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字幕のお仕事『四季』 [お仕事]

 川口第九を歌う会の自主演奏会で、ハイドン『四季』を歌うことになったという話は、前に書きました。前回の自主演奏会はシューベルトミサ曲第6番でしたが、2019年の6月のことです。毎年の「第九」公演のほかにこの団体がやっている自主演奏会は、ほぼ隔年でおこなわれていますから、本来は『四季』演奏会は2021年に開催されるはずでした。
 しかし翌20年からコロナ禍がはじまり、練習場所さえなかなか確保できないという状況が続いて、開催は延びに延び、とうとう4年が経ってしまいました。しかも本番は9月です。
 まあ、『四季』というのはハイドン晩年の畢生の大作オラトリオであって、合唱の出番も甚だ多い曲です。そして1曲1曲が相当に長いものばかりなのでした。練習をしていても、なかなか全貌が見えません。やってもやっても終わらないという印象が強かったのです。その意味では、4年に及ぶ練習期間があったのは幸いだったかもしれません。いつものように2年だけでは、充分な準備ができなかった懸念があります。
 次は『四季』、と聞かされたとき、私を含むサブ指導者たちは、

 ──正気か?

 とささやきあったものでした。いささかなりともこの曲と、そして川口第九を歌う会の実力を知っている身としては、ほとんど無謀としか思えない選曲だったのです。
 正指導者である高橋誠也先生のたっての希望であったということで、歌うことになりました。何箇所かカットするという話ではあったのですが、結局カットされたのは独唱者が歌う部分ばかりで、合唱の出番はフルサイズとなりました。
 練習が間に合うとはとても思えなかったのですが、コロナ禍で2年遅れたのは、むしろ天の配剤と呼ぶべき事態であったかもしれません。本番はあと2か月後に迫ってきましたが、ようやくなんとなく形になってきたというところです。
 私は自主演奏会では、合唱の一員として舞台に乗ることが多いのですが、今回はたぶん乗らないことになると思います。それは、また字幕操作の仕事をすることになるからです。実は自分としても、ラテン語・イタリア語ならまだしも、この大量のドイツ語歌詞を破綻なく歌える自信が無かったので、字幕のお仕事が入ったのはもっけの幸いでした。

 川口第九を歌う会の自主公演で、最初に字幕をつけたのは、メンデルスゾーンのオラトリオ『エリヤ』でした。確か2009年に開催したのだったと記憶します。それまで、いろんな人のレクイエムやミサ曲、あるいはヘンデル『メサイア』などを歌ってきましたが、本格的なオラトリオを上演するにあたり、字幕をつけたほうが良いのではないかと提案したのは私でした。それ以前に板橋オペラでも字幕をつけており、なかなか好評だったのです。
 板橋では、パワーポイントで作成した字幕を、会館のプロジェクターで舞台上のスクリーンに映すという方法をとっており、きわめて簡便なものでした。私はその程度のものをイメージしていたのですが、ちゃんとした字幕業者に頼み、二十何万円だか請求されたというので驚きました。当日会場に行ってみたら、タテ書きで文字が表示される大きな電光掲示板が2台、舞台の両側に並べられ、何やらものものしい雰囲気になっていたので、なるほどお金がかかるわけだと納得しました。
 当日の私は楽譜を見ながら、業者の担当の人に字幕操作のキューを出すという役割でした。見ていると、担当者がやっていることはパソコンのエンターキーを押すだけでした。Windows 97という、当時としても骨董品のようなOSの入ったパソコンでしたが、誤動作が少なくて都合が良かったのだそうです。ネットなどにはつないでいないスタンドアローンのパソコンでした。私の合図があるとエンターキーを押すだけなので、いっそのこと私が自分で押したほうが早いのでは、とも思いましたが、まあ素人に触らせたくないという気持ちもわかります。
 オラトリオというのは「演技の無いオペラ」とも呼ばれるほどにテキストが多く、また『エリヤ』のテキストの内容は日本人にはほとんど素養が無い旧約聖書ネタでしたから、字幕がついたことには好意的な反響が多かったと思われます。次の2011年の公演でも、同じことを頼まれました。
 こんどはブラームス『ドイツ・レクイエム』です。これは歌詞の意味がわからないと愉しめないというタイプの曲ではないので、わざわざ高いお金を払って字幕をつけなくとも良いのではないかと私は思いましたが、前回好評だったということと、東日本大震災直後の公演だったので、式次第に市長の挨拶とか黙祷とかがあり、また終演後に客席と一緒に「故郷」を歌うことにしたためその歌詞を表示する必要もあって、そういう進行の都合上も字幕が欲しいのだと言われました。
 次のヴェルディのレクイエムでも字幕をつけました。これはラテン語の通常文ですから、『ドイツ・レクイエム』以上に必要ないような気もしましたが、運営陣の要望とあらば承諾するしかありません。
 その次は1回飛んでやはりメンデルスゾーンの『パウロ』で、これは『エリヤ』同様オラトリオですので、字幕をつけました。
 そして、今回も私はそちらの作業にかかることになります。当日の字幕操作だけではなく、もちろん字幕作成からが私の担当です。

 『四季』のテキストは、英国の詩人ジェイムズ・トムスンの長詩を、ゴットフリート・ファン・ズヴィーテン男爵という人が訳したものを底本としています。ズヴィーテン男爵はオランダ生まれで、何ヶ国もの言葉を流暢に話し、また音楽好きで多くの音楽家を後援したことでも知られます。モーツァルトの葬式の準備をしたそうですし、ウイーンに出てきたばかりのベートーヴェンも援助しました。ベートーヴェンは交響曲第1番をズヴィーテン男爵に献呈しています。
 本来は詩であったものを、台本として再構成したわけなので、逐語訳とか直訳とかいうものではなかったでしょう。ある程度意訳であったと思われます。
 ただし、ズヴィーテン男爵は語学の達人ではあったようですが、詩人としての才能はそれほど無かったのかもしれません。『四季』の初演にあたっては、賛否両論が巻き起こりました。曲についてよりも、台本が良くないという評が多かったようです。
 字幕作成にあたって、ドイツ語のテキストと逐語訳の日本語を渡されましたが、どうにも堅苦しいというか、意味のつかめない部分がたくさん見受けられました。日本語訳した人の責任もあるでしょうが、ズヴィーテン男爵の原詞がそもそもわかりづらいという可能性も大きいと思います。流暢にしゃべったとはいえ、ドイツ語は彼のマザータングではなかったのです。
 ともあれ、字幕用の文章を作っていて、ドイツ語というのはここまで面倒くさい言い回しができるものなのだということを、あらためて実感した次第です。

 ──おお勤勉よ! おお気高い勤勉よ!
  救いはすべてあなたから生ずる。

 なんて、すぐに意味がつかめるでしょうか。「勤勉」という「概念」を擬人化して語りかけているということはわかるのですが、日本語にはそんな習慣が乏しいため、なんだかいたずらに仰々しい印象を覚えます。
 で、『四季』というオラトリオの「登場人物」は、篤実な農夫のジモン、その娘つまり村娘と呼ぶべきハンネ、その恋人のルカスの3人です。つまり農村の庶民たちです。合唱も、村の衆やおかみさんがた、娘たちといった役どころに過ぎません。そんな連中が、「おお気高い勤勉よ」なんて言っているのは、あまりといえば不似合いです。

 ──おいおい、そこらのどん百姓がこんなことを言うか?

 とツッコミを入れたくなるセリフが次から次へと登場するのでした。
 私の字幕作成は、何行もあるセリフを2行(31文字)に圧縮するとともに、言い回しを庶民っぽく、くだけた口調に言い換えるという作業を同時におこなってゆくという難行となりました。
 ちなみに上に書いた例で言うと、「勤勉」を擬人化して語りかける、などという日本語として無理のある言い回しはやめ、

 ──さあ励めよ、よく励めよ。
  そうすれば、救われる。

 としてしまいました。ドイツ語というのは名詞に重きを置くことがメインなのですが、日本語は動詞でものごとを言うことが多いので、「勤勉よ」という名詞依存の構文ではなく、「励めよ」と動詞化したわけです。ただし、必ずしもぴったりくる動詞を思いつけるわけでもないので、そのあたりで苦吟します。この場合も、「勤勉よ」をどういう動詞に換えれば意味が通じるか考えた挙句、「勤勉」を国語辞書で調べ、その中に「はげむこと」という説明を見つけて「これだ!」と膝を打ったのでした。「つとめよ」でも良さそうですが、この場合は農作業のことを言っているので、やはり「励め」のほうがぴったりきます。
 こんな言い換えの箇所が山のように出てきます。さらに、文を切り詰めるという必要も発生します。

 合唱部分などは、同じ言葉を繰り返すようなことが多く、比較的楽なのですが、独唱や重唱になるとテキストの消費量が大きくなります。さらに、レチタティーヴォではあっという間に言葉が過ぎ去ってしまいます。
 つまり、5行とか6行とかの文章が、ほんの数秒で語られてしまったりするわけです。字幕の機材でいちどに表示できるのは、上に書いたように2行31文字です。1行が16文字なのですが、2行めは1字下げて表示する習慣になっており、確かにそのほうが読みやすいのでした。
 原詞の2行分を2行に宛てたりしていると、字幕がものすごい勢いで切り替わることになり、たぶん読み切れないことになるでしょう。だから、4行分、5行分などを2行31文字でまとめなければならないわけです。
 また、31文字にすればそれで良いというものでもなく、言葉の途中で行が変わったりすることが無いようにしないと、これまた読みにくいことになります。
 ドイツ語は基本的に名詞構文だと上に書きました。名詞構文を直訳しようとすると、さっきの「勤勉よ」ではありませんが、必然的に漢語が幅を利かせることになります。しかし、漢語が多い文章というのは、どうにも庶民のセリフとは思えないものになってしまいます。それで、漢語をなるべく和語になるように言い換えようとすると、ここでも必然的に、文字数が増えるのでした。
 つまり、文章の内容をさらに切り詰めなければならなくなります。
 詩に特有の畳語(同じような意味のことばを連ねて強調する表現)をできる限りカットし、何行もで表されている内容を1行で意味が通じるように切りそろえます。こんなに節約しては流れがわからなくなるのではないだろうかという懸念を無理矢理に振り払って、31文字の字幕を次々に作成してゆきます。それでも「夏」の部が終わった、すなわち半分くらいのところで、すでに字幕番号が150に達していたので、やれやれと思いました。この分だと全部で300番くらいになることでしょう。『エリヤ』や『パウロ』でも二百数十番というところでしたので、これまででいちばん厖大な字幕になりそうです。

 大変そうに書いてきましたが、実は字幕作成という作業、私は嫌いではありません。
 むしろもっとほかからも依頼が来ないかと思っていたりします。
 原語だとやたらと盛り沢山になってしまう内容を簡潔にまとめるのも愉しいと思えますし、特に話者によって話しかたを変えたりするのがとても面白いのでした。今回ので言えば、農夫ジモンは一人称を「わし」とし、とりわけ平易な言葉でしゃべるように考慮しています。一方若いルカスのほうは、若干インテリという設定にしており、こちらはやや堅苦しいことをしゃべったりします。村娘ハンネはできるだけ天真爛漫なイメージにしました。
 以前板橋オペラで『ドン・ジョヴァンニ』の字幕を作ったときは、主要登場人物の一人称を全部違うものにしました。主人公ドン・ジョヴァンニは「吾輩」、その従者レポレッロは「俺」、いささか頼りない貴族青年のドン・オッターヴィオは「僕」、村の若い衆であるマゼットは「おいら」、主人公に早々と殺され最後に石像として出てくる騎士長は「わし」としています。日本語には一人称の種類が多くてこういうときには便利です。女性のほうも、ドンナ・アンナドンナ・エルヴィーラツェルリーナの3人の主要人物は「わたし」「わたくし」「あたし」と使い分けました。
 『ラ・ボエーム』でもさらに調子に乗って、ロドルフォマルチェッロショナールコッリーネの4バカにそれぞれ異なる一人称としゃべりかたを与えたのでしたが、このときは悪ノリが過ぎたようで、あとで怒られました。ロドルフォとマルチェッロはまだ「僕」「俺」で良かったのですが、ショナールは「拙者」、コッリーネは「我」としたのです。「拙者」というのはサムライではなくオタクのイメージで、語尾も「~ですぞ」というようなのを多くしてオタクっぽさを強調したのですが、残念ながら
 「なんでサムライみたいなしゃべりかたをしてるの?」
 という疑問が聴客から寄せられたようでした。オタク口調というのは、いまひとつ一般的ではなかったようです。またコッリーネの「我」は、哲学者気取りなキャラクターなので、中二病っぽさを出したつもりで、全体的な口調もそんな感じだったのですが、これまた不評でした。4人がバカを繰り広げるあたりで、誰が何をしゃべっているのかわかりにくいシーンでは、とても重宝したのではないかと自負していたのですが、いささかやり過ぎたのでした。
 そんな失敗もありましたが、字幕作成の仕事は機会があれば今後もやってゆきたいと思っています。オペラにせよオラトリオにせよ、普通に「対訳」を用意して貰えれば字幕用原稿を作れると思いますが、どなたかご依頼くださいませんでしょうか(笑)。

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