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コーロ・ステラ第12回演奏会 [日録]

 昨日(5月27日)は帰宅がやや遅かったので、日誌を書けませんでしたが、コーロ・ステラ第12回演奏会がありました。
 大体2年おきに、夏のはじめごろ演奏会をやっているのですが、第11回は予定では2020年の7月だったものの、コロナ禍の真っ只中に当たってしまって、半年ほど遅らせて開催しました。それでも20年のうちにやったのだから頑張ったものだと思います。
 何しろ緊急事態宣言発令中は、練習もろくにできませんでした。そもそも場所を貸してくれなくなっていたのです。3、4ヶ月ほとんど休みということが続き、ようやく解除されたのが7月でした。だから演奏会を強行しようと思えばできないこともなかったのですが、直前に数ヶ月もブランクがあっては、曲の仕上がり具合も惨憺たるもので、とても人に聴かせられるような演奏はできない、ということで、11月に延期されたのです。このときは府中の森芸術劇場を押さえてあったので、そこでできなかったのは残念でした。まあ、コロナ禍が原因でキャンセルした場合、キャンセル料を免除あるいは減額してくれるところが多かったのは助かりましたが。
 4ステージを予定していましたが、練習が間に合わないので、ひとつカットして3ステージということにしました。代替のホールはいつものJASRACけやきホールで、使用料は安くあげられたので、そんなにもったいないという気はしなかったようです。
 それに続く第12回は、2年後、つまり2022年の秋にしようかという話もあったのですが、緊急事態宣言はそれからも何度も発令され、はたして充分な練習期間をとれるかどうか心許ない状況でした。それで、ややイレギュラーな間隔ではあるものの、2年半をおいて、2023年の5月末開催ということになったわけです。
 このところ、新入団員が多くて、初舞台という人が5、6人も居ました。その人たちが合唱団に馴染んで、曲も一緒に歌えるようになる期間が必要だったことを考えると、今回少し長めの間隔をあけたのは正解だったような気もします。Chorus STも最近入団者が増えてきましたし、コロナがひとまず落ち着いてきて、合唱でもやろうかという人がちらほらと出てきたのかもしれません。

 今回も会場はけやきホールでした。このホールは私がJASRACの準会員であるため、年に2回まで無料で借りることができます。ただあくまで会員や準会員の「試演用」に貸し出すという建前であるため、ここで演奏会をやっても入場料をとることはできません。Chorus STの演奏会に使えないのは、それが理由です。コーロ・ステラは第1回演奏会以来、無料公演を貫いているので、けやきホールを利用することが多いのでした。ただ、約200人という定員は、そろそろ手狭であるようです。前回などはコロナ禍のため定員も半数に抑えられていました。
 前回に引き続き、3ステージ構成です。由来、合唱の演奏会というのは4ステージ構成であることが多かったのですが、Chorus STもこのところ3ステージ構成が多くなっています。ほかの合唱団の演奏会を見ても、3ステージ構成というのをわりに見かけるようになりました。準備するほうとしてはだいぶ楽ですし、お客様的にも気軽になるのかもしれません。
 第1ステージは、前回カットした太田桜子『ねこにこばん』で、第2ステージが芦田宏子編曲による『旅するア・カペラ』よりの抜粋、そして第3ステージが私の『続・TOKYO物語』です。『続・TOKYO物語』がわりと「濃い」メドレーであるため、3ステージ構成であることの物足りなさのようなものは無かったのではないかと自負しています。
 あと、定番のオープニングとして、クラブソングというべき「ステラの四季」。10周年の時に松永知子さんと私で作ったのだったと記憶します。またアンコールとしては20周年のときに作った『大地の歌 星の歌』の第3曲「恋唄」を用意しました。そしてやはり定番のエンディングで、中田喜直「別れの歌」。以上で、休憩込みで約1時間半というところです。まあちょうど良い線だったのではないかと思います。

 11時ごろに、母を迎えに実家まで行きました。母はコーロ・ステラの創立メンバーのひとりで、演奏会にも欠かさず出演していましたが、去年の5月に旅先で足を踏み外し、左脚を大腿骨折してしまいました。3週間ほど、旅先の現地の病院に入院してから、自宅に戻ってリハビリしていたのですが、10月はじめ、リハビリの一環としての日課の散歩の途中でまた転倒し、今度は右脚を折るというはめになりました。また1ヶ月近く入院し、今度は自宅には戻れずリハビリ専門病院に転院して、年末にようやく戻ってきたのでした。
 そんなわけで去年は合唱の練習にはあんまり参加できず、またステージ中ずっと立っていられるかどうかも心許ない状態でしたので、今回は出演を見送るか、などと弱音を吐いていました。
 とはいえまあギリギリまで頑張ってみたらどうかというわけで、私が指導をする回には実家まで迎えに行って、練習場所まで同行することにしていました。帰りは、同じ町内のメンバーが何人か居るので、その人たちとタクシーに乗ったりすることが多かったようです。「町内会」メンバーには、やはり脚が悪くて、杖を2本持ってノルディックウォークみたいに歩いている人なども居るのでした。
 5月に入ってからは強化練習ということで、毎週私も指導に行っていましたので、実家にも毎週立ち寄っていたわけです。
 最近は鉄道の駅もバリアフリーが進んで、新代田駅・下北沢駅・代々木上原駅ともにエレベーターが設置されています。以前のように階段ばかりだったらだいぶきつかったでしょう。
 代々木上原駅に着いたら、ほかのコーロ・ステラのメンバーも何人も同じ電車で下りてきましたが、そのうちのひとりがえらく体調が悪そうで、娘さんに付き添って貰うことになっていたそうです。その娘さんがまだ着かないようで、代々木上原駅には坐れるところもほとんど無く、改札の柵に寄りかかって荒い息を吐いていました。何人か一緒に残ってくれたようですけれども、高齢メンバーが多くなるといろいろ故障も起きますね。なお、その人は会場まで娘さんに付き添われてきて、リハーサルのときには客席で休んでいましたが、本番にはちゃんと乗りました。それどころか『続・TOKYO物語』では軽い演技までついていたのですが、それもちゃんとこなしていたので感心しました。
 うちの母も、舞台上に出した椅子でからだを支えるようにしつつ、無事に全ステージ歌っていました。椅子に坐って歌うというケースはときどき見ますが、それはプライドが許さなかった模様です。暗譜が自信ない、などとも言っていましたが、そちらはほぼ問題が無かったようです。
 スタッフなどはメンバーの家族が担当することが多く、特にAさんのところなどはご亭主が受付総括、娘さんがステージマネージャーと大活躍でした。Kさんのご主人は以前から撮影係をやっています。うちのマダムも受付に駆り出されていました。もっとも、本番がはじまると中に入って聴かせて貰えたそうです。

 リハーサルは全曲通したりすることなく、軽く終えました。『続・TOKYO物語』に関しては、ナレーションが入るため、主にマイクテストをおこなう感じでした。ナレーターは前に『サウンド・オブ・ミュージック』をやったときにもお願いした市来直子さんです。
 13時半くらいにリハーサルが済むと、もう開場30分前で、わりにあわただしいスケジュールです。とはいえ、開場まであまり時間をおいても、気分的にだれるので、ちょうど良い按配かもしれません。

 「ステラの四季」のピアノを弾いたのち、私は楽屋に戻り、第1・第2ステージは楽屋のモニターで聴いていました。前回なども感じたのですが、モニターで聴いているとソプラノの側の粗が目立ちやすいようです。微妙なピッチのずれとか、発声の乱れなどがいやに気になるのでした。たぶん、ホール内で聴いていれば、それほどのことはないのかもしれません。低音側はわりに安定して聞こえます。
 『旅するア・カペラ』という曲集は、無伴奏女声四部合唱という編成で書かれています。実はこの編成、外国ではわりと標準的で、ヴェルディの晩年の作品『4つの聖歌』なんかもこれで書かれています。ただ、日本で女声三部合唱がスタンダードになっているのも理由の無いことではなく、日本女性は低声がどうしても弱体なのでした。骨格的に、95%くらいがソプラノとされ、メッツォソプラノやアルトに分類される声の持ち主というのは非常に希少なのです。日本でメッツォとかアルトとか呼んでいるのは、単に「低いほうも出せるソプラノ」でしかありません。これはプロの歌い手でも同様で、そのため海外留学して向こうの先生に見て貰ったりすると、ことごとく
 「あなたがメッツォなんかであるものですか」
 と言われて、ソプラノに転科して帰ってくるのでした。日本の事情をご存じない欧米の先生がたによって、ただでさえ少ない日本人の低声はますます減らされてしまうのです。私の知人にもそういうのが何人も居り、
 「また貴重なメッツォが居なくなってしまった」
 と嘆いたことが一度や二度ではありません。
 そんな状況ですから、海外で標準的とされている女声四部合唱をやろうとしても、低声があまりしっかり出ないので、響きを支えられないわけです。向こうのメッツォとかアルトとかいう連中は、見るからにごつい骨格を持っていて、ドスの利いた声と形容するのがぴったりの、ちょっと逃げ出したくなるような女性だったりします。そのあたりを見ると、やはり日本女性には難しいだろうなあ、と思ってしまいます。
 そういう女声四部合唱に、あえてアレンジした芦田さんの真意はわかりませんが、三部より四部のほうが響きが色彩的であるのは確かですし、変わった転調などもしやすいでしょう。実際、扱われている「埴生の宿」とか「グリーンスリーブス」などの曲は、いずれも途中でかなり遠い調への転調がおこなわれており、その点でも練習がなかなか大変であったろうと思えるのでした。

 休憩後、コーロ・ステラの演奏会ではよく、お客に歌わせるというコーナーが挿入されます。これは私が担当させられることが多く、簡単に、見開き2ページ程度で済む楽譜をあらかじめパンフレットと一緒に配布しておいて、このコーナーでごくざっと練習し、最後に合唱団と共に歌うという趣向でした。主に、メンバーの衣裳替えの時間を稼ぐためにやっていたことですが、お客のほうも歌いたがっていることが多く、なかなか好評ではありました。
 第11回でも、私は「優しいあの子」という歌を簡易にアレンジして使うつもりで居ましたが、コロナ渦中での演奏会だったため、客席に歌わせるというのは無理ということでおじゃんになりました。今回は、コーロ・ステラはマスクを外して歌っていましたが、客席の歌はまだ時期尚早だろうというので、「皆様ご一緒に」コーナーは中止、その代わり松永さんのソロを1曲はさむことになりました。
 ソロと言っても、オペラのアリアとか歌曲とかになると場違いなようでもあるので、「いのちの歌」を歌うことにしました。これはこの前のChorus STの演奏会で私自身も歌いましたし、つい最近「無伴奏女声二部合唱」という形のアレンジもして、このところ妙に関わりのある曲です。ピアノはコーロ・ステラの常任ピアニストの笈沼甲子さんではなく私が弾くということで、いくつか合唱アレンジ譜を渡されましたが、あまりピンとこなかったので、結局自分で伴奏譜を作りました。合唱の伴奏と独唱の伴奏では少々異なるところも出てきます。
 ソロステージはけっこう好評でした。プログラムには載せていなかったので、まあ一種のサプライズステージという感じで、愉しんで貰えたものと思います。

 そして『続・TOKYO物語』ですが、これはコーロ・ステラのお客あたりには思い切り刺さりまくる選曲だったでしょう。昭和30年代歌謡曲メドレーですので、団塊の世代かそのちょっと上くらいの年代の、まさに10~20代のころの流行歌です。
 実は一部カットして、世田谷区合唱フェスティバルで披露したことがあり、今回の初舞台組の中には、それを聴いて入団したという人も居たようです。受けないわけがないのでした。
 そのフェスティバルで半分以上本番済みということもあって、歌にも余裕があり、みんなのびのび歌っている印象がありました。
 そして私の振るステージの呼び物といえば、毎回工夫を凝らしたコスプレ衣裳です。今回も昭和30年代っぽい服装ということで、いろいろ考えてくれたようでした。割烹着姿のお母さんという扮装の人がひとりだけ居ましたが、当時の写真などを見ると、和服に割烹着という「サザエさん」フネさんみたいな服装の女性が、思いのほか多いので驚きます。もっと古い時代のスタンダードかと思っていました。着流しに麦藁帽子の、金田一耕助みたいな扮装の人も居ました。どうもこの合唱団、私のステージでは異様に張り切ってしまうようです。今回はピアノの笈沼さんも、かしまし娘みたいなコスプレで登場していました。
 『続・TOKYO物語』の女声版は3年前、混声版は2年前に刊行されていますが、売れ行きの初動はコロナ禍もあっていまひとつ芳しくないようです。どちらもいまのところ、かろうじて第2刷が出た程度です。コロナがおさまって、少しずつまた売れるでしょうか。

 終演後、この種の演奏会では、大変久しぶりに、本格的な打ち上げがありました。ここしばらく、演奏会が終わっても、そのまま解散ということが相次いでいましたが、やはり打ち上げがあるのは良いですね。代々木上原駅近くのフレンチビストロという感じの店でおこなわれましたが、料理も美味で、とても愉しい時間を過ごすことができました。
 母を含めた代田町内会の面々をタクシー乗り場まで誘導して、タクシーに乗ったのを見定めてから、マダムと一緒に帰宅しました。打ち上げはだいぶ時間を食ったので、聴きに来ていた父や妹が心配して、店に電話したという話をあとで聞きました。まだリハビリ中なので心配なのは無理もないのですが、まあそれだけ楽しかったのだろうと思います。

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