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続・人工の知能 [世の中]

 Chat GPTチャット生成AI )がずいぶんと話題になっています。何かについて調べようとした場合に、いくつかのキーワードを入力したり、あるいは質問のような形で入力すると、ちょっとした論文みたいな形で応えてくれるというAI(人工知能)であるようです。私はまだ使っていませんが、使っている人の報告はいろいろ読みましたし、マイクロソフトGoogleが提供している類似のものは体験したことがあります。そのいくつかは大変役に立ちました。
 打ち込まれたキーワードや質問文に関して、ネットに大量に存在する文献から収集して、たちどころに説明文を作成してくれるということであるようです。そのため、USAなどでは学生が学校の提出レポートなどに、Chat GPTが作った文章をそのまま出すなんてことも起きるようになり、使用を禁じる学校も増えているとのことです。またChat GPTが作成した文章であるかどうかを判定するAIなんてのもできたようで、中にはちゃんと自分で書いたのにChat GPTが作ったものだと判定されてしまい不合格を食らう、なんて事件も起こっているらしい。
 Chat GPTにしろその判定AIにしろ、まだまだ開発途上のものであって、全面的に信用するのは早計というところなのではないでしょうか。
 日本ではまだそこまでの騒ぎにはなっていないようですが、これはChat GPTが主に英語に適応して作られているからであるらしく、日本語の作成に関してはまだ最適化されているとは言えないからかもしれません。
 「○○について、Chat GPTにかけたらこんな文章が出てきた」
 というような報告を読んでみても、特有の翻訳文っぽい言い回しや文体があるようで、ああこれはChat GPTが書いたのだな、とわかる気がするのでした。Bingなどでも同様です。英語の作成については、もっと自然な文体になるのでしょう。
 出はじめたころはまさに衝撃的で、AIがここまで進化したなら、これで新聞記者も作家も、あるいは画家や音楽家なども仕事を奪われて不要になるのではないかなどと騒がれたものでしたが、落ち着いてみるとそこまで万能なツールではなかったことがはっきりしてきました。
 何より、Chat GPTが平気で「嘘をつく」ことも判明しました。これはAIに悪意があるわけではなく、ネット上にある正しい内容の記事もフェイクの記事も見境なしに収集してしまうために発生することと思われます。われわれはいろいろ読んでみても、その書きぶりなどから、
 「おいおい、これはさすがに無いだろう」
 「なんか、うさんくさいよな」
 と感じることがよくありますが、AIはまだ、こういう「なんとはなしの嘘くささ」を見抜く能力は持っていないようです。嘘も本当も取り混ぜた無数の情報を、ある長さでまとまった説明文にしようとするのだから、そこに無理が生ずるのも当然でしょう。
 こういう「嘘」を防止するには、質問する側が注意深くキーワードを選ぶしかありません。「なんでもできる」と早とちりされたAIは、まだまだ人間が協力してやらないとものの役には立たないというのが正しいところではないでしょうか。

 たちどころに絵を描いてしまうAIというのもあり、その「作品」も見ましたが、やはりまだ「本物」の迫力には及ばないようです。使用者の注文に応じていろんな絵が描けるようですが、いまのところ小器用なイラストレーターというところで、アートの名には達していません。
 えらくエグい注文を出してAIに描かせたという、「閲覧注意」の警告のある絵も見てみましたが、
 「うわ~これ、ドン引き」
 「残酷で見てられない」
 というような感想には私はならなかったし、絵に寄せられたコメントも概して冷めていました。
 「はあ、それで?」
 というのが正直なところで、それはやはり作者のドロドロした情念みたいなものが一向に感じられないからでしょう。絵を見たときの想いとか感覚というものは、決して「絵面」だけでは決まらないことがわかります。
 むしろ普通に描かれた風景画などが、まるっきり絵に意思が感じられなくて逆に怖い、と評されていたりします。画家が風景画を描く場合、やはり風景の中の何をいちばん描きたいのか、ということがはっきりしているはずですし、それがはっきりしていないとやはり散漫な絵になるものですが、AIの風景画も、何に焦点を当てているのかがわからず、見えるものをすべて等価なものとして描いているために、鑑賞者としてはどこを見て良いか困るということになるのでしょう。
 そんなに美術に造詣が深いわけでもない私にもわかるのですから、AIが画家の仕事を奪うということはまだ当分無さそうに思えます。ただ、チラシのイラストとか、そんなものであればAIでも充分に代替が利くということはありそうです。これは絵師の問題であるというより、クライアントのほうの問題であって、AIが作成した程度のクオリティで良いと判断すれば、やはりそうなってしまうかもしれません。

 音楽の場合はどうでしょうか。曲を生成するソフトは、AIということを抜きにしても、けっこう前から出ています。私が学校で教えていたころに、生徒に曲を作る課題を出したら、その種のソフトを使ったらしき音源を提出してきた子が居ました。そのときは、ド素人でもこんなものが作れるようになったのかと戦慄を覚えたものでしたが、それから四半世紀ほど経っても、それがそんなに驚愕の進化を遂げたというわけでもなさそうです。結局、リズムパターンとかメロディーパターンとかを部品のように選び、それをプラモデルのように組み立てて「それらしい音楽」を生成する、というあたりがいまでも限界なのではないかと思います。
 AIが作曲をする、といった場合、膨大な既存の楽曲データから「感動する(または、人々に受ける)メロディーの法則」とか「心躍るリズムの法則」とかを抽出し、それに基づいて「パターンを選ぶ」という作業になりそうです。それによって作られる音楽は、いくら美しいとしても「どこかで聴いたようなメロディー」になってしまうのではないかと思われるのです。
 何かのBGMなどなら、それでも良いかもしれませんが、やはりこれでは「新しい感動」は産み出せないと判断するしかありません。
 それはまた、絵における「チラシのイラストくらいなら……」というレベルと同様のようであり、AIが現時点でできることの限界を示しているとも言えそうです。

 Chat GPTが学校の課題レポートに悪用されるという話を聞くと、言葉に関してはかなりの水準に来ていると言って良いのかもしれません。特に、判定AIが、人間の学生が書いたレポートをAI作成のものと誤認するなんて事件が起こっているからには、英語に関する限りはすでに人間と遜色ないレベルなのだろうかと思います。
 AIの能力を測定するための「チューリング・テスト」というのが、ずいぶん以前から提唱されています。方法はまさにチャット(会話)で、AIがどれだけボロを出さずに会話を続けられるかというテストです。試験者は相手がAIとは知らされていない人間で、キーボードとモニターを介してAIと会話するわけですが、その人が相手をAIだと気づくまでにどのくらい会話が続くかによって、そのAIの能力を判定するというわけです。もちろん、気づくまでに時間がかかるほうが優秀とされます。
 日本語に関して言えば、Chat GPTもしくは同様のAI作成の文章であることがわりとわかりやすいことを鑑みると、成績はいまひとつなのでしょう。英語だとかなり優秀になっているということでしょうか。
 まあ、日本語についても今後精度が高められてゆくでしょう。すると、作家は要らなくなるのか。
 これもなかなか、そうはゆかないだろうと予想されます。
 辞書や事典の編纂などであれば、もしかしたらAIができるようになるかもしれません。というかそういうことこそ得意技と言えそうです。
 辞書を編纂するときには、その言葉の出典──どの書物でどういう文脈で使われているか──が何より大事になります。出典を明記していない辞書は辞書とは呼べない、と極論する人も居るくらいです。言葉の定義そのものより、辞書編纂にあたってはこちらが大変で、多大な労力を必要とします。しかし、この種の文献渉猟こそAIの得意とするところでしょう。文献が電子化さえされていれば、見逃すことなく蒐めてくれるはずです。問題はすべての文献が電子化されているわけではないというところではありますが、これは時が解決する問題だろうと思います。また最近、古文書の文字を解析するソフトもできたようなので、古書の電子化はこれから急速に進むでしょう。辞書や事典の編纂をAIにやらせる、あるいは少なくともAIを補助的に使うことで作業を進める、という事例は、今後そう遠くない時期に実現するのではないでしょうか。
 しかしこれが新聞記事ということになると、AIに置き換えるのはもうしばらくかかりそうです。たぶん、AIの作成した記事は、AIの描いた風景画と同様、焦点のぼやけた、何を報じたいのかよくわからないものになりそうな気がします。
 評論になるともっと厳しいでしょう。評論というのは、筆者の価値観が定まっていないと、読むに価するものにはなりません。AIに一定の価値観を持たせること自体はいずれできるかもしれませんが、それがAIにとって良い方向なのかどうかは、いまのところ誰にもわかっていません。AIには、価値観に染まっていないニュートラルなありかたを期待する向きのほうが強いようにも思えます。だとすれば評論はAIの苦手な分野となるでしょう。
 ましてや文芸作品になると、まだ当分はAIの出る幕ではなさそうです。
 7年ほど前に書いた文章の中で、AIが書いた小説が星新一賞の一次選考を突破したという話題に触れています。私はとある合唱曲の作曲賞の下選りをした経験から、一次選考というのがどの程度のハードルなのか、疑義を呈しました。私は「いちおう合唱曲として通用する」作品を残した程度だったのですが、それでも応募作が半分くらいまで絞れてしまったのです。文学賞にしても、一次選考というのは、小説のていをなしていないようなものをふるい落とす程度ではあるまいかと想像し、それならAIの小説が突破するくらいのことはありうるだろうと考えました。
 星新一賞の選考基準がどうなっていたかはわかりませんが、案の定、その作品が二次選考まで突破したというニュースを、その後聞いた記憶はありません。
 のみならず、それから7年経っても、AIの書いた小説がしかるべき文学賞をとったなどという報には接しません。文学賞の壁は、まだまだAIにとっては分厚いようです。
 古今の名作を覚え込ませて小説を書かせたとしても、それはAIの作った楽曲が「どこかで聴いたような」ものになってしまうのと同じように、「どこかで読んだような」ものにしかならないのではないかと思うのです。ストーリーも、キャラクター造形も、文体も。
 文芸のジャンルでAIが得意そうなのは、たとえば「誰それの文体で、何々を書き直す」というようなものであるような気がします。つまり橋本治さんの「桃尻語訳 枕草子」みたいな作品ならお手のものでしょう。ただ本当に読むに堪えるものになるかどうかは未知数ですが。

 7年前の文章は、囲碁でAIがプロ棋士に勝ったというニュースに接して書いたものでした。将棋はそれ以前にすでにAIが勝利しており、チェスはもっと前に勝負がついていました。これで「完全情報ゲーム」についてはAIが制覇したことになる、と私は書きました。完全情報ゲームというのは、お互いの手の内が完全にわかっているゲームのことで、チェス、将棋、囲碁はいずれも該当します。バックギャモンやモノポリーなんかも該当するでしょう。一方「不完全情報ゲーム」に該当するのは多くのカードゲームなどで、ブリッジにしてもポーカーにしても、相手の手札を計算によって読みきることは困難であり、勝つためには「相手の顔色を見る」などの別次元のスキルが必要になります。こちらは、まだAIの力の及ぶところではありません。
 その状況が、7年経っても覆されてはいないところに、いくぶんかの安心感と寂しさを覚えます。AIの進化はもっと劇的なもので、数年を経ずしてさらに驚くべき成果を見せるのではないかと期待していたところもあるので、不完全情報ゲームの攻略が案外と手間取っていることに、やや期待はずれの念を抱いてしまいます。それと同時に、AIのあまりの進化の速さに不安も感じるので、安心もしたというところです。
 こう考えてみると、AIの進化というのはやはり、それを開発する人間の発想力にかかっているのではないかという想いにかられます。
 上記の囲碁AIにせよ、チェスや将棋で使われていた、終局まで計算しつくした上での勝利ということであれば、盤面がはるかに広い囲碁の場合は、人間のプロ棋士を倒すのにあと10年はかかると言われていました。それが驚くほど早く実現したのは、終局まですべての手を計算するという方法ではなく、ネット上に存在する厖大な棋譜を検索して参照するという方法に、発想を切り替えたからでした。
 発想を切り替えたのは人間のAI開発者であって、AI自身ではありません。AIは、まだ人間にサポートされない限り、きわめて限定的な能力しか持っていないのです。限定的な範囲ではものすごい能力を発揮するとしても、「枠を超える」ことはまだ無理なのです。
 人間のほうに、不完全情報ゲームに勝利するための発想が浮かばないうちは、AIがポーカーに偶然以上の確率で勝つことも無いでしょう。
 Chat GPTのもたらした衝撃がある程度落ち着いてきて、冷静に現状を見てみれば、AIはまだ歩きはじめたばかりの赤ん坊のようなもので、ただちに人間の職が奪われる、人間がAIに支配される、などということは無さそうだとわかります。AIの能力が世界中の人間の脳を合わせたよりも高くなるときをシンギュラリティ・ポイント(特異点)と呼び、以後はAIが支配する世界になるなどと言われています。囲碁で勝利したときも、Chat GPTがお目見えしたときも、シンギュラリティ・ポイントは人々の予想よりはるかに間近に迫っているのではないか、などと騒がれたものでしたが、たぶんかなり先のことだろうと私は思っています。

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