゆったりとくつろいだ曲想です。同じ遅いテンポでも、Graveとは真逆みたいな曲想であるわけです。モーツァルトのソナタや交響曲などの緩徐楽章にしばしば使われています。決して、暗い雰囲気、深刻な雰囲気にはならない感じです。
 で、それらの色をつけずに、ただ「遅い」ということを示したいときにはLentoを使うことになります。いずれにしろ、どの速度標語がいちばん遅いのか、などということを考えても仕方が無さそうですね。作曲家によって、遅い曲でどの言葉を使うのが好みなのか、などと考察してみるほうが面白そうです。
 楽語には、指小辞や最上級が使われることがあります。指小辞は、-ettoとか-inoとかがが語尾につき、少し程度を弱めることを意味します。最上級は-issimoが語尾につき、「非常に○○」「甚だしく○○」といった意味になります。遅さを表す速度標語では、LarghettoAdagiettoを比較的眼にします。指小辞つきのLargoとAdagioで、これは「幅広さが欲しいがLargoほど遅くなくて良い」「ゆったりとしたいがAdagioほど遅くなくて良い」という意味になります。LentinoとかGravinoなんかは、私は見たことがありません。最上級のほうのLentissimo、すなわち「ものすごく遅く」というのはどこかで見た憶えがあります。作曲者はどれだけ遅くしたかったのかと苦笑したものです。

●中くらいのテンポ●
 そのものズバリの「中くらいのテンポ」として、Moderatoという言葉があります。これは英語表記の多いポピュラー物の楽譜でも、Moderatelyという言葉をしばしば見かけます。速くも遅くもなく、中庸に、ということですね。原義も、速度は関係なしに「中庸に」であり、少し転じて「穏やかに」といった意味合いにもなります。
 それで、Moderatoはほかの速度標語のあとにつけられて、「ニュアンスを足す」ことも少なくありません。よく見るのはAllegro moderatoです。Allegroについてはあとで述べますが、とりあえず速いテンポの代表のようなものです。そこにmoderatoがつくとどうなるか。
 「アレグロとモデラートのあいだのテンポ、つまりアレグロよりちょっとゆっくりするんだよ」などと説明する先生も居ますが、これは間違いと言うに近いでしょう。正しくは「速度はアレグロで、しかし曲想はモデラート(穏やか)で」という意味です。速いけれども、そんなにエネルギッシュだったり暴れん坊だったりはせずに、というニュアンスですね。遅いほうにつけてLento moderatoというのも見かけます。
 それではModeratoというのは、例えばメトロノーム記号で言えばいくつくらいなのか、と問いたくなりますが、これも作曲家によってさまざまです。ハイドンのModeratoはわりと遅めにとらえるべきですし、シューベルトなどはけっこう速めにイメージしている気配があります。ラフマニノフピアノ協奏曲第2番の第一楽章の速度はModeratoと指定されていますが、聴いているととてもそうは思えません。
 Moderatoのほか、Andanteというのも中くらいのテンポとしてよく使われます。この言葉の原義は「歩く」で、文部省の訳語でも「歩く速さで」あるいは「並み足で」などとされていました。そう言われても、歩く速さなどは人によってさまざまで、これだけではイメージしづらいようです。イタリア語ですから、イタリア人が歩く速さを基準にするべきでしょう。そうするとせかせか歩く癖のある日本人などよりは遅いことになるのかなど、あれこれ考え出すとわけがわからなくなります。
 が、まあ、Moderatoよりはちょっと遅め、と考えるあたりが妥当でしょう。実際の曲にあたっても、どちらかというと遅めの曲が多いようです。モーツァルトの緩徐楽章にはAdagioと共にしばしば使われました。モーツァルトは、本当にゆったりさせたい曲にはAdagio、もう少し前向きなテンポを要求したいときにはAndanteを使っていたような気がします。
 Andanteに指小辞をつけたのがAndantinoで、これもよく使われます。Andanteを遅いととらえるか速いととらえるかで、Andantinoの意味も変わってくるわけですが、普通は遅いととらえられ、従ってAndantinoはAndanteよりも少し「遅くなく」、つまり少し「速く」と解されています。
 ではModeratoとAndantinoはどちらが速いのか、と言われると、これまた較べようがありません。Andantinoには、Andantino quasi allegrettoなどと言葉が加えられることがあります。quasiは「~に準じて」「~みたいに」ということで、これは「アンダンティーノ、でもあたかもアレグレットのように」という意味になります。Allegrettoというのもこのあとで触れますが、普通はModeratoよりも速いと考えられているテンポで、つまりAndantinoも、Moderatoと同等かもう少し速いニュアンスで使われることがあるのでしょう。
 なおAndantinoは、Andanteに対してはテンポの差だけの違いで、「歩く」ほうの意味を弱めるわけではなさそうです。

●速いテンポ●
 速いテンポを示す速度標語としては、

  Allegro
  Vivace
  Presto

 が基本単語と言えます。
 Allegroは音楽用語としての使われかたのほうが一般的になってしまっていて、むしろ本来の意味が隠れてしまっているほどですが、原義は「陽気な」「愉快な」「楽しい」といったニュアンスであるそうです。これに対し、Prestoは「急ぐ」という意味で、イタリアでタクシーがなかなか空港に着かなかったりするときに
 「プレスト! プレスト!」
 と客が叫び出すとか。
 文部省制定の訳語ではAllegroが「快速に」、Prestoが「急速に」となっていました。快速と急速をどう区別するべきか、当時はたいてい急行のほうが快速より上位だったよなあ、などと鉄な私は考えてしまったわけですが、原義を知れば、なるほどと思います。
 実際の曲によって速度を較べた場合、AllegroとPrestoのどちらが速いかは、これも作曲家によるし曲にもよるとしか言いようがありません。ベートーヴェンのソナタの中から、共に4/4拍子で、かたやAllegroの表示を持つピアノソナタ第11番の第一楽章、かたやPrestoの表示を持つピアノソナタ第14番「月光」の第三楽章を選び、MIDIで打ち込んでそれぞれの最適と思われるテンポを検証してみたことがありますが、どちらも4分音符=160くらいになりました。ただ曲想に関して言えば、確かに第11番は楽しげですし、第14番は急いでいる(追い立てられている)感じがします。メトロノームの数字よりも、このニュアンスの差が大事ということなのでしょう。
 もっともAllegroと指示された曲も、陽気で楽しいものばかりとは言えません。暗く悲劇的な内容の音楽であってもAllegroの表示があることが決して珍しくなく、この言葉はすでに原義から離れて単なるテンポ標語になっている気配があります。
 Vivaceは「生きる」という意味が原義で、そこから転じて「生き生きとした」「活発な」「元気よく」というようなニュアンスになっています。類語のVivoというのも音楽ではよく使われますが、Vivoは主に「活発」というニュアンスが強めでテンポ的な意味合いが薄く、Vivaceは逆に速度としての意味合いが強くなっているように思われます。
 派生形を考えると、PrestoとVivaceは、そのニュアンスからして、語義を強める方向である最上級のPrestissimoVivacissimoがよく使われます。特にPrestissimoは振り子式メトロノームの盤面ではいちばん下にあり、「最速」というイメージがあります。ベートーヴェンの第九交響曲のラストのところは、現存のすべての版ではPrestissimoとなっており、めまぐるしいほどに速く演奏する指揮者が多いのですが、ある指揮者はウイーンでベートーヴェンの自筆譜を見たところ、Prestissimoという表示が消されて、鉛筆でPrestoと書き換えられていたと主張し、従来より落ち着いたテンポでの演奏に固執したものでした。
 これに対し、Allegroの最上級であるAllegrissimoは、私自身で眼にしたのはせいぜい2、3回のことです。「陽気な」「楽しく」といったニュアンスが、「極端に」という意味合いを込めた最上級という形にそぐわないのかもしれません。
 その代わり、指小辞をつけたAllegrettoならしょっちゅうお目にかかります。Allegroの派生語ですが、Allegretto自体が基本速度標語のひとつと言って良いほどに頻用されています。言うまでも無く、「アレグロと同様快活に、ただしアレグロほど速くなくて良い」というような意味合いになります。文部省の訳語では「やや快速に」などとなっていました。一方、PrestettoとかVivacinoとかは見たことがありません。言葉の持つニュアンスからして、「程度を弱める」という操作があまり似つかわしくないのでしょう。
 Allegroを元にして、もっと速いテンポを指定する場合は、Allegrissimoよりも、Allegro assaiAllegro moltoと、単語を添えることで表示するのが普通です。assaiもmoltoも、「非常に」「極端に」「ものすごく」といった、被修飾語の意味合いを強める役割を持つ副詞です。Lento assaiのように遅いほうに使われることもあり、その場合は当然、「より遅く」なります。
 Allegro vivaceのように標語を重ねることもあります。これはAllegro moderatoの伝から行くと、「速度はアレグロで、曲想はヴィヴァーチェで」ということになりそうですが、Allegroにもともと「快活な」というニュアンスが含まれているせいか、この場合のvivaceは単に速度的な意味合いであるようです。
 程度を弱める場合、指小辞を使わず、non tropponon tantoといった言葉を添えることがあります。いずれも「それほどでもなく」といった意味合いで、Allegro non troppoなら「アレグロほど速くなく」となります。nonの前に「ma」をつけることもありますが、これは「しかし」という接続詞ですので、Allegro ma non troppoであれば「アレグロに、しかしそれほど速くはなく」ということです。同じように見えますが、後者のほうがやや「Allegroである」という事実を強調しているようでもあります。PrestettoやVivacinoは見ない、と上に書きましたが、Vivace non troppoとかPresto ma non tantoとかだったらときどき見かけます。ショパンピアノソナタ第3番の終楽章はPresto ma non tantoと指定されています。こちらも、遅いほうの言葉にも使われます。

 以上、曲の冒頭に記載されている速度標語を見てきましたが、曲の途中に限って使われるものも存在します。上にもPiù lento(もっとlentoに=遅く)という例を挙げましたが、Più mossoMeno mossoなどもよく使われます。mossoは「動く」という意味なので、Più mossoは「もっと動く」つまり「もっと速く」ということになります。menoのほうは英語のlessにあたる言葉ですが、この種の劣位比較級というのが、日本語には存在しないため、われわれにはいまひとつイメージがつかみづらいようです。訳すとすれば「より少なく」となるのですが、そうするとMeno mossoは「より少なく動いて」→「より動かないで」→「より遅く」と、何段階かに分けないと意味合いが伝わりづらいのでした。遅くなるということではMeno mossoはPiù lentoと同じように思えますが、Meno mossoのほうは「前より『少し』遅く」という程度のニュアンスで使われます。いずれにしろ、前との比較をする言葉ですので、冒頭には置けません。曲の途中でテンポが変わるときにしか使えない標語です。またpiùやmenoは、allegroなどのほか、一般の発想標語などにもよくつけられますが、若干テンポの変化を伴うことが多いようです。

 このほか、「だんだん速くなる」「だんだん遅くなる」「元のテンポに戻す」といった意味の言葉も速度標語のカテゴリーに含まれますが、これらはまた後日考えてみることにいたします。
 フランス語やドイツ語で速度表記がされることもありますが、イタリア語のような情感の繊細さには欠けるようです。フランス語なら「遅く」はLent、「速く」はVifで、それほどの種類はありません。ドイツ語でも「遅く」はLangsam、「速く」はSchnellという程度です。「遅く」だけで4種類も常用されているイタリア語速度標語の多彩さにはまるで及ばないのでした。やはり、長く使われているにはそれだけの理由があったものと見えます。

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